第二話 巫女の汗を舐めとれば大丈夫
あたしを襲おうとしていたカニが粉々に砕けた。
わずかに遅れて降り立ったのは、今しがたカニに空中回し蹴りを放った人だった。
夕焼けに染まった白衣と、夕焼けの中でもなお鮮やかな緋袴。
長い黒髪をアップにしたその人は、振り向いて目を細めた。柔らかで、なんとなく人懐っこい表情で、あたしを見つめる。
「
「ええ。
和泉さんが視線を移す。
硬いものが擦れる音がした。
カニのケガレは既に粉微塵になっている。
だけど、折れた木々の向こう、別のカニが見えた。それに、足がはえた大きな川魚。同じような大きさのカエルは目玉が白濁している。
「夏場はどうしてもね」
和泉さんが眉を下げる。
「彼女を見ておいてあげて。ヒムカ」
「ああ」と、唐突に男が現れた。ケガレや和泉さんに気を取られていたから、気配にも物音にも気づかなかった。
年上の男性だった。
黒いシャツに黒いパンツ。中途半端に伸びた黒髪の隙間から覗く真っ黒な瞳。
眼差しが冷たくあたしを流し見る。
あたしは口を開こうとしていた。和泉さんに何か言おうとしていた。
でも、その時には和泉さんは多数のケガレたちに向かって突撃していた。
普通の人間はケガレに触れれば、穢れて悪い影響を受ける。近づくだけで病に侵されることもある。そもそも、ケガレはあの見た目そのものの暴力的な破壊力を持つ。
和泉さんはケガレの数も、ケガレの脅威も意にも介していなかった。
カニのハサミを捌いて、突く。
蹴りが魚を裂く。
カエルが破裂する。
三柱のケガレが瞬く間に破砕した。
「ダメ」
でも、ケガレはそれで終わりじゃなかった。
まだいる。さらに別のケガレの大きな影が蠢く。
前に出ようとしたら、手をつかまれた。
ヒムカさんというあの男の人だ。視線は和泉さんとケガレに向いている。
普通の男性には見えないはずのケガレが見えている? いや、それは今はどうでもいい。
「あたしもやります!」
「ムダだ。穢れの臭いがする」
ヒムカさんはスンと鼻を鳴らした。
確かに汗をかいてる。だから、さっきのカニを仕留めきれなかった。
でも、それは今しがたさらに三柱のケガレを祓った和泉さんも同じ。
この熱気と湿気の中で、あれほど動けば誰だって汗をかいてしまう。
和泉さんが繰り出した肘打ちはカメの形をしたケガレの甲羅を割るも、一撃では祓いきれなかった。
流れるような連撃でカメは仕留めたけど、ケガレたちはまだ存在する。
単独であんな数のケガレを祓おうとするのがまずい。
巫覡は長時間戦うことができない。だから、複数の巫覡がローテーションで戦うのが普通だ。
これ以上は無理だ。祓うことすらできなくなる。
その時、ヒムカさんがすっと、自然な動作で前に出た。
男性は神を降ろすことができず、巫覡にはなることができない。だから、そんなことをしても意味はない。
止めなくては。
そう思った時――。
「お願いね」
「ああ」
二人は言葉を交わしていた。
そして、ヒムカさんの舌が伸びた。何メートルも先にいる和泉さんのところまで、ヒュッと風切り音を立てて。
「ん……」
鼻から抜けるような吐息は、和泉さんのものだった。
ヒムカさんの舌が和泉さんの頬を舐めていた。
「あっ」
かすかな声が漏れる。
頬を舐めた舌はそのまま這い下り、首筋に浮いた汗の粒を舐めとり、巫女装束の胸元へ入り込んでいた。
「ん、んっ」
和泉さんが小さく身をよじる。
「頬から首筋、乳房の隙間の汗は除いた」
ヒムカさんが言う。冷静な眼差しで和泉さんを見据えて。
「うん」
和泉さんは振り向きもしなかった。
跳ぶ。ケガレが散る。祓われていく。
その威力はここにやって来た時と同じ……むしろ増している。
「今の何をしたんですか!?」
ヒムカさんを凝視する。
声を上げそうになった。
ヒムカさんの舌は戻っていたけどまだ長いままだった。胸元あたりまで垂れ下がっている。言うまでもなく、人間の舌じゃない。
「あかなめ」
「え?」
ヒムカさんの言葉は唐突過ぎる。
「俺は舐める。和泉の汗を。垢を。穢れを」
「え? 舐め……えっ?」
理屈上、身体を穢す分泌物を取り除くことができれば、穢れはなくなる。
「いや、でも! 舐めるって。なめ……。あかなめって」
ケガレが爆ぜる音が響いていた。
舐められて穢れを落とされた和泉さんは次々とケガレを祓っていく。
ベロリとヒムカさんが舌なめずりした。
さっき、和泉さんの汗を舐めた舌で。
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