第三話 巫覡 橘和泉
「ここが
日の落ちた神社の境内を横目に見て、和泉さんは言う。
人里離れた場所にある神社らしく、こじんまりとしてどこかうら寂しい。
ケガレと出会い、和泉さんがそれらを薙ぎ倒したあの場所から、地図のとおり、神社まではさして距離はなかった。
和泉さんに案内されるまま、鳥居の前を横切って、境内の外にある家に上がる。
二階建ての少し古びた家は、和泉さんたちが暮らしている家らしい。
居間に通されて、和泉さんとヒムカさんを前に、勧められるまま腰を下ろす。
「そんなわけで。橘和泉。水無瀬亜矢ちゃんの
「よろしくお願いします」
頭を下げた。
間を置いて顔を上げる。
和泉さんは口元に穏やかな微笑を湛えている。
何か言おうとしてみたけど、言葉にならなかった。
緊張しているというのは確かにある。でも――。
和泉さんの微笑が苦笑に変わる。
「普通に考えて、疑問に思うよね」
隣に座るヒムカさんを流し見る。
当のヒムカさんは微動だにしない。こちらをじっと見据えていた。
「改めまして。これはあかなめのヒムカ。あかなめって言って伝わる?」
「……妖怪の名前で聞いたことはあります」
「そう。けっこうメジャーだもんね。ヒムカ」
「人がつけた呼び名に興味はない」
ヒムカさんが表情も変えずに返せば、和泉さんはクスリと漏らした。
「基本的には亜矢ちゃんの言うとおり。
「でも、妖怪ってつまり、
「ええ。山野の気と穢れが入り混じって生まれた存在。ケガレになりかねないもの。だけど、穢れが薄く、人や生き物を害することなく、いずれ消えていく。それがこの世界に留まって、長い期間を経て意思を持った存在。
「人の解釈だ」
ヒムカさんは感情なく言った。
とにかく、和泉さんの分類は少なくとも巫覡を管理している本庁では正しいものだ。
ケガレとして人を害することがなく、だけど意思を持ったもの。あたしたち人間からすれば、ケガレとそうでないものの狭間にいる存在――古神は神様としてお祀りすることになる。
人と古神、互いを害することがないように。
「じゃあ、ヒムカさんがこの神社の祭神なんですね」
巫覡と古神の関係は、巫覡のもうひとつの立ち位置、神社を管理する
「違うわ」
和泉さんはあっさりと首を振った。
「花立花神社の祭神は
「じゃあ、ヒムカさんは?」
「ヒムカはパートナー。ヒムカがいるから、わたしはずっと戦い続けることができる。他の巫覡よりもたくさんのケガレを一人で祓うことができる。ね?」
ヒムカさんがほんのかすかに頷いた気がした。
思い出してしまう。
ケガレを祓う和泉さんと、頬を流れ、うなじを湿らせた汗を舐めとる赤い舌。巫女装束の内に潜り込む長い舌先。
和泉さんが漏らした吐息。
「あ。そうだ。夕飯の準備しなきゃ。研修のことはご飯食べながらにしましょ」
「え」
返事も待たず、ひらひらと手を振って、和泉さんは居間を出て行ってしまった。
こちらが思わず伸ばした手はそのまま。
遠ざかる足音を聞きながら、机に向き直れば、ヒムカさんの姿が目に入ってくる。
さっきと変わらない背筋をぴんと伸ばした姿勢で座っている。
長い前髪の隙間から黒い目がじっとこっちを見ていた。
でも、何も言わない。
沈黙が降りる。やけに重々しい。
どういう関係なんだろ……。
和泉さんはパートナーだと説明してくれたけど、やっぱり考えてしまう。
舐めてるし……。だって、舐めてる。
だけど、それよりも、橘和泉さんは、あたしが考えていた橘和泉さんとは違っていた。
大学の巫覡専攻科では、橘和泉さんの人となりを教えてくれる人はいなかった。他の巫覡の噂が好きな講師たちも橘和泉さんのことは何も言わなかった。
わずかに漏れ聞いたのは、凄まじく腕が立つということ。
普通の巫覡は派閥や同期、近い関係でグループを組むのに、ほとんど一人で動いているということ。
そして、和泉さんのもとに向かった研修生で、巫覡の研修に合格した生徒がいないこと。
いつの間にかヒムカさんと目が合っていた。黒い瞳に心の奥底まで見透かされそうで、慌てて逸らしてしまう。
ヒムカさんが立ち上がった。
「あ、あの」
「風呂でも入れよう。汗もかいただろ」
思わず目を瞬かせた。意図がわからない。ヒムカさんの……あかなめの。
「まだ洗っていない。少し待て」
言うだけ言って、ヒムカさんは部屋を出て行った。
呆然と見送って、馴染のない居間に一人取り残されて――。
「えっ。お風呂洗うって、どうやって? 舐めるの?」
そして、もしかして一番風呂をいただくことになるの?
いただくことになった。
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