第一話 巫女は汗をかくとよくない
巫女装束、
髪は後ろで結っているのに、それでもうなじに張りついている。
眼鏡は鼻当てが濡れて、ずり落ちてしまいそうだった。
足を止めて、じめじめとした空気の中で、深く息を吐く。鞄から取り出したハンカチで汗を拭う。眼鏡も拭いておく。
「よくないなぁ」
電車を乗り継いで数時間。駅から車で行けるところまでタクシーに乗って数十分。さらに辛うじてアスファルトで舗装された山道を歩いてきた。
時刻は夕暮れで人の姿はない。
周りに広がるのは夏らしく歯を広げた木々と、土と草の香り。
地図を見れば目的の
地図にホッチキスでくっついた大学の
ため息をついて、再び歩き出そうとする。
――感じたのは腐臭だった。
山道特有の、森から臭ってくる腐葉土や動物の死骸のものじゃなくて、もっと昏く澱んだものだ。
そして、木々をへし折って目の前に現れた巨大なハサミ。
見上げる。
カニだった。森の木を挟み折るほどのハサミと巨体を持った。
木々を潰したのとは逆のハサミが無造作に、あたしに向けられた。
パキンという音。
ひび割れて砕けたのは、カニのハサミだった。
あたしは舞う。
ゆっくりと身体を回し、両腕を振るい、地を蹴る。
ハサミを真正面から潰したのはあたしの手刀。
身を回しながら低い姿勢でカニに肉薄する。
緋袴をはいた脚がカニの太い脚を甲殻ごと斬り飛ばした。
バランスを失ったカニが倒れていく。
そこへ身を寄せる。
地を踏みしめて渾身の掌底を放った。
遠雷に似た音が響き、掌底はカニの身体の中心を捉えていた。
こんなカニはいない。普通の人間には見ることすらできない。
これは
穢れとは汚れであり、死が生み出す
古事記・日本書紀双方に、
穢れはケガレと化す。
ケガレとは
目の前の大蟹はケガレの一
対して、あたしたちは巫覡。巫女とは巫覡。
神社の助役としての巫女ではなく、古代の巫覡を継ぐ者。
巫覡は神をその身に降ろす。命を宿す女性は神を宿す器でもあり、女性は皆、巫覡であるともいえる。つまり、女性は皆、神でもある。
ケガレを見ることができる素養ある女性が特別な訓練を積む。そして、
八十禍津日神が産まれた時、共に生まれた多くの神たちは、穢れを流し去る神だった。
ケガレに対して、祓戸大神を降ろしたこの身体は今、ケガレを祓う祝詞であり
巫覡とはケガレが人に害為す前に、祓う者たちのことをいう。
だから、あたしの身体はケガレの甲殻を壊し、切断し、貫いた。
だけど――浅い。
掌底は甲殻を貫いて深々突き刺さったが、そこまでだった。
頬を汗が伝う。
穢れとは汚れ。身体から分泌される汗もまた穢れ。
穢れを伴った時点で、巫覡は神を降ろす力を著しく失う。巫覡としての資格を失う。神ではなくなる。祓戸大神を宿したとしても、祓う力は驚くほど失われている。
巫覡にとって汗をかくのも、身体が汚れるのもよくない。わかっていた。
カニの形をしたケガレは健在だった。
渾身の攻撃を繰り出して無防備なあたしに、それが残るハサミを振り上げる。
眼鏡の奥の目を見開く。
ケガレに襲われた人の姿が脳裏をよぎる。
呪詛による熱病に悶え、身体を掻きむしり、そして――。
「亜矢ちゃん、伏せて!」
後ろから来た声に反射的に従った次の瞬間、目の前のカニは肉体の内側から爆発していた。
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