第2話 アイと妖精の扉

 森の中を進むと、そこにはお菓子の家がありました! 


 という話を聞くと、私の頭の中には最近読んだ『ヘンゼルとグレーテル』という童話が否応なしに浮かんできますが、目の前に立っているお家はまさにそんな感じでした。クッキーの壁はさくさくで、チョコの屋根はしっとりとして甘くて、色とりどりの飴細工のお花さんは目だけでなく、私の舌までも満足させました。

 そして、今の情景描写に見せかけた感想でうすうす気づいた賢い方も居るかも知れませんが、空腹で飢えていた私はあろう事かその家を食べてしまったのです。

 それも、全部。


 ……さて、どうしましょう。


 私の記憶が正しければあの話は、私と同じくお菓子の家を食べてしまったヘンゼル・グレーテル兄妹が、そこに住んでいた魔女さんに騙されて、今度は逆に食べられてしまいそうになるのですが、結局、二人の機転によって魔女さんは返り討ちにあってしまい、兄妹は幸せになった、という話だった気がします。


 ここから分かるのは、もしこの家に魔女さんがいたとして、私が彼女に捕まってしまった場は、もうどうすることもできないということです。というのも、あの話は兄妹だからこそ、少なくとも二人の仲間がいたからこそできた返り討ちなのですから。

 手元にあるはさみ程度では何の意味もないでしょう。


 にわかに諦めムードが心中を満たしましたが、そんな絶望的な状況からも私は何とか一筋の希望の光を見つけ出しました。


 それは、この家に誰もいないと言うことです。


 魔女さんが住んでいないにしろ、外出中であるにしろ、今は彼女がいないということなのですから。


 というわけで私はここから逃げることにしました。

 帰ってきたら自宅が跡形もなく消えていた魔女さんのことを思うと、胸が痛くなりますが、でも、私はこんなところで死にたくないのです。


 せめて友達ができてから死にたいです!


 こんなことを思う私は悪い子なのでしょう。けれども、今は逃げなくてはなりません。生きるためならば、前髪を切ること以外ならば何だってできます。

 私はそう結論づけて後ろを振り向き、そして、とても小さな男の子と目が合いました。

 大魔法使いさんのこともあり、この男の子は魔女さんが変身した姿だと思った私は全力で土下座しました。


「えっと、あの、その。……ごめんなさいでした! と、とてもおいしそうで。その、わ、私、お腹すいてたから! そのあの、命だけは! 命だけはどうか助けてください!」


 それは平謝りというよりは、命乞いと言った方が適切な行動でした。自分の命だけを優先する正真正銘の悪い子がそこにはいました。

 絶対に、こんな子にはなりたくないと思いましたが、非常に悲しいことに、その子は私でした。……情けなくて涙が出そうです。


「えっと、君。……どうしたんだ、い……」


 男の子の声が徐々に小さくなり、やがて消えていきました。

 どうやら自分の家がこの世界から消失してしまったことに気づいたみたいです。

 ああ、殺されちゃう! そう思うと、恐怖から涙が出てきましたが何とか耐えました。

 代わりに走馬燈のように、今までの人生が脳裏に流れてきます。


 ママと過ごした日々のこと。

 ママと運動会でご飯を食べたこと。

 ママが来てくれた授業参観のこと。

 ママと一緒にご飯を作ったこと。


 その全てが私にとってのいい思い出で、楽しい記憶でした。


 けれども、その思い出の中に、ママ以外の――例えば友達とかの記憶が一つも存在していなくて、そのことに気がついた瞬間、堰(せき)を切ったように涙があふれました。


「ごべんばばい。ゆるじでぐだざい」

「えっ!? なんで君、そんなに泣いてんの!? え!?」


 しばらく、私が支離滅裂なことを言い、彼が必死にその真意を推し量るというひどく骨の折れる時間が過ぎました。


「つまり、君が僕の家を食べてしまった、ということでいいんだね? ……あ、これで鼻かんでください」


 涙でぐちゃぐちゃになった顔を縦に振ってから、差し出されたティッシュで私は鼻をかみました。視界が歪んでいますが、どのみち黒一色なのであまり変わりません。そんな何時もの光景をいていたせいか、私は徐々に精神的に安定してきました。


「ぐずん。……あ、えと。魔女さんは、家を食べてしまった私を今度は逆に食べちゃうんですか?」


 思い切って私は言ってみました。いつもの私だったら絶対にできなかったことですが、幸か不幸か頭が冷えてきたとはいえ、まだまだ混乱が冷めておらず、ストレートに聞くことができました。


「いや、僕は君のことを食べないよ!? というか、僕が魔女って、どういうこと!?」


 眉間にしわを寄せて彼は驚きました。その反応を見て、ようやく、もしかしたら私達の間には、大きな認識の違いがあるのかも知れない、と思い至りました。私は自分がどうして彼を魔女さんだと思ったのか、そしてどうして泣きながら命乞いをしたのかを説明しました。


 結論から言うと、私の認識には少し――具体的には二つ――の間違いがありました。

 まず、彼は魔女さんではなく、お菓子を作るのが大好きな妖精さんであること。

 そして、妖精さんの主食は植物であり、人間は食べないため、私を殺す気は毛頭ないということでした。

 私はそれを聞いてすっかり安心してしまいました。

 でも、それと同時に罪悪感がこみ上げてくるのも確かでした。

 私はなんて善良な妖精さんのお家を食べてしまったのでしょうか。お菓子を作り、必死に建てであろうものを、私はわずか数十分で平らげてしまったのですから。彼に埋め合わせをして、謝らないといけません。


 先程のあれはただの命乞いなので、謝ったには含まれません!


「あの、えっと。……怒ってませんか?」


 ……その前に相手のコンディションを確認しておくぐらいいいですよね? というかむしろ、しておかなければダメですよね?


「いや、僕は怒ってないけど。……そうだな、じゃあ一つだけ聞くけれど、あの家はおいしかったかい?」


 私は彼の問の意図が読めず、困惑しましたが、正直に頷きました。すると、彼は目を細めて嬉しそうに笑いました。どうやら、本当に怒っていないようです。


「なら、よかった。お菓子は食べられるために存在するからね」

「は、はあ」


 妖精さんはそんな私の生返事を気にすることなく、さらにお話を続けました。


「いいかい? 道具や物にはね、それぞれの役割があるんだ。もちろん、生き物にも。お菓子は人に食べられる役割を持っているし、お家は誰かをそこに住まわせて、守るという役割を持っているんだ。だから、君が僕の家を食べて、お腹を満たして飢えから身を守ったということは、あの家にとっては満足いく消滅の仕方だと思うんだ、うん。よって、君は僕に対してなんの負い目も負わなくていいんだよ」


 彼は私を怒るどころか、頭を撫でてくれました。柔らかな指先が私の髪に触れる度に、どこかこしょがしくてふわふわとしていて、なぜだか落ち着きました。

 こうして私は心地いいまどろみの中に誘われていく中、なんとか当初の目的を思いだしました。そうです。妖精さんがいくら許してくれても、私は彼に謝らなければならないのです。


 謝って、許してもらって初めて仲直りできるのですから。


 ……もう、許してもらっている上に、仲直りどころか妖精さんとは完全に初対面なので、本当に必要なのでしょうか? という悪い考えが浮かびましたが、悪い子という汚名を挽回するためにも、謝る必要があるのです。

 あれ? 汚名返上でしたっけ?

 ともかく。


 私は彼に謝ろうとして、口を開くましたが思った言葉をが出てきません。

たった一言。たった六文字。

『ごめんなさい』というひどく簡単な言葉を言いよどんでしまうのです。

 私はそんな自分の情けない仕草がなんだか無性に恥ずかしくて、それで、右手で持っていたはさみを胸の前でギュッと握りました。殆ど無意識で行われたその行為を彼は見て、目を軽く開きました。


「おや? そのはさみはどうしたんだい? 少し、焦げ臭いけれど」

「あ、えと。大魔法使いさんに、習って魔法を使ってみたんです……」

「大魔法使いさん……? ああ、アイツか。まあ、アイツならそういう無茶をさせちゃうかもなあ」


 妖精さんは不機嫌そうにけれども、口角を微妙に上げながらそう言いました。その表情にどこか見覚えがあると思ったら、クラスの仲のいい男子が仲のよさを他人から指摘された時の表情に酷似しているのです。互いに腐れ縁だと言っているような人達の顔です。

 正直、腐敗していようが、袖振り合った程度の仲であろうが、縁があることにうらやましさを感じてしまいます。


「いいかい? さっきも言ったけれど、物事には適切な使い方という物があるんだ。ゆえに、物を切るはさみで魔法を使うなんて失敗するに決まっているんだ。現に君も完璧に上手くいったわけではないだろう? ああ、でも、できれば彼を責めないであげてくれないか。彼は天才だから、弘法が筆を選ばないように、杖じゃなくても魔法を出せてしまうんだ。人に何かを教えるのは、いや、教えることができるのは、彼のような天才なんかではなく、僕のような平凡な妖精の役目なのさ」


 自分が何処まで理解できたのか。それは正直な話分かりませんが、私はどもりながらも、大魔法使いさんを嫌っていないと彼に伝えました。すると彼は微笑みました。


「君はやさしいね。えらいえらい」


 再び頭の上に手を置き、私の頭をなで始めました。まるで、猫をじゃらすかのような手つきに思われ、少し複雑な心持ちでしたが、やさしいその手つきに、気がつけば目を細め、喉を鳴らそうとしている自分がいることに気がつきます。

 非常に恥ずかしかったです。

 私は恥ずかしさを誤魔化すつもりで、立ち上がって言いました。


「お家を直すお手伝いをさせてくれませんか?」

 ……嘘です。こんなにハキハキとは言えませんでした。ひどくしどろもどろしながら、なんとかそういう意味の言葉を口から絞り出したのです。


 乾いた雑巾から一滴の水を絞り出すような思いで、勇気を絞りに絞り出した私の申し出を、しかし、彼は断りました。


「気持ちは嬉しいけれどさ。君はもうそろそろ次の扉に行かなければならないんだ。そうだね。魔法使いが魔法を使うように、妖精が人間を諭すように、君には扉をくぐるという役割があるんだ。というわけで、行きたまえ。ここからまっすぐ行った先に、緑の扉が存在するからさ。勉強をして、お腹を満たした子供は今度は遊ぶのがいいのさ」


 いきなり別れを切り出された私は困惑してしまいます。せめて、ごめんなさいだけでも言っておかなければなりません。けれども、またしても私の口は思うように動いてくれないのです。

 結局、私は彼に連れて行かれてその扉をくぐったのでした。


「大丈夫さ。また会えるんだから、その時にでも話そう」


 大魔法使いさんにも言われたようなことを言って、彼は私の背中を押しました。

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