第1話 アイと魔法使いの扉

 しばらく歩くとものすごく開けた場所に出ました。


 しかし私が目を見開いたのは、そこが私の家には収まりきらないほど大きな場所だったからではありません。というか、ここを見た瞬間ここが自宅の一部であることなんて私の頭からはスコーンと抜け落ちてしまいました。

 じゃあ、何に驚いたのかと言いますと、所狭しと並ぶ本棚に、その本棚の中で眠っている宝石のように美しい本に目を奪われたのです。

 ああ、この本独特のにおい! 思わず、一つ手にとって中をじっくりと読んでみたいという衝動に駆られます。気がつけば、自分がよだれをらしながら突っ立っていました。恥ずかしさのあまり顔が火を吹きそうでした。


「ふぉふぉふぉ。そんなに恥じることではない。ここでは貴嬢きじょうのような本の虫は例外なく、皆そうなってしまうゆえな」


 そのあまりにも尊厳あふれる声に私はビクリと肩をふるわせました。まさか人がいるとは思っていなかったのです。

 けれども、すごい声です。きっと、白いおひげをもじゃもじゃにして、それから杖なんかも持っているのでしょう。まるで神様のような人に違いないのです。

 私はそんなお爺さまが背後にいることに胸が高鳴りました。ファンタジーな絵本をよく読んでいるため、人生で一度はそんな人に会ってみたいと思っていたのです。


まさか、こんなにも早い段階で出会えるとは!


 私は期待に胸を躍らせながら振り向きました。

 けれども、後ろにいたのはどこからどう見ても私と同年代の男の子でした。

彼には申し訳ない限りですが、落胆するこの気持ちを抑えることはできませんでした。私は一度大きく深呼吸をして、気分転換するともう一度神様のようなお爺さまを探しました。


「おーい。貴嬢、我はここにおるぞ」


 でも、どれだけあっちこっちを見渡しても、それらしきお爺さまはいませんでした。それどころか、目の前の男の子から声は聞えてくるようなのです。私はひどく困惑してしまいました。


「だから、我が貴嬢の探しておる男であると先程から言うておるというのに」

「あ、あの、えと」

「大丈夫じゃよ。貴嬢の名前は『伏目ふしめあい』であり、小学四年生じゃろ? 我のような大魔法使いにとってはそれぐらい容易いことじゃよ」


 大魔法使い!?


 まさか私の前にそのような素晴らしいお方がいらっしゃるのですか!

 そう思うと、大魔法使いなら若返っていたとしても不思議ではありません。そういう目で見てみれば、目の前のこの男の子も、どこか気品にあふれているような気がしますし、その利発さは幼い身体からにじみ出ているような気もします。


 なんて素晴らしい出会い!


 私はうずうずする気持ちを抑えられなくて、魔法使いさんに魔法をせがみました。物乞いみたいで少しみっともないかもしれませんが、それでも私は、一生のうちに魔法というものをこの目で見ておきたかったのです。

 彼はふぉふぉふぉと笑いながら、あごの下あたりの何もないところを撫でていました。もしかしたら、若返る前の癖が抜けていないのかもしれません。


「貴嬢、魔法を見たいのかね。よろしい。では、一つ見せてしんぜよう」


 魔法使いさんはそう言うと、どこからともなく短い杖を取り出して、それを振いました。するとどうしたことでしょうか。彼の杖の先っぽから瞬く間に炎が出たではありませんか。それだけに止まらず、その炎はやがて鳥のように形を変えて、魔法使いさんの頭の上を飛び回ります。


 私は目をきました。

 恥ずかしながら私はどうやら彼を、本当の意味で魔法使いだと認め切れていなかったらしいのです。そう考えると私が魔法をねだったのは、純粋な好奇心だけではなく、嘘か誠かを判断するためという意図もあったのでしょう。

 私は今度こそ確かに彼こそが魔法使い、いえ、大魔法使いさんだと思いました。

 しかし、こういう思いはお見通しだったのでしょうか。大魔法使いさんは、私がそんなことを思った瞬間、満足そうに頷きました。それだけではなく、にっこりと笑ってこんなことを言うのでした。


「どうかね、貴嬢。貴嬢も、魔法を使ってみるかね?」

「はい! 是非とも、です!」


 私は彼がそう言ったか言わないかの間に答を返しました。

 ああ、もう、ドキドキしっぱなしです! これ程までに私の胸が高揚したことが、過去にあるでしょうか!

 好奇心と感動、それから期待の入り交じった視線を大魔法使いさんに向けました。


「いい返事じゃ、よろしい。では、まずは貴嬢の杖を作るところから始めよう」

「え、あ。杖……ですか?」

「そうじゃ。貴嬢の持ち物の中から我が見繕ってしんぜよう」


 持ち物と言われても、私が持っている物ははさみだけです。およそ、杖になりそうな物は何一つとして持っていないのです。私はそのことを伝えましたが、大魔法使いさんは心配無用だと笑いました。


「杖とはな、魔法をどこへ打つのか、その指針を示すために使うものでな。ゆえに、杖でなくて、極端な話、指を向けるだけでもいいんじゃよ。とはいえ、初心者の貴嬢は何かを持った方がいいのは否定しないが、けれども、はさみがあれば十全じゃよ。少なくとも、魔法を出すだけならな」


 前半は、不勉強であるため何を言っているのか、よく分かりませんでしたが、けれども、はさみでも事足りるということが理解できて、私はひとまず安心しました。

 とりあえずは彼の指示に従って、呪文を唱えてみました。『炎よ出でよ』という簡単な言葉で本当に彼のように火を操れるのか、私は半信半疑でしたが、何事もやってみることが大事なのです。

 私は何度も何度もはさみを振って、呪文を唱えました。でも、その度に失敗という結果が目の前に積み重なっていきます。


「よいかのう。貴嬢はただ念じるだけでよいのじゃ。そして、信じるだけでよいのじゃ。その思いが届けば、はさみの先端からは、貴嬢のように美しい炎が、さながら花弁のように咲き乱れるじゃろう」


 大魔法使いさんはなんて口が上手なのでしょう。はさみからではなく、私の顔から火が出そうになりました。


 しかし、違うのです。私は魔法を使ってみたいのです。


 私は大魔法使いさんの言うように、信じて――誰を信じるのか分からないので、魔法のことを信じてみました――念じて、そして魔法に思いが通じるように言いました。

「……炎よ出でよ!」


 …………。


 けれども、変化は何一つありませんでした。

 絵本の主人公なら、こういう時は大なり小なり結果を残す物です。もしくは、大きな爆発を引き起こします。でも、私はいかなる変化も起こせなかったのでした。

 私は大魔法使いさんのアドバイスを活かせなかった恥ずかしさから、はさみを上から見下ろしました。まるではさみが悪いと言わんばかりの行動です。


 今なら――冷静になった今なら分かります。自分がいかに人の話を聞いていなかったのかを。どころか、知っているふりをしていたのかを。

 大魔法使いさんは言いました。

 信じるだけでよい、と。

 では、信じるとはいったいどういうことでしょうか。

 それにはきっといくつもの、それこそお星さまの数ほどの答があると思います。私が学んだ『信じる』はその中の一つに過ぎません。


 信じるとは、待つということなのです。どれだけ変化がなくても、変化が起こるに違いないと思って、待つのが信じると言うことなのです。


 だから、これは私に対する罰なのでした。

 はさみを見下ろした時、大魔法使いさんは叫びました。


「危ない!」

「えっ?」


 私がはじかれたように彼の方を見た瞬間でした。

 ボッ! という音と供に小さく炎が上がりました。炎が尾を引いて顔の高さまで上昇した瞬間、小さく弾けました。まるで花火です。火花は花弁がひらひらと舞うように小さくなって空気の中へとけてしまいました。


 私は思わず、握っていたはさみを取り落としてしまいました。


「大丈夫かっ! 少し飛んだようじゃが」

「え、あ。……はい。って、前髪が燃えてますっ!?」


 微かに焦げているような嫌な臭いがしたので、急いで前髪を叩きました。熱かったですが、どうやら今の行為で消火できたみたいです。少し燃えてしまったようですが、本当に少しだけで目立つような物でもなければ、前髪の前線が後退することもありませんでした。


 私はほっと胸をなで下ろしましたが、大魔法使いさんはしょんぼりしていました。不謹慎ですが、着地に失敗した子猫さんみたいですっごく可愛く見えました。


「すまんのう。貴嬢を危険な目に遭わせてしまって。注意しておくべきじゃったたな……」

「え、あ。……悪いのは私です」


 彼は首を振りました。


「いや、違うんじゃ。これは我の責任なんじゃ。杖をはさみで代用することの危険性に気づいておりながら、我がいるのだからと慢心してしまったな」

「え、あ、う。でも、そんな……」


 頭を下げた大魔法使いさんに私はひたすら困惑しました。

 これはどう考えても、彼の教えを守れなかった私が悪いのですから。でも、ここで私がそう言い出そうものなら、彼は必死に食い下がって自分のせいにするでしょう。鈍感な私でもそれぐらいのことは分かりました。

 だから、こういう時は、私が魔法に対してなんの恐怖心も持っていないことを伝えた方がいいのです。

 確かに、私は魔法のために前髪を失いかけました。けれども、それを超える楽しさをここで知りました。目の前で爆ぜた魔法は確かに、私の身体を震わせましたが、その中には半分以上、武者震いがありました。恐怖を覚えた反面、達成感や興奮を覚えました。


 私は彼に『ありがとう』と言いたいです。今まで触れるどころか、感じることすらできなかったものを知れたことに。

 そして、彼的には不本意であっても、私に信じるとは待つことだと教えてくれたのも彼なのです。


 こんなの、感謝するしかないですよね?


 私は深呼吸してから、彼に言います。


「あの、あ、あ。――あ」


 でも、口から出る言葉はそれだけなのです。情けない声しかでないのです。どうしてもどもってしまって上手く言葉にできないのです。思えば、ここに来てから私がしっかりと受け答えできたのは、魔法を見せてほしいかという問に対して答えたあの一つだけでした。

 悔しくて、恥ずかしくて、情けなかったです。

 そんな私の仕草を見て、全てを悟ってくれた大魔法使いさんは流石でした。


「そうか。そう思ってくれて助かるよ。……貴嬢は本当によい子であるなあ」


 違います。私は悪い子です! 感謝の一つも言えない、悪い子なんです!

 大魔法使いさんはそんな私を見て、優しい笑顔を私に向けました。それは不思議と私の心をぽおっと温めてくれました。

 その温かさに涙がこぼれそうで、私は必死に堪えました。

 どうして私はこんなにも簡単な気持ちを言葉にできないのでしょう。


 しばらくの間、私達の間に気まずい沈黙が流れました。

 彼は頭を撫でて、それから私の手を握って扉の前まで連れて行きました。

 その扉は、私がここに来た時のような、不思議な紫色のそれではなく、爽やかな青色でした。

「貴嬢はこの先へ行くのがよいじゃろう。そろそろお腹も減ってきただろうし、そこでおいしいお菓子をたらふく食すのじゃ。ふぉふぉふぉ、そんな顔をしなさんな。我とはまた会うことになるのじゃから、その時にでも伝えてくれればいいさ。ゆっくりでいいのじゃ。我は貴嬢を信じ、いつまでも待っているゆえな」

 お菓子という言葉に私のお腹の虫が、思い出したように鳴き声を上げました。それを隠そうとお腹を押さえます。自分の顔が真っ赤になっていることぐらい、簡単に想像ができました。

 大魔法使いさんはそんな私を気にかけることなく、扉を開けてしまいました。そして、先程落としてしまった私のはさみを手渡してくれました。

 今度はもっと話をしようという彼の提案に私は笑顔で頷き、扉の中へ足を進めました。


 笑顔もなにも、前髪で隠れているのだから、彼には何も見えなかったであろうことに私が気づくのはこれからもう少し後のお話です。

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