アイと不思議の扉

現夢いつき

プロローグ アイと夢幻の扉

 私は今、ものすごい速さで逃げています。

 後ろからはママが鬼のような顔をして追っかけてきていました。

 逃げるうさぎさんのように、――『だっと』と言うんでしたっけ? ――私はママから逃げていましたが、それには仕方のない事情があるのです。

 

体育の時ですら出したことのない本気を出す理由があるのです!


 私の右手には髪を切る用のはさみ。――ママから何とか奪ったものです。

 そうなんです。ママは私のこの髪の毛を切るつもりらしいのです。

 夜中の七時、あとは夕食を食べて寝るだけであった私に、ママは帰宅するや否や髪を切ろうと迫ってきたのでした。半袖半ズボンとはいえ、パジャマでは動きにくいのですが、何とか隙を見て逃亡しました。


 なんて残酷なことをするのでしょうか。私から前髪を奪うことは、お魚さんを陸地に放り出すようなものです! お花さんを砂漠に植えるみたいなものです!

 だから私は走っているのでした。命を守るために。


 髪の毛は女の子の命なのです。


 けれども、どれだけ走ってもママは決して私を追いかける足を止めませんでした。今でこそ、私の身軽さでひょいひょいとかわせていますが、このままでは直に体力が無くなってしまいます。そうなっては、捕まってしまうのも時間の問題でしょう。


 私は一か八かの大勝負にでました。


 失敗してしまえば、私はあっけなくはママの魔の手に捕まってしまうでしょうし、けれど成功すれば体力切れで捕まってしまうことはないのです。

『自分の部屋にこもって籠城する』それが私の考えた作戦でした。


「愛ちゃん、ちょっと待ってよ! いいじゃない、髪切るぐらい! そんなに長くして邪魔でしょう?」


 私の視界の九十パーセントを覆う髪を邪魔者扱いされた私はカチンときました。

 この髪のどこが邪魔なものでしょうか! むしろこれがないと私は生きていけないと言っていいでしょう。どうしてママはそんなことも分からないんでしょうか。そう思うと、一度煮えは始めた私の頭は、冷めるどころか沸騰してしまい、何も考えられなくなりました。

 そして、私の空白の頭はこんな言葉を紡ぎました。


「うるさいです! ママなんて大っ嫌いですっ!」


 ああ、なんてことを言ってしまったのでしょう! 私は言い切ってしまってから冷静になってに後悔しました。これで、万が一にも捕まることは許されなくなりました。どんな風にこっぴどく怒られるのか、気が気ではありません。想像しただけで、背中が寒くなって肌という肌が、ブツブツと毛をむしられてしまった鶏(にわとり)さんみたいになってしまいました。

 こういうのを後の祭りというのでしょうか?


 全然、祭りの雰囲気ではありません。

 むしろ、葬式です。


 しかし、二階まで上りきった私を待っていたのは、とても見慣れたマイルームの扉……ではありませんでした。むしろ、初めて見る扉です。他の部屋がクリーム色の扉なのに、この扉だけは怪しげな紫色だったのです。


 私はここに入るのを戸惑いました。はっきり言って怖かったからです。でも、後ろからやってくるママの恐怖に比べれば、それは少しだけマシでした。

 

 かくして私はその扉を開けて、奥へと進んで行ったのでした。

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