自殺の止め方
羊の缶詰
自殺の止め方
「夏休みの間にハメを外して今でもその様子を引き摺っている者も何人かいるようだが、お前達はまだ学生の身分だということを忘れるな」
必要以上に威圧的な担任はそのイメージ通りの言葉を口に出していた。クラスの半数は神妙に聞き入り、もう半分は気だるげな表情で聞いている。僕はもちろん気だるげな方だ。
「ああ、それとだな。うちのクラスの……」
担任の言葉はいつしか耳から通り過ぎて行き、代わりに他のことが頭の中を占めるようになった。
最初に思い浮かんだのは、まだ大丈夫かなということだった。次に、もうそろそろかなと考えて、少しだけ頬が緩みそうになった。なのに、目の奥が熱くなってくる。何だか馬鹿馬鹿しくなってきて、声をあげて笑いそうになった。
「お前、何ニヤニヤしてんだよ……」
隣の席の水沢の呆れたような声が、意識を現実に戻してくれた。担任のあまりにもつまらない話に、つい現実逃避をしてしまったがどうやら終礼のチャイムが鳴っていたらしい。周りを見渡せば皆、帰り支度をしている。
「いや、日曜の朝からやっているアニメの事が気になってさ」
「お前、そんなの見るキャラだっけ?」
適当な言い訳はすぐに水沢に看破された。訝しげな目で見てくるが、何かを察してくれたのかそれとも興味が無いのか、話題はすぐに別の方向へと向いた。夏休みは何をしたか、進学するのかそのまま就職をするのか。
「僕はとりあえず受験するよ。親も一浪までなら許してくれるし」
「今のご時勢大学なんて行って意味あるのかね。俺はとりあえず就職も悪くないと思うぜ」
「まあ、やりたいことがあるからね」
「そっか……」
一瞬だけ羨むような目を向けた水沢は、それ以上は聞いてこなかった。何だかんだで三年間つるんで来たけど僕にとって水沢は単なる友人で、それ以上ではない。だからこそ、水沢も分かっているのだろう。
「久しぶりに一緒に帰らね?もう半年もしたら俺ら卒業するし、お前もそろそろ受験勉強に本腰入れるんだろ」
僕と水沢の付き合いは高校だけで、卒業したらお互いに連絡を小まめに取り合うなんて事はしない。これといった特別な出来事が合ったわけでもなく、だらだらと一緒にいただけ。その証拠に、僕は水沢には大事なことや知られたくないことは言わない。もちろん水沢もそうだろう。
「悪い、今日ちょっと用事があるんだ」
だから、水沢の誘いを断ることにあまり罪悪感を抱かない。
「そっか……ならまた今度にするか」
だから、水沢だってそこまで落ち込んだ様子を見せない。
それが、僕と水沢が三年間をかけて培ってきた関係だ。いつの間にか教室には僕達以外残っていなかった。僕が鞄に教科書類を詰め込んでいる間にも、水沢は鞄を肩にかけてとっとと教室から出ようとしている。
「そう言えばさ」
不意にドアの近くで立ち止まった水沢が、こちらを向いてきた。
「なに?」
「鈴川、結局学校辞めちゃったな。終礼で先生が言ってたけど」
「そうだね」
自分でも不自然に思えるくらいに自然に言葉が出た。
「俺、あの子のこと好きだったんだよな。下の名前の翠って漢字もわざわざ調べたりして」
もしかして、これが水沢にとって大事なことなのだろうか。
「自分で言うのもあれだけど何か気持ち悪いな」
水沢の罰の悪そうな笑顔を、まともに見られなかった。
「そんな事は無いと思うよ。あの子可愛かったしな」
「お前、内心でドン引きしてるだろ」
かろうじて出た言葉は、僕の苦笑いも含めて水沢を勘違いさせてしまったらしい。
「いや、本当だよ。気持ちは何となく理解できる」
「まあ、なるべくなら誰にも言わないでくれよ。俺があの子のこと好きだったってことも」
軽く手を振った水沢を黙って見送った後も、しばらく席から動けなかった。
九月も始まったばかりだというのに未だに蒸し暑い空気が僕の身体にまとわりついていた。夕暮れ時の情緒も全く感じられず、そのおかげで中々気持ちを切り替えることが出来ない。だから、クラクションの音に咄嗟に反応できなかった。
「死にてえのか、このガキ!!」
目の前の車の運転席から聞こえた怒号で、ようやく自分が赤信号の横断歩道を渡ろうとしたことに気がついた。
「まだ死にたくないです」
僕は頭を下げて、こちらを睨みつけてくる運転手を無視するように戻った。その様子を周りが興味半分で見ていたが、それも無視した。
「死にたくないです、か」
先程自分が言った言葉が、とてもアホらしく感じて幾分か気持ちが落ち着いてくるのが分かる。それどころか薄気味悪い笑顔まで浮かびそうになった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
真横にいた老婆が、そんな僕を見て心配した様子で話しかけてきた。
「ええ、僕もぼけっとしていて悪かったですからね」
「そう。でもその大事そうに抱えている紙袋、無事でよかったね」
信号が青になり、軽く老婆に会釈をして、改めて手に持っている荷物を振った。何かがぶつかる振動が心地よく腕に伝わってくる。目に写る景色は繁華街から次第に住宅街に変わって行き、それと同時に今までの事がゆっくりと頭の中を巡った。夏休み前から始まったそれは、夏休みの間の出来事へと続き、水沢の後ろ後姿で中断された。今から、僕はその続きを始めようとしている。
「いや、終わるかもしれないな」
合鍵を取り出しマンションのオートロックを解除して、無人のエレベーターへ乗りこんだ。指定の階のボタンを押し、ゆっくりと深呼吸をする。予感がした。その証拠に、何度も見たはずの鈴川という表札が掲げられた扉を前にして、初めて手が震え持っていた紙袋を落とした。
鈴川翠は部屋の中でベッドに横たわっていた。鼻に手をかざすと呼吸を感じることが出来たので、僕は起こさないようにゆっくりと紙袋を枕元のキャビネットに置き、近くの椅子に腰掛けた。時計の針の音以外は何も聞こえてない。消毒用アルコールの匂い以外何も臭わない。ふと、今この空間には生きている者は誰もいないんじゃないかという錯覚にとらわれたが、微弱に揺れる鈴川の身体がその思いを打ち消してくれた。鈴川はまだ生きている。しばらくして、生が希薄だった空間は、煙草の煙とそれを吐き出す音で充満した。
「おはよう」
二本目の煙草に火を点けたところで鈴川が目を覚ました。前日より更に死臭らしきものが漂っていたが、その声の温かさに僕は安心とともに失望を覚えた。それを悟られまいと自分では微笑を浮かべたつもりだったが、変に引きつってしまう。
「相変わらず笑顔作るのが苦手なんだね」
「そういう鈴川は得意だったの?」
「うん」
僕の問いにただ一言頷くだけで、鈴川は完璧な答えを示してくれた。それ以降お互い無言が続いた。いつの間にか煙草の火が消えていたが、点け直す気は起きなかった。僕は待っている。鈴川もそれに気づいたのか、ゆっくりと力を込めて口を動かした。
「今日だと思う」
黙って頷いた。その声のか弱さに僕は失望とともに安心を覚えた。
「今も何かあやふやなの。ようやくここまで来れたんだ」
黙って手を握った。少し力を入れただけで砕けそうなくらい細かった。
「もう最後に残ったこともやり遂げることも出来たしまだ早いかもしれないけどありがとう」
そう言って、鈴川は再び目を閉じた。その顔はふっくらとした面影が残らないほど頬が痩せこけていて、ぱっちりとしていた印象が嘘だったかのように目は落ち窪んでいて、瑞々しさに満ち溢れていたのが信じられないくらい肌はがさついている。なのに、その表情は死にたいと願っていた時からは想像がつかないくらい、満ち足りたものだった。もし、水沢が今の鈴川を見たらどう思うのだろうか。
「まず、僕がぶん殴られるだろうな」
意味の無い考えを振り払うと、消毒用アルコール以外の匂いが漂ってきたことに気がついた。僕にはそれが何なのかはすぐに分かった。
「やっぱり」
キャビネットに置いた紙袋を開けると、その匂いは一気に広がった。中のキウイが幾つか割れている。鈴川のほうを見ると相変わらず目を閉じたままで、先程言った今日だと思う、という言葉に急に真実味が増してきた。
「良かったね」
僕の言葉は鈴川には聞こえていなかったと思う。
「ようやくだね」
だから僕は話し続けた。
「死にたかったんだよね。だから、二人で色々と考えて結局こうなって。でも、僕は死んで欲しいってわけじゃなくてただ納得したかっただけなんだ」
僕にとっての大事なこと。今まで誰にも言ってこなかったこと。
「僕はあの時どうすれば良かったんだろうって考えて、けど結局どうでもよくなって。多分大人になったらすぐに忘れることが出来たと思う」
だから、何に対してというわけでもないけど自然と口から言葉が溢れた。
「ありがとう」
鈴川が頷くように首を上下に振ったのは、偶然だったと思う。だから、数分後には訪れるかもしれない結末もしっかりと受け入れられるはずだ。だって、それが僕と鈴川の間で取り決めた約束だから。鈴川の真似をするように目を閉じた僕の頭には、マンションの前で中断された映像が巻き戻されて行き夏休みが始まった頃、僕と鈴川が出会った日で止まった。
まだ、世間一般で言えば美少女と言われていた鈴川と、今と同じ様に目つきだけが悪いふやけた顔立ちの僕。最初に話しかけたのは……
「もしかして、梶村君?」
背後から少女の声が聞こえてきた。最初は幻聴かと思った。理由は、ここが墓所で僕はしゃがみ込んで手を合わせている所だという事、こんな場所で僕に話しかけてくる女の子なんて一人しかいないということ、そして今は世間一般で言えばお盆だということ。普通なら背筋が凍るはずなのに僕はどうしようもないくらいの安心感に包まれた。けど、声の主は期待を裏切るような明るい声で言葉を続けた。
「やっぱり。ほら、私同じクラスの鈴川だよ」
後ろにいたのは単なるクラスメイトだった。確かに同じクラスだけど、そんなに親しかったような記憶が無い。同学年でも可愛い部類に入って友達もたくさんいる鈴川と、目つきの悪さだけが特徴で友達といえるのは水沢だけの僕。時たま目が合うくらいで接点も無いし軽く挨拶を交わす位の仲だったはずだ。
「何か変なところで会ったね」
「そうだね」
我ながら素っ気無い態度だと思うし、暗に放っておいて欲しいと言ったつもりだった。けど、鈴川はそんな僕の思いを無視するかのように妙に馴れ馴れしく話しかけてきた。
「お墓参りなの?」
「うん」
「お盆くらいしかする機会無いしね」
「なあ、鈴川」
「どうしたの?」
「僕とお前ってそんなに仲が良かったっけ?」
自分の大事な時間を土足で踏み荒らされているようで無性に腹が立ち、普段では絶対口には出さないであろう言葉が出た。後の事は何も考えていない。これでクラスの除け者にされてもどうでもいいとさえ思った。
「少なくとも私はそう思ってるよ」
なのに、鈴川から返ってきた言葉は意外なものだった。僕と鈴川の接点なんてクラスメイトということ以外何も思い浮かばない。
「といっても私の一方通行かもね。」
「どういうことなんだよ」
「梶村君ってさ」
鈴川が死体のような豊かな笑顔を浮かべた。
「人殺しそうな目をしてる」
背中に大量の汗が噴出したのは、暑さのせいだけではなかった。喉が渇いて言葉が出てこない。鈴川のような笑顔を浮かべるので精一杯だった。
「誰のお墓参りなの」
鈴川の好きなものも家族のことも分からないのに、この質問の意味だけはすぐに理解できた。
「妹だよ」
「仲良かったの?」
「よく遊んだと思う。将来お兄ちゃんと付き合うんだって言ったりとかしてた」
「何それ?梶村君ってそんな冗談言うんだ」
一頻り笑った後、鈴川はポケットからメモ用紙を取り出して何かを書き、僕に渡してきた。
「何これ?」
「私のもう一つのスマホの番号。登録しておいてね」
そのまま鈴川は振り向きもせずに何処かへ行った。僕はただ突っ立っているしかなく、鈴川の姿が見えなくなってようやく動くことが出来た。白昼夢でも見たのかと思ったが手に握っているメモ用紙が、現実だったということを教えてくれる。ふと、風が頬を撫でた。この感触がとても懐かしいようなものに感じた。どうしてそう思ったのかを考えたとき、鈴川といた間は全く風が吹いていなかったことに気がついた。
「だからどうしたって話だけど」
目の前の墓石に呟いた言い訳じみた言葉。それに反応するかのように、もう一度風が吹いた。空を見上げると、いつの間にか太陽が雲に隠れていた。
再生を中断して、ベッドに目をやると鈴川が目を開けて僕を見ていた。全く気がつかなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「そっちは」
「少しだけ、泣きたくなった」
鈴川は再び目を閉じた。乾ききった身体には貴重な水分が閉じた瞼からゆっくり溢れて出した。拭う気にはならなかった。雫が一滴ベッドに垂れたと同時に、僕はまた、再生を始めた。
「鈴川ってどんな子?」
「どうしたんだ、突然」
水沢の部屋で、僕と水沢は特に何かするわけでもなくアイスを食べながらぼんやりと過ごしていた。こんな暑い日にわざわざ出かける事は無いという僕の意見に賛同した水沢は、なら冷房を効かせた部屋でダラダラと過ごそうという提案をした。
「いや、何となくだよ」
「ふーん」
何かを探るような目で水沢が僕を見てきたが、すぐに表情が綻んだ。
「まあ、可愛いよな、それに明るいし誰とでも気兼ねなく話すし」
水沢が言った言葉は僕が知りたい事とは違った。とりあえず否定はせず無言で肯定してみた。確かに鈴川の容姿は平均より上だと思う。とびっきりの美人という類ではなく、どこか親しみ易さや愛嬌がある。ただ、あの場所で会った鈴川はそんな簡単な言葉では表せない何かがあった。ただ、その何かが良く分からない。感覚では分かるが、じゃあ具体的にはどういったものか。
「ただ、一定の壁を作っている様に感じる時はあるけど」
「確かに」
水沢の言葉に、今度は声を出して肯定した。もやもやとしたものに少しだけ輪郭が見えてくる。あの時の鈴川の表情と空気。あれは僕に向けられたものではなかった。なら、誰に向けていたのか。
「けど、そういうとこも何かいいんだよな。芯がしっかりあるっていうか」
水沢の言葉を遮るように、普段は滅多にならない僕のスマホが鳴った。今時珍しいショートメールからで、宛名は鈴川。
「明日会おう。待ち合わせ場所はまた後で連絡する」
文字だけの簡潔な内容だった。
「お、誰からだよ」
僕と付き合いがそこそこ長い水沢も珍しいと感じたらしい。興味深そうに僕のスマホを見てきた。
「キャリアからの宣伝だった」
僕の言葉を水沢は疑いもせずに、また鈴川について語りだした。それに適当に相槌を返しながら、削除するふりをして返事を打ち、電源を切った。多分、水沢は鈴川のことが好きなんだと思う。そして、そのことを僕に打ち明けてくれる事は無いのだろう、とも思った。
「そうだろうね」
それからしばらくは水沢が下らない話を一方的にして、僕はただ作り笑顔で頷くだけだった。ただ、童貞かどうかという話に意味ありげに微笑んでみると、水沢が酷くうろたえてその様子がおかしかったので、その日初めて、心の底から笑うことが出来た。
「昔からそうだよね」
いつの間にか僕と水沢の間に誰かが座っていた。その誰かは、ずっと僕を睨んでいる。三年前からずっと。誰かの輪郭がはっきりしていくに連れて、周囲の光景が舞台の書き割りの様に立体感を無くしていく。
「人の気持ちを気遣ってるふりをして、何も考えていないくせに」
目の前の少女が、責めるような声を発した。
「今もそうでしょ。貴方の涙と感情は誰に向けて出しているものなの?」
目の前の少女が、蔑むような声を発した。
「お兄ちゃんのせいだ」
目の前の、三年前に自殺したはずの妹が、泣き出すような声で僕を責め立てた。
映像にノイズが入り始め、再生を中断した。鈴川と会ってからは聞こえることがなくなったはずの妹の声は、劣化もせず美化もされていなかった。やたら甲高くて甘ったるい声。どうして今このタイミングでまた、聞こえ始めたのかを考えた時背中に嫌な感触が這い回った。
「鈴川」
返事は返ってこない。
「鈴川!!」
さっきよりも大きな声で呼びかけた。待ってくれ、まだなんだ。せめて後少し、最後に話したいことがある。僕はいつの間にか力強く鈴川の手を握っていた。
「どうしたの」
気だるげな鈴川の声が聞こえて、ようやく落ち着くことが出来た。鈴川は目を瞑ったままだった。今の僕の顔は見られたくない。必死で利己的な表情は、きっと鈴川を後悔させてしまう。
「ああ、ちょっと心配になって」
努めて冷静に答えたつもりだった。
「変なの」
何かを切り替えるように鈴川は大きく、傍から見れば何かを沁み出すように息を吐き、溜め込むように息を吸った。
「自分の心配でしょ」
鈴川の口から発声された何かが、妹の声色と重なった気がした。
「誰からも共感されて誰にも共感できない人」
目の前の何かが発した音が、中断した映像を強制的に再生させた。
「私、死にたいんだ」
水沢と部屋でダラダラと過ごした翌日に、待ち合わせ場所である古びた喫茶店に入ると鈴川は一番隅の席へ座っていた。僕と目が合うとおいでの手招きをしたので、テーブルの対面へと座り適当にコーヒーを注文した。僕と鈴川以外は誰も客がいないせいか、鈴川は声量を抑えようとはしなかった。
「私ね、死にたいんだ」
氷が少し溶けかかっているグレープフルーツジュースをストローで啜りながら鈴川は笑顔でもう一度同じ様なことを言った。
「そうなんだ」
僕は店員が無言で置いていったコーヒーを口につけた。可も無く不可も無くといった味だった。
「理由は聞かないの?」
「聞いて欲しいなら聞くよ」
鈴川の笑顔は相変わらず僕には向けられていない。
「私ね、親に虐待されてるの」
「そうなんだ」
鈴川の言葉は僕には向けられていない。
「それとね、知らないおじさんに身体売ってるの」
「そうなんだ」
鈴川の笑顔も言葉も誰にも向けられていない。
「だから、もう人生がつまらないの」
「そうなんだ」
鈴川と初めて目が合った。
「もちろん嘘だよ」
「知ってた」
「でも、半分は本当」
「そうなんだ」
それも知ってた。だって、今僕の目の前にいるのは鈴川じゃなくて死んだ妹だから。あの時、僕の返答は間違っていた。僕宛に残してくれた遺書がそれを教えてくれた。
「どうして死にたいの?」
心の中であの時の間違いだった答えをそっと呟きすぐに打ち消す。
「どうやって死にたいの?」
僕の発した言葉は正解なのか、よくわからない。
「どんな方法がいいと思う?」
鈴川の表情は、少なくとも間違いではなかったことを教えてくれた。それから、まるでデートの打ち合わせをするように、色々な自殺方法を二人で考えた。手首を切る?痛そう。飛び降り?女の子だから綺麗なままでいたい。服毒?ありきたりでつまらない。ネットで調べようよ?ダメこういうのはちゃんと自分で考えないと。
鈴川は本当に楽しそうだった。話している事はろくでも無い内容なのに、そしてこれが冗談でもなんでもなく本気の事なのに。
「とりあえず候補も絞れてきたし、明日この中から決めよう」
鈴川はそう言って、解散をしようという流れになり一緒に喫茶店を出た。時刻は夕方を回っていたので昼間のような蒸し暑さは無く、心地よい風が吹いている。最寄りの駅まで僕達は無言だった。けど、それが息苦しくない。目の前には駅の入り口が見えてきた。
「じゃあ、私はこっちだから」
鈴川は僕が乗る電車とは反対のホームへと向かおうとした。
「鈴川」
「なに?どうしたの」
僕の声に、鈴川がいつもの誰にも向けていない笑顔を返した。
「どうして僕なんだ?」
僕は鈴川の目を見て言った。
「誰からも共感されて、誰にも共感できない人、だから」
鈴川と目が合ったような気がした。
「きっと誰からも愛されるけど、誰も愛せない人。それは凄く可哀想なことだと思う。そんな梶村君ならきっと私を殺してくれると思ったから」
僕は何も言わなかった。脳が表情を保ち、口を動かすことを拒否している。
「なんてね、それじゃあまた明日」
鈴川を無言で見送った後、僕は反対のホームへ向かった。その晩、久しぶりに妹の声を聞くことなく、ぐっすりと眠れた。
「そういえば、どうして死にたいのかって結局最後まで聞かなかったね」
呻くような鈴川の声が耳に響いた。眠っているように閉じている目でまっすぐ僕を見ている。
「興味無かったから、じゃない?」
僕の心の底の本音を鈴川が代わりに言ってくれた。頷く代わりに、握っている手に力を込めた。
「良かった、梶村君を選んで」
鈴村の声と手から、力が抜けていくのがわかる。
「もし、今死にたくないって言っても止めないでしょ」
「じゃあ、決まりね。途中で絶対止めないでよ」
話し合いの結果、自殺の方法は衰弱死と決まった。一気に死ぬより、死ぬまでの過程をゆっくりと味わいたいという鈴川の意見に、僕は反対しなかった。かといって積極的に賛成したわけでもない。主導権は鈴川にあるので、僕は付き添うだけ。ただ、それだけだった。
「私一人暮らししてるから、丁度いいしね。必要なものも揃ってるし」
鈴川に案内された部屋は学生が一人で住むには不釣合いなくらい広いものだった。冷蔵庫や洗濯機等の家電は一通り揃っているし、居間に鎮座しているテレビも僕の家にあるものよりも大きい。色々と勘繰ったが、すぐに興味は失せた。僕と鈴川が一緒にいるのは一つの目的のためだけで、それ以外のものは無い。
「衰弱死で一番辛いのは水分が取れないことなんだって。だからギリギリまで水だけは口にしておきたいな」
「それなら、いきなり食べ物を断つのも辛いと思うから徐々に口に入れるものを減らしていった方がいいと思う」
だから、こんなことで笑い合えた。
「今のうちに写真撮っておこうかな。一番綺麗なときの姿」
「誰に見せるんだよ」
「誰にも見せないよ。ただの自己満足」
だから、こんなことでふざけ合えた。
「梶村君は、人殺しだよね」
「そうかもしれないね」
だから、本音を語り合えた。
その日、鈴川から合鍵を渡された。私が変なことをしないように監視してね、と言われたが、僕達はもう変な事をしているという言葉は心の中で留めた。
僕が鈴川の部屋に訪れるのは昼前で、鈴川はいつもリビングで寝転がっているか、ぼんやりとテレビを見ていて過ごしていた。
「おはよう」
「どうだった?」
「特に何も無いかな」
事務的な会話を終えた後、僕も適当にリビングでくつろぎ特に何もすることなくソファに横になった。時たまバラエティ番組の内容について鈴川と語り、日が落ちてくると鈴川の部屋を後にする。驚くほど何ごとも無く日々が過ぎていった。変わった事といえば、お金を渡すからキウイを買ってきてと言われたこと、水沢からどこか遊びに行かないかと連絡が来たくらいで前者は黙って了承して後者は謹んでお断りした。
「昨日ね、何も無いのに気を失ったんだ」
最初の変化は鈴川の様子だった。いつものように昼前に鈴川の部屋を訪れたら、鈴川は居間ではなく玄関前で僕を出迎えた。興奮しているのか顔は上気していて出会い頭に僕の手を握ってきたが、その手に変な違和感を覚えた。
「ちょっとだけゴールが見えてきたね」
そういう鈴川の顔は頬が前よりもこけていて、目も少しだけ落ち窪んでおり、ようやく先程の違和感の正体がわかった。
「本当に死ぬんだ」
鈴川の手は女の子のものとは思えないほど硬く、がさついていて冷たかった。それでも、僕の中ではまだ何処か他人事だった。まだ、足りないんだ。もう少しすれば実感が湧いてくるはずだ。
「どうしたの?」
心配そうに僕の顔を覗きこんだ鈴川の表情が妹と重なりそうになり、すぐに打ち消した。この日から鈴川の容貌は、傍目から見ればどんどん悪くなっていった。
「水は飲みたくなったけど我慢したんだよ」
瑞々しさが失われた表情で鈴川は嬉しそうに言った。
「最近は殆どベッドで過ごしてるんだ」
手の節が浮き出るほど痩せ細った鈴川は、楽しそうに言った。
「後、ちょっとだから頑張ろうね」
殆どベッドで過ごすようになった鈴川は優しい声で言った。不意に怖くなった。鈴川ではなく僕自身に。どうして僕は止めようとしないのだろうか。
「どうしてキウイだけは食べてたんだ?」
それなのに出てきた言葉は自分でもよく分からないものだった。
「キウイ、好きなんだよね」
先程と同じ優しい声で鈴川が答えた。僕は今になって鈴川の好きな食べ物が何なのかを知った。そして、それ以外の事は何も知らなかったということも分かった。もう一度話しかけても、寝息だけしか聞こえてこない。
「どうして今更になって……」
どうして僕はまだ止めようとしないんだろう。
一昨日までの再生が終わり少し頭痛に襲われたが、目の前の鈴川が否応無く現実に引き戻してくれた。鼻腔に感じる生臭い匂い。直感で死臭とわかった。もう、後少しで鈴川は死ぬ。
「梶村君」
僕の名前を呼んだ鈴川の目は、もうどこも見ていなかった。
「楽しかったね。もう少し梶村君のこと知りたかったな。私ね……」
最後は何を言っているのか聞き取れなかった。
「梶村君はもっと人を好きになりなよ」
この言葉だけははっきりと聞こえた。そして、これが鈴川の最後の言葉だった。
「妹は担任に襲われたんだ。何で知ってるかって?妹から直に聞いたから」
名前を呼んでも鈴川は反応しなかった。相変わらず寝息だけが聞こえてくる。
「僕は妹と、まあ、関係を持ってたんだ。お兄ちゃんが好きって言われて僕は肯定も否定も出来なかった。あやふやな態度のままでいたら、そのままズルズルと続いちゃって」
自分でも何が言いたいのか分からなかった。
「妹が死にたいって言った時にも、僕はどうすることも出来なかった。逆にどうして死にたいのって聞いちゃって。それからは鈴川が想像した通りだよ」
妹は自室で首を吊った。第一発見者は僕だった。眼球が飛び出し、舌をだらしなく垂らした妹を見て最初に思ったのは、本当に死んだんだ、という事だけだった。
「警察は思春期の多感な子にありがちなこととして処理したけど、起こったことだけ見れば確かにその通りだと思う。なら、僕はどうすれば良かったんだろうね」
担任を糾弾すればよかったのか。もっと、話を聞いてやればよかったのか。それでも、妹が担任に襲われたことと、僕と関係を持っていた事は変わらない。
「わからないんだ」
僕と関わりを持とうとする人達にどう接すればいいのかが、分からなくなった。肉親なのに僕に恋愛感情を抱いた妹にも、何かと気にかけてくれる唯一の友人と呼べる関係の水沢に対しても。そして鈴川にも。
「僕はもう帰るよ、また明日」
鈴川が死んだ後については、予め事後処理を鈴川が計画していた。僕と鈴川は付き合っていて、様子がおかしい鈴川を定期的に見舞っていたらある日突然死んでいた。そういうシナリオだった。僕が警察に通報した後は、概ねシナリオどおりに進んでいった。少しだけ想像と違ったのは水沢の対応だった。
「水臭いじゃねーか」
最初は殴られるのを覚悟していたが軽く頭をはたかれただけで、逆にこっちが心配になるほど気遣われた。今度何処か泊りで遊びに行こうと言われたが、返事は曖昧に濁した。
そしてもう一つ、僕が今手にしている一枚の便箋の存在。可愛らしいデザインで封をされたそれには表に「梶村君へ」とだけ記されている。
「あの、梶村さんですか」
鈴川の葬儀に参列した時、鈴川の姉と名乗る女性から渡されたものだった。
「あの子が生きてた頃、よく梶村さんの話をしてたんです。それが夏休みになってから段々と連絡が来なくなって……それでこんなものが届いて。あの子が死ぬ前日でした」
最初は何かの冗談かと思ったが、本人の真剣な表情から本当のことだと分かった。
「ねえ、貴方はあの子の変化に気がつかなかったんですか。あの子の口ぶりから貴方はあの子と付き合ってたんでしょ」
計画上はそうだったので黙って頷いたが、鈴川の姉はそれでも納得しない様子で約束ですからと便箋を無理矢理僕の手に握らせてすぐに身内の席へと戻っていった。それを見ても、僕は愛されていたんだな、と感じることしか出来なかった。
便箋の封には開けられた形跡は無い。僕は自分の部屋でペーパーナイフを使い丁寧にシールを剥ぎ取り中の手紙を取り出した。
「梶村君は少し変わっているから簡潔に書くね。あのね、普通女の子はそう簡単に男の人を部屋に上げないんだよ。そんなことにも気がつかないの?でも、梶村君って元々そんな感じだよね。私がずっと見てても全く気がつかなかったんだし。だからお墓で梶村君と会った時は嬉しかったんだよ。私の人生ってつまんないから、梶村君の役に立てて嬉しかった。梶村君と過ごした夏休みは今まで生きてた中で一番楽しかったよ。これで少しでも梶村君の心に残ってくれたらいいな。多分もうそろそろお別れだと思うし、この手紙だって一時間くらいかけて書いたんだよ。次に付き合う人がいたらもっとちゃんと見てあげないと可哀想だよ。それじゃあね、バイバイ」
鈴川らしい几帳面な文字だったが、所々が震えていた。多分この手紙を近くのポストに入れるのさえ重労働だったと思う。
知らずにあふれ出した涙の理由はすぐに分かった。文面にあるずっと見ていたという文字。僕は鈴川が誰も見ていないと思っていた。でも、本当は違っていた。
鈴川は僕だけを見ていたのに、僕が気づいていないだけだった。
「梶村君はもっと人を好きになりなよ」
鈴川の最後の言葉に、妹と水沢と、今まで出合った着た人達の笑顔が重なった
自殺の止め方 羊の缶詰 @miyamotosato
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