翠川コウキという少年

43. 「寂しくねぇ」

 それは、日本人クラージマン翠川コウキが初めて悪魔祓いの儀式をメインで行うと決まった時のことだった。

 イタリア、ローマ。観光地から少し離れた街並みに存在するサンタ・ヴィオラ教会の一室で一人の少年が念入りに聖書の文章を目で追いかけていた。周りの同世代より顔立ちが幼く見えるアジア人の彼は、親指の爪を噛みながら古い英語の羅列を苛立ちの混じった表情で読み続けている。既に時刻は日付を跨いでおり、電気のついていない部屋は太い蝋燭の光を受けて辛うじて状態を確認できた。

 ボロボロのシーツの上に座り込んでいる少年の周囲にはゴミとガラクタが散乱している。部屋には本棚すらなく、分厚い専門書がそのまま地べたに積まれていた。ホイールが歪んで乗れなくなった自転車や割れたステンドグラスの欠片も一緒くたに床にそのまま投げ捨てられている。窓にかかっているカーテンは破れて右半分が力なくぶら下がり、窓ガラスもしっかり嵌っていないため、少し風が吹くだけでガタガタと酷く耳障りな音を立てていた。天井には電球が吊られているにも関わらず明かりに蝋燭を使っているのは、コードが切れて電球そのものも割れてしまっているためだ。土足のまま出入りするその部屋は土埃で汚れており、少し歩くだけでもつま先が白っぽくくすんでしまう。

 そんな悲惨な環境の中でも気にしないのか、少年の集中力は途切れていない。冬の訪れを感じる隙間風にも鼻を啜りながら耐え、ただ意識を目の前の分厚い本に向けていた。

 その時、強く押せばそのまま壊れてしまいそうな木製のドアからノック音が聞こえてきた。ようやく少年は顔を上げ、吠えるように声を掛ける。

「はい」

「コウキ、入るぞ」

 返事も待たずに扉を開けて部屋に入ってきたのは、長いシルバーブロンドを背中で一つにくくった長身の男だった。何を考えているのか察するのが難しい無表情で、彼は後ろ手に扉を閉める。その風圧でわずかに埃が舞った。入ってきた相手が自分の身元保証人であるクレインだと分かった途端、コウキは興味をなくしたようにまた視線を聖書に落とした。換気をするつもりもないのか、単に寒いだけなのか締め切られた窓のせいで部屋は埃っぽい空気で満たされている。クレインはおおよそ人が住めるような環境ではない室内を見回して、小さくため息を吐いた。

「相変わらずこの部屋は汚いな。ゴミは捨てなさい」

「うるせえな。これでいいんだよ」

「これではいつまで経っても同室のクラージマンができないぞ。一人のままは寂しいだろう」

「寂しくねえ。別に部屋が綺麗でもここには誰も来ねーよ」

「コウキ」

 窘めるようにクレインは語気をわずかに荒げる。だがコウキはそれを気にするでもなく表情一つ変えずにページをめくった。

「俺みたいなアジア人と一緒に住みたいなんて誰も思ってねーし。言わないだけで俺を嫌ってることくらい分かってるっつーの」

「それはお前が歩み寄らないからだ。心を開き、本心から接していないからそう思うだけで」

「クレインも分かってんだろ。ここじゃアジア人は黄色い猿だぜ?」

 クレインの言葉を途中で遮り、皮肉を交えて半笑いのまま吐き出されたのはコウキの素直な心の内だ。

 差別に対して否定的な意見が増えてきたご時世だが、まだまだ教会内での人種差別はなくなりそうになかった。男尊女卑が強く根付いたままの組織から人種差別が消えないのは至極当然の話かもしれないが、実際に差別される側からすればたまったものではない。ローマに存在する教会には、サンタ・ヴィオラ教会を含めてコウキ以外のアジア人が在籍していないこともあり、明らかに顔立ちの違う彼はいつだって奇異の眼差しを向けられていた。中国人に比べて日本人に対する風当たりはまだマシだが、それでもまだ思春期真っただ中のコウキの神経を擦り減らすには十分だった。

 翠川コウキの周囲にいる教会関係者も多分に漏れず、差別的な思想を含んだ目で彼を見る。その価値観に放り込まれたコウキは、自分と同じ見習い聖職者たちから投げつけられる心無い言葉を無視することで自衛していた。それにより嫌がらせが過激になり、コウキはますます心を閉ざすという悪循環が起きている。クレインはそんなコウキを心配しているのだが、その心遣いすら今の少年には届いていなかった。

「まだ何か用か? 友達作れって言いたいなら出てってくれ。今これ読んでる」

「いや、本題はそこじゃない。仕事の話だ」

 その言葉にコウキの肩がぴくりと揺れた。視線は未だ聖書に向いているが、既に集中力はクレインの言葉によって途切れている。クレインもそれを理解した上で言葉を続けた。

「本来なら本資格を取ってから半年間はサポートに徹するのが基本だが、今のお前は他人のサポートができるほど信頼関係を築けていないように見える。そこで、特例として私はバチカンにこれを申請してきた」

 彼が懐から取り出したのは一通の封書だった。真っ赤なシーリングワックスに刻まれているのはローマ法王の管轄を意味するバチカン市国の紋様だ。ちらり、と目線だけでそれを見たコウキは顔色を変えた。その内容に心当たりがあったからだ。

「おい、まさかそれ」

「察しがいいな。そう、正教会活動許可証……これとパスポートを併用すればEUに限らず世界各地でクラージマンとして活動できる。お前が常々欲しがっていたものだ」

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