42. 「……昔話は苦手だから」
翌朝。儀式の次の日にも関わらずコウキの目は日が昇り始めた頃に覚めた。見慣れつつある古びた天井を眺めてもう一度目を閉じようとした時、コウキの耳に微かだが足音が聞こえる。極力音を抑えようとする気持ちは伝わるが、床の軋む音すら防げないほど居住スペースの壁は薄かった。顔をしかめて上体を起こし、寝ぐせが付いたままの頭をぼりぼりと掻きながら自室の扉のノブに手を掛ける。
顔だけ外に出して様子を伺えば、扉が開く音に気が付いた名嶋と目があった。驚いたように目を見開いている名嶋はどうやらゲストルームを覗き込んで親子の様子を確かめていたようだ。声を掛けようとコウキが口を開いた途端、名嶋は人差し指を自身の口の前に持ってきた。「静かに」のジェスチャーだ。慌てて口をつぐめば、音を立てずに下の階にその人差し指を向けた。コウキはくわ、と欠伸を漏らして頷く。足早に階段を下りて行った名嶋の背中を見ながらできるだけ足音を立てないように、コウキはそろりと足を出した。目指す先は名嶋が入っていった談話室ではなく、教会の裏庭だ。
一服した後のコウキが談話室に足を踏み入れると、同じタイミングで名嶋が厨房から姿を現した。外したエプロンを軽く畳んで椅子の背もたれに引っ掛けながらコウキに声を掛ける。
「おはよう、翠川くん。今日は早起きなのね」
「足音が聞こえたんで、それで」
「あら、起こしちゃったかしら」
「煙草吸いたかったし別にいいっすよ」
ラッキーストライクのパッケージが入ったポケットを軽く叩けば、煙草が箱の中でぶつかる感触がした。それを見て名嶋は安堵の表情を浮かべる。他人の就寝を邪魔してしまったのではないかという心配をしていたようだ。椅子に掛けっぱなしになっていたオレンジ色のエプロンの腰紐を締めながら、ふと思い出したように名嶋はコウキに問いかけた。
「そういえば古海くんを見てないかしら」
「カズ? 聖務日課に出てないんすか?」
「そうなのよ。部屋のドアもノックしたんだけど、返事がなくて」
心配そうに眉を下げる名嶋に、コウキは首を傾げる。
「部屋の前まで行ったんならドア開けて確かめればいいんじゃ」
「彼、就寝時と外出時は必ず部屋の鍵を閉めちゃうの。どうしても部屋に入られたくない事情があるんですって。」
「あぁ、そう言えば前に部屋に押し入ろうとしたら全力で拒否られたな……」
数週間前に儀式用の聖具を借り入れようと、部屋を訪ねた際の事を思い出す。確かにあの時の古海の反応はおかしかった。いくら部屋に人を入れたがらないとはいえ、いくら何でも過剰防衛が過ぎる。あの時挟まれた足が痛むような気がして、コウキは僅かに眉間に力を込めた。
「返事がないなら寝てるんじゃないすか」
「そうだといいんだけど……こんなこと今までなかったから心配なのよ」
「あいつの事だし、どうせ昼過ぎくらいにケロっと起きてきますよ。コーヒーください」
「驚くほどマイペースね、あなた」
やれやれと嘆息した名嶋は、ちょっと待ってなさいと言い残して厨房に姿を消す。そんな彼女の背中を見送りながら、コウキは殊更に大きな欠伸をこぼした。
まだ荒木と田代親子は眠っており、似内もバイトで外に出ている居住スペースは静けさを保っている。窓から差し込む光に埃が反射して輝く様子を、何の感慨も湧かないと言わんばかりの表情でコウキはただぼんやりと眺めていた。鼻腔をくすぐる香ばしいコーヒーの香りを感じながら、気を抜けば霞掛かりそうになる思考を覚ますように緩く頭を振りかぶる。四方に取っ散らかった意識が緩やかに焦点を合わせる感覚で、ようやく心身ともに覚醒したことを悟った。
「はいこれ。コップは自分で洗いなさい」
厨房から出てきた名嶋の両手には一つずつマグカップが握られている。有難く白いカップを受け取りそっと縁に口をつければ、ドリップコーヒーの味が広がった。名嶋は椅子を引いて腰を下ろすと、自分のコーヒーには手をつけずコウキに視線を送る。二、三度口を開いては閉じて躊躇いを見せていたが、意を決したように名嶋が尋ねた。
「私、あなたに聞きそびれていたことがあるの」
「なんすか急に」
「あなたは悪魔って何だと思う?」
それは、以前コウキが名嶋に問いかけた言葉と同じものだった。あの時は逆にコウキが同じ質問を返して答えをはぐらかしていたが、今回は逃げられない。逃がさない、と言いたげな鋭い眼光がコウキを貫いている。面倒くさそうにコウキは顔をしかめたが、やがて諦めたのか渋々口を開いた。
「……悪魔なんて不可思議なものは存在しない。あれはただの精神疾患の症状でしかない……ってのが、いつもの俺の回答」
「いつもの?」
「似内って奴にはそう説明しました。多分、あいつは言っても分かんねえだろうし」
揺らめく液体を覗き込んで映った自分の顔を見ながら、コウキは静かに続ける。
「……昔話は苦手だから、ちょっと長くなるけどいいっすか」
「今更ね。時間はあるわ、話してちょうだい」
迷いのない名嶋の声に背中を押される。頭ごなしに否定してこない態度に幾ばくかの安堵を覚え、コウキはぬるくなったコーヒーを一息に呷った。
「確かに、クラージマンになってからしばらくは本気で悪魔をただの精神疾患だとしか思ってなかったんすよ。悪魔憑きってのもほとんどが何かしらの問題を抱えている奴らだったから、なおさら」
そこで一度言葉を切り、意識の底に埋もれた記憶を拾い上げるように目を閉じる。一息吐いて彼の口から語られた過去の経験に、名嶋は息を呑むしかなかった。
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