41. 「自信ないのか」
いつの間にか雨は止み、辺りにはむせ返るような緑の匂いが立ち込めていた。ポケットからいつもの銘柄を取り出して一本咥える。儀式が終わった後に煙草を吸うのが、コウキなりの決まり事だった。今回もそれは変わらず、火を付けた煙草から胸いっぱいに煙を吸い込む。疲れと煙を吐き出して、コウキは静かに目を閉じた。
「お疲れ様」
「おう、お疲れ」
コウキに声を掛けたのは古海だった。いつぞやと同じようにキャンプ用のランプを手にしながら、彼はコウキの横にそっと腰かける。受動喫煙を気にしていないのか、古海は煙草を吸い続けるコウキの傍らで壁に凭れ掛かった。吐き出した大きなため息は僅かに震えている。コウキは目を閉じたまま、古海に問いかけた。
「どうだった?」
「しんどかった……」
「初めてなんてそんなもんだ」
「改めて実感したよ……クラージマンの仕事って大変なんだね」
たはは、とおどけたように笑っているが、古海の顔色は優れない。疲労が全面に出ている表情に、コウキは自分の煙草を一本差し出した。
「吸うか?」
「遠慮しとく。吸ったら癖になりそう」
眼鏡を外し、古海はそのレンズを懐から取り出したクリーナーで拭った。付着した埃を満足できるまで取り除いた古海は、またその眼鏡をかける。
「……儀式の間は、無我夢中だった」
ぽつり。漏らされた古海の声に、コウキは返事をしない。ただ彼の気の済むまで話させようという心持ちだ。その意図をくみ取ったのか、はたまた言葉が止まらないのか、古海は喋り続ける。
「最初は、健斗くんを助けなきゃって思いだったんだよ。境遇に同情したって言ってしまえばそれまでだけど、それでもやっぱりオレは彼のために儀式を頑張ろうって思った。悪魔の名前だって、対峙した時には何となく察しがついてたんだ」
古海は、自分の膝に顔を埋めて呟いた。握り締められたカソック服の布地がわずかに軋みをあげる。皴が寄るのも構わず、古海は手を緩めることなく膝を抱える腕に力を込めた。
「健斗くんのお母さん……いや、イザベルと向き合った瞬間、オレ一瞬本気でビビったんだ。オレなんかがちゃんと悪魔を祓えるのか、健斗くんを助けられるのか……そもそも、オレって胸張ってクラージマンを名乗れるのか……ってさ」
その言葉に返事はない。コウキはただ湿気た夜の空気に向けて煙を溶かすだけだ。煙草の先端が燃える音を掻き消すような鈴虫の音だけが辺りに充満している。訪れた静寂を破ったのはコウキだった。
「自信ないのか」
その言葉に、古海は緩く首を振った。俯いているためコウキから表情は見えないが、その声色からは悔しさが滲み出ている。儀式は無事に終了したはずなのに、古海はすっかり意気消沈していた。顔に似合わず完璧主義者なのか、とコウキは胸中で独り言ちた。
「そんなもの、ないよ。別にオレ、心から神様を信仰してるわけでもないし。オレの個人的な事情と……あとは、杏奈さんの近くに少しでもいられたらな、っていう下心」
「別にいいんじゃね? 「It is impossible to love and to be wise」って言うしな」
「フランシス・ベーコン?」
「知ってんのか」
両眉を上げてコウキが呟く。古海はようやく顔をあげて小さく微笑んだ。
「恋をして、同時に賢くあることは不可能である……だったっけ? 慰めにしてはちょっと辛辣だけど、コウキくんらしいや」
「どういう意味だおいコラ」
「ははっ」
楽しそうに笑う古海に顔をしかめながら、コウキは吸い殻を地面に落とす。モンクストラップの底で火をもみ消して、新しい煙草にまた火を付けた。
「その調子じゃ、大丈夫そうだな」
「心配かけてごめんね。ちょっと不安になっただけだから、もう平気」
「そーかよ」
不貞腐れたように唇を尖らせて、唸り声にも似た音を絞り出す。それが怒りではなく、ただの不機嫌だと分かっているからこそ、古海は笑いを堪えることができなかった。ひとしきり笑った後、古海は腰を上げて大きく背伸びをする。その表情は、前向きな明るさに満ちていた。
「オレ、これからも頑張るよ」
「何か既視感感じるなその言葉……この前の儀式の後もそんなこと言ってなかったか? ま、その調子ならいつかシスターも振り向いてくれんだろ」
「思ってもないくせに」
「バレたか」
古海とコウキは顔を見合わせ、やがて二人とも揃って噴出した。
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