40. 「しっかりしろよ」
光が収束し、ようやく辺りの様子が視認できるようになる。
「げほっ、うっ、げぇ」
「母さん! 母さん、大丈夫? 母さん!」
咳き込む荒木に駆け寄った田代が、彼女の背をさすって懸命に介抱していた。すぐさま名嶋が黒いビニール袋を持って向かう。荒木を包んでいた異様な雰囲気は既に掻き消え、そこにいるのはただ苦しそうに嗚咽を漏らす一人の女性だ。コウキは儀式が完全に終わったことを悟って、周りに聞こえないよう小さく息をついた。
「やった……や、やりましたね、和輝さん」
狼狽えながらも、似内が古海に向き直る。
当の本人である古海は、膝から崩れてその場に座り込んでしまった。
「和輝さん!」
「あ、あはは……腰抜けちゃった……」
情けなく震えた声で乾いた笑い声をこぼす。主体となって儀式を取り仕切っていた古海にも、儀式を受けていた荒木も、そして儀式中に駆け込んできた田代にも外傷はない。コウキはそれを確かめてから安堵のため息を吐いた。
「しっかりしろよ、クラージマン。そんなんじゃこの先やっていけねーぞ」
「ほんと、コウキくんってすごいよね……こんなの毎回やってたら心臓破裂しちゃうよ……」
差し出されたコウキの手を取って、古海がゆっくりと立ち上がる。まだ膝が笑っていたが、何とか古海は自分の足だけで立ち上がった。
「コウキさん、母さん大丈夫なの? 本当にこれで成功なの?」
縋るようにコウキを見つめる田代は、母の身を案じてそう問うた。彼の瞳には不安と焦燥がない交ぜになっている。コウキは軽く肩を竦めた。
「まーったく問題なし」
「悪魔が去った後はあぁいう風になるんだ。心配いらないよ、健斗くん」
足元がおぼつかないままで古海がそう言った。優しい言葉を掛けてはいるが、まだその足元はおぼつかない。あまりにもちぐはぐな古海の様子に、ようやく田代の緊張が解けたのか少年は瞳を潤ませながらもわずかに笑った。
「大事をとって今日はここのゲストルームに泊まってもらうわ。田代くん、あなたはどうするの? お宅にはおばあさんがいるから一人になることはないと思うけど」
放心状態の荒木に肩を貸しながら、名嶋が口を開いた。荒木は心ここにあらずと言った様子で、ぼんやりと宙を見つめている。目は開いているが意識して眼前の景色を見ているわけではないのだろう。似内が吐瀉物の入ったビニール袋を処理している姿は視界に入っているはずだが、それに対して全く反応がない。
「……今日は、母さんと一緒にいます」
「……そう。分かったわ。じゃあ案内するから一緒にいらっしゃい」
「はい……」
大人になり切れていないこの少年の心は、きっと不安でいっぱいなのだ。虐待を受けていたとはいえ、たった一人の家族である母親の尋常ではない状態を目の当たりにした。それは、とても彼一人では受け止めきれない現実だ。
だが、九重教会で儀式を見ていたのは彼一人ではない。
おもむろに、田代の下にコウキが歩み寄った。そして、そのまま彼の背中に大きく振りかぶって平手打ちを見舞う。
「いっ……!」
「シャキッとしろ、シャキッと。大丈夫だっつってんだろ」
当然力加減はしたが、突然の殴打は田代を飛び上がらせた。驚いて咄嗟に振り返った田代は、コウキの表情が柔らかいことに気が付いた。大丈夫だ、と言い切るその姿は、普段の適当極まりない態度からは考えられないほど神父然としてる。
「何かあったらすぐ近くの教会に駆け込めばいい。千葉からはちょっと遠いけど九重教会なら事情も知ってるし心配ないだろ」
「コウキさん……」
「とりあえず今日は寝ろ。お前の母親も寝たら戻る。俺が保証してやる」
背中を引っ叩いた手をそのまま田代の頭に移して、ぐしゃぐしゃと乱暴に髪の毛をかき混ぜる。じわり、と涙が浮かんだが、田代はそれを隠すように俯いた。小さな音を立てて塩水が地面に落ちている。傷を隠した長袖で目元を拭っているのに気づかないふりをして、コウキはそのまま頭を撫ぜた。そっと背中を押し、聖堂の出口で待っている母親と名嶋の下に誘う。田代は振り向かなかった。
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