39. 「酷え言い草」
古海がその名を口にした途端、荒木に取り憑いている悪魔の表情が変わった。唇をわずかに戦慄かせ、目を見開いている。古海もコウキも、そしてまだ見習いである似内でさえ、彼女が動揺しているのがすぐさま理解できた。
似内が固唾を飲んで聖書を握り締める。窓の外から低く唸るような雷鳴が響いたの、古海が口を開くのはほぼ同時だった。
「当たりだね。さあイザベル、荒木さんから出て行ってもらうよ」
「断る」
「強情にするのは勝手だけど、辛いのは君だ」
十字架を押し当て、古海は鋭い眼光でイザベルを睨みつけた。荒木の中に存在する悪魔も同じように彼を睨むが、古海が怯む様子はない。
「……犬を」
「くうっ……!」
古海の一言で、イザベルの顔に浮かぶ苦痛の色が増した。それに驚いたのは、聖職に明るくない田代だ。自分の母親が今までにない苦しみ方をし始めたことに狼狽した彼は、咄嗟に近くにいた名嶋の服の裾を掴んだ。
「母さん、苦しそう」
「心配しないで。あぁやって苦しんでいるのは彼女の中にいる悪魔であって、身体に実害はないの。驚くかもしれないけど大丈夫だから」
「でも何で急にあんな……」
「荒木サンに憑いてる悪魔……イザベルって言うんだけどな、あいつに関する記述が旧約聖書にある。そのキーワードが犬なんだよ」
もがきながらも出ていく誓いを立てないイザベルを眺めながら、コウキはぼんやりと喋り始めた。緊張感に欠ける姿勢に名嶋が眉をひそめたが、当の本人は全く気にしていないようだった。
「イザベル、またの名をジザベルとも呼ばれるこの悪魔はもともと古代イスラエル王の后だった人物だ。ユダヤに異教を持ち込み、ユダヤ教の預言者を迫害した逸話がある。まあ、その後反乱にあってあっけなく殺されちまうんだがな」
「そう、なんですか」
「おう。城門から突き落とされたイザベルはその遺体を犬に食い尽くされた。頭蓋骨と左の掌以外全部だ。だからイザベルは犬を恐れてる。まぁその「犬」ってのは、異邦人のメタファーって説もあるんだがな。なんにしたって、イザベルは犬畜生同然の存在に嬲り殺された悲劇のお后様ってわけだ」
田代はその凄惨な遺体を想像したのか、顔を青くして俯いた。名嶋が労わるように田代の背中をさする。
「翠川くん。あなたね、デリカシーと常識に欠けるんじゃないの?」
「酷え言い草」
少し肩を竦めるだけで、コウキは悪びれる様子もない。カソック服のポケットに両手を突っ込んでコウキはモンクストラップの先端で床を軽く打ち付けた。そのまま平然と足を儀式の場に向ける。まるで親しい友人に歩み寄るような気楽さだった。
「こ、コウキさん!」
「ちょっと手伝ってくる。サッカー少年はそこでいい子にしてな」
振り返らずにコウキはひらりと手を振る。カソック服の裾を揺らしながら、彼はその場にそぐわない機嫌のよさで歩みを進める。
「どうしたんですか、翠川神父……」
「ちょっと経過を確認しにな。似内はそのまま押さえてろ。カズ、首尾は?」
コウキに声を掛けられた古海は、荒木から目を離さず口元にだけ苦笑いを浮かべた。口には出さずとも、状況があまり芳しくないのは古海の表情からも明らかだった。コウキはそれを感じ取り、ふむ、と顎に指を当てる。
「名前は割ったんだろ? イザベルって聞こえたぞ」
「そうなんだけど、どうにも誓いの言葉が引き出せなくて。祓うのにまだ時間がかかりそうなんだよ」
十字架を掲げる手を緩めない古海と、その横でじっと自らを見つめるコウキ。二人を睨みつけていた荒木は、突然狂ったように笑い始めた。
「きひっ、あははははははははははははははははははは!」
「……何がおかしい、くそアマ」
険しい眼差しで目の前の悪魔を突き刺すコウキに、荒木の身体を操るイザベルが歪んだ笑みで答えた。
「お前のような若輩が私を祓う? ひひっ、そろそろ腹がよじれそうだ」
「……もしかして、オレのことかな」
「そうだ。見れば分かる。悪魔祓いと名乗りながら、その実一度たりともお前は私たちのような悪魔を祓ったことがないという。お笑い種ではないか」
「おい似内、油断してんじゃねーぞ。もっと腰落として力入れろ」
コウキが放った言葉は、イザベルに対するものではなかった。その矛先を向けられた似内は慌てたように荒木の肩に置いた右手と聖書を持つ左手を強く握る。荒木はひときわ鋭い視線をコウキに向けた。その眼差しを受けてなお、コウキは涼しい顔をしたままだ。
「まだ出ていく気にならないのか? なんで悪魔って奴はどいつもこいつもこう、被虐的なんだか」
「私は誰の命令も聞かない。誰のも、だ」
ポケットからコウキが取り出したのは、自身がローマから持ってきた重たい十字架だった。豪奢な装飾が聖堂の照明を反射して鈍く輝いている。まるで銃口を突きつけるようにクロスを掲げたコウキは、無感動な瞳で荒木を見た。
「お前の言う事なんて知ったこっちゃねーんだよこっちは。俺たちクラージマンがお前に許可してるのは「はい分かりました、出ていきます」って誓いを立てることだけだ」
「お前たちに呪いあれ! 傲慢な神に使われるだけの蒙昧な人間どもが! 死ね! 死ね!」
身を大きく揺すり、荒木は声を張り上げた。その膂力に似内の表情が歪む。彼の額には汗がにじんでいたが、それが熱帯夜のせいではないことは明らかだった。荒木の肩を押さえつけている手が震えていることからもそれが伺える。
「和輝さん……! 翠川神父……!」
「ごめんね誉くん、もうちょっと我慢して」
「離せ! この! 呪ってやる! 殺してやる!」
暴れる荒木を見ながら、名嶋は僅かに目を細めた。こんな様子の母親を、実子である田代に見せ続けていいものなのかと思ったのだ。ちらりと背中越しに少年を見れば、彼は意外にも気丈にふるまっている。顔色は悪いものの、田代はしっかりと目の前に広がる現実を正しく理解しようとしていた。例えそれが自分の母親が髪を振り乱して、叫び暴れるおぞましいものだとしてもだ。
「お前に私は祓えない! 無力だからだ!」
「随分おしゃべりになったな。やっと自分の立場が分かってきたか?」
「黙れ!」
コウキは十字架を荒木に突きつけたまま古海に視線を合わせた。その気配に気が付いた古海は、コウキを一瞥する。コウキは、古海の瞳を見てわずかに両眉を上げた。眼鏡のレンズの向こう側には一対の眼差しが使命感に燃えている。
――……オレにやらせて。手を出さないで。まるでそう言いたげに。
そしてコウキがその手の十字架を下ろした。似内は目を丸くして、コウキと古海を交互に見ている。刺さる視線をものともせず、コウキはそのまま似内の隣に立って荒木の肩を掴んだ。
「気合入れろよ、似内。力込めて押さえとけ」
「あ、あの、翠川神父?」
何か言いたげな似内の下がった眉尻を見て、コウキは言った。暴れる荒木の肩を上から押さえつけながらも、その表情は涼しいままだ。
「……今日のメインはカズの仕事だ。あいつが「代わりにやってくれ」って頼んでないのに俺が手を出すのは、道理が通らない」
「それは……」
「俺の方が経験豊富だから、俺がやればいいのにって思ったろ」
「あっはい、え、分かりますか……?」
「その顔を見りゃな。……人間、誰にでも始まりがある。とにかくやってみなきゃ上達もくそもないってことだ。トライアンドエラーを繰り返さないと成長なんてしない。カズは今、初めてトライをしようとしてんだよ」
古海は目を閉じて、一度深く息を吸い込んだ。酸素を取り入れて落ち着きを取り戻し、思考をクリアにするためだ。ゆっくりと見開かれた瞳に、もう迷いはなかった。
「……主はまた言われた。「犬が、エズレルの地でジザベルを喰らうであろう」と!」
「うぐうぅぅぅううっ!」
声高に叫ばれた聖句によってイザベルの苦痛が増長された。畳みかけるように古海は十字架を振りかざして詰め寄る。
「お前は何処へ帰る!」
「地獄だ!」
「いつ!?」
「うううぅううぅぅう!」
「今! この瞬間に出ていくと誓え!」
「出る! 出ていく!」
「今すぐだ! 復唱しろ!」
「今、すぐだ!」
とうとう口にした誓いの言葉に、イザベルがもがき苦しむ。だが、一度口にしてしまった言葉を仕舞ってなかったことはできない。もはやなりふり構っていられないのか、無理やり立ち上がろうとイザベラは荒木の身体を大きく動かした。腕を振り回し、抵抗の意を示す。だが、似内とコウキが押さえつける力には勝てなかった。
その時。
「母さん!」
「田代くん!?」
名嶋の背後から、田代が飛び出した。迷子の子供が母親を見つけた時のような切実さで伸ばされた手が、荒木に差しだされる。闖入者の声に視線を送ったのは、聖職者たちだけではない。イザベルに取り憑かれた荒木もまた、同じだった。突然飛び出してきた少年の姿に、目を丸くする。
「おかあさん!」
「……けん、と」
一瞬だけその落ち窪んだ目に灯った光を、コウキと古海は見逃さなかった。
「今だ、カズ!」
「さぁイザベル、地獄へ帰る時間だ! 今すぐに、彼女をその呪いから解き放て!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
断末魔にも似た叫び声をあげながら、荒木が仰け反り喉を震わす。ひと際大きな雷が落ち、聖堂は目も眩むような光に包まれた。
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