38. 「なんとでも」

「誉くん、押さえて」

 古海の声が聞こえるや否や、似内は扉から離れ荒木の肩を突き飛ばして手近な椅子に座らせた。そのまま肩に手を掛け、力を込める。年の割に小柄な身体でも、男性の膂力に勝てるわけもない。椅子に押さえつけられた荒木は眼前まで歩み寄ってきた古海を激情のまま睨みつけた。何とか椅子から立ち上がろうともがくが、重心を的確に押さえた似内がそれを許さない。儀式の準備を整えた二人を、コウキは名嶋と田代の横で眺めていた。

「翠川くん、どう思うかしら」

「荒木サンのことか? それともカズ?」

「両方よ」

 声を潜めて名嶋がコウキに問う。彼らの視線の先では、教会が提示する儀式の形を成した対話が今まさに始まろうとしていた。悪魔祓いの儀式を初めて目にする田代は、戸惑いながらも辺りに漂う緊張感を感じ取ったのか黙り込んだままだ。コウキに向けられたこれからどうなるのか、と聞きたげな視線を彼は意図的に無視する

「儀式に絶対はない。どんなに簡単で安全だと言われても、不測の事態が起きれば人が死ぬ可能性もある。今はカズのやりたいようにやらせてやれ」

 コウキの眼差しは真剣そのものだ。いつ「不測の事態」が起きても反応できるように、油断なく荒木と古海の様子を伺っている。

 古海はまず、小瓶に入っている聖油を指先に垂らして荒木の額に小さな十字を描いた。ガタガタと身体を揺さぶりながら荒木は抵抗している。事前のコウキの挑発によって憤りと共に憑いている悪魔が露わになったのか、既にその姿は常軌を逸していた。古海を射殺さんばかりの視線は動かない。

「許さない……! お前が! お前達が健斗を!」

「君は誰だ。荒木さんに憑いている君は一体何者だ」

 古海の問いを受けた途端、突然荒木は身じろぎ一つしなくなった。まるで時間が止まってしまったかのような静止に、彼女の肩を掴んでいる似内も戸惑っている。コウキはただじっとその様子を見つめていた。

「……答えられないのか?」

 古海の呟きに、荒木は笑った。決して耳触りのよくないけたたましい笑い声は、聞く者の胸を不快感でかき乱す。それは肉親である田代も同じだったようで、母親の異常な姿に思わずといった様子で身を竦めた。

 下卑た声で笑いながら、荒木は身体を左右に大きく揺さぶった。肩を掴む似内の手に力がこもる。古海は手の中にある聖書を悠然と捲りながら言った。

「オレは君の名前を知っている。黙るのは自由だけど、その分君が苦しむだけだよ」

「戯言を」

 低くかすれた声で紡がれた言葉は、確かに荒木の口から漏れたものだった。口の動きは言葉と一致していたが、それが成人女性の声帯から発せられたものだとはにわかに信じがたい。古海は僅かに眉を寄せて唇を引き結んだ。その表情に満足したのか、荒木の身体を借りた何かが喋り始める。

「お前程度の魔祓い師に何ができる。力もない、若輩のお前が」

「何が言いたいのかな」

「私には見えているぞ、お前の不安が」

 粘つく視線で古海を刺す荒木は、にやりと口を歪ませた。乱れた髪と落ち窪んだ目が不気味さを一層際立たせている。

「お前は私を恐れている。この女に取り憑いている私を果たして祓うことができるのか、怖くてたまらないのだろう? 怯えろ、悩め。お前のその無様な姿が愉快でならない」

「何、を」

「どうした? 私の名前を知っているんじゃないのか? さぁ言え、言ってみろ」

 愉悦を混ぜ合わせた色で声高に叫ぶ女を前に、古海の表情が強張る。彼の様子を見たコウキがわずかに眉間にしわを寄せた。

「マズいな。あいつ、雰囲気に飲まれてる。相手のペースに持ち込まれたら面倒だぞ」

「ヘルプに行かないの?」

「全部任せるって言っちまったからなぁ……これくらいで手を出すのはちょっと抵抗あるぞ」

「薄情ね」

「なんとでも」

 組んだ腕を解こうともせず、コウキが言う。そんな彼に声を掛けたのは、ずっと黙り込んでいた田代だった。

「コウキさん……これから、母さんはどうなるの?」

「儀式が成功すればお前の母親は普通の精神状態に戻る。虐待もしない、穏やかな母親に」

「戻る……ほんとに?」

「多分、な。儀式を執り行うって決めたからアフターケアも当然こっちで手配するけど……どうなるかはカズ次第だ」

 つい、と指差された先には唇を噛みしめながらも目の前の悪魔憑きを睨みつける古海の姿がある。古海は手に持ったままの聖書をぐい、と荒木に押し付けて言った。「弱気を見せるな」というコウキのアドバイスを脳裏に浮かべながら自身の内面を悟られないように表情を作る。

「悪いけど、オレは悪魔に屈したりしない。この時のために訓練してきたんだ」

 背後で荒木の肩を押さえている似内に聖書を持つよう視線を送れば、彼はその意思を間違いなくくみ取った。古海は逆の手で真新しい輝きを放つ十字架を握り締め、それをさながら銃口のように荒木の目の前に突きつける。聖具の存在が苦痛なのか、荒木の顔が歪んだ。

「お前に名を問う」

「はいそうですか、と言うとでも?」

「主の御名において命ずる。お前の名を明かせ」

「ぐぅう……!」

「誉くん、付箋のところ読んで」

 もがき苦しむ荒木を前に、冷静さを取り戻した古海が似内へと指示を飛ばす。似内は慌てながらも手渡された聖書を広げて中身を読み上げ始めた。

「は、はい……! “ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガラリヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の影に住んでいる人々に、光が登った――”」

 所々で詰まりながらも、似内は声を張り上げて読み上げ続ける。身体を大きく左右に揺らして唸る荒木は明らかに様子がおかしい。コウキは感心したように小さく息を吐いた。

「ほーう、マタイによる福音書か。面白いチョイスだな」

「あなただったら何を読むかしら」

「そもそも読まない。聖書に頼るより十字架突きつけて名前を聞き出した方が早いし」

「……あっそ」

 呆れたように肩を落とした名嶋は、その背で田代を守るように立ちながら儀式の様子を見ていた。風もないのにウィンプルの裾が揺れているのは、彼女の動揺が身体に現れているからだろうか。

「主の御名に置いてもう一度問う。お前の名前はなんだ」

「当ててみろ! 当ててみせろ人間!」

「お前がそれを望むなら。荒木さんに憑いているお前は、お前の名前はイザベル。死して尚魂の解放されないイスラエルの非業の王妃だ」

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