35. 「ただの知人です」

 ガチャン、と音を立ててコウキの目の前にコーヒーが入ったカップが置かれた。些か乱暴な荒木の態度にも顔色一つ変えず、コウキはにっこりと笑った。

「ありがとうございます」

 その言葉に返事はない。荒木はコウキの正面に座ると、頭を掻きむしりながらか細い声で何かを呟いている。コウキの耳は、確かにその言葉を拾っていた。

「どうしてよぉ……何で私がこんな目に合わなくちゃいけないの……私が何したって言うのよ……」

 乱れた長髪が顔を覆い隠しているため、表情を伺うことはできない。コウキは出されたコーヒーに遠慮なく口をつけた。少し濃い麦茶と錯覚するほど薄い、インスタントの味わいだった。

「……今回わたくしがこちらを訪問したのは、ただそちらの様子をお伺いしたかっただけだということをまずお話させていただきます」

「様子を伺う? 何よそれ、まるで私が本当に健斗に酷い事してるみたいじゃない。それに精神調査だなんて……私が精神異常者だとでも言いたいの? 最低ね」

「誤解があるようなので訂正させていただきますと、わたくし共IPRMAは精神異常者を炙り出す組織ではありません。ただその実態を調査し、あらゆる研究を行うための集まりだとご理解ください」

「知らないわよそんなこと。とにかく、うちには何も異常なんてありません。調査されるような謂れなんてないわ」

「では、健斗くんが現在負っている怪我について何か心当たりはございませんか?」

「……何であんたがそんなこと知ってるのよ。あんた、健斗の何なの? 何なの?」

「ただの知人です。怪我について、心当たりは?」

「私を疑ってるの? 虐待とか変な噂が流れてるから? そんな原因なんて知りっこないわよ」

「そうですか。では、こちらの診断書を見ても何か思い当たることはありませんか?」

 コウキが書類鞄から取り出したのは、以前ボロボロになって教会に来た田代の診断書だ。彼から話を聞いた後、コウキが半ば無理やり病院に連れて行って取らせたものだった。治りかけの腹部の痣から足に付けられた切り傷まで、怪我について事細かに書かれている。テーブルに出された診断書を手に取った荒木は、その内容に目を通した瞬間突然立ち上がった。

「あんたねぇ! さっきから何が言いたいのよ! こんなものまで用意して、私と健斗を引き離したいの!? もしかして、児相の人間? そうやってどいつもこいつも私と健斗の邪魔をして……!」

「落ち着いてください。わたくしがお聞きしたいのはあくまでこの怪我についてです。心当たりがないのなら立派な傷害事件になりますので、被害届を提出することを強くお勧めしたいのですが」

「私のはただの躾よ! あの子がいつまでも外をフラフラほっつき歩くからちょっと灸を据えただけじゃない!」

 言ってから荒木は我に返ったのか、疲れたようなため息を吐いて椅子に腰かけた。苛立ちを押さえられないのか指のささくれを一心不乱に剥いているその姿は、コウキがクラージマンでなくとも正常には見えないものだった。

 コウキはテーブルの上で指を組んだ。その上に顎を乗せ、崩れない笑みを浮かべながら冷たい声色で言う。

「間違いなくお前には悪魔が憑いてる」

「は……?」

「もうカウンセリングなんかじゃどうしようもない。だから俺が来た。目を見りゃわかるんだよ」

 突如纏う雰囲気が変わったコウキを、荒木は怒りと怯えが入り混じった目で見つめた。そんな荒木の様子など気にも留めずに、コウキは話し続ける。

「もう話しても大丈夫そうだな……営業用の俺はここまでだ。ここからはIPRMAじゃなくて俺個人から話をさせてもらう」

「な、なによ、あんた……」

「名刺にもあった通りだよ、荒木友里恵サン……あー、疲れた。おいサッカー少年、そこにいるんだろ? 出て来いよ。お前にも話があるからな」

 振り返りもせずネクタイを緩めながら、コウキは背後の扉に声を掛ける。暫しの沈黙の後、静かに扉を開けたのはジャージ姿の田代だった。

「健斗……! あなた、勝手に部屋から出てきたの!? 出ちゃダメって言ったでしょ!?」

「ご、ごめんなさい……でも、コウキさんが来てたから気になっちゃって……」

「あなたって子は……!」

「ストップ。俺の前でそいつ殴る気か?」

 激昂する荒木をコウキが言葉で制した。コウキは視線で自分の隣に座るよう田代に指示する。全員が席に着いたのを確認してから、コウキは言った。

「いやぁ悪いね、荒木サン。別に騙してるわけじゃないんだけど、俺が所属してる組織の本当の名前は正教会なんだ」

「教会……?」

 ただオウム返しに同じ言葉を繰り返す母親に、田代が声を掛ける。

「母さん、この人は神父なんだよ。九重町に教会があるの、おばあちゃんから聞いたでしょ」

「神父が、どうしてうちに来るのよ……」

「神父って言っても、ただお祈りして信者の懺悔を聞くだけのお飾りじゃない。俺は悪魔に取り憑かれた人間を救うクラージマンって役職だ」

 言葉を失う荒木にコウキは畳みかける。

「到底信じられないかもしれないが、教会が取り仕切る儀式を受ければすぐに分かる。騙されたと思ってくれていい、一度だけでもいいから九重教会に来てほしい。荒木サンだって、今の自分が何かおかしいことくらい気が付いてるだろう」

「何をっ、何を根拠に!」

 握りしめた拳は怒りで震えている。爪が掌に食い込む音さえ聞こえてきそうな荒木の異様さに、コウキの隣に座っていた田代が小さく身を竦ませた。そんな田代の頭に、コウキは優しく手を置いた。驚いてコウキを見る田代に、コウキは先ほどと同じような茶目っ気を含ませたウィンクを送る。

「何でよぉ……何でみんなそうやって私を追い詰めるの……もう邪魔しないで……」

「俺には、今の荒木サンがこいつを守れるとは思えない。強情張るのはいいが、いつまでも傷つくのは息子だってことを忘れんなよ」

「あなたに何が分かるのよ!」

「分かるさ。これまで何回あんたみたいな奴を相手してきたと思ってるんだ」

 静かな声には、どこか諦観にも似た感情が滲んでいる。コウキはそのままゆっくりと立ち上がり、書類鞄を抱えた。ジャケットの襟を正しながらコウキは荒木を見て言う。

「俺は帰る。もしあんたの中にまだ少しでも「変わりたい」って思いがあるなら、九重教会に連絡してくれ。待ってるから」

「コウキさん……あの」

「お前も気軽に遊びに来いよな、教会。カズもまたサッカーするの楽しみにしてるから」

 くしゃりと田代の髪をかき混ぜる。痛んだ短い金髪が蛍光灯の光を反射してわずかに煌めいた。置いていかないでくれ、と不安で揺れる瞳で訴えかける少年にコウキはただ静かに笑った。

「何とかしてやるから、大丈夫。俺らを信じろ」

 そう言い残し、コウキは荒木に一度頭を下げると部屋から出て行った。背後から響き渡る母親の絶叫は聞こえないふりをして玄関で革靴をつっかける。扉を開けて、コウキはため息と共に独り言を吐き出した。

「雨降り出してるじゃねーか……」

 出掛けに持たされたこうもり傘を広げて、水たまりができ始めているコンクリートに足を踏み出した。

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