32. 「俺は何もしない」

 翌日。休日ということもあり、朝食の席には似内の姿もあった。茶碗に白米をよそいながら、名嶋は珍しく朝食の場に現れたコウキを怪訝な顔で見つめている。コウキは朝食は要らない、と言いながらコーヒーを啜っていた。古海の席は未だ空席で、礼拝が終わった後から部屋にこもったままだ。ニュースを眺めながらぼんやりとマグカップを覗き込んでいるコウキに声を掛けたのは似内だった。

「み、翠川神父、珍しいですね……朝の礼拝にもいらしてましたよね?」

「見てただけだけどな」

「それが珍しいのよ。どういう風の吹きまわし? ちゃんと神を信じる気になったの?」

「まさか。朝飯なら人が集まると思って来ただけっすよ。作戦会議したかったし」

 緩んだ表情でずず、と行儀悪く音を立てるコウキに名嶋と似内は顔を見合わせた。

「作戦会議って……田代くんのことかしら」

「あ、前に夕飯でお話ししてた方ですね……何か進展があったんですか?」

「おう。今回の悪魔祓いの対象は恐らくあいつの母親になるからな。カウンセリングじゃ時間がかかりすぎてらちが明かない」

「田代くんのお母様が儀式を受けるなら教会に呼ぶのが早いわね。私も気になって調べたんだけど、田代くんのお母様は今旧姓で名乗っているみたい。荒木さんって言うんだけど、おばあさんとは面識があったわ」

「荒木さん……あ、いつも果物くれるおばあさんですよね……」

「そう。世間体を気にしているのか分からないけれど、荒木さんは自分の娘が離婚して帰省してるのを周りに知られたくないみたいなの。でも、人の口には戸が立てられないわね。「荒木さんの娘は出戻りだ」って噂になってた」

「でも、離婚したなら「田代」なんて名乗ってるのはおかしくないですか……? そのお母さんと暮らしてるなら、田代さんは、本当は荒木さんで、じゃあ荒木さんは……うぅん、こんがらがってきた」

 こめかみを押さえながら似内が呟く。コーヒーの湯気を見つめながらコウキは口をつぐんで考え込んだ。

「もしかしたら、まだ健斗くんの中で整理がついてないのかもしれないよ」

「カズ。遅かったな」

「ちょっと一人で考える時間が欲しかったからね。あ、朝食は自分でやるからいいよ杏奈さん」

 談話室に足を踏み入れたのは古海だった。室内用のセルフレーム眼鏡をかけ、大きな欠伸を隠そうともしない。着ているTシャツも普段の奇抜なものではなく、何も書かれていない無地の白いものだ。覚束ない足取りのまま朝食の用意をしに厨房に向かう古海を見て、似内が言った。

「和輝さんが眠そうなのって珍しいですね……いつもはどんな時でもけろっとしてるのに」

「確かに、あんまり見ない姿ね。古海くん、昨日は夜遅かったの?」

「まぁ……資料まとめるのに手間取っちゃって。難しいし細かいしで大変だったんだけど、何か楽しくなっちゃって手が止まらなかったんだよね」

 手の甲で擦る目元にはうっすらと隈が浮かんでいる。表情は笑ってはいるものの、体調が優れていないのは明らかだ。コウキは揺らぐ湯気越しに古海を見るが、声を掛けることはなかった。

 木製の盆に朝食を乗せて談話室に戻ってきた古海は、自分の席に着くと味噌汁の椀を手にして一口含む。

「あー……美味しい……」

「それはよかったわ。古海くんが作り置きしてた出汁を勝手に使っちゃったけど大丈夫だったかしら」

「あ、それは平気。今回は昆布とカツオだったんだけどもう一煮立ちさせればよかったかな」

「本当に和輝さんって料理上手ですよね……あ、これお茶です」

「ありがと誉くん」

 和やかに会話を続ける三人を見ながら、コウキは手にしていたマグカップをテーブルに置いた。

「全員揃ったな」

 その真剣な声色に、緩んでいた三人の雰囲気が引き締まる。各々が席に着き、コウキは一つ息を吐いて話し始めた。

「カズはそのまま飯食いながら話聞いてくれ」

 古海は了解、と意思表示するようにサムズアップする。茶碗に盛られた白米に箸を突っ込む古海を見ながら、コウキが言った。

「今回の儀式は田代母、もとい荒木サンが対象だ。儀式を取り仕切るメイン役にカズを、サポートにはこの前と同じく似内を据える。シスターには場所の手配と対象の案内を頼みたい」

「それは別に構わないけど……」

「あの、翠川神父は何をするんですか……? もしかして、和輝さんと翠川神父でダブルメインとかそういう……」

「俺? 俺は何もしない。横で見てる。強いて言うならそうだな……アドバイザー?」

 その言葉に、名嶋と似内は目を瞬かせた。古海はさして驚いた様子もなく、ただ味噌汁を啜っている。我に返った似内が慌てて言った。

「え、いや、だって、あの、翠川神父は経験豊富だし、アドバイスとかよりも自分で取り仕切った方が……ああっ! いや! 別に和輝さんが仕事出来ないとかそういうあれじゃないですよ! すいません! ごめんなさい!」

「ん……あぁ、別に大丈夫。クラージマンの仕事に不安があるのはオレが一番分かってるから。この前コウキくんが「メインはお前がやれ」って言った時から何となくそんな気はしてたんだよね」

 音を立ててたくわんをかみ砕き、古海は押し黙ってしまった。普段の明るい表情や矢継ぎ早に繰り出される言葉の数々はなりを潜め、淡々と箸を動かしている。そんな古海を見て、疑問を口に出したのは名嶋だった。

「古海くん、元気ないけどどうしたのかしら。寝不足?」

「まぁ、そんなところかな。メイン張るのは初めてだし色々考えるところがあって……はは、まぁみんなに迷惑は掛からないよう頑張るから気にしないで」

「今は好きなだけ考えればいいだろ。その代わり儀式の前日はちゃんと寝とけよな。後からしんどい思いするのはお前だから」

「ベテランは言うことが違うねぇ」

 インスタントの粉末を溶かしただけの緑茶を一口含み、古海は気の抜けた笑みを浮かべる。

「それで、田代さん……あ、いや、荒木さん? の儀式はその、どれくらい難しいんですか……?」

「難易度はそうだな……悪魔祓い自体は複雑な手順を踏まなくても大丈夫だろうが何より暴力が怖いからサポートがうまく動けば大したことないだろ」

「そ、それ僕の責任重大じゃないですかっ」

「そうだなぁ。お前がとちったら怪我するのはカズもだから心しておけよ」

 わなわなと震えながら焦りを全身で表現する似内に、他の三人は顔を見合わせて噴出した。それがさらに焦りを増長させたのか、アッシュグレーの重たい髪に隠された顔を真っ赤にしながら懸命に訴える。

「わ、笑い事じゃないですよぉ……僕にそんな大役なんて……」

「大丈夫よ、似内くん。前回の経験を活かせばきっとうまくいくわ」

「そうそう。オレも誉くんのことは信頼してるからさ」

「そんなぁ……」

「俺はどこぞのクソ司祭と違って無理な人選をしない。なんかあったら俺も出るから心配するな」

 柔らかく笑みをこぼしながらコウキがマグカップを手に取る。中に入っていたコーヒーは既にぬるくなっており、コウキは残りを一気に呷った。

「俺は日本人嫌いだけど、お前らは人となりを知ってるから信じてる。もしも失敗して大惨事になりそうなら俺が責任持つから、遠慮せず自分たちのやり方で儀式を遂行してくれ」

「こ、コウキさんかっこいい……!」

「あはは、ほんとにね」

「知り合いの受け売りだけどな。さて、コーヒーも飲み終わったし俺ちょっと一服してくる」

「そのカップ貸して。洗っておくわ」

「あんがとさん」

 ゆっくりと椅子から腰を上げ、コウキは名嶋に空になったマグカップを手渡す。ぐ、と伸びをしてから大きな欠伸をして出口に向かう。古海は静かに、窓の外を見た。鈍色の雲が分厚く空を覆い、気持ちまで沈ませるようだ。テーブルに名嶋が置いたであろう新聞の天気一覧を見て、誰に聞かれることもなく小さく呟いた。

「台風、か……」

 そこに書かれていたのは、勢力の強い台風が北添を通過するという予報だった。

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