13. 「殺せたと思ったか?」

「なっ……! 十字架が……!」

「嫌になるわほんと……予備は?」

「あれば良かったんだけどね……っ」

 焦りが伺える古海の返答に、コウキは小さく舌打ちを漏らした。戒めの十字架が消え、ゆらりとちえが立ち上がる。慌ててコウキは叫んだ。

「古海! 似内! 押さえろ!」

「がぁっ!」

 コウキに襲い掛からんとするちえを、今度こそ二人は背後から捕まえた。ちえの腰を抱きかかえるようにして押さえている似内は小さく「ごめんなさい、ごめんなさい……!」と唱えている。前回と同じようにちえを羽交い絞めにしている古海は、彼女の力の強さに目を見開いた。

 その様子に、コウキは僅かな焦燥を露わにした。このままでは二人ともすぐに振り払われるのがオチだ。コウキは辺りを見渡し、代替品として使える何かを必死に視線で探す。

「あ」

 そして、彼の視線は一所に止まった。少し離れた場所から動揺の眼差しを向けているシスター、名嶋だ。

「シスター! そのロザリオ!」

「はっ、はぁ?」

 コウキが見たのは彼女がいつも首から下げているロザリオだった。この瞬間も、名嶋はロザリオを大事そうに手で包んでいる。

「ここで一番使えそうなのはそれだ! いいから!」

 手を伸ばしてコウキが声を張った。名嶋はそれを見ながらも、まだ躊躇している。それほどまでに、彼女にとってロザリオは手放しがたいものなのだ。

「コウキくん……! こっち割と限界!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

 男二人掛かりでも、今のちえを取り押さえるのは至難の業だ。女子供が尋常ではない怪力を発揮するのは悪魔祓いをしていればよく見る光景だが、十字架が折れた今はあまりに間が悪い。

「チッ……名嶋杏奈! 秋原ちえを救いたきゃ寄こせ! それしか方法がねえんだよ今は!」

 その声に、名嶋の表情がハッと変わる。覚悟したように、名嶋はそっとロザリオを外して自身の掌に乗せた。それを差し出そうと、コウキに手を伸ばす。

「あぁあああ!」

「コウキくん!」

 古海と似内の拘束から抜け出したちえが、今度こそコウキに飛びかかった。その手には折れた十字架が鋭い切っ先を向けて握られている。

「あ、やべっ」

「翠川くん……!」

 名嶋が手を伸ばすが、それよりちえとコウキが衝突する方がほんの数瞬だけ早かった。

 鈍い音が、ちえと衝突したコウキから響く。

「うっ……!」

「っ、誉くん、引きはがすよ!」

「はい!」

 即座に古海が動き、似内を先導する。二人はちえの身体を拘束しようとしたが、先程まで暴れていたちえの身体はすっかり弛緩していた。ただ、その目だけは爛々と輝きコウキを見つめている。

 ちえという支えを失ったコウキは、呻き声を漏らし床に膝から崩れ落ちた。辛うじて膝をつき倒れはしなかったが、その胸からは十字架の半分が生えている。コウキはそれを抜こうと、ぐっと握った手に力を込めた。

「み、翠川くんダメよ……! 無理に抜いたら……!」

 名嶋が駆け寄り、コウキの背を支えながら言う。彼女の声はすっかり震えていたが、それでも目の前の現実を受け入れようと必死になっていた。

「と、とにかく救急車……!」

「いらないっすよ、そんなの……」

 コウキがのろのろと立ち上がり、胸から突き出た十字架の残骸を勢いよく引き抜いた。名嶋は咄嗟に目を逸らし、出てくるであろう血飛沫を見ないようにした。だが、そこから出てくるはずの鉄臭い液体はない。

「……あれ、血は……」

「あーあー、服に穴開いちまったじゃねえか。これ弁償しろって言われたらどうすんだよ」

 コウキは、懐から一冊の本を取り出した。それは儀式が始まる前に彼がしまい込んでいた聖書だ。表紙から中程まで穴が開いているが、貫通している様子はない。

「殺せたと思ったか?」

 挑発するように、コウキがちえを見てにやりと笑みを浮かべた。対するちえは、嬉しそうに煌めかせていた瞳を怒りに燃やしている。

「それ、借ります」

「えっ、あ……」

 名嶋が掌に乗せていたロザリオを、コウキがそっと受け取る。不安げに瞳を揺らしてコウキを見る名嶋に、彼は小さく笑った。

「そんな顔しなくても、ちゃんと返すから心配しないでいいっすよ」

 そのままコウキはまっすぐちえに近付く。未遂とはいえ刺されたとは思えないほどにその足取りはしっかりしていた。ロザリオを掲げ、十字の飾りをちえの額に押し付ける。

「手間掛けさせやがって全く……オラしっかり立て。俺の質問に答えろ」

「ああぁああ! ぐうぅ……!」

「サタンとか言ったな。お前この女にどうやって取り憑いた」

「ぐっ、ふ、あはははは! あはははははは!」

「主の御名において答えろっつってんだろ」

 コウキは穴の開いた聖書を、まるで刃物を突き付けるようにちえの喉元に近付けた。ちえを睨みつけるその目は剣呑な光を帯びている。

「痛いのは嫌だろ? なぁ?」

「ぐぅう! ……願いを聞いた!」

「願いだぁ?」

「そうだ! 自分の周りに立ち込める害悪を払いのけるだけの力を寄こせと! その女は!」

 その願いに心当たりがあったのか、名嶋が瞠目した。ちらりと名嶋のリアクションを確認したコウキは、十字架を押し付ける手を緩めずに言い放った。

「んじゃお前はこの子の心の弱みに付け込んで取り憑いたってことだな」

「この女が願った! 私に害成す者は全て殺す!」

「……話にならねえ。悪いけど秋原ちえは渡さねえよ。クラージマンってのはそういう仕事だからな」

 コウキはさらにちえに近付き、囁いた。

「彼女から出ていくと誓え。今ここでだ」

「うぐぅう……!」

「言えない? 痛いのが好きか?」

 どこまでも高圧的で、コウキは自分が有利になるようことを進めている。そんな彼を、似内は羨望とも恐怖とも似つかない眼差しで見つめた。現場の最前線で戦うクラージマンの姿は、まだ本資格を得ていない似内にとってあまりに衝撃的だった。

「あがあぁああ!」

「言ったら楽になるぞー。ほれほれ」

「ぐうううう……!」

「根性あるなぁ。俺疲れちゃうんだけど」

「これ、大丈夫なのコウキくん!」

「心配すんな古海。今晩中には終わらせてやる」

 舌なめずりをしながら、コウキが笑う。古海の心配など気にも留めず、コウキはただちえを見つめた。

「殺す! 神の手先など皆殺しだ! 呪い殺してやる! 殺す!」

「生憎だけどそういうセリフはこちとら聞き慣れてんだよ」

「貴様だけは許さない……! 絶対に殺してやる……!」

「自分から誓いの言葉が言えないなら俺が言わせてやる。復唱しろ」

「誰が……誰がお前など……!」

「主の御名において、復唱しろ」

 鋭く言い放つコウキの目は冷徹だ。そこにはちえの身体に対する同情も慈悲も感じられない。

「「私はこの女の呪いを解き」、繰り返せ」

「いぃいいいやだぁああ」

「繰り返せ。お前に選択肢はない」

「うぐうううう」

 尚も抵抗を続けるちえに、コウキは穴の開いた聖書を翳した。苦痛が増したのか、ちえの顔が歪む。

「もう痛いのは嫌だろ? さっさと出て行った方が楽だぞ?」

「あああぁああ! 私は! この女の! 呪いを解き!」

「……いい子だ」

 コウキはにやりと笑みを浮かべた。

「続けろ。「過去と、現在と、未来の呪いを解く」」

「過去と! 現在と、未来の呪いを! 解く!」

「「私は今すぐ、この少女から出ていく」」

「あぁああああ! 私は今すぐ! この少女から! 出ていく!」

「言ったな? 出ていけ、カウントダウンだ! 三、二、一!」

「がああぁぁあああぁああ……!」

 ちえの身体が強張り、白い喉を仰け反らせて絶叫を上げる。少女の苦痛の叫びが、聖堂中に響き渡った。

 次の瞬間。

「ぐっ、げほっ、ごほっ、うぇ……っ!」

「おい似内! ゴミ箱持ってこい!」

 しゃがみこみ、激しく咳き込み始めたちえを支えながらコウキが指示を飛ばす。鋭い声に肩を竦ませながら、似内は慌てて一番近いゴミ箱を取りに行った。

「吐け、吐いてスッキリしろ」

 ちえの背中をさすりながら、コウキが優し気な声色で言う。ちえは涙を浮かべながら、何度も咳き込んでいる。

「うぅえっ、げほっ」

「ゴミ箱持ってきました!」

「でかした! こっちだ!」

 コウキはすかさず似内が運んできたゴミ箱をちえに差し出した。途端、彼女はゴミ箱に顔を埋めて大きく嘔吐く。

「げぇっ! げほっ、うえぇ……!」

「……シスター、ここ任せていいか? 全部吐いたら水飲ませて休ませてくれ」

「え、えぇ……」

 背後から心配そうにちえを覗き込んでいた名嶋に、コウキは自身の場所を譲った。すれ違いざまに、彼女に借り受けたロザリオをそっと握らせる。名嶋は何か言いたげにコウキを見たが、コウキが視線を合わせることはなかった。

 そのままゴミ箱に吐瀉物を散らすちえから離れ、聖堂から出ていこうとする。

「どこ行くの、コウキくん」

 首を鳴らしながら歩いていくコウキの背中に、古海が声を掛けた。コウキは振り返ることもせず、ポケットから煙草のパッケージを取り出して見せる。

「一服」

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