12. 「お前は、誰だ」

 ちえを椅子に座らせ、コウキはその前に従者のように跪いた。その手には、聖油の瓶が握られている。器用に片手で蓋をあけながら、コウキは簡単に中身の説明を始める。

「これ、クラージマンに配られる聖油。聖なる油って書いて聖油ね。こういう儀式に使うために特別扱いされてる油。君の中にいる悪魔みたいなモノに対してはすげー武器になるんだよ。こいつで悪魔をまず炙り出す」

「へぇ……」

「怖くないから安心して。はーいおでこ借りるよー」

 コウキはかき上げたちえの前髪の下に、聖油を付着させた指先で小さく十字を描いた。ちえは固く目を瞑り、額に塗り付けられた冷たい感覚を我慢している。

「……さて。いくらでも時間はある。リラックスして」

「ちょ、ちょっと翠川くん。これで本当に大丈夫なの?」

 心配そうに声を掛けてくるのは、この中でも一番ちえと親交の深い名嶋だ。目を閉じたまま俯いているちえに何の変化も見られないことが、名嶋の不安を煽ったらしい。だが、コウキは平然とした表情を崩さなかった。

「全然大丈夫っす。むしろ今回は相当スムーズなんじゃねーかな」

「それってどういう……」

 ことなの、と名嶋が言おうとした瞬間、ちえの様子に異変が現れた。わずかだが、左右に身体が揺れている。よく聞けば微かな唸り声も響いていた。

「ううぅ………うー……」

「コウキくん、これって」

「古海と似内はちえちゃんの横立ってろ。暴れたらすぐ押さえろよ」

 指示を飛ばし、コウキはちえの肩を掴む。力加減を考えないそれは、俯いたちえの頭を大きく揺らした。その間に、古海と似内はちえの両脇に立つ。ちえは、コウキに肩を掴まれたことに気が付いていないのかまだ身体を揺らし続けていた。

「うー……ぐ……」

「おい。自分から出てくるのと無理やり引きずり出されるの、どっちがいい?」

 今までのちえに対する優しい態度からは一変した、冷たい声色だ。椅子に座って俯く少女の丸い頭を見下ろし、コウキは高圧的に続けた。

「最初に俺の事を攻撃してきた時から思ってたけど、お前随分と単純なんだな。深層心理に隠れる知能もないほどだとは思わなかった。もしかして頭悪い? 低級? 若い女の子だったら大丈夫だとでも思った? 見通し甘いぜ、お前」

 ちえの肩を掴んだまま喋るコウキを見て、似内がおどおどと古海のカソック服の裾を引いた。

「あの、翠川神父は一体何をしてるんですか……?」

「あれはね、あぁやって悪魔を挑発してるの。取り憑いている悪魔が表に出てこないと会話もできないから」

「なるほど……で、でもあんなに怖い感じで話す必要あるんですか……?」

「ケースバイケースじゃないかな。今回は威圧的に行くのがベストって判断したんだと思うよ、彼」

 その時、ちえが突然顔を上げる。近距離で目があったコウキは、キュッと眉間に力を入れた。

「お前は、誰だ」

 一字一字を刻みつけるように、はっきりと口にする。その問いを受けても、ちえは大きく口を笑みの形に歪めるだけだった。

「もう一度聞く。お前は誰だ」

「誰でもない。私はお前。お前は私」

 少女の物とは思えない、地を這うような低い声がちえの口から洩れた。口だけ歪めて作られた笑顔は、目が全く笑っていない。その茶色い瞳の中には、どろりとした興奮が見て取れる。年相応の可愛らしいものではない。それは、明確な殺意という攻撃性を孕んでいた。

「あのなぁ。真面目に答える気ある?」

「私は誰にも従わない。私はお前だ、翠川コウキ」

「そーか、そんなに痛いのが好きか」

 くるり、とコウキは十字架を手の中で閃かせた。いつの間に手にしたんだ、と古海は目を見張る。コウキはその十字架をちえの額に押し付けた。

「主の御名の下に問う、お前は誰だ」

「あっ、が、いだいぃ! ひぎぃ」

「ほーれほれ。痛いだろ。やめて欲しかったらちゃんと答えろ」

 まるで楽しむような軽い口調だ。対して、ちえは苦痛に身悶えしあらん限りの声で絶叫している。似内はそれを怯えた様子で見ていた。

「こ、これ大丈夫なんですか和輝さん……! なんかめっちゃ叫んでますけど……!」

「別に秋原さん本人に危害が及んでるわけじゃないから……いや、生で見るのは初めてだけどこれは……確かに、ちょっとビビる」

 隣の似内にも届かないほど小さな声で、古海は呟いた。その合間にも、ちえは押し付けられた十字架を拒否するように身体を震わせて叫び続けている。

「あああああ、いたい、いたいぃ! やだぁ!」

「だから、ちゃんと答えたらやめてやるって言ってんの」

「サタン! サタンだ!」

「さ、サタン……!」

 悪魔の中でも高位に位置する名前に、似内が後退る。その一瞬をついて、ちえが突如立ち上がった。伸ばした手は、コウキの喉を狙っている。その細い肩を掴み損ねた古海は、とっさの判断が遅れた自分に歯噛みしながら叫んだ。

「コウキくん!」

「あっぶねえな」

 だが、コウキは至って冷静だ。軽く一歩下がり、左手に持っていた十字架を伸ばされた掌に押し当てる。首を絞めようと広げられたちえの薄い手は、コウキの喉ではなくその十字架を掴んだ。

「がぁっ……!」

「はいはい着席。座れコラ」

 そのまま肩を押して無理やりちえを元の位置に戻す。コウキは古海と似内に目を向け、やや大仰なため息を吐いた。

「暴れたら押さえとけって言ったろ」

「す、すいません……」

「急に動くから反応できなかったよ……」

「そこ反応できなかったら怪我するぞ。覚えとけよ」

 まるでインストラクターのような口ぶりでコウキは言葉を紡ぐ。十字架を右手に握らされたちえが苦痛に抗おうともがいているにも関わらず、コウキの意識は九重教会の新米クラージマンに向いていた。

「サポート役の一番大事な仕事は暴れた相手を瞬時に取り押さえることだ。今日は二人でやってもらってるけど普通の仕事はそこ一人だからな」

「は、はい!」

「メインが襲われそうになった時だけじゃねえぞ。たまに自傷行為を始める奴もいるから、そういうのも見逃すな」

「テキストで理解しても身体が追い付かないね、こういうの」

「だから実践だ。まぁ日本は悪魔憑きが少ないからなかなか機会もな……あ?」

 コウキの目が険しくなる。その視線は、目の前で身を震わせているちえに向いていた。正確には、ちえが握り締めている十字架にだ。

「ふううぅううぅ……!」

 固く食いしばった歯の隙間から息が漏れていた。肌が白くなるほどに強く握られた拳には、金属製の十字架とコウキの左手が巻き込まれている。ギッ、と睨み上げた眼差しに、コウキは自分の不利を悟った。咄嗟に半歩下がり、手を引き抜いて彼女の手の中に十字架を置き去りにする。

 次の瞬間、金属で出来ているはずの十字架が紙細工のようにメキリと折れ曲がった。

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