08. 「約束だ」

「悪魔がいる?」

 繰り返すように、コウキが口の中で言葉を転がした。相変わらず少女の姿は暗闇の中に溶けている。

「ずっと、頭の中に声が聞こえて……やっぱり、変ですよね私……悪魔がいるとか……誰に言っても信じてくれなくて……もう嫌……」

「そうか? 別に悪魔がいてもいいと思うけど、俺」

 息を呑む音が響いた。それきり少女の声は続かず、水を打ったような静けさが室内に広がる。コウキはしばらく考え、言葉を選んで話を続ける。

「ほら、俺こう見えても教会の神父なんだよ。あ、こう見えてもって言ってもこんな暗いんじゃ見えないか」

「……信じてくれるんですか? 悪魔がいるって」

「そりゃもちろん。俺は神父の中でも、悪魔祓いを本業にするクラージマンって役職だからな」

 組んでいた腕を組みかえ、コウキは頭の中で次にかける言葉を考えていた。今まで彼が相手にしてきた人間の中でも、この少女は若い部類に入る。不安定な思春期の少女相手にあまり不用意なことは言えない。

「俺は翠川コウキって言うんだ。君、名前は?」

「……えっと、秋原ちえです」

「ちえちゃん、どうして君は悪魔がいるって思ったんだ? 何か根拠がなきゃそんな言葉出てこないだろ」

 コウキはカソック服のポケットから煙草を手探りで取り出し、咥えて火を着けようとした。ライターを近付けてから、寸でのところで踏み留まる。明るくしないで、と懇願してくる少女の前で光源を作ることはないだろう。コウキは火の着いていない煙草を咥えたまま、ちえの言葉を待った。

「……頭の中で声がするんです。普段は聞こえないんですけど、例えば部屋に一人でいる時とか、学校に行く電車の中とか」

「知り合いが近くにいる時は? 人との会話の最中とかは聞こえない?」

「そういう時は聞こえないです……」

「じゃあ、どんな声が聞こえるの?」

「ど、どんなって……それは……」

「自分のペースでいいよ」

 腕を組み直し、後頭部を壁にこつん、と寄せる。目は閉じたまま、コウキは頭の中で考えを巡らせていた。

 悪魔。それは、コウキが所属している教会の中で最も敵視されている存在。人間の中に住まう悪しきものであり、心を蝕む病魔のようなものだ。神の所有物である人間を苦しめ、貶めることを何よりも楽しむと言われている。古来より様々な時代で人に害を与えている悪魔は、現代の人間にも悪影響を及ぼす、と教会では教えていた。

 誘惑や欲望といった心の隙に入り込み、心身ともにじわじわと苦しめていく。だから信者は邪な感情から身を守り、清廉潔白に生きていくために神に祈るのだ。

 それでも悪魔は僅かな隙間から忍び込み、人間の心に巣食う。一度取り憑かれたら最後、ただの人間が自力で祓うことはできない。手を打たなければ、その命が尽きる瞬間まで悪魔に魂を蹂躙されることとなる。

 そして教会の人間、中でもその悪魔を祓い人の心を救うことを生業としている者たちを教会は「クラージマン」と呼んだ。

 コウキは薄く目を開き、細く息を吐いた。それに返事をするように、ちえが喋り出す。彼女の一語一句を聞き逃さないように、コウキは耳をそばだてた。

「……殺せ……って」

「ほう、そいつは物騒だな」

「それだけじゃなくて、その声が聞こえない時も、たまに自分じゃコントロールできないくらいのイライラが沸いてくるっていうか、私の気持ちじゃないのに怖いくらい強い怒り? みたいなのがお腹の底から出てくるっていうか……」

「それで暴れるのか」

「はい……」

 がりがり、と何かが擦れる音。爪が、肌を抉る音だ。掻きむしり、自分で自分を傷つけて正気を保とうとしている少女の悲痛な叫びにも聞こえる。

「何も悪くないのに無性に腹が立つことが多くなって、それで友達と喧嘩することがすごく増えて、シスターの名嶋さんに相談しても治らなくて、病気じゃないかって思って、でもお医者さんも問題ないって、じゃあ私のこれは誰にも治せないのかなって、だって、今まで普通に生活してたのに、どうして私がこんな目にあわなくちゃいけないのか分からなくて、それで、それで……!」

「……なぁ、ちえちゃん。その声が聞こえるようになったくらいに、何か身の回りで変わったことはあった?」

「分かりません……何も、わかんない……」

 擦過音に上書きするように、今度は髪の毛が抜ける音が響いた。自分の中に巣食う攻撃性を表に出さないよう、懸命に彼女は戦っている。そして、そういう人間を救うために訓練を重ねてきたのがクラージマンという職業なのだ。

 コウキは大きく息を吸い込み、一言呟いた。

「主の御名において、出てこい」

 刹那。暗闇に潜んでいたちえが弾かれたように立ち上がった。姿の見えないはずのコウキに、まっすぐ突っ込んでくる。

「ぐっ……!」

「うるさい、うるさい、うるさい……!」

 唸り声をあげながら、ちえは細い指でコウキの喉を掴んだ。喉仏を力づくで押さえつけられ、ぐっと息が詰まる。躊躇のない殺意がそこにはあった。

 頭に血液が溜まるような感覚に陥りながら、コウキはその口元を笑みの形に歪める。掠れた声を絞り出しながら、コウキは確かに笑ったのだ。

「……熱烈だなぁおい……照れちゃうっつーの……」

「うるさい、うるさい……! 死ね、死ね、死ねっ……!」

「ぐぅ、っ……」

 ぎり、と音を立ててちえの小さな手がコウキの気道を締めつける。とても子供のものとは思えない握力が、文字通りコウキの命を握り潰そうとしていた。震える唇から、咥えていた煙草が力なく零れ落ちる。酸欠で煙る思考の中、舌打ちをひとつしてコウキは大きく手を振りかぶり、背後の壁を強く殴りつけた。

「っおい! ドア開けろ!」

 鬼気迫るコウキの叫びに、名嶋と古海はすぐさま反応した。扉が外から開かれ二人とも部屋に飛び込み、まさに今目の前で起こっている暴行の現場を見て絶句する。

 いち早く動いたのは、古海だった。

「杏奈さん、電気付けて!」

 固まっている名嶋に指示を飛ばし、古海はちえの手を掴む。古海の言葉にハッと我に返った名嶋は、慌てて壁に備え付けられた電灯のスイッチを切り替えた。

 窓という窓が締め切られ、暗闇に塗り潰されていた部屋が途端に明るくなる。光に目が眩んでちえの力が緩んだ瞬間を、古海もコウキも見逃さなかった。

「秋原さん、落ち着いて……!」

 咄嗟に古海はちえの背後に回り、羽交い絞めにしてコウキから遠ざける。コウキも自身の手でちえの白い手首を掴み強引に離そうとした。

 成人男性二人の力には敵わず、やがて少女の手はコウキから引き剥がされた。身体を押さえつけていた強い力が消え、コウキはその場に崩れ落ちるようにしゃがみこむ。気道が解放され、一気に酸素を吸い込みコウキは大きく咳き込み嘔吐いた。

「ごほっ、げほっげほ、ぅえっ……!」

「翠川くん、大丈夫?」

 駆け寄ってきた名嶋がコウキの背をさする。荒くなった呼吸を正しながらコウキは、涙の浮いた目で羽交い絞めにされたままの少女を見た。

 その表情は恐怖と罪悪感に染まり、幼さの残る茶色くて丸い瞳は涙で濡れていた。その頬には自分で付けたと思わしき無数の蚯蚓腫れが痛々しく残っている。

 そして、コウキは瞠目した。涙で潤んでいる少女の目の中に、明確な興奮と殺意が滲んでいたのだ。顔色の悪さに似つかわしくない、野蛮な狂気だった。

 コウキは壁に手をついてよろめきながら立ち上がり、羽交い絞めにされているちえに近付いた。古海に、手を離せ、とアイコンタクトを送る。古海は一瞬躊躇ったが、大人しくその指示に従った。戒めを解かれたちえは、怯えたようにコウキを見た。

「あの、ごめんなさい……わた、わたし」

「大丈夫。怒ったりしないって」

 一回り小さな少女の頭に、優しく手を置く。そのままゆっくりとした手つきでちえの頭を撫でながら、コウキは言った。

「今ので確信したよ。ちえちゃん、君は元の生活に戻れる。俺が助けてみせる」

「ほ、本当に……?」

「本当に。約束だ」

 わずかにしゃがんで腰を落とし、ちえに目線を合わせる。口角を上げ、じっとちえの目を見つめた。ちえの茶色い瞳と、コウキの黒く濡れた瞳がかち合う。それを逸らすことなく、コウキは言いきった。

「必ず、君の中にいる悪魔を祓うから」

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