秋原ちえという少女

07. 「嬉しくないわ」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、コウキが聖堂に足を踏み入れた。昼間のラフなシャツとジーンズとは打って変わって、彼は丈の長い黒のカソック服をその身に纏っている。裾から覗くモンクストラップはカソック服と一緒に九重教会の倉庫に長く放置されていたもので、手入れされていないのもありその艶はすっかり失われていた。名嶋はコウキを見ると、意外そうに眉を上げた。

「思ったより着こなしてるわね、それ。さすがローマから来た凄腕クラージマンってところかしら。でもちゃんとボタンは閉めて」

「前がキツいんすよ。一々三十三個も閉めるの面倒だし」

 あくびを噛み殺しながら、コウキは悠々とした足取りで名嶋に近付いた。

「それで? そのお嬢さんってのは?」

「こっちよ。すっかり大人しくなったけど、下手に刺激するとまた暴れ出すかもしれないから注意して」

 名嶋が案内のためにコウキの前を歩き出す。踵を鳴らしながら、コウキはそれに黙ってついていった。時折振り返りながら名嶋が何か言いたげな視線を向けてくるが、コウキはそれをカソック服の袖を弄るふりをして無視している。

「……さて、ここよ」

 二人がたどり着いたのは、九重教会の聖堂裏にある小さな部屋だ。元々は懺悔室として使われていたが、手入れが行き届かないのを理由に今では撤去され空き部屋になった場所である。部屋の前には、コウキと同じカソック服を着用した古海が既に到着していた。

「やぁ。やっと来たね、二人とも」

「お待たせ。様子は?」

「なんか壁引っ掻いてる音がずっと聞こえてます。たまに呻いてるし外に出たがってるのかな」

「ということはまだ収まってないってことね」

「でも手筈通りにいけばトラブルは起きないと思いま……えーっと、コウキくん? オレの顔に何かついてる?」

 古海は自分に刺さる視線の主に、戸惑いながら問うた。コウキは、あぁ、と相槌を打って続けた。

「いや、古海お前、本当にクラージマンなんだなと思って」

「これでも一応ね。コウキくんもカソック服よく似合ってるよ」

「うるせぇ。嬉しくないわ」

 不機嫌に言い返し、コウキはコツコツとつま先を床に打ち付けた。屈伸して大きく伸びをすると、名嶋と古海を見やる。

「んじゃちょっと様子見てきます。どうせまだその似内って奴来るまでに時間あるんでしょ」

「そうね……あの子のバイト終わるまでまだ掛かるかも」

「一応連絡は入れたから、終わり次第すぐ帰ってくると思いますよ。オレも一緒に様子見に行く?」

「別にいい。確認するだけだし」

 気を張ることなく、緩い雰囲気を纏いながらコウキは扉に手を掛ける。油の切れた蝶番が軋んだ音を立てた。

「お邪魔しまーす」

 緊張感のない声が、明かりのついていない部屋に響き渡る。後ろ手に扉を閉め、コウキは小さく息を吸い込んだ。

 静かな室内に、コウキとは違う人間の息遣いが漂っている。すすり泣きのような掠れた声は、部屋の隅から聞こえてきた。

「ふっ……うぅ……っく、ふぅう……」

「おい、大丈夫か」

 声を掛けても、返事はない。ただ声の主は押し殺したように泣いているだけだ。目を凝らすも、一筋の灯りもない室内では何も見えない。コウキは部屋の壁伝いに歩き、電気のスイッチを探し当てた。

「……電気付けるぞ」

「やめて!」

 飛んできたのは少女の鋭い叫び声だ。突き刺さるようなそれに、コウキは身を固くした。しばしの間の後、喉が引き攣れそうな叫びをあげたとは思えないほどか細い声で少女が呟く。

「つけないで……明るいのは嫌……」

「あー……おう、分かった。分かったから、とりあえず落ち着け。電気はつけない」

 スイッチを探していた手を止め、コウキは壁に凭れ掛かった。さっきまで聞こえていた少女のすすり泣きはもう聞こえない。気配は感じられるが、部屋の空気は不自然なほどに静かになっている。

「あんたが教会にSOS送ってきたお嬢さんだろ。とりあえず言いたい事は言いな。聞いてやる」

 努めて感情を表に出さないよう、冷静を心掛けて声色を落ち着かせた。相変わらず部屋は暗闇で満ちていて、少女の様子を視覚情報で伺うことはできない。コウキはわずかな音の変化も聞き漏らさないよう、目を閉じて聴覚に意識を集中した。身じろぎする音、息を吸い込む音、口を開く音。躊躇した後、少女の声帯が空気を震わせた。

「……悪魔が」

 ひくり、コウキの眉が動く。

「悪魔が、私の中にいるんです」

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