05. 「知ってるっつーのそれくらい!」

 一方その頃、当のコウキはあてがわれた部屋で荷物の整理をしていた。部屋にある家具はマットレスが剥き出しなベッド、小さな木製の机、そしてそれに付属する椅子とホームセンターに売られているプラスチックの衣装ケースだ。型落ちのエアコンはガタガタと不安になるようなモーター音を立てている。

 しまうほどの荷物を持ち込んでいないコウキは、うっすらと埃をかぶったマットレスに腰かけてリュックの中身を取り出し床に並べていた。持ってきたリュックの中身は貴重品とクレインからの預かり物だけだ。着替えや日用品は全て行方不明になったキャリーケースの中に入っていた。

「必要なのはパンツと歯ブラシと水……あ、いや、こっちは水道水も飲めるのか」

 ぶつぶつと呟きながら財布の中身をユーロから円に入れ替えていく。カラフルな札とコインは「ユーロ 帰国用」と書かれた封筒に入れてクリップで封をした。

「ったく……荷物なくなったおかげで無駄な出費が増えたっつーの……」

 文句を言いながらも、コウキの手には迷いがない。幾度となく経験した海外出張のおかげで、必要最低限の荷物をまとめることにすっかり慣れている。

「つかクレインの野郎、こんな嵩張るもの持たせやがって……」

 コウキが手に取ったのはベルベット素材で包まれた木箱だった。手触りのいい深紅が、嵌め殺しの小窓から差し込む夕日を浴びて輝いている。重さはそれほどでもないが、とにかくスペースを取る代物だ。コウキのリュックの中身は、ほとんどこの箱で埋まっていたといっても過言ではない。

 これは、コウキを空港まで見送りに来たクレインに「下宿先の友人に渡してくれ」と手渡されたものだ。既にキャリーケースは預け入れており、仕方なく手荷物で機内に持ち込んだ経緯がある。

 中身を替え終えた財布と身分証明書代わりのパスポートをリュックに放り込み、コウキは顔をしかめながらスプリングが軋むベッドから腰を上げる。マットレスから尻に移った埃を叩きながら、コウキは預かり物の入った箱を手に取り扉の把手に手を掛けた。丸い把手は、コウキが捻る前にぎしり、と音を立てて回転する。

「は」

 口から飛び出した音が疑問の形を取る前に、内開きの扉が開いた。向こう側にいたのは、コウキと背格好の似ている青年だ。

 一度も染めたことのないような重たい黒髪が、肌の白さを際立たせている。癖のない直毛は頭の丸さを際立たせていて、顔立ちの幼さをさらに強調しているようだ。ボストンタイプの眼鏡の奥には好奇心が旺盛そうな大きい瞳が爛々と輝き、視線が彷徨う度にきょろりと分かりやすく動いた。

 青年はコウキの姿を認めると、その童顔に人懐っこい笑みを浮かべた。

「あ、君が杏奈さんの言ってたローマのクラージマンくん?」

「お、おう」

「へーえ、思ったよりずっとひょろひょろのガリガリ! もっと厳つくて屈強なガチムチを想像してた!」

「は?」

「顔も全然普通じゃん。ローマ帰りって聞いてたからもっとイケメンだと思ってたけどなんかどこにでもいそうな顔だしつまんない!」

「初対面の出会い頭に失礼なこと言うのが日本では最近流行ってるのか? それともこの教会がそういう連中の集まりなのか?」

 青筋を浮かべながらコウキは青年を睨みつけるが、睨まれた当の本人は意にも介さない様子だ。笑顔を張り付けたまま、扉の前で彼は言った。

「オレ、古海和輝ふるみかずてるって言うんだ。君の部屋のお隣さん」

「おい」

「壁薄いから夜とかちょっとうるさくすると、建物全体に聞こえちゃうから気を付けて。あ、引っ越しそばとかないの?」

「あのさ」

「もしかして引っ越しそば分からない? 日本には引っ越しそばって文化があってさ」

「知ってるっつーのそれくらい! いいから少しくらい黙って俺の話聞けよ!」

 我慢できずに怒鳴ると、古海は目を丸くして口をつぐんだ。コウキはため息を吐くと、頭痛を堪えるように頭を押さえる。緩く首を振りながら呟いた。

「何なんだ本当……つか、俺の部屋の隣ってことはあんたが九重教会のクラージマン?」

「…………」

「……おい、返事しろよ」

「…………」

 古海は口をつぐんだまま首を横に振る。口の前に指でバツを作り押し当て、次にその人差し指をコウキに向けた。つまり、「君が黙れって言ったんだろう」という意思表示だ。

「……質問には答えていいからな」

 苦虫を噛み潰したような表情でコウキがそう言えば、古海は口の前の人差し指で出来た戒めを解いた。途端、その口から堰を切って溢れたのは言葉の奔流だ。

「あ、喋っていいの? そうそう先月やっと教会から本資格が下りてクラージマンとしての活動許可がもらえたんだよね。でも残りの奴らがどっちも仮免だからちゃんと仕事したことはまだないんだ。普段はここの教会の神父として杏奈さんと働いてるよ。あ、教会の手入れはオレがやってるけど結構それに時間取られちゃってこっちの居住スペースはボロボロのままでさ。本当は君が来る前にこの部屋も掃除しておきたかったんだけど時間取れなくて結局埃っぽいままになっちゃったんだよ、ごめんね。まあ別に特に反省もしてないし掃除くらい自分でやれって思うからそこら辺は君が暮らしやすいようにカスタマイズしといて。言ってくれれば何か必要な道具は用意するから。杏奈さんにも君の身の回りのお世話とか頼まれたから分からないことがあったら遠慮なく聞いてよね。ところでローマのクラージマンくんはロストバゲージでトランクどっか行っちゃったんだって? 荷物いつ戻ってくるの? 着替えとかどうするつもり? オレと身長同じくらいだしよかったら服貸そうか? さすがに下着を貸す気はないけどTシャツなら結構いっぱい持ってるし何枚か持って行」

「あー、ストップ」

 止まらない言葉にピリオドを打ったのは、コウキの掌だった。馬を宥めるように古海の眼前で大きく広げた手は、狙った通り古海を黙らせることに成功する。音楽プレーヤーの一時停止ボタンと同じように、古海の口から流れていた音が途切れた。

「お前さぁ、うるせえって言われること多いだろ」

「…………」

「質問には答えろ」

「あぁ、え、なんで分かったの? ローマの教会では読心術とか勉強するの?」

「率直な感想だよ」

 瞳を輝かせてぐいぐいと身を乗り出してくる古海に顔をしかめながら、わざとらしくコウキは嘆息する。自分を押し出してくる感じは、杏奈も古海も大差ない。頭を掻きながら、コウキは疲れたように言った。

「とりあえず要約すると、あんたはここのクラージマンで、俺の隣の部屋に住んでて、普段から教会で働いてるってことでいいのか? あとあんたのTシャツは要らない」

「何で! オレの親切心じゃん!」

「そのTシャツ見て借りたいとか思わねーよ。鏡見たことあんのか」

 再度ため息を吐きながら、コウキは古海が着ている服に目を向けた。白地のTシャツにでかでかと太字の黒ポップ体で書かれた文字は「純米大吟醸 獺祭 税抜2950円」だ。古海は自分のTシャツを見ながら首を傾げた。

「これ、そんなに変かな? お気に入りなんだけど」

「生きてるセンスを疑うわ。どこで売ってるんだよそんなクソTシャツ」

「自作!」

「引くわ」

「ありがと」

「褒めてねえよ」

 自身の暴言に退くどころか笑みを深める古海に、コウキは苛立ちを通り越して漠然とした不安を感じた。相手を知らずとも分かる相性の合わなささが、コウキの胸中に渦を巻き始めたのだ。本格的に頭痛が酷くなる前に、とコウキは口を開いた。

「……で? あんたここに何しに来たんだよ。まさかそのくそダサTシャツを自慢するために来たのか?」

「まさか! 新しいお隣さんがどんな人か見に来たんだよ。ローマのクラージマンって言うから気になるじゃん?」

「そうかよ。俺は今からシスターに用事があるんだ。どいてくれ」

「杏奈さん? 杏奈さんなら何か急用ができたとかでちょっと前に飛び出していったよ」

「あ? マジか……」

 コウキは、手に持ったベルベットの箱に視線をやりながら呟いた。名嶋が不在なら、これを持って行っても意味がない。箱は埃を被った木製の机に置かれた。

「……あー、古海って言ったっけ? ここら辺で一番近いコンビニってどこだ」

「コンビニなら教会の前の坂を下って突き当りを右に行けばあるけど。なんか買いに行くの?」

「何だっていいだろ。そこ通る。しっしっ」

 出口を塞ぐように立っていた古海の肩を押し、コウキは部屋から出ていこうとする。

「あ、待ってローマのクラージマンくん!」

「うるせえな。今度はなんだよ」

「君、名前は? いつまでもローマのクラージマンくんって呼ぶのは疲れるからさ」

「……翠川コウキ。じゃあな」

 振り返らずにひらひらと手を振り、今度こそコウキは部屋から出た。廊下を渡り、のんびりとした足取りで進んでいく。

「これからよろしくねぇコウキくん!」

 機嫌のよさそうな声を背中で聞きながら、コウキは大きくため息を吐いた。古海とのやり取りだけで溜まった疲れは、ため息だけでは到底体外には出ていきそうになかった。

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