条約締結

 翌日、イングルワースたちはやってこなかった。

 警備が強化されたところから考えると忍び込もうとしたところを見つかったのかもしれない。

 彼らの身を案じるアデルバートではあったが、獄中から安否を確認する術は皆無。それよりも、これからやってくる飢えと渇きに気張らなければならなかった。

 ところが、その日、どういうわけだか食事が支給された。それも囚人用の粗末な粥ではなくて、兵卒用の缶詰、そして新鮮な野菜だった。

 その後もイングルワースたちは姿を見せず、警戒の厳しさは増すばかり。だが、食事も飲み物も滞りなく配給され、アデルバートはなんとか飢えずに済んだ。軍法会議はあれ以来一度も開かれていない。

 外部から隔絶されて一ヶ月が経過した。孤独がもたらす寂寥を克己心で跳ね返し続けた一ヶ月だった。

 その日は快晴。アデルバートは屈強な二人の兵士に鷲づかみにされて、外に引きずり出された。

 連れて行かれたのはオリガ堡塁の洗濯部屋だった。

 王国軍の士官が一人、大きな流し台の横で腕組みをして待っていた。

 士官は二人の兵卒にただ一言、洗えと命じた。兵士たちはアデルバートの着ているものを剥ぎ取ると、石鹸水をたっぷり含んだ海綿でこれでもかというくらい肌をこすり、ピカピカのつやつやになるまで磨いた。

「服を着たまえ」

 着物籠には白い清潔なモスリンがかけてあった。そこには先ほどまで身につけていた垢っぽい囚人服は影も形もなく消え失せて、代わりに糊がパリッときいたシャツとシミ一つない真っ白な上衣、そして紺の騎兵用ズボンが折りたたまれていた。

 大礼服だ。アデルバートは息を飲んだ。一ヶ月前に失った一つ星の肩章が縫いつけられている。

 王国士官にせかされて、アデルバートはいそいそと着換えながら、ちょっと質問をぶつけてみた。

「僕は銃殺されるんですか?」

 士官が口にしたのは返答ではなく指図だった。

「着換えが終わったら、湾の北にある屋敷に行くのだ」

 士官に連れられ、きちんと清掃された街路を通り、軍港へ向かった。軍港では浮き船橋が湾を横切り対岸へつながっていた。汽艇も泊まっている。船酔いの恐怖が甦った。

 だが、嬉しい再会もあった。バルティーが横の飼い葉桶で草を食んでいた。アデルバートはバルティーに抱きつき、顔を舐められながら、引き締まった胴を観察した。肉は落ちていないし、毛並みもいい。しっかり飼い葉をもらい、適度な運動をしてブラシもかけてもらっているようだ。

 バルティーに跨ることを許されたアデルバートは三人の騎兵に先導されて、浮き橋を渡り、対岸の斜面を上った。

 果樹園の間を蛇行する斜面でアデルバートは王国軍の士官にたずねた。

「僕はなぜ屋敷に?」

 士官は答えなかった。

 土地の貴族が住んでいる広大な屋敷が果樹の隙間から窓や柱をのぞかせる。広い前庭には各国の近衛兵が整列していた。

 広い玄関を通される。

 アーチを抜けた先の大食堂では将軍たちが集まっていた。シンメルフェニッヒ将軍が葉巻をふかしながら、メレンディッシュグレーツ公爵と馬術に関する歓談をしていた。サンデュブラン元帥は退屈そうにチェスの駒をいじり、今回の戦争で実施されなかった作戦の数々を盤上に再現していた。大きな口髭をたくわえた帝国の将軍が三角巾で腕を吊り、地味な将服を着た帝国海軍の提督とともに、サムソーノフなる人物の死を悼んでいた。王国軍の旅団長はいびきをかいていた。ドミトリー大公は少し気落ちして、他の将軍たちに適当な愛想をまいていた。

 メイランド伯爵もいた。苦み走った形相でアデルバートを睨んでいたが、それは鳥の糞を食らった男の怒り、仕返ししてやりたいが相手に手が届かない悔しさが滲んでいた。

 サマーフォード卿は食堂のはじに座り、何か書き物をしていた。

 アデルバートを連れてきた士官はきびきびした動作でサマーフォード卿のそばへ歩みより、踵を鳴らして敬礼すると「連れてまいりました」と報告した。

 将軍たちの視線が入り口のアデルバートに注がれた。

 シンメルフェニッヒ将軍は例の文句「やっとられんぞ、きみ」をかなり好意的に使ってきた。メレンディッシュグレーツ公爵とサンデュブラン元帥は、あれは誰だろう、と小首をかしげた。左右に飛び出した大きな口髭の帝国将官も同様である。だが、提督のほうは小さく頷くと優しく笑いかけた。旅団長は目を覚まさなかった。ドミトリー大公はちらと目を上げると、また視線を下げた。メイランド伯爵はもう一瞥もせず、不機嫌な手つきで酒を注ごうとし、うっかりデキャンタを割ってしまった。

 サマーフォード卿は立ち上がり、二角帽を脇に挟むと、士官と案内役を代わった。

「ついてきなさい」

 サマーフォード卿は優しく言った。

 将軍たちの好奇の視線を背に受けながら、控えの間に移動すると、椅子に座って待つように命じられた。サマーフォード卿は別の部屋に入った。

 アデルバートは命令どおり着席し、五つ並んだ扉のうち、開きっぱなしになっているものをずっと眺めていた。その部屋では数人の外交官が一つのテーブルに集まり、書類を広げていた。

「あれは講和条約の草案を作っているんです。あのコンスタンチノフスク条約の締結をもって、この戦争は正式に終わります」

 聞き覚えのある声に首を向けると、テオドールが涼しげな微笑を浮かべていた。公国の黒い大礼軍装に身を包み、上縁に黄色い帯があるシャコー帽をきちんとかぶっている。

「テオドール!」

「お久しぶりです、アデルバート。御加減はいかがです?」

 二人は近況をたずね合った。テオドールもあれから監禁されたが、軍法会議にはかけられなかったという。非公式に秘宝のことをたずねられたこともあったが、なにも話さなかったのだ。

「どうして僕らはここに連れてこられたんでしょう?」

「予想もつきませんね。私も朝、起床するとこの礼装に着換えるよう命じられました。てっきり銃殺されると思っていたのですが、どういうわけか、ここまで連れてこられて沙汰があるまで待つように命じられたのです」

「シャルロットは?」

「残念ながら、その後どうなったのか……」

 またドアが開いた。憎まれ口が聞こえてくる。

「こんちきしょう。なんだよ、この服。こんな飾り紐いらんし、だいたい窮屈だぜ。平の伍長にこんなもん着せて、上の連中はなに考えてんだ?」

 滑稽なほど装飾過多な軍服を着せられたペイトンがぶつくさ言いながら部屋に入ってきた。

 牢獄に閉じ込められていたとき、アデルバートは誓っていた。もしペイトンと無事に再会できても絶対に泣いたりはしない、どんなに感極まってもだ。アデルバートはそれを守った。涙を堪えることが男らしいと思ったからだ。

 だが、ペイトンの考える男らしさは少し違ったらしい。

 ペイトンはアデルバートを見るなり何度も目をこすり、頬髭を一本引っこ抜いて夢でないことを確かめた。口をぽかんと開けたまま島流しにされていた男が十年ぶりの故郷に帰ってきたように一歩、また一歩と足を踏み出し、手を虚空に彷徨わせた。

 そして、あと五歩の距離まで近寄ると……

「坊ちゃああん!」

 アデルバートに飛びつき、おいおい泣いた。

「やっぱり生きてたんですね! ペイトンには分かってましたとも! 死んだりしないと分かってましたとも! メイランドのクソじじい、秘宝のことを話さないと坊ちゃんを絞り首にするってさんざん脅かしやがって!」

 アデルバートの栗色髪に男泣きの涙が滝のように流れ落ちる。

「あのクソじじいが坊ちゃんを救いたくないのかってさんざん脅してきやがったけど、俺には分かってましたとも! 坊ちゃんが縛り首にされるような法律があってたまるものですか! でも、毎晩怖かったんですよ、ええ、そりゃあもう! もし、ほんとに坊ちゃんが縛り首になったら俺のせいだって何度も何度も悩みましたとも! だから、こっちも脅しつけてやったんです。もし、坊ちゃんを縛り首なんかにしやがったら、その首引っこ抜いてやるって。

 「そんでもってミンチにしてやる。肉団子にして煮てやる。ローリエなんか入れねえぞ、クソじじい。食わずに埋めてやる。口だけじゃないってのを教えてやるために目の前で手錠を引きちぎってやったら、あのクソじじい、目をビリヤードの玉みたいにぎょろっとさせて驚きやがったんです」

 ペイトンが脅迫手法を延々披露する間にまたサマーフォード卿が現れた。

 揃うのは三人で終わりらしい。サマーフォード卿は五つの扉のうち、一番大きな扉を上品な手つきで示した。

 扉の先は大きな庭に沿った回廊だった。

 左手には溢れんばかりの花々の豊かな芳香と色彩が広がり、右手の側壁にはよく磨かれた胸甲を身につけた長身の近衛兵たちが大理石の柱のように屹立している。みな剣を顔の前に寄せる敬礼の姿勢である。

 回廊は緩やかに弧を描きながら、出窓のある喫茶室を貫き、緑の中に突き出た園亭まで続いていた。

 無人の喫茶室には銀のサモワールがしゅんしゅん湯気を吹いていた。まだ口をつけられて間もないカップが机にあったが、その小皿にはレモンが添えられていた。ついさっきまで誰かがここでお茶を飲んでいたのだ。

 喫茶室を通り抜けると園亭までは一本道。アデルバートたちは近衛兵の柱廊をサマーフォード卿の案内で進む。

「あ、あの、閣下」

 アデルバートが呼びかけると、サマーフォード卿は扉の前で立ち止まり、温厚な視線をアデルバートに向けた。

「なにかね?」

「僕らはどうして連れてこられたのですか?」

 サマーフォード卿は大きな鷲鼻に乗っかった小さな眼鏡を軽くなおして、答えた。

「あるお方が秘宝について説明を聞きたいと仰せなのだ」

「閣下。僕は何も言えません」

 サマーフォード卿は最後の部分を聞き流し、園亭の扉をゆっくり開けた。

 扉の先に見えたのは、大きく開いたガラス窓のテラスだった。テラスから下りた先には金髪の若者の後姿が見える。花を相手に手帳に何か書いている。デッサンをしているようだ。

 亭内には二人の老人がいた。太った老人とのっぽの老人。

 太っているほうは老人といっては失礼なまだ五十代の男で燕尾服姿に紫色のサッシュ、首元に星の形をした勲章を身につけていた。禿げ上がった額、大きな口髭、大きな手をでっぷりした腹の上に置いている。

 のっぽのほうは完全な老人だった。七十半ばを過ぎているようだ。だが、老人とは思えないほど頑健な体つきをしている。背がとにかく高い。七フィートに少し足りないくらいだ。この長身の老人の背後には大きな肖像画がかかっていた。かなり古いものだが、そこに描かれている人物は着ている軍服や顔つき、そして背の高さがその老人と似通っている。

「お連れしました、陛下」

 その声に奥の衝立部屋から年配の女性の朗らかな声が返ってくる。

「ご苦労でした、サマーフォード卿」

 簡素なドレスを身につけた小太りの老婦人が三人の前に現れた。

 アデルバートとテオドールは目を丸くして驚き、慌しく膝をつき、身を低くする。

 ペイトンは突っ立ったまま、不思議そうな顔で首をかしげた。簡素な服装の老婦人に見覚えがあったが、誰だか思い出せない。

 老婦人は衝立に顔を向けた。横顔を頼りに記憶の糸をたぐり寄せると、ペイトンは自然とポケットに手を突っ込んで、没収されずに残っていた一枚の王国銀貨を取り出した。

 老婆の横顔はまさしく銀貨に刻印されたものと同じ顔だった。

「ああ、やっぱりそうだ。このばあちゃん、女王にそっくりだ」

「ペイトン、失礼だよ!」

 叱られたペイトンはぎこちなく膝を曲げようとしたが、すぐに眉をよせて、

「坊ちゃん、参ったことになりました。ひざまずけません。俺のせいじゃないですよ。この軍服の仕立てが小さいのがいけないんです。膝を曲げたら、ズボンが裂けて下着が見えちまいますけど」

 女王はころころと珠を転がすような音色で笑い声を上げた。

「二人とも立ちなさい。そんなにかしこまらなくてもよろしいですから」

 立ち上がった二人に女王は包み込むような優しい微笑みで、

「お話はうかがいました」

 と、口を切り、衝立に隠れている人物に出てくるように語りかける。

 衝立から現れたのはシャルロットだった。

「こちらのお嬢さんが全て教えてくれました。彼女自身が秘宝であること、秘宝とは人の体を癒す素晴らしい力であることを。いま、私たちはそのことを話していたのです」

「大変な能力ですな」

 でっぷりした燕尾服の男が懐中時計をしまって立ち上がった。新聞記事で見たことがある。彼は共和国の大統領だった。

「許されるならどんな対価を支払ってでも手に入れたい宝物だ」

 アデルバートたちの身がぐっとこわばった。

 すると大統領はそんな彼らの険しい表情を面白半分にちらりと眺めると、シャルロットの手を取り、口づけて微笑んだ。

「でも、私の好みとしては若すぎる。お嬢さんが意地悪な恋をあと五回も経験したら、社交界向きの妖美なマドモアゼルになっているはずでしょう。私好みのね。でも、今のままでは純粋過ぎる」

 大統領はちらとアデルバートを見て、シャルロットに目を返した。

 少女の頬に差したほのかな赤みと少年士官へ送ったうぶな視線は、人の機微に敏感なこの好色家に何か悟らせたようだ。

 扉が開き、共和国の士官が踵を鳴らして敬礼した。

「閣下。署名の準備が出来ました」

 大統領は立ち去り際に宣言した。

「そもそも共和国はこの秘宝騒動には一切関知していません。我が国では人間は生まれながらにして平等であり自由です。共和国民から委託された権限に基づき、こちらのお嬢さんの自由が侵害される一切の可能性が我が国の政府から生まれることはないと断言いたします。では、失礼」

 今度は連合公国の侍従が現れて、大公を呼んだ。

 大公が庭からテラスの踏み段に上り、靴に絡みついた草葉の破片を足踏みで落とす。連合公国の大公は、愛人や戦争よりも草や花、そしてスケッチを好みそうな青年だった。

「まず非礼を詫びなければいけませんね」

 侍従にせかされた大公は庭いじりの上着を礼服に取り換えながら早口で告げた。

「メレンディッシュグレーツ公爵を通して、カールノゼ男爵に秘宝探索を命じたのは私です。私はてっきり秘宝がとても珍しい、今まで誰も見たことがない新種の植物だと思っていたのです。申し訳ない」

 真っ赤なサッシュを肩にかけた正装の大公はシャルロットの手をやんわりと取り、口づけると丁寧にお辞儀をし、次にテオドールに向き直った。

 テオドールと大公との間に交わされたのは会話ではなく笑みだった。テオドールの涼しげな微笑が何かを語りかけ、大公の朗らかな微笑がやはり何かを返す。

 大公と入れ違いにやってきたのは帝国の侍従長だった。銀の飾りがシャラシャラと音を立てる軍服を身に纏った老人が皇帝の前でうやうやしく礼をし、順繰りに部屋の人間に礼をしていく。

 一通りのお辞儀が終わると、

「陛下、署名の準備が完了いたしました」

 と、報告した。

 皇帝は武骨な軍人らしいしかめ面をちょっと崩すと、真摯な謝罪を漏らした。

「知らぬこととは言え、甥が失礼なことをしました」

 皇帝が出て行く。

 女王と四人だけとなった園亭にうららかな日差しが舞い込んできた。女王はそれに目を細めると、静かに語りかけた。

「あなたの不思議な力が多くの人を助けたと同時にあなた自身に大変な重荷を課していることはわかります。そして、どんな病でも治す力が財宝同然に扱われ、まるで物のように酷使され、あなたの一族が次々と命を落としたお話も聞きました。これは私の王家に責任のある話です。私はこのことについて謝罪をしてもしきれないと思っています。あなたのおばあさまのお気持ちはわかります。そのような他人と違う力を持っていては生き辛いこと。そして、普通の幸せな人生を送るためにあえて力を捨てたこと。それでも、あなたは力を取り戻しました。それは辛く厳しい試練の始まりになるかもしれません。それでいいのですね?」

 シャルロットは小さく顎をあげると女王の顔をしっかり見上げ、

「はい」

 きっぱり言い切った。

「私にはまだ出来ることがたくさんありますから」

 女王はうなずいた。

「あなたはとても勇気があります。あなたのお友達と同じくらいに」

 女王がアデルバートたちに微笑みかけたそのときだった。

「陛下あ!」

 メイランド伯爵が扉を跳ね開け、園亭に飛び込んできた。

「ここにおいででしたか、陛下! お喜びください。ついに秘宝の正体を突き止めましたぞ。うははははは! ドミトリー大公にしつこく付き纏って聞き出したのです。秘宝はなんと……」

「伯爵」

 女王はおっとり呼びかけた。

「その少女に秘密が……」

「伯爵」

 もう一度おっとり。

「は?」

「もうよいのです。そのことは終わりました」

「終わりました、といいますと?」

 ぽかんとしているメイランド伯爵。

 そのときサマーフォード卿が一通の文書を持ってきた。

 女王はペン先をインクで湿らせ、さっと署名するとうなずき、メイランド伯爵に告げた。

「たったいま締結されたコンスタンチノフスク講和条約の付属議定書第一項をもって、列強各国はシャルロット・ルフォシュー嬢に対する不干渉を永久に決定しました」

「は?」

「つまり、こういうことです」

 サマーフォード卿があとを引き取った。

「ご苦労様でした、メイランド伯爵。あなたの秘宝探索任務はこれを持って終結です。陛下も伯爵の働き振りには大変喜んでおいでですよ」

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