終わりの夜明け

 午前八時。

 雲が低く、厚く、たれこめている。

 イリーナ堡塁にかかる帝国旗が風になびいた。

 風が雲の緞帳を千切り、幾千の筋に分かたれた陽光が静寂の戦場に降りそそいだ。手を出せばすくい取れそうな淡い光が土気色の顔をした無数の兵士たちを照らしていく。

 砲台に突っ伏した帝国士官と三人の砲兵。

 空堀にうずくまる共和国の新兵や王国の古参兵。

 柵の前に倒れる公国工兵や砂漠の猛者たち。

 誰一人動かなかった。

 彼らを照らしたのは天使が降りる光の道、魂が昇る光の道だった。


 昨夜、同盟軍は三百門の砲と五万の歩兵で『三人姉妹』を攻めダルマにした。

「堡塁を一つずつ集中攻撃で叩き潰し、帝国軍を丸裸にしてやる!」

 この大作戦を考案したのは司令官の中で一番戦争に気負いこんでいたサンデュブラン元帥。彼は頼りないサマーフォード卿と気乗りしないメレンディッシュグレーツ公爵を何とか説き伏せて、この一大作戦に両軍が参加することを同意させた。

 二人のおっとりとした総司令官は、このまま要塞を包囲すれば、そのうち戦争も終わりますよ、と呑気なことを言っていたがサンデュブラン元帥は譲らずにガミガミ怒鳴りつけて二人を圧倒した。帝国の要塞を攻略するには三ヶ国の軍隊が緊密な連携で徹底的に攻め立てるしかないのだ、と力説して。

 戦争から名誉と栄光が剥げ落ち、醜悪な正体をさらし出した。

 火箭と怒号が飛び交い、地雷や榴弾が戦列を切り裂いた。

 弾薬車が爆発し、人馬が生きながら炭と化した。

 砲弾と砲弾で戦い、銃弾と銃弾で戦い、銃剣と銃剣で戦った。銃剣が折れれば、銃の台尻で殴り、台尻が割れれば、武器になるものを手当たり次第に使った。

 石、ヤカン、水筒、短刀、空き缶、こん棒、ビリヤードのキュー。

 皮膚を切り裂き、頭をつぶし、心臓を抉り出すのに使えるものは何でも使った。

 そして、殺戮に彩られた夜が明けた。


 ピッケル帽の連合公国兵たちは自分たちの野営地を離れ、イリーナ堡塁の麓に倒れる味方の亡骸を収容に来た。朝日に目を細めながら、彼らは手押し車にのせられるだけの死体をのせた。

 すぐ隣では帝国兵が同じように戦友たちの亡骸を持ち上げて、担架に乗せている。

 そのとき若い帝国兵が悲しそうにため息をついた。水筒に穴が開いていたのだ。昨夜の戦闘で流れ弾がかすめたらしい。

 連合公国兵が近寄って、自分の水筒を差し出した。

 帝国兵は自分の言葉で、ありがとう、といって喉を潤し、連合公国兵も自分の言葉でどういたしまして、と返した。

 連合公国兵と帝国兵は死体を、それぞれの陣地へ持って帰っていく。彼らはもう敵に味方に分かれてはいなかった。

 つい三時間前、同盟軍と帝国軍との間で停戦協定が結ばれた。

 同盟軍は要塞への総攻撃で予想以上の被害を得た。司令官たちの間では包囲継続を危ぶむ声が出始めていた。

 帝国軍もオリガとマリアを失い、イリーナ堡塁だけではコンスタンチノフスクを守れないと痛感していた。

 つまり、両軍ともこれ以上の戦争は勝機の見えない、辛く耐え難いものになると判断したのだ。

 同盟軍の手に落ちたマリア堡塁の残骸に一組の事務什器が持ち込まれ、両軍の司令官たちが集まって署名をした。あとはこの停戦が正式な講和条約として成立すれば、戦争は完全に終結する。ここから先は外交官の仕事だった。


 水を絞る手が心地よい風に触れる。涼しい朝の風だ。

 殺伐としたエルボニン半島でも草原の風は決してさわやかさを失わない。戦争中には気がつかなかったが、こうして休戦が成ったいま、崩れた城壁から見回すと、エルボニン半島の隠された魅力にハッとさせられる。

 途切れることのない草の野に雲の影が散っている。よく見るとその草原にはキツネもいるし、白い蝶々の群れが花畑の上を閃いているのも分かる。

 片手でタオルを絞るのはなかなか難しい。だが、シャルロットがアデルバートの手を握ったまま、小さな簡易ベットの上で静かに寝息を立てている。

 不安な夜は過ぎ去り、南中を目指して登り始めた午前八時の陽光が白い小さな寝顔にかかろうとしている。アデルバートは座る位置を調整し、自分の背中でシャルロットのために影をつくった。

 がたごと音がして、アデルバートは目を上げた。

 壊れた扉の向こうで帝国兵が涙に目を潤ませ、十字を切っている。シャルロットの不思議な力で命を拾った兵士の一人だ。帝国軍だけではない。王国、共和国、砂漠の民、連合公国の兵士たちが死の淵から真珠色の光に導かれ、生還を果たし、何百人という人間がその奇跡を目撃し、何千人という人間がその奇跡の話を聞いた。

 アデルバートもその一人だった。

「ありがとう、シャルロット」

 崩れた城壁から風が吹き込み、声が聞こえてくる。

 血と香炉の匂いがした。コンスタンチノフスクの近郊では戦死者の収容が始まっていた。昨夜の激闘で両軍あわせて三千以上の兵士が二度と戻らないかなたの国へと旅立っていった。彼らは堡塁、塹壕、平野、地下道、市内の街角で埋葬を待っている。共和国軍の担架兵が死んだ戦友を収容する数ヤード先で帝国兵が戦死した仲間たちのために小さな祠をつくり蝋燭を灯していた。彼らは敵の存在に気づくと軽く帽子の庇に手をやって挨拶した。

雲の合い間から日光が降りそそぎ、視界の端で銀の光が瞬く。目を上げると……

「君は……」

 ツィーヌがいた。手には籠をさげている。

「えっと、その……」

 こっそり忍び込むつもりだったらしく、アデルバートが目を向けるとツィーヌは少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 ツィーヌは小さな籠を机の上に置いた。

「そこで売っていたピロシュキよ。もし、よかったら二人で食べて」

「ピロシュキ?」

「揚げたパンに具をつめたもの」

 アデルバートは籠を不思議そうに見つめている。

「毒は入ってないから」

 立ち去ろうとするツィーヌを呼び止める。

「待って」

 ツィーヌは立ち止まった。

「……ありがとう」

 ツィーヌは逃げるようにアデルバートの前から姿を消した。


 微笑になんだか息がつまる。胸のうちが苦しかった。

(こんな感情……とっくに捨てきったはずなのに)

 ツィーヌが進んでいるミイン通りは二つの堡塁を、ちょうど弧を描くように結んでいた。両側には流れ弾で屋根を焼き払われた哀れな家屋が立ち並んでいる。

 ドーチェナヤ広場では捕虜交換の最中だった。

 旧市街から不ぞろいの軍服を着た男たちが二列縦隊を組み、市門を目指して行進している。これは昨夜、オリガ堡塁を占領した後、敵陣に深入りしすぎて捕虜となってしまった同盟軍だった。

 それと逆流する形で市門からボロボロの靴を履いた男たちが行進してくる。こっちはチョブルイ川で逃げ損ねた帝国兵たちだ。

 二つの行進は広場中央ですれ違った。そこには台座があり、碑銘には『寡黙な聖人』と刻まれている。

 かつて、そこには粗末なローブ姿の老司祭が砂利道で傷めた裸足を忌々しげに眺めている変な石像が立っていた。だが、堡塁を飛び越した同盟軍の砲弾が石像を数万の砂粒に戻してしまった今、台座の上は騒がしい新聞記者に占領されてしまっていた。

「ああ! はやく本国に戻りたいなあ。今ならじゃんじゃんいい記事が書けるのに!」

 ホンブルク帽の新聞記者は広くもない土台の上をくるくる歩き回る。ポケットに詰め込まれたメモが一枚抜け出し、ひらひらと舞い降りてきた。

 メモが宙で二回転する。北風にさらわれそうになったところで針金のように細い指がさっとメモをつまみ取る。

「なにこれ? へったくそな字」

 パーヴェルはうさんくさそうにまずメモを、次に新聞記者を見上げた。すると、新聞記者が、

「天才記者ティサ・ミクローシュ、一世一代の大取材さ。見てよ、取材記録をつづる手が止まらないよ」

「このミミズがのた打ち回ってるようなのが取材記録?」

「ティサ・ミクローシュ式速記術と呼んで欲しいな」

 ミクローシュは手を動かしたまま、顔だけパーヴェルに向けた。

「君はいいのかい? 帝国のスパイが僕らみたいなのと一緒にいて。上司に見つかったら、大目玉じゃないか」

「しょうがないよ」

 パーヴェルは不満気に首をさする。大きな手形がうっすら赤く残っていた。

「あの熊みたいなのに脅迫されたんだから。坊ちゃんを探す手伝いをしろ、見つけるまでは逃がしてやらないって。逆らったら、また袋叩きだもん。でも、僕だって暇じゃない。ツィーヌがどこにいるのか探さないと」

「そんなことよりも見たまえよ」

 ミクローシュはボロボロになった市街を顎で差した。

「このありさま。昨夜、この町には鉄道会社を立ち上げてもまだ余るくらいの鉄が撃ち込まれた。使われた火薬だって相当のもんだ。世界中の誕生日を祝えるだけの打ち上げ花火がつくれるだろうね」

「ツィーヌは無事かなあ……。怪我してなければいいけど」

 パーヴェルは心ここにあらずだった。

「これで、僕の記事は決まったよ。僕は今までいかにしてわが軍が勝ちを収めたか、とかそんな記事ばかり書いてきたけど今回は違う。戦争なんて、とんでもない無駄遣いだってことをばりばり書きたてて、我が社の紙面にでかでかと載せてやるんだ。読者は僕の記事を読んで、なるほど、今日日戦争はちっとも儲からない。なら、みんなで手をつないで平和に暮らしたほうが儲かるじゃないかと納得する。読者はたった一ペニーの新聞代だってケチるような手合いばかりだから、こういう物欲に訴えたネタは結構食いつきがいいんだ」

「…………」

「ちょっと! 無視しないでくれたまえよ! 君はいま、世紀の天才記者ティサ・ミクローシュのとっておきの論説を世界で一番最初に聞くことが出来る幸運な……って、あれ?」

 ミクローシュはペンをぴたりと止めて、見回した。

「あれれ?」

 パーヴェルの姿は忽然と消えていた。


「ツィーヌ! 無事だったんだね?」

「しっ! 大きな声出さないで。気づかれるわよ」

 ツィーヌは隙を見て、パーヴェルを建物の陰に引きずり込んだのだ。

 パーヴェルはほっと胸を撫で下ろした。

「あれから大変だったみたいね」

「話せば長いことなんだけどね。アデルバートと看護婦の少女は?」

 ツィーヌは少し戸惑い気味に言った。

「無事よ。一緒にいるわ。私、二人をそのまま置いてきたの」

 パーヴェルは片目をつむって、頭を掻いた。

「それはあんまりよくないね。僕らの任務は秘宝の奪還、つまり、あの看護婦を捕えることだ」

「その通りよ。でも、私には出来なかった」

「………」

「そのことで隊長の判断を仰ぎたいの。隊長は?」

「どこにいるかは分からない……。ただ、兵隊たちの噂を聞いたんだ。三番街の区画が焼け落ちたんだけど、そこに真っ赤な髪の女の人が一人、消えていったって」

「まさか……そんな……」

「残念だけど……」

 確かめないといけない。三番街はここからマリア堡塁裏手の南街区を横切ったところにある。

 途中、近道をしようと中等学校の門をくぐると、中庭から甘ったるい香の匂いが漂ってきた。

 陰鬱な光景が広がっていた。緑のある中庭には戦死者が横たわり、灰色の軍服を来た士卒たちが戦友の亡骸を前に涙に暮れている。中庭中央では工兵と助祭が壊れた建物をつかって祠を建て、蝋燭を灯していた。

 祠の前にはマリア堡塁の司令官だったサムソーノフ将軍の遺骸が横たわっていた。堡塁が炎上する前に従卒たちが運び出したのだ。服は煤で真っ黒だが、胸に一発銃弾を受けた跡があることを除けば、目立った傷はない。

 将軍の傍には生き残った部下たちが十字を切り、祈祷の文句をぶつぶつ唱えていた。

 祠から体育倉庫のドアまでは戦場から回収された戦死した者たちが横たわっている。遺骸の胸には身元が分かるように所属と階級、氏名が書かれた札が結びつけられていた。

『近衛第二砲兵旅団 第五中隊 フォン・ホルク士官候補生』

『第六歩兵師団 イグナーチェフスキー連隊 プラトーノフ二等兵』

『イリーナ堡塁 アドミラル・スモーリヌイ艦長 バラノフスキー中佐』

『第九コサック師団 第五ナバン・コサック連隊 マルチェンコ軍曹』

『第十四歩兵師団 第二十三タルビンスキー連隊 コズイリョフ少佐』

 コズイリョフ少佐は、心臓に弾丸を受けての即死だった。その横には濃緑の軍套を身につけた公国士官が一人、膝をついている。

「こんな形で再会したことが残念でなりません。あなたは天に召された身ですから……」

 テオドールだった。

 二人は気づかれないようにテオドールの後ろを通り過ぎ、中庭を過ぎた通りのほうへ先を急いだ。

 小道で小休止のために立ち止まり、二人でアピスの身を案じていると、

「暗い顔だな。誰かの葬式か?」

 聞き慣れた声に二人は驚いて、顔を上げた。

 紅髪をたなびかせて、アピスが二人のそばに立っていた。

「隊長!」

「生きてたんですね!」

「勝手に殺すな。そう簡単には死ねない。まだ任務が残っている」

「そのことなんですが……」

 アピスは指を一本上げて、ツィーヌの言葉を遮った。

「その説明は私がする」

 アピスは二人を連れて、市街の通りに出た。広場では帝国将校による休戦を祝う宴が催され、シャンパンがあちこちで噴き上がっている。その片隅、人目につかないところには整列する一個小隊を背にしたドミトリー大公がてぐすね引いて待っていた。ツィーヌとパーヴェルは慌てて膝をついた。

 アピスもゆっくり膝をつき、口上を述べる。

「殿下におきましては、ご健常お変わりなく……」

「いやいや。そんな前置きは必要ない」大公はやや上機嫌だった。「まったく手ひどくやられたわい。まあ、同盟軍は我が帝国軍に怖れをなし、和を請うてきた。メイランド伯爵が残って、捕虜交換に立ち会うといっていたが、まあ、ご機嫌結びだろう。そうだ。ご機嫌といえば……」

 大公は意味ありげに目配せする。

 アピスは黙ったままだった。

「おほん」大公はもったいぶった咳を一つ絞ると、「それで首尾はどうだったのだね?」

 そばでは避難していた住民が呆然と立ちすくんでいた。彼の住居が木っ端微塵に吹き飛ばされていたのだ。

 そんな光景には少しも気を配らず、大公は続けた。

「君は任務を受けた。それも私から直々にである」

「はっ」

「君には義務がある。そうであるな?」

「はっ」

「では、義務を果たしたまえ」

「それはできません」

 これにはツィーヌたちも驚いた。

 アピスはシャルロットをかばうつもりでいる。

「なるほど。君は敵に買われたわけか」

 大公は飲み込みのはやい男だったが、飲み込んだものを変なふうに消化する男でもあった。

「……買われたのではございません」

「よろしい」

 大公はすぐ横に立っている従者から小切手帳を取り出させた。

「君を買い戻す。一万出そう」

「殿下。私は金銭で動いているわけではありません」

「なるほど、そうくるか。では、一万五千」

「私はただ祖国への義務と忠誠のみで動いて……」

「義務と忠誠! 面白い言葉遊びだ。義務と忠誠を安く買うわけにはいかんな」

 大公は従者に二万ルーブルと書かせた。アピスは辛そうにつぶやいた。

「……おやめください」

「やめる? なにをだね?」

 大公の手には二万五千と書かれた小切手が握られていた。

「私は欲しいものは全て手に入れてきたつもりだ。特に美術品と女性に関してはね。さあ、これ以上出すつもりはない。二万五千で手を打ちたまえ。卑劣で名誉に悖る裏切り者の密偵め」

「卑劣で名誉に悖ることについて異論はない」

 背筋も凍る冷厳な声。アピスはゆっくり顔を上げると大公の目を見据えた。

「だが、裏切りなどとは言わせない。私は一度だって任務と祖国に背いたことはない」

 この反骨根性溢れるセリフは大公の虚勢をぐらつかせるに十分だった。甘やかされた中年貴族にありがちなことだが、彼もまた下層階級の草民づれが自分のような高貴な血に反抗することなどありえないと変に自信を持っている。だから、予想だにしなかった障害にぶつかるとひどくまごつき、急に自信を失ってしまう。

 だが、幸か不幸か彼には最新のライフルで武装した憲兵の一個分隊、ゼロをいくつ書き並べても平気な小切手張、そして皇帝の甥という肩書きが後ろ盾についている。富と権力が味方についたわがまま親父に恐れるものなどありはしないのだ。

 大公が憲兵に命じて、アピスを捕らえさせようとしたそのときだった。

「殿下!」

 朗らかな声が背後に響く。

「宝物などどうでもいいではありませんか」

 ポトポフ提督だった。

「殿下は既に宝物を手に入れております」

「何をいっとる、提督! 宝物はこの密偵が……」

「殿下は帝国をお救いになった英雄ですぞ!」

 ポトポフ提督は芝居がかった熱弁で圧倒した。

「あまねく全ての帝国臣民が殿下を称えられるでしょう。目抜き通りに殿下の活躍を永遠に記憶するための銅像が建てられます。詩人も画家も小説家もおのおのの手法で、殿下がいかにしてコンスタンチノフスクを守られたかを高らかに表現するでしょう。栄誉です! これ以上の宝がありましょうか?」

 意味がつかめずキョトンとしている大公をよそにポトポフは続けた。

「もし、誰かが殿下を愚弄したら……」

「な、なに? 愚弄?」

「ええ、愚弄です。もし誰かが……」

 提督の目がいたずらっ子のようにきらりと光った。

「……殿下は前線に出てなどいない、総攻撃の夜だって市内の舞踏場でずっと震えて、命令書の一通にも署名できなかった。いやいや、それだけではない、殿下はお国の一大事にあって陛下に無断で内務省の諜報機関を使い、私的道楽の秘宝探しをさせていたのだなどという支離滅裂、荒唐無稽な讒言をするものがいたら、このポトポフ、不届き者をこの手でたたっ斬ってやりますとも」

 ポトポフ提督はサーベルの握りを叩きながら、ドミトリー大公がはいているピカピカの舞踏靴をちらっと見やった。提督のズボンはめちゃくちゃに裂けて、革靴には火薬の染みがついている。整列している憲兵たちも舞踏靴とむき出しの脛を見比べていた。

 大公は自分の立場に今更ながら気がついた。

「その、提督、つまりだね……」

 冷や汗をたらりと首筋に走らせる。

 総司令官でありながら、ろくに指揮もとれず、舞踏場でおろおろしていたという不名誉な記憶が脳裏に甦る。これは彼の富、権力、そして社交界での評判を一撃で粉砕できる怒りの鉄槌だ。

 そして鉄槌の柄はポトポフ提督の手に握られている……大公は口の中で言葉をこねくり回した。

「……君は、その、えーと」

「私は断言いたします。あの晩、イリーナ堡塁で全軍を率いていたのは殿下であると」

 つまり、昨夜、提督が勝ち取った手柄、評判、武勇伝を大公にそっくり譲り渡すということである――ただし条件つきで。

 大公の顔色が溶液に浸された試験紙のようにさらりと変わった。突然、もったいぶった咳を一つもらすと、はりぼての威厳に親近感も描き加えて、ポトポフ提督の肩を叩き、少し話したいことがあると耳打ちした。大公は提督を整列している兵士たちから見えない斜面の下に連れて行った。

 アピスは、大公が提督に媚びるような追笑を送っているのを見て、無愛想なまま呟いた。

「これで秘宝任務は終了か……」

 背後で安堵の溜息と黄色い声があがる。

「よかったあ!」

 ツィーヌとパーヴェルがホッとして、歓声をあげていた。

「何がよかったんだ?」

 語調の厳しいアピスの質問。

 二人は萎縮して表情を改めようとした。ところがうまくいかない。二人ともアデルバートたちをそっとしておきたいという気持ちが強く、ドミトリー大公が秘宝を諦めたことはスパイとしては情けない限りなのだが、……一人の人間としては嬉しい限りなのだ。アピスはそんな二人の甘さを見通して、突き刺す視線を投げつけてくる。二人は複雑な表情で次の言葉を待った。

「我々は任務に失敗した」

「はい……」

 二人とも目を伏せた。

「そう気落ちするな」

 アピスは苦笑しながら、立ち上がった。

「来い。市街で何かおごってやる。今日は私も……安心した。こんな気分は久しぶりだ」


 そのころ、アデルバートは意外な人物につかまっていた。

「いやあ! さがしたぞ!」

 メイランド伯爵である。

 休戦締結会議の随官としてサマーフォード卿についていた伯爵は、どういうわけだかアデルバートが秘宝を手に入れたことを知ったらしい。アデルバートに向けるいやらしい笑みを見ていると、今までのぞんざいな扱いが嘘のようだった。

「君は秘宝を見つけたのだろう? ん?」

 アデルバートは複雑な顔で黙っていた。

 すぐ上の城壁にはシャルロットがいる。まだ目が覚めておらず、眠ったままである。

「巨大な宝石か、はたまた黄金の獅子像か……。さぞかし、素晴らしいのだろうなあ! さあ、はやく秘宝を見せてくれ。サマーフォード卿にも見せて自慢してやりたいんでな」

「閣下。秘宝はどうなるのでしょう?」

「きまっとる。秘宝は王国、すなわち女王陛下のものである。王宮の宝物庫に保管されるのが当然だ。さあ、秘宝をはやくこっちによこしたまえ」

「できません」

 アデルバートはきっぱり言った。

 それがシャルロットを守る唯一の道と信じたから。

「なに? なに、なんだと?」

 堪忍袋の粗い縫い目がほつれてきて、メイランド伯爵が顔を赤くし始める。

「どうも、昨日、さんざん大砲の音を聴かされたせいかな。耳がおかしい。君がいま、このわしに対して、秘宝は見せられません、などとたわけた寝言をぬかしたような気がしたのだが」

「空耳ではありません、閣下」

 アデルバートはもう一度、一語ずつはっきりと言った。

「秘宝を、お渡し、することは、できません」

 メイランド伯爵は鞭をへし折ると、重砲よりも恐ろしいドラ声を響かせた。

「わしは師団長だぞ! 貴様、自分が何を言っているか、わかっとるのか!」

「絶対に渡せません!」

 アデルバートは目をつむり、大声を張り上げた。こんな大声を出したのは生まれて初めてだった。

「きっ、き、貴様あ~」

 メイランド伯爵の顔が破裂しそうなくらい紅潮する。

「逮捕してやる……軍法会議にかけて絞り首にしてくれる!」

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