戦火の奇跡
帝国海軍ポトポフ提督の顔色は雪原のように青白かった。
先ほどまでは衰弱の土気色をしていたのだが、折れて捻じ曲がり飛び出した脚の骨が提督の体力を貪り食ったため、いよいよ死が真近に迫り、表情に諦観を佩びた一種の美しさが表れ始めていた。
提督は赤黒い煙の中で動く滑稽な五つの影を力なく見ていた。五つの影はひょこひょこ上下に動いたり、ちょっと重い筒状のものをよいしょと肩に担い、かちゃかちゃいじくったりしている、その動作は滑稽なまでに規則正しい。五人の歩兵がマスケットを操っているのだ。帝国陸軍では弾の装填から発射までを十九の段階に分解し、どんな局面でもそれを規則正しく行えるように厳しく叩き込む。
あたりが炎の渦と黒煙の塊のみとなっても、荒れ果てた僻陬の砦を守るために、あの兵士たちは弾を込める十九の作業で恐怖を麻痺させて戦っているのだ。
そんなものを守るために戦うのか。
――守る、という言葉が幻想を見せた。
提督はいま領地にある田舎屋敷の玄関広間にいた。
左の部屋からは上の娘、ソーニャが奏でるバイオリンが聞こえてくる。
高音を弾ききれず、耳障りになってしまっているのだが、彼にとってはどんな名奏者が奏でるよりも大切な高音だ。
右の食堂では妻の嫁入り道具である銀のサモワールがしゅんしゅん湯気を吹いている。使用人たちには休暇を取らせてあるから、この屋敷にいるのは妻と二人の娘だけ。
下の娘のナターシャが猫を抱いて走ってきた。泥だらけの将服にすがりつき、
「帰ってきた、パパが帰ってきたあ!」
と、嬉しそうに声をあげる。
幼いナターシャはお姉ちゃんに編んでもらった、と自分のおさげを自慢した。
砂のこぼれる袖で娘を抱き上げた。
猫が床に着地し、足に擦り寄って喉を鳴らす。
食堂からサモワールを淹れる妻の晴れやかな声が聞こえてきた。
左の部屋の高音がぴたりと止む。
愛しい妻と愛くるしい娘たち、そして猫と自分だけで砂糖を入れたお茶と焼き菓子を食べるのだ。
「帰りたい……」
提督は涙をこぼした。
「家に帰りたい……」
「大丈夫。きっと助かるから」
共和国語の優しい呼びかけ。涙で滲んだ戦場に可憐な少女の姿。少女はポトポフの足を踏み潰したあの鳥かごを一人で持ち上げようとしていた。
「お願い、動いて……」
動くはずはない。ポトポフの脚を潰したのは巨大な鉄の塊だ。それに立ち向かうには少女の腕はあまりにも細すぎた。クランドルフ大佐とヴェルシーニン少佐が駆けつけなければ、少女は爪から血を噴くまで砲にしがみついただろう。
「馬鹿者! はやく閣下をお助けせんか!」
大佐と少佐は黒煙の中で銃を操っている五人の兵隊を引き摺り下ろし、全員で鳥かごを動かした。
鳥かごが除けられた瞬間、つぶれた両足の傷口から血が一度に噴き出して、提督の意識がぐらついた。
世界がまざる。
大佐と少佐の哀願するような声。銃声。砲声。銃剣が石垣で擦れる不快な音。ぼんやりした意識を取り巻く温い風。ふわりとした感覚。
目の前が真珠色の光に包まれた。
うっとりとするほどきれいな光。
これが天国か。
……意識がはっきりしてきた。
提督はまだ戦場に転がっていた。
真珠色の光もまだ漂っている。光は収縮し、少女の手の中に収まった。
大佐、少佐、五人の兵隊は目を丸くしていた。
提督の足はきれいに修復されていた。ズタズタに裂けたズボンから見えるのはやや貧血気味で白くなったが、傷一つないきれいな足だった。
クランドルフ大佐とヴェルシーニン少佐が手を取り合って喜び、信心深い兵隊が口にするのも憚られるといわんばかりの神々しさに涙を流し、頭を深々と垂れている。
少女の姿はいつの間にか見えなくなっていた。
アピスは燃えさかる民家の中で笑っていた。
アピスが足を踏み入れたとき、既に家は火に巻かれて、黒煙が分厚い壁をなしていた。このまま、隅に座っていれば、いずれ窒息するか、焼け死ぬかするだろう。
それでいい。
アピスは心の中でつぶやき、また笑みをもらした。
嘲りや快さではない。分からないことに直面して、どうしたらいいか分からずに、はにかんだような笑い方だった。体の調子は悪い。あの公国の剣士に斬られた傷が悪化したのだ。
腕の傷ではなく、もっと奥底にある奇妙な傷だ。その傷は妙に温かく、そして分からない。
アピスの中で生まれた感情が任務だけに生きてきたこれまでの時間を激しく掻き乱してしまった。
自分でも分かっていた。任務を遂行できず、こんな感情を抱えた人間は密偵失格であり、取るべき手段はとっとと自分の命にケリをつけること。
それが自分に求められた最後の行動だと。
そう思って安らかな心持ちだったのに、シャルロットがやってきて、それも台無しになった。
何でやってきた? そう尋ねるとシャルロットは逆にこちらがたじろぐくらいの剣幕で、何でこんなところにじっとしていると怒鳴り返してきた。アピスは燃え盛る市街に入っていく様子をシャルロットに見られていたのだ。誰にも見られていないと思っていたが……自分の腕も落ちたものだ。
「どうしてこんなところにいるの?」
シャルロットがしつこくたずねるので、アピスは死ぬために決まっていると煩わしそうに返す。
するとシャルロットはますます怒った。アピスは苦笑した。
目の前の少女が新しい考えを吹き込んだ。自分はまだ死ねない。任務に失敗したのなら、それを大公に報告し処分を受けなければならない。勝手に傷心を気取り、自ら命を絶つなど自分らしくない。最後まで筋は通す。
シャルロットをマントの中に包み、火の中を突っ走った。自分でも驚くくらいの幸運が味方してくれた。焼け落ちる梁も炎の勢いも全ていなして、何とか外に転がり出る。
礼を言おうにしたシャルロットに、アピスはぶっきらぼうな態度で言った。
「勘違いするな。お前を死なせると物事が中途半端になる。それだけだ」
こんなとき、どうしたらいいか分からない。シャルロットが寄せる親密な視線が始末に困ってしょうがない。
アピスはぷいっと顔を逸らすと、足早にシャルロットの前から姿を消した。
王国軍軽歩兵師団第二十一連隊ジョン・ロックリー一等兵は堡塁の斜堤まで三十ヤードの場所にうつ伏せに倒れていた。
一発目は脇腹から腎臓をぶち抜き、背中を抜けた。
二発目はヘソのすぐ上を貫き、背骨にめり込んでいた。
どちらも堡塁付近に掘られた塹壕から飛んできたものだ。
最後の傷はほんのかすり傷。首筋に軟膏をちょろっと塗れば済む程度のものだった。何がかすったのかは分からずじまい。
自分が持っていたライフルは真っ二つに折れて、転がっている。
背中を圧迫する背嚢も、ひばりの鳴き声に似た銃声も、自分の血が撒き散らされる不快感も彼にはもはや作用しない。
戦友たちが倒れた彼に見向きもせず前進を続けてからの三十分間で彼は生を諦めて死を迎え入れる深遠な哲学を手に入れたのだ。諦めたのだ。
戦友たちを責めるつもりはこれっぽっちもなかった。練兵場でそうするように習ったのだからしょうがない。自分だってチョブルイ川でトラバースが倒れたとき歩き続けたじゃないか。
「しっかりして!」
共和国訛りの王国語だってロックリーには何の感情も起こさない。
なぜなら自分はもう五分前に死んでいるのだから。
赤十字腕章をピンで留めた可愛らしい腕がロックリーを引っくり返した。
「大丈夫よ。助けてあげるから」
少女はそう言って傷に手をかざそうとした。ロックリーの魂は不思議な感覚を味わった。少女の手から発せられた真珠色の光が、ロックリーの魂を手探りしているのだ。生きていたころには絶対に感じることの出来ない不思議な感覚だった。残念ながら、ロックリーの魂は既に遠いところにあった。
少女の手から光が引く。
小さな顔を泣きはらして、少女が言った。
「助けてあげられなかった……」
少女の涙を見て、やっとロックリーは心を痛めた。
本気で自分を助けてくれようとしていたことが涙で分かってしまった。
この子を悲しませたまま死んでいくのが、ひどい恩知らずに思えてくる。
謝ることができればいいんだが。
死んでしまった身となってはそれも叶わない。
「ごめんなさい……」
いや、いいんだよ。
それを最後に彼の思考は途絶えてしまった。
ツィーヌ・ルドルフォヴナ・シュトレーヴェナは瓦礫の上に横たわる士官候補生に悲しげな目を寄せた。
その士官候補生、アデルバート・ヘンリー・リップルコットは胸に砲弾片を受けて、肋骨が全て折れていた。折れた骨が肺を破り、膨らむことが出来なかった。吸い込むことの出来ない空気を求めて苦しそうに喘ぎ、胃に突き刺さった鉄の切れ端が食道を血で満たし、吐血させる。
ゴボッ。
かすかに空気を吸い込んでいた気道が血で塞がった。
「馬鹿ね」ツィーヌは冷たく言い捨てた。「私なんか庇わなければこんな目に合わずにすんだのに」
いくら言葉で冷血を気取っても、心の痛みがとれなかった。
榴弾がごろごろと転がってきたとき、アデルバートは例え敵であっても少女の命を危険に晒すわけにはいかないという古臭い騎士道に従って動き、ツィーヌを突き飛ばした。
その代償は真っ二つに割れた胸と苦痛の末に訪れる緩慢な死だった。
ゴボッ。アデルバートの喉がまた鳴った。
ツィーヌは首を横に向けてやり、喉に溜まった血を外に逃がし、少しでも息を吸えるようにした。
ひゅー、ひゅー。
掻き消えそうな呼吸音が続き、またどす黒い血が吐き散らされる。目は遠くを見るように細められ、頬は洗濯に失敗したハンカチのように色を失っている。
この手の負傷をした人間に対する処置は一つだけ。
「いま楽にしてあげる」
ツィーヌがナイフを取り出し、アデルバートの胸の上で逆手に握り締めた。
「やめて!」
シャルロットが飛び出して、アデルバートの体の上に被さった。
「どうしてそんなことができるの! どうして……」
見上げるとそこにはツィーヌの悲しげな顔。
「もう助からないわ」
アデルバートが弱々しい息を吐き、辛そうに呻いた。
ツィーヌはシャルロットの手を取って、アデルバートの上からどかした。
アデルバートの胸は砲弾の破片で砕かれていた。ボロボロに切り裂かれたシャツの合間から、肋骨が折れて飛び出している。苦痛と絶望に蝕まれていた。
「折れた骨が内臓まで達して、砲弾の破片が肺を貫いてる。あなたも看護婦なら分かるでしょ? 必要な処方は致死量のモルヒネだけよ。下がって目を閉じてなさい。見ても辛いだけだから」
ツィーヌはしゃがむとナイフをアデルバートの喉に当てた。
「やめて!」シャルロットはまた叫んだ。「まだ生きてるじゃない!」
「それはあなたの希望であって現実は違うわ。彼は死ぬ。それもあと三十分、助かる見込みもなく、苦痛に苛まれながら死ぬのよ。それでもあなたは手当てするの? ろくな道具もないのに」
シャルロットのエプロンはズタズタに千切れ、ポケットに入れておいた非常用の包帯や消毒薬は全て使い物にならなかった。
「やめて……」
「こんなこと、したくてするんじゃない」
「助けられる。私ならきっと……」
シャルロットは手をアデルバートの胸の上でかざした。折れた肋骨に触れるか触れないかくらいの距離だ。
目を閉じ震えながら息を吐き、死んだ祖母が教えてくれたことを思い出す。世界中の人間を助けたいなんて自惚れを捨てて、目の前の人だけを助けるために精一杯努力する。自分に出来ることがある限りあきらめたりせず、助けたいという強い気持ちを思いっきり相手にぶつけるのだ。
それで人を癒すことが出来る。
真珠色の光がシャルロットの手から紡ぎだされ、アデルバートの胸を覆いつくした。シャルロットの手に硬くて尖ったものが触れた。シャルロットはそれを握り締めた。
「これが秘宝の正体……」シャルロットがつぶやく。「私のおばあちゃん、おばあちゃんのおばあちゃんの時代から、いえ、もっと前から私たちに備わっていた力……。どんな病気や怪我でも治療することが出来る『命の力』よ」
「命の力……」
目の前で起きた現象をツィーヌは信じられなかった。シャルロットの両手からまぶしい光が放たれて、傷を包み込み、真っ二つに割れてしまった胸を修復してしまったのだ。シャルロットの手の中には体に食い込んでいたはずの砲弾片が握られていた。
「一体、これは……」
ツィーヌがたずねかけたとき、シャルロットの華奢な体は糸が切れた操り人形のようにその場に崩れおれていた。
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