騎士の約束
アデルバートとテオドールは地下監獄の武器庫扉を二人がかりで引き閉じようとしていた。二人が駆けてきた歩廊には気を失った帝国兵数人が横たわっている。
留め金具が確かな音を立てて穴に嵌り、分厚い扉が閉じられた。
「これでしばらく時間が稼げる」アデルバートは不安げだった。「ペイトンは大丈夫かな?」
テオドールは部屋を見て回った。武器庫は一辺三十メートルはある正方形の広い部屋だった。年代物の刀剣が青銅製の棚に収められて、頭上の梁には鋳鉄製のランタンが鈴なりにぶら下がっていた。壁際には用途が分からない革製道具と古びた鎧が寄せ集められている。だが、もう一方の壁には武具の修理室と仮眠所、そして牢獄塔へと続く階段が口を開けていた。
「最後の牢獄に通じる階段です」テオドールが言った。「さあ、アデルバート。あと少しです。急ぎましょう」
「…………」
滴った水が石の板を打つ音が響く――返事はない。
「アデルバート?」
テオドールは不審に思い、振り向いた。
目に飛び込んだ光景に剣を握る手が強張る。
アデルバートの剣は足元の床に転がり、口は黒い手袋をはめた手に塞がれていた。短剣を喉にあてられ、目を悔しそうに細めている。
気配を殺して背後を取り、相手を完全な制圧下に置く――そんな非情の好敵手にテオドールは心当たりがあった。
「また会いましたね」
テオドールはあくまで涼しげな微笑を崩さない。黒装束のアピスが冷酷に言い放つ。
「剣を捨てろ」
テオドールは動かなかった。薄く開いた瞼の間から微笑の視線を投げかける。しかし、そこには一種の冷たさがあった。
数学者の冷たさ。テオドールは相手までの距離を計り、切り込めるかどうかを慎重に『計算』した。
「んう!」アデルバートが呻く。アピスの短剣がかなり鋭い角度で喉に突きつけられていた。
テオドールは計算を捨てた。剣吊りベルトの留め金を指で弾き、剣ごとを床に落とす。
「隅に蹴飛ばせ」
言われたとおり蹴飛ばす。剣の金具がカチッ、カチッと火花を散らしながら、暗がりへ滑っていった。
「剣以外の武器も全て捨てろ」
テオドールはパリーイング・ダガーも捨てて、隅に蹴り飛ばした。
「ピストルは持っていません。他にご注文は?」
アピスは短剣を喉から外すと、アデルバートをテオドールの足元に突き飛ばした。
「げほっ、げほっ」
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
アピスが手を開き、短剣がカランと床に落ちる。それ以外の武器も全て捨てた。投げナイフを結んだベルトを解き、袖をめくりあげると投げ針、毒の小瓶を後ろに放り投げた。踵を踏み込み、ブーツに仕込んだ刃を振り出すと石床を蹴っ飛ばして、刃をへし折った。
暗殺用の武器を一通り放棄すると、横の樽に突っ込まれた一対のレイピアを取り、一本をテオドールに投げ渡す。
「それを使え」
アピスは鞘を払い落とした。テオドールもそれに倣って鞘を捨てた。
柄を握る。スウェプト・ヒルト(手を守る籠型の鍔飾り)が少し重い。S字型の鍔と指をかける鉄の輪に軽く触れ、感触と重心を指先で覚る。テオドールは微笑した。
「少し造りが古いようですね。いい剣です」
アピスは足を軽く開くと剣をまっすぐテオドールに向けた。テオドールは悠長な動作で上衣を脱ぎ、壁付燭台にかけていた。
アピスが目をきつく閉じ、いらだたしげに言う。
「はやく構えろ。望みどおり剣で戦ってやる」
「私の希望を叶えてくれるのですね。では、おねだりついでにしばしのお時間をいただきます」
テオドールは先に行くようアデルバートに促した。
「彼女の実力はあなたよりも上です。ここは私に任せて、先を急いでください」
「でも……」
「これは私と彼女の勝負です。……あなたは大切な友人です、アデルバート。そしてシャルロットも……。はやく助けに行ってあげなさい」
「……騎士として約束してください。絶対に死んだりしないと」
テオドールはいつもの涼しい微笑でうなずいた。
「ええ。死んだりしませんとも。さ、はやく」
アデルバートは剣を拾うと、テオドールの言葉を信じた証として振り向くことなく先へ進んだ。
階段に消えたアデルバートに満足げにうなずくと、テオドールはアピスをちらと見やった。
アピスは基本の構えのまま、テオドールが構えるのを待っていた。右手の剣を床と平行にまっすぐ構え、左手は肘を軽く曲げて頬の横に寄せ、バランスを取っている。
テオドールも構えた。肩幅ほどに足を開き、鍔の鉄輪に指二本を引っかけて、剣を静かに持ち上げる。使う予定のない左手は背中に回しておいた。
「二つのお礼をさせてください」
「礼だと?」
「ええ。まずは剣を手にしてくれたことです。あなたとはちゃんと剣と剣で渡りあってみたかった。小道具なしでね。もう一つは針のことです。あなた、岩窟寺院でアデルバートの首に針を突き刺したでしょう? ですが、針に毒は仕込まれていなかった。今だってアデルバートに危害は加えませんでしたね。その様子ならシャルロットも無事なのでしょう。心から感謝します。もし、あなたが二人を傷つけたのであれば、私は――」
テオドールは涼しい笑みのまま言った。
「あなたを斬るつもりでした」
やっと殺る気になったか。アピスの目が情熱を帯びた殺気できらりと光る。テオドールの表情に殺意の残り香を見つけたからだ。
「その命、貰い受ける」
アピスの剣が紅い光となって、テオドールの顔に突きかかる。テオドールは足を半歩引きながら、最小の動作で突きを払った。
攻め手がテオドールに移る。手首を左回りに一周させながら踏み込み、逆袈裟に斬りかかる。アピスの剣身が斬撃を受け止めると、鍔に刀身を絡めさせようとしてきた。
危険を察知して、素早く剣を引いた。そこに乗じてアピスの突きが伸び切る。
切り落とす隙がなく、足をさらに引く。
アピスは後ろ足を前に出して、膝を伸ばし、さらに前へと突きかかってくる。
背後は甲冑に塞がれていた。
突きを右にいなそうと体を廻らせると、光陰の突きが主なき甲冑が倒す。
相手は手首を曲げて執拗に刃を追わせてきた。テオドールがヒルトから指三本離れた位置で刀身を受け止めると、アピスは素早く上体を反らし、剣の尖端でヒルトを絡め取ろうとしてくる。
もし剣が絡められれば、アピスはそのままテオドールの剣を天井に跳ね上げる。そうなると鍔の指輪にかけているテオドールの指は不自然な形に捻じ上げられ、葦のように容易く折れてしまう。
手首を最大限に利用した突きの変則やそうした技の豊富さから鑑みると、アピスが人を背中から刺す以上に正面から斬る技術に長けているのは明らかだった。
テオドールの剣がアピスの脛を狙って切り下がり、切っ先同士のぶつかり合いが続く。
探るように突き、挑むように踏み込む。だが、行き過ぎはない。
相手が半歩進めば、自分も半歩下がる。
お互いの実力を測り、必要以上には踏み込まない牽制が続いた。
灯心をきらしたランタンが一つ、また一つと消えていく。
時の経過はテオドールに不利だった。アピスは暗闇でも目が利くらしいが、自分はそうではない。時間と共に移動できる場所が限られていく。
「待て」
そう言ったのはアピスのほうだった。
構えを解いて手を上げると、修理室から陶器のオイルランプを持ってきて、灯を点しなおした。武器庫が以前よりも明るくなり、視界が向上する。
アピスが示した意外な行動に対し、心地よい認識が生まれた。
(暗殺者ではない。彼女は立派な騎士だ)
実際にそう口にもした。だが、アピスの反応は冷ややかだった。
「約束しろ。勝ったら助命はしない、と」
テオドールは無言で拒む。
アピスが声を張った。
「騎士として約束しろ!」
命を賭す一剣士としての真摯な訴えだった。これをはぐらかすのは騎士道に悖る。
「いいでしょう」
テオドールは笑みを掻き消して応じた。
思う存分、剣を交えた。
剣のかち合う音は余りにも激しく、降り注ぐ雹が屋根を打つようだった。
突いては払われ、一歩引く。
アピスの手袋に血が滲み、テオドールのチョッキからボタンが一つ切り飛ばされた。
二人の剣士は戦いながら床の癖を把握した。踏み込みやすい石はどこか、守りにくい角はどこか? 石の継ぎ目や割れ目、古い蝋燭の垂れ跡、滑りやすい通路の位置が戦っているうちに踵とつま先に染み込む。
アピスもテオドールも剣戟の渦中で神経を削りながら、少しでも有利な足場を得ようと動いている。
二十分が経過した。お互いに荒々しく息をつき、冷たい空気を吸い込んで焼けつきそうな肺を冷まそうとする。
重々しい音が頭上から響き、塵芥が天井からこぼれてくる。
同盟軍の総攻撃が開始されたのだ。
アピスが舌打ちし、テオドールも眉を少しだけしかめる。踵は不自然な震動に揺れ、ランタンや蝋燭が落ちてしまい、武器庫の明かりは一つだけになった。
そのとき二人は五メートル四方の板張り床の上に立っていた。二人の剣士は最後のランタンが投げかける光をはさんで、ゆっくり回り、剣と剣、目と目を向き合わせていた。
剣は光の中に、身は闇の中に置きながらの睨み合いである。
床に映し出された丸い光の中を二つの剣影が時計の針さながらにゆっくり回る。
もはや腹の探り合いをしても埒は明かない。
剣、技、足場、光――力量と条件は同等であり、もはや決着をつける材料は偶然以外に存在しない。
それを悟った二人は同時に足を止めた。
また砲撃があり、支柱が悲鳴のような軋みをもらした。この部屋が砲撃に押し潰されるのは時間の問題だった。
「あまり時間をかけてはいられませんね」
「同感だ」
言い終わるがはやいか二人の体が同時に閃き、剣は火花を散らして同時に打ち合った。
二人の剣士はすれ違い、闇に飛び込んだ。
再び大きな着弾。誰もいない光の輪が激しく揺れ動く。
左に揺れた光の輪はまずテオドールの姿を照らし出した。
チョッキが血で濡れている。
ランタンが右に振れた。
テオドールの姿が闇に隠れ、アピスの姿が光の中に現れた。
血がほとばしる右腕を押さえ、背を軽く曲げてうずくまっていた。剣は弾き飛ばされたのか光の中には見当たらず、右手は虚空を握り締めていた。
アピスは感情のない視線を闇に泳がせ、口をつぐんでいた。
最後のランタンが吊り鉤から外れて、地面に落ちた。
火はまだ死んでおらず、二人をかすかに照らしている。籠と蝋の受け皿に邪魔されて光が不自然な形で放たれていたので、テオドールの右半身だけは闇に包まれたままだった。
アピスが背を向けたまま物憂げに言った。
「お前は約束した」
「ええ、確かに」
テオドールはチョッキの返り血を拭った。
「私を殺せ」
「それはできません」
アピスがテオドールに振り返る。紅い髪が闇と灯の境界を流れ、葡萄酒色に照り閃く。その眼は怒りに燃えていた。
「貴様、私を愚弄するか……騎士が約束を破るのか!」
「そうではありません」
テオドールは闇に隠れた右手を振るい、何かを放った。
「勝負は引き分けです」
光の中に折れた剣が落ちた。
「やはり慣れない剣はいけませんね。でも、美しい」
スウェプト・ヒルトが映す複雑な影模様は湖に遊ぶ白鳥のように見える。
アピスはその影を苦々しく見据えていた。
「……折れた剣でもトドメくらいは刺せる」
「それはあなたも同じです。左手でも剣は扱えるのでしょう? お互いに実力は把握しました。楽しかったです。でも、もういいでしょう」
テオドールはアピスの右腕を手に取った。
「な、何をする?」
声に初めて動揺が現れる。
テオドールはアピスの腕を胸よりも高い位置に掲げさせたまま、胸ポケットのハンカチを四つ折にして傷に押し当てた。
「やめろ……」
斬られるよりも辛そうな呻き。アピスは腕を振り払おうとした。
だが、テオドールの手は優しく握りつつも離れない。
「深く切ったつもりはありませんが、放っておいてもいけません」
テオドールは指を蝶ネクタイの結び目に差し込むと素早く解き、それで傷にあてたハンカチをきゅっと縛る。テオドールはチョッキから懐中時計を取り出し、長針の反対側をこつこつ叩いた。
「今からきっかり三十分後に止血帯を緩めてください。多少は血を通わせる必要があります」
「なぜ殺さない……」
「そういうあなたはなぜ死にたがるのです?」
「決まっている」
アピスは手を振りほどくと、うつむいて悔しそうにこぼした。
「任務を遂行できなかった。そんな人間に価値はない」
テオドールは、ふむ、とうなずいた。
「偶然ですね。私も任務に失敗しました。というより自ら放棄してしまったのです。実は私も秘宝奪取を命じられた身なのですが、アデルバートに譲ることにしました。それが一番です。――あなたも見たでしょう? 秘宝は宝石でもなければ黄金でもありません。それは一人の少女でした。囚われの少女には勇敢な騎士が一人いればそれでいい。そっとしておくのが一番です」
「下らない……」
「下らないのではなく、分からないだけなのでは?」
「っ!」
アピスは弾かれたように目を上げた。
だが、テオドールの姿はもうなかった。
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