技と力

 二時間前。オリガ堡塁とマリア堡塁の間の市街。

「男爵! テオドール! おーい、我が友!」

 見覚えのあるホンブルク帽がひょこひょこ動く。

「君も捕まっちゃったのかい? いやあ、参ったね!」

 二人の歩兵と一人の少尉に挟まれたミクローシュは親友との再会に喜び、手首につけた新しいアクセサリーをじゃらじゃら鳴らした。

「この通りさ、テオドール! あれから一人で特ダネを探して荒野をうろついてたら、帝国兵に捕まってちゃってね。僕の取材に対して、非協力的な態度を取るもんで僕も言ってやったよ。このオタンコナスって! あっ、大丈夫! 彼ら、どうせ帝国語しか分からないから、いくら悪口言っても平気だもんね」

 平気ではない。二人の兵士はとにかく、少尉は不機嫌に顔をしかめている。明らかにミクローシュの言っていることを理解していた。少尉は帝国語で二人の兵士に話しかけたが、その内容は次のようなものだった。

「〈あの連合公国士官を連れて来るんだ。どうも怪しい。それにあのコサック。あんな赤ら顔のコサックなどいるものか。こうなるとあの水兵の小僧も怪しいぞ。密偵かもしれん〉」

 テオドールは帝国少尉の不用心な大声をしっかり聞き取っていた。

「みなさん。申し訳ない」テオドールが嘆息した。「うっかり者のミクローシュがとんだことをしてくれました。あの兵士たちは私たちを不審に思い、どこかの監獄に連行しようとしています」

 ペイトンは辺りに素早く目を配った。住人は避難していたから、街路に人影はない。土手の上に砲兵たちがいたが、距離が遠すぎる。ここで一騒ぎ起こしても、彼らは気が付かないだろう。ちょうど左の鍛冶屋には馬車の車軸が放置してある。あの一振りで帝国兵たちを一薙ぎにする自信があった。

「俺が合図したら伏せてくれ。ちょっと派手に暴れる。坊ちゃんもですよ。ここは俺に任せてください」

 テオドールが慌てて制止する。

「いえ、待ってください。ここは大人しく連行されましょう」

「騒ぎにゃならない。朝飯前に倒せる」

「そうではありません」テオドールは余裕の笑みを見せた。「彼らはこう言っています。『さっき看護婦を閉じ込めた堡塁まで連れて行け』と」

「シャルロットだ!」と、アデルバート。

「その通りです。黙って従えば、シャルロットの元へ彼らが案内してくれますよ」

 帝国兵がマスケットをアデルバートたちに向けた。三人は素直に従って両手をあげた。二本の松明に挟まれた鎧戸が錆びついた金具を鳴らして口を開け、四人の捕虜は暗闇の中に飲み込まれていった。

 帝国兵が最後につき、鎧戸が閉じられる。

 その様子を灯火の絶えた民家の屋根から見下ろす影が一人。

 影はすうっと夜に消えていった。


「間違いないか?」

 アピスは鳥かご型の檻で気を失っているシャルロットを見ながらたずねた。

「はっ。奴らです」

 夜の街を跳び駆けて先回りしたパーヴェルは膝を折って、身を低くしアピスに仔細を報告した。

「娘を取り返しに来たか……」

 パーヴェルとツィーヌは緊張しながら命令を待った。

 アピスは短剣をいじくるのを止め手袋を脱ぎ、指先を自分の喉にそっと触れさせた。

 あの公国将校の切っ先が思い出される。

 体が火照った。馬鹿馬鹿しいが、あの男との再戦を喜ぶ自分がここにいる。ちっとも悔しさが込み上げず、むしろ清々しさを感じかけている。

 それが理解できない。

 アピスは短剣を鞘に入れ、手袋をはめた。

「私とパーヴェルで片づける。ツィーヌ、お前はここに残れ」

「はっ」

 二つの影はツィーヌを置いて、闇に掻き消えた。


「悪かったよ、テオドール。君が言うとおり引き返していれば、こんなことにはならなかったんだからね。それにしても、あのお嬢さんが帝国に囚われてたとはねえ。情報収集なら任せてくれって言いたいところだけど、囚われの身となっては胡坐をかくにも困る有様。ほんとにごめんよ、テオドール」

 イリーナ堡塁に通じる地下道を歩かされながら、ミクローシュはのべつまくなしまくし立てた。愛馬と荷馬車は没収され、テオドールの剣もベルトごと帝国少尉に奪い取られていた。アデルバートたちも同様で軍刀とピストルを奪われている。

 ジメジメした石の廊下はむき出しの蝋燭以外に照明を持っていなかった。かすかな光を通り過ぎる度に先行する少尉の姿が闇の中で見えなくなった。背後では装填済みマスケットの銃口が二つ、鈍い光を放ちながら、アデルバートとペイトンを凝視している。

 この地下道はイリーナ堡塁の牢獄に繋がっていた。少尉の言葉尻を拾って繋ぎ合わせた情報によればシャルロットはイリーナ堡塁の牢獄塔に監禁されているようである。牢獄塔に行くには一度、堡塁の地下最深部に行かなければならない。

 三人の作戦はこうだった。イリーナ堡塁の監獄でシャルロットを見つけたら、闇に乗じて帝国兵に襲いかかる。マスケットの銃口は一応ペイトンとアデルバートの背中に向けられているが、帝国兵は暗い道を歩くとき、二人の背中を一瞬見失う。そこで襲いかかり銃身をすくい上げてしまえば、弾は天井に無駄撃ちされて隙だらけの胴にきつい一撃をお見舞いできるのだ。そうしたら、テオドールが先頭の少尉を倒してくれる。少尉はずっとテオドールに背を向けているので、こちらはずっと容易く倒せるはずだ。

 以上の華々しい逆転劇は両手を拘束する枷をどうにか出来たらの話である。いまやミクローシュとテオドール、アデルバートとペイトンは同じ鎖で繋がれてしまっていた。

 ミクローシュは首を振り振り、特ダネもないままスパイとして処刑される我が身を嘆いていた。

「絞首刑かな? 銃殺刑かな? それとも大砲につめられて吹き飛ばされるかな? ああ、テオドール! 処刑のときが来たら、僕を先に死なせてくれ。君が殺される姿なんて、僕、とてもじゃないけど見ていられないよ」

「大丈夫ですよ、ミクローシュ」

「大丈夫じゃないよ、テオドール! 僕らはみんな絞首刑さ。あー! ごめんよ、ごめんよ、ごめんよ、テオドール! 僕、もし生きて王国に帰ることが出来たら、『トゥルー・サイト』紙の第一面に謝罪広告をでかでかと載せるよ。ごめんなさい、テオドールって!」

「おやめなさい。真剣に恥ずかしいですから」

 帝国軍の少尉が共和国語で怒鳴った。

「うるさいぞ! 静かにしろ!」

 ミクローシュがムッとして言い返した。

「なんだい! えらそうに! どうせ僕らは絞首刑なんだ。今更そんな小言怖くもなんともないね。べーっ!」

 ミクローシュが舌を出して少尉をおちょくると、少尉がミクローシュの脛を蹴飛ばした。

 ミクローシュはカンカンになり、

「こらあ! よくもやったな! 物書きならば誰でも羨む文才の一撃、ミクローシュ・パンチを受けてみよ!」

 ミクローシュが拳を突き出すと、同じ鎖に繋がれたテオドールが引っぱられてしまい、大きくよろめいた。テオドールは石床の上へ背中から倒れてしまった。

 少尉は舌打ちしながら立ち止まった。ミクローシュは手を貸しながらテオドールに謝った。

「ごめんよ、テオドール。僕はどうもそそっかしくて……」

「ほんとだぜ。お騒がせ野郎め」

 後ろを歩くペイトンが口を尖らせて、ミクローシュを責めた。

 どうもペイトンにはミクローシュの軽さが不愉快らしい。

 ミクローシュは髭をピンと立てて、ペイトンにやり返した。

「なんだい、君は? 僕はテオドールに謝ったんだ。君に責められる筋合いはないよ、クマ吉くん」

 ペイトンも髭を怒らせて言い返した。

「俺の名前はクマ吉じゃねえ、ペイトンだ」

「そうやって怒るところがますますクマっぽいよ。クマ三郎くん!」

「んだと、ヒョーロク玉!」

「ペイトン、落ち着いて」

「おやめなさい、二人とも」

「貴様ら、黙らんか! 口を閉じろ!」

 ミクローシュもペイトンもやめなかった。

「筋肉だるま」

「ダメインテリ」

「岩石男」

「口だけヤロー」

「手枷がお似合いだよ、クマ太郎くん。サーカスにでも売られたまえ。玉乗りは出来るかい?」

「俺の名前はペイトンだ! 何度も言わせるな! 今度、クマ呼ばわりしやがったら逆さまにして樽に放り込んでやる。こんなふうにな!」

 バキッ! ペイトンは手枷を千切ると、隣にいた帝国兵を引っつかんで樽に放り込んだ。もちろん逆さまにしてである。

アデルバートが千切れた鎖を振るって、すぐ横の帝国兵を打ち倒す。

「貴様らあ!」

 帝国士官がピストルを取り出すも、テオドールとミクローシュが振り上げた鎖に腕を取られてピストルを落としてしまった。少尉はそのまま壁に押しつけられると、テオドールの当身で気絶した。

 少尉のベルトから手枷の鍵を奪い、手首を自由にするとテオドールとアデルバートは鞘を被ったままの剣を手に取り、廊下を進む。ペイトンはリボルバーを抜いて、周囲を見回した。

 廊下の突き当たりが重々しい鉄扉で閉ざされている。

 テオドールが扉を叩くと誰何の声が響いてきた。

「〈誰だ?〉」

 テオドールが淀みなく答える。

「〈第十四歩兵師団第二十三タルビンスキー連隊コズイリョフ少佐の伝令です。火急の用件だとお伝えください〉」

 閂と留め金が外れる音がした。軋みながら扉が開き、僅かな間隙から哨所の灯が差し込んできた。

 そこにペイトンが肩からぶち当たる。扉の後ろにいた帝国兵が弾き飛ばされ、机に頭をぶつけて気を失った。対面の書き物机で岩塩の塊を弄んでいた士官は咄嗟にピストルに手を伸ばしたが、鞘ごと振り下ろされたアデルバートの一太刀を首に受け、机に突っ伏した。

 テオドールとアデルバートは倒した帝国兵たちを掩蔽壕の中に放り込み、入り口を箪笥で閉め切ってしまった。

「おお~い!」

 背後の廊下からやや高い声で呼びかけられる。

「僕の鎖も解いておくれよ。鍵が錆びてて折れちゃったんだ」

 ミクローシュが手枷をしたまま床に転がっていた。

 ペイトンはニヤニヤしながら意地悪く返す。

「さあて、どうしたもんかな? たしかお前の話じゃ、俺はサーカスに売られちまったほうがいい玉乗りクマ公なんだっけ?」

 ミクローシュがぎくりと体を震わす。

「や、やだなあ。あれはほら、敵を油断させるためのジョークだよ。そ、ジョーク! 僕は、君が僕と織り成す絶妙な掛け合いを利用して大どんでん返しを企んでいるって分かってたからこそ、いろいろ悪口も言ったのさ。本心からの言葉じゃないんだ。だから、お願いだよお! 『トゥルー・サイト』に君の武勇伝をでかでかと載せてあげるから!」

「嬉しくもねえや、そんなもん。……しょうがねえな」

 ペイトンは大きなリボルバーをミクローシュの手に押しつけた。

「それ貸してやるから、自分でその手枷を撃ち抜きな」

「ちょ、ちょっと! 僕は手首を鎖でくくられてるんだよ! この状態でどうやって手枷を撃つのさ! 大体、僕は銃なんか撃ったことないんだから」

「それはお前の都合だ。ほら、敵が来る前にとっとと撃てよ」

「そんなあ」

 アデルバートが眉をひそめて窘めた。

「ペイトン。意地悪しないで外してあげるんだ」

「あいあいさー。坊ちゃんのご命令とあらば」

 ペイトンはミクローシュの手首をつかむと、その太い指を金板とミクローシュの手の間にねじ込み、ぐいっと引っ張った。ペイトンの人間離れした握力は手枷の鍵をやすやすと引き千切ってしまった。

「イタイ! もっと優しくやってくれたまえよ!」

「助けてもらって文句言うんじゃねえよ、この――ッ!」

 ことり、と物音がした。

 哨所の隅、ランタンの間に染みこんだ闇の中に気配を感じる。

 闇の中から囁くような忍び笑いが聞こえてきた。

 ペイトンがミクローシュの手から銃をもぎ取ったのと闇の中からナイフが放たれたのはほぼ同時だった。

 咄嗟の銃弾がナイフを砕く。銃火が迫り来る暗殺者の輪郭を描き出した。

 暗殺者は針金のように鋭い二本の指をペイトンの両目に突き立てようとした。

 ペイトンは突き出された目潰しを銃身で受け止めた。手袋の縫い目も確認できるほどの近さで指が止まる。だが、銃身は指を押し止めながらもかすかに前傾し、暗殺者の額をぎりぎりで狙える位置まで銃口を下げていた。指と銃身を介して、熊のような大男と華奢な少年がにらみ合う。信じられないことに力は互角。

 ペイトンが蹴り上げると暗殺者は宙返りしながら濃い闇の中へ飛び退いた。

「先に行け!」

 ペイトンが咆えた。リボルバーの銃口が闇に隠れた敵に向けられている。

 アデルバートは一瞬躊躇ったがテオドールに手を引かれて、監獄へ走った。

 ミクローシュはへたりこみ、

「あ、あのお……腰がぬけちゃって走れないんだけど」

「邪魔になんねえように隅で縮こまってな」

「はいはい」

 ミクローシュはもぞもぞずり下がると、書き物机の下に潜り込んだ。

 ペイトンも一歩ずつゆっくりと哨所の事務室に下がる。書き物机の上に転がるこぶし大の岩塩を手に取り、気つけ代わりに一舐めして注意を研ぎ澄ます。

「名前ぐらい教えろよ。ペイトン・ブレンズギルだ」

 つま先から首まで夜色の装束でかためた少年が薄明かりの中に足を踏み入れ、ぽつりと名乗った。

「パーヴェル・アルカジーヴィチ・ベネドーノフ」

「わりい。長すぎて覚えられなかった」

「覚える必要はないよ。どうせ殺されるんだから」

 ペイトンが残酷とも思える笑みで顔を歪める。

「なりは小さいくせに大口は叩くんだな。いいぜ、相手になってやる」

 机の下からミクローシュの遠慮がちな声がしてきた。

「あ、あのう、いま『殺される』って言ったよね? それって僕も含まれるの?」

 返答の代わりに投げナイフが薄っぺらい机を貫いた。

「ひゃあー! 危ないじゃないか!」

 机がぶるぶる震え、不平を鳴らす。ペイトンが呆れ気味に投げナイフの意味を翻訳した。

「黙ってろってことだ」

 言い終わると同時に発砲。パーヴェルは左に避けて、衝立の陰に隠れた。銃口でそれを追いつつ撃鉄を切り替えて散弾を放つ。衝立がみじん切りにされたが、パーヴェルの姿は影も形も残っていなかった。

(野郎……どこに消えた?)

 天井の梁からパーヴェルがきりもみ状に飛び降りて、ペイトンに少なくとも三回、手刀を見舞った。

手から銃が弾き飛ばされた。短めだったコサック外套がさらに短く切り詰められ、左の頬髯が切り飛ばされる。

 パーヴェルの指には剃刀が二枚ずつ挟まっていた。下手なナイフよりもずっと切れ味が鋭く、繰り出される攻撃も避けづらい。

 パーヴェルは薄く笑みを浮かべて、剃刀を操った。その身こなしは素早く、闇から闇へ姿を隠しながら襲いかかるものだから掴みかかろうにもなかなか的を捉えられない。ペイトンが逃れる方向には必ず剃刀の一閃が待っている。ぎりぎりで避けると今度は部屋を灯す蝋燭が切り裂かれて、新たな闇を作り出す。灯が消えれば消えるほど、黒装束のパーヴェルは有利になる。ペイトンは自然と部屋の隅に追い込まれた。

 ランタンがかかった一角である。パーヴェルは手の中で剃刀の向きを変えて、手の内側に刃を入れた。このまま喉を締めれば、剃刀が動脈を切り裂く。

「思ったより弱いね。死んでもらうよ」

 パーヴェルは走りこむために身を落とし、石床の継ぎ目につま先を引っかけた。

 ペイトンは少しも怯まず言い返す。

「かかってきなよ。お嬢さん」

 睫の長いパーヴェルの瞳が一瞬揺らぐ。感情を殺していたはずの目元に憤怒の痙攣が走った。

「僕は男だ」

 パーヴェルが細い首を強張らせ、凛と言い放つ。骨まで凍りつきそうな冷たい殺気を向けるも、ペイトンはせせら笑いで返した。

「怒るなよ、お嬢さん。手で引っ叩くような戦い方が女みたいだってのさ。男なら拳骨でかかってこい」

 パーヴェルはペイトンを睨みながら閉じた口の中で歯を食いしばった。葛藤が指先を走る。

 意地が理性に勝った。剃刀が床に落ち、高い音が鳴る。

 パーヴェルは黒いマスクを引き上げた。白い顔が闇に消える。

 ペイトンも不敵に笑い、拳をバキバキ鳴らした。

「馬鹿なやつ。剃刀でやられれば楽に死ねたのに」

「そいつぁどうかな?」

 先手はパーヴェルが打った。

「ハッ!」

 狙い澄ました回し蹴りがペイトンの頬骨にめり込んだ。つづいて拳が軽く弧を描きながら胸板を突く。パーヴェルは非力を補う正確さで相手の急所に痛打を与えていた。ペイトンが両手を組んで振り下ろすとパーヴェルは嘲り笑いながら懐に潜りこみ、顎を蹴り上げた。

 ペイトンの体が大きく後ろに仰け反った。

 トッ、トッ、と軽く足を打ちながらパーヴェルが後ずさる。跳ねながら筋をほぐすように手首をぶらつかせた。

 これで倒れるだろう。そう思ったパーヴェルは無様に伸びきったペイトンを想像しほくそ笑んだ。

 だが、ペイトンは倒れなかった。仰け反った上体をぐっと止めて前に戻すと、ぶるぶる頭を振るい額に垂れた血と目の霞を追い払って、にやりと笑った。

「やんわり撫でられたのかと思ったぜ、お嬢ちゃん」

「誰にもお嬢ちゃんなんて呼ばせない……」

「怒るなって、お嬢ちゃん。大逆転を見せてやる」

 今度はペイトンが襲いかかった。鉄板をぶち割ったこともあるストレートが風を巻き込んで繰り出される。

 パーヴェルは風圧を感じるくらいの距離でかわし、手の平で相手の顎を強打した後、後退して闇に紛れた。

 剃刀に追い詰められたときと同様、ペイトンの不利は変わっていない。パーヴェルは攻撃するときのみ闇から身を躍らせ、ペイトンが仕掛けようとすると素早く暗闇に隠れて、気配を殺してしまう。

 一度だけチャンスがあった。ペイトンが蹴り飛ばした椅子に足をとられ、パーヴェルが転倒したのだ。

 だが、石床にヒビが入るほどの踏みつけもあっけなく避けられてしまった。

 一度でも相手の体をつかめれば勝利はペイトンの手元に転がり込む。以前やったように床に叩きつけてしまえばよい。

 だが、それが出来ない。

 パーヴェルの纏っている特殊な黒装束は一度闇に溶ければ、光を吸収して少しも跳ね返さない。手袋やマスク、ブーツも同様で放たれる蹴りや手刀も目の前に迫るまではどこから飛んでくるのか分からないのだ。

「ふふっ、どうしたの? はやく逆転してみてよ」

 闇の中から嘲りが聞こえてくるが、声が反響し位置は知れない。

 パーヴェルもそれを承知で喋っている。本来ならば、すぐにペイトンを始末してアデルバートたちの後を追うのがスパイとしての務めである。

 だが、自分を少女呼ばわりしたこの大男がどうしても許せなかった。生まれつき小柄で華奢なパーヴェルはその不利を克服するためにひたすら訓練に打ち込んだ。今の強さは血の滲むような努力の上に立っている。

 だから、生まれながら体格に恵まれたこの男の強さには嫌悪感が湧いた。殺さずにぎりぎりまで追い詰めて命乞いをさせないと気が済まない。以前戦ったときに使った投げ技は相手の勢いを利用する特殊な武術だったが、今回は自分の打撃力のみでこの大男を倒したかった。

 一方的な戦いが続く。パーヴェルの正確な蹴りを何発も喰らっていながら、ペイトンの攻撃はかすってすらいない。以前なら月明りを頼りに戦えたが、この地下室では光があまりに貧弱だった。

 いまや地下哨所を照らすのは書き物机の蝋燭のみ。ペイトンも上衣を脱ぎ捨ててズボン吊り姿で戦っていたが、シャツは赤く染まり、その赤ら顔にはまだ流れて間もない鮮血がべっとりしていた。額は切れて、目が片方塞がりかけている。肩で息をするようになり、くらくらする頭を何とか保つために太い首を常に突っ張っていた。

 ペイトンは机の上に転がった岩塩をつかむと力任せに握りつぶした。白い塩の粉末が足元に散らばる。ペイトンは手に残った塩を舐めて、途切れかけの意識を呼び戻した。

 パーヴェルは相変わらず闇に潜んでいる。

 芳しくない戦況に書き物机のミクローシュががたごと呻き出した。

「あのー、奮闘は承知の上でお聞きしますが……勝てそう?」

「さあな。負けるかもしれん」

「ま、待った! そんな弱気じゃ困る! 君が死んじゃったら次に殺されるのは僕じゃないか!」

「お前、机のくせに飲み込みが早いな。その通り。俺の次はお前だ」

「さ、参考までに聞くけど!」ミクローシュが机の下からひょいと顔を出して、恐る恐る闇の中のパーヴェルにたずねた。「僕はどんなふうに殺される予定?」

「首をへし折るつもりだけど」

 律儀で冷酷な返答。泣きそうな顔で見つめてくるミクローシュにペイトンは肩をすくめた。

「物書きならば誰でも恨めしいボンクラの一撃、肉ロース・パンチで何とかすりゃいいだろ」

「物書きならば誰でも羨む文才の一撃ミクローシュ・パンチだよ! それに、その、なんていうか……あのパンチは一日一回しか使っちゃいけない決まりなんだ。今日の分はさっき使っちゃったんだから、もっと君に頑張ってもらわないと」

「ったく。調子いいな」

 パーヴェルは書き物机左側の闇からペイトンの様子を窺っていた。軽口を叩いて余裕を示す態度が気に入らなかった。舌打ちも我慢して気配を殺し、真面目に隙を窺っている自分が馬鹿みたいに思えてくる。この男はどんなに急所を責めても全くこたえない。

 その余裕を次の攻撃で完全に打ち崩してやる。無様に地を這わせてみせる。

 空気が動き、蝋燭の灯が床に映るペイトンの影をぐらりと揺らす。

 パーヴェルは思い切って飛び上がり、ペイトンの腰、胸、頭を次々と蹴った。ペイトンは攻撃を肘で防ごうにもうまくいかず、とっ捕まえようと両腕を振り出せば、パーヴェルが音もなく沈み、脛に激痛が走った。

 骨まで痛む下段蹴りを食らい、ペイトンは片膝をついて頭をぐっと下げる。

 パーヴェルは左足を塩だらけの床に軸として残し右脚を振り上げると、かかと落としを見舞った。死に至るほどの一撃が首の付け根に叩きつけられる。

 だが、まだ倒れない。

 首元へ踏みつけるような飛び蹴りを打ち込むと宙返りしつつ闇の中に退いた。

 ペイトンはうつぶせに倒れ、動かなくなった。

 闇に身を退きながら、マスクを外して地下の埃っぽい空気を吸い込み、あがりきった息を静かに整える。

(今度こそやった……まさかッ!)

 ごつごつした両手がぐっと握られ、腕の筋がふくらんだ。石床についた肘が上体を支え、巨体がゆっくり持ち上がる。血だらけの顔には砂と塩粒をはりついていた。ペイトンは関節の調子を確かめるように顎を左右に動かすと、頭を二、三度振ってゆっくり立ち上がった。

(化け物め!)

 さすがのパーヴェルも疲れてきた。手袋や靴が返り血に湿るほど打ちのめしたのに相手は少しもふらつかず、不遜な笑みを浮かべて立ち上がったのだ。

 ペイトンはどす黒い唾液をペッと吐き出し、ブーツの先で踏み潰している。血と唾液が塩と混じり、蝋燭の灯をちらちらと跳ね返す。ペイトンはその光を確かめるように凝視し、にやりと笑うと目線をパーヴェルに上げた。

「もう終りか、ポーラちゃん?」

 パーヴェルの王国語読みはポール。それが女性の名に使われるときは語尾が変化して、ポーラになる。

「ママゴトじゃねえんだぜ。真面目にかかってこいよ」

 膨大なスタミナを有するこの大男は人の神経を逆撫でさせるストックも豊富だった。

「必ず殺す」

 マスクを引き上げながら低く呟く。

「殺す、殺すって気軽に言いやがって。お前、本当は人殺したことないだろ?」

「くッ!」

 ペイトンは相手の息を飲む音で動揺をつかみ、くっく、と低く笑った。

「図星か。どうだ? 初めて殿方と踊るときよりも緊張すんだろ?」

「お前が記念すべき一人目だ。光栄に思えよ」

 皮肉で返したはずだったが、パーヴェルの声は震えていた。恐怖とも興奮ともつかない不愉快な感情が体中で振動しているのだ。

(次で必ず仕留める……)

 左のつま先で頚椎を木っ端微塵にしてやる。パーヴェルは左足を少し後ろに引き、ペイトンの首筋に視線を集中させた。頬から垂れて間もない滑らかな血が一筋、浮き出た動脈と筋肉の間を滑り落ちていた。あの筋につま先を打ち込めば、頚動脈が破れる。それで終わりだ。

 パーヴェルは自分の心音に耳を澄ました。心臓が打ち、新しい血が体中を巡った瞬間に飛び出した。最速の上段蹴りが放たれて、つま先がペイトンの右首筋へ吸い込まれるように走り――肌に触れるほどの近さでピタリと止まる。

 パーヴェルの足首は血塗れの大きな手に鷲づかみにされていた。

(なっ!)

 心臓が跳ね上がる。相手には見えていないはずの攻撃が初めて見切られた?

 ペイトンはパーヴェルの左つま先の位置を把握していた。血まみれのつま先に塩がこびりつき、わずかな光を反射し続けていたからだ。

 ペイトンの腕が曲がり、パーヴェルを乱暴に引き寄せる。

 また叩きつけられる! そう思ったパーヴェルは身を強張らせたが、ペイトンには別の考えがあった。

 ペイトンの武骨な手がパーヴェルの首に伸びた。マスクが顔からずり落ちて、狼狽の表情が現れる。

「あっ!」

 叫んだ途端に体が宙に浮かび、踵が地を離れた。溶岩のように真っ赤な手に血管が浮かび上がり、計り知れない怪力が華奢な首を握り潰そうとしている。

 パーヴェルは自分の脈を押さえつけている手を握って親指の付け根に力を加えた。軽くつまんだだけでもひどく痛み、手を開けずにはいられないツボを突いたはずだったが、ペイトンはびくともしなかった。

「俺は初めてじゃねえぞ。これで三回目だ」

「か、はっ……」

 パーヴェルは両足をデタラメに動かしてペイトンの顔と胸を蹴った。だが、その蹴りはさっきまでとは比べ物にならないほど弱々しい。パーヴェルの体術は正確無比な技と素早さに依存したものである。首根っこをつかまれて窒息させられた状態では普段の十分の一も力が出せない。

(こ、殺され、る……)

 体験したことのない恐怖が訓練で身につけたケーススタディを拭い去った。残ったのは動揺と痙攣だけ。赤ら顔の大男は不利な戦況でも失わなかったあの軽妙さをかなぐり捨て、獰猛な獣のように目をギラつかせている。

途方もない憎悪がペイトンをどこまでも残酷にしている。どうしようもないほどの怒りがこみ上げてきて、首をへし折らせようとしている。

 その怒りの源泉はここまでコテンパンにやられたことではない。ここまで張り合いのある喧嘩なら、むしろ嬉しいくらいだ。

 ペイトンの脳裏に浮かんでいたのはアデルバートのことだった。この少年が、昨晩、アデルバートを絞め殺そうとしていたときのことが思い出される。アデルバートが喘ぎ、苦しみ、死にかけていた瞬間が思い出される。

 こいつはあのとき、坊ちゃんを苦しめて殺そうとした。

 それだけで万死に値する。

「くたばれ、ガキが……」

 ペイトンは一息にひねろうと細い首にもう一方の手をかけた。

「よせ! 殺す必要なんてないだろ!」

 ミクローシュが飛び出し、ペイトンの腕をつかむと足を曲げて宙ぶらりんになった。自分の体重でペイトンの腕を下ろそうとしたのだが、中背のミクローシュがぶら下がってもペイトンの腕はビクともしない。

 ミクローシュがまた叫んだ。

「まだ子供じゃないか!」

「知ってて殺るんだ。文句あるか」

「大ありだ! 正義の新聞記者ティサ・ミクローシュの目の前でそんなことはさせないぞ!」

「うるせえ」

 ペイトンは片手でミクローシュを壁の反対側に放り投げた。ミクローシュは床の上を三回転がって外套掛けに突っ込んだ。グレートコートがばさばさっとミクローシュに降りかかる。ペイトンはまたパーヴェルの首に両手をかけた。

 そのとき、人差し指に温かいものを感じた。頬から顎全体をその温かいものが伝い落ちて、ペイトンの手に染みこんでいる。

パーヴェルの目から大粒の涙がぽろぽろ零れ落ちていた。

 憎悪と握力が同時に萎んでいく。自分でもいつパーヴェルを放してやったのかが分からないくらいだった。パーヴェルは机の上に寝かされ、気を失っていた。

「なんてこった……」

 涙が袖の中へ滴り手首をくすぐっていた。

「なんてこった……」

 ペイトンはその場に座り込んだ。拳をこめかみにぐっと押しつけ、歯を食いしばり、目をつむった。

「いたたた」

ミクローシュが外套の山から這い出てきた。

「おい、ヒョーロク玉」ペイトンは目を開けた。「悪かった。それと礼を言う。危うく殺っちまうとこだった。いくら戦争でもそんなことすりゃ、坊ちゃんは俺を軽蔑して二度と口をきいてくれん。ちょっと考えりゃ分かることなのになあ……頭に血がのぼったんだ……」

 おや、素直なところもあるじゃないか、このクマ男。ミクローシュは相手の弱気を見てとると元気よくぴょこんと立ち上がり、メモ帳を取り出した。

「いいんだよ、そんなこと! でも、もし感謝と悔悟の念があるなら、それは特ダネで返してもらいたいな。さっき君が演じた死闘について独占インタビューをさせておくれよ。小さなコラムくらいは作ってあげるからさ! あ、でも最後の一幕は編集で削除されるから入れないほうがいいな。生々しい戦場ルポを期待する流血好きの読者たちも、さすがにあれは……」

 ペイトンは近くに落ちていたレマット・リボルバーをミクローシュの足元に滑らせた。

「見張ってろ。少し休む」

「え? ちょ、ちょっと! 独占インタビューは?」

ペイトンは仰向けに倒れて目を閉じた。

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