提督の憂鬱

 月が高く上りきったコンスタンチノフスク。

 市の中心部にある舞踏場のバルコニーで帝国海軍辺境艦隊司令長官アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ポトポフ提督は深い深い溜息をついた。

 その黒い眼は要塞の北、市街の外れにある軍港に注がれている。北西にあいた湾口にかつて彼が指揮した艦隊がずらりとマストを並べていた。

 本当にマストのみが並んでいた。漆黒に色づけされた夜の海面からマストのみが墓標のように林立しているのだ。船体は湾口に沈没していた。

 ポトポフ提督は涙を流しながら、両手を港のほうに突き出し、散っていった艦船に哀悼の句を捧げた。

「ああ、『アリョール』。海の大鷲。爪の代わりに大砲百二十門を、翼の代わりに三本のマストを与えられた美しい白亜の戦列艦。それが今、哀れにも暗い海の底に横たわり、マストだけを海から突き出している。まるで墓標の如く……。そして、『アドミラル・スモーリヌイ』。帝国でも最も船足の速いフリゲート艦もしかり。船底に穴をあけられて、海の藻屑だ。まだ戦えるとでも言いたげに、助けてくれと叫ばんばかりにマストを海面から伸ばしている。ああやってマストだけ出していれば、誰かがきっと助けてくれると信じているようだ。かわいそうに。……『イゴーロフ公』! お前は我が艦隊の旗艦ではないか! なぜ、このような運命に? 五年前の竣工式で皇帝陛下がお前の勇姿を褒めてくださったことが昨日のことのようだ。我が艦隊で唯一の汽走艦だったお前までこんな憂き目に。……俺を許してくれ、『イゴーロフ公』!」

 かつては二十隻を越えた彼の艦隊はいまやみな湾の底に沈み、魚の棲家となっている。これらの軍艦は熾烈な海戦の末に沈められたのではない。自沈処分にされたのだ。

 チョブルイの戦いに惨敗し、泡を食った帝国軍総司令部は野戦での撃退を諦め、コンスタンチノフスク要塞に篭って敵を迎え撃つ作戦を裁可した。

 ポトポフ提督は自分の艦隊を率いて、同盟軍艦隊と戦うことを主張した。エルボニン半島の西海から同盟軍が戦列艦五、フリゲート艦六、最新式の装甲艦二隻の分遣隊を編成し、コンスタンチノフスク要塞へ接近しているという情報をつかんだからだ。

 総司令官ドミトリー大公はますます慌てた。このままでは要塞は海と陸から挟み撃ちにされてしまう。

 そこで考えた奇策は閉塞作戦だった。つまり、同盟軍の艦隊が湾に入れないよう先手を打って、辺境艦隊の艦船を湾の入り口に沈めて塞いでしまうのだ。

 これにはポトポフ提督が猛反対した。一戦も交えずに自分の艦隊を海の藻屑にしてしまうなど到底納得できない。

 だが、大公も引き下がらなかった。

「では、提督。あなたはあの辺境艦隊で敵の艦隊に勝つ自信がおありか? 考えてもみたまえ。同盟軍の主力艦隊は分厚い鉄板に守られた装甲艦だ。我が海軍の砲が敵の装甲を貫けるかね? 弾が当たったところで、べこんと跳ね返されるのがオチだ。さらに同盟軍の艦はみな漏れなく最新式の蒸気機関を積み、その快速は『アドミラル・スモーリヌイ』に勝る。これでは辺境艦隊がいくら帆を張ったところで弾はこれっぽっちも当たらず、あっという間に風上に回られて、我が艦隊は蜂の巣にされる。そして、辺境艦隊なき後のコンスタンチノフスクは敵の総攻撃に晒されるわけだ。敵の艦隊が北の湾に遊弋し、容赦なく砲撃してくるだろう。南からは同盟軍の本隊数万が突撃を仕掛けてくる。こうなれば、我々に万が一にも勝機はない。提督、あなたの無念は分かるがこれも勝利のためなのだ。コンスタンチノフスク、ひいては帝国を助けると思って、ここは涙を飲んでくれたまえ」

 作戦会議の席でポトポフ提督に味方するものは一人もいなかった。帝国海軍の軍艦はみな旧式であった。これは提督の責任ではない。産業が未発達の帝国では産業先進国の王国や共和国の技術に太刀打ちできないのだ。だから、帝国の軍艦は装甲板も蒸気機関もない木工帆船ばかりなのだ。木の船は鉄の船に勝てない。これが当時の海軍の常識である。提督はただ了承するしかなかった。

 こうしてつい数時間前、湾の入り口、岬と岬の間に並べられた辺境艦隊の全艦船が片っ端から船底に穴をあけられた。

 旗艦『イゴーロフ公』は最後だった。

 提督自身も『イゴーロフ公』に乗り、その艦尾から軍艦旗が下ろされるのを静かに見守っていた。捧げ銃した水兵の間を折りたたまれた軍艦旗が静かに持ち運ばれる。儀式は終わった。悲しげな退艦ラッパの後、提督は愛すべき旗艦との別れを惜しむ間もなく漕艇に乗らなければならなかった。敵の襲来が告げられて、大急ぎで『イゴーロフ公』を沈めなければならなかった。

 艦載砲も撤去し、乗組員が全員退船し終わると俊足自慢の工兵五名が斧を片手に昇降口に消えていく。彼らは甲板から船底までのドアを全て開けっ放しにして、船倉の最下層に辿り着くと、一、二の三で斧をふるい底板を叩き破った。板の裂け目から海水が噴き出るや否や工兵たちは斧を投げ捨てて、出口に殺到した。彼らは開けっ放しにされたドアを次々駆け抜け、船倉、食堂、砲甲板、舷側通路を経由して上甲板まで脱兎のごとく走り抜けた。そのまま海に飛び込むと沈みゆく軍艦に背をむけ、必死に泳ぎ、近くの漕艇に拾われた。

 ポトポフ提督は落陽とともに海面へ消える『イゴーロフ公』にずっと敬礼していた。『イゴーロフ公』はまず艦尾から沈んだ。その後、海水が徐々に甲板を覆い、艦首が浸された。みるみる間に沈んでいき、錨鎖孔から水が入ると、艦首は完全に海に飲み込まれた。やがて斜檣が渦に吸い込まれる。三本のマストだけが残照に照らされた雲を背にして、恨めしげに佇立していた。

 これが提督の目に焼きついた悲愴の記憶である。このまま思い出し、マストの墓標たちを眺めていても傷心がひどくなる一方なので、提督は見晴らし台を降りて、舞踏場に通じる廊下をとぼとぼ歩いた。

 戦争の渦中にある要塞都市にこんな華やかな舞踏場があってもいいものだろうか?

 会場は温かい料理とよく冷えたシャンパン、星空を映すガラス窓に囲まれ、音楽と品のよい微笑に満ち溢れていた。

 こんな田舎町でも社交界は一応存在しているらしく、コルセットで自分の骨を矯正した恐るべき娘たちが時代遅れのドレスで着飾り、若い士官や将軍たちの相手を務めていた。この優雅な踊り手たちは嵌め木板の上をアメンボのように滑っていた。

 踊っている士官たちの服装は洒落ていて、黒や紺の上衣によく磨いた二列ボタン、金モールの肩章から飾り緒が垂れて、ボタンを閉じた前に突っ込まれている。蝋引きの軍帽もピカピカ。襟章の赤が薔薇のように美しい。

 年老いた将軍たちも肩に青い大綬をかけていた。一昔前の愛着ある軍服を飾り緒と勲章でごてごて飾りつけてご満悦だ。

 噴水のような玉房飾りのヘルメットが人だかりの中で動いているが、あれは総司令官のドミトリー大公に違いなかった。辺境艦隊を見舞った非業の最期が思い出されるので、今は大公と顔を合わせたくない。それに提督はこのきらびやかな大広間では自分は場違いな人間ではないかと思い、やや卑屈になっていた。

 提督の軍服は砂埃が払いきれない黒で統一されていた。あみだに被った軍帽はバンドに白い線が二筋入っただけの真っ黒、来ている外套も十二個のボタンが二列についたもので黒一色、ただし肩についているモールは一応金色だった。勲章はそれなりに貰っているがつけていない。戦闘中に落としてなくすのが嫌だったので全て箱に仕舞い込んでいた。その右肩からかけているのはサーベルを吊るための革バンドであり、夜会映えする大綬ではない。黒いズボンから突き出た黒い革靴はつい一時間前、港の堡塁を歩いたときのままで泥や潮が落としきれていなかった。たまたま顔見知りの伯爵夫人がいたので挨拶しようと帽子の庇に手をかけると大きな折り返しの袖から砂がこぼれ落ちてきた。

 これでは大恥をかく。提督はビュッフェで辛子を添えた冷肉を少し食べ、誰にも見咎められないように舞踏の間をそっと退出した。

 提督は舞踏場のある公会堂から市街を下り、要塞南の防衛陣地に向かった。前線である。街灯番が梯子をかけ、ランタン一つ一つに火を入れていた。さっきまで行われていた防衛工事にかり出されてしまい、街灯を灯す暇もなかったのだ。南の街路はまだ闇に包まれていた。一刻も早く堡塁に戻りたかった提督は街灯が灯るまで待つわけにはいかなかった。手ぶらの提督は近くの商店に入るとランタンを一つもらい、それを自分で持って一人南へ歩いた。

 通りの左右では非番の兵隊が玄関階段やあずまやに集まって焚き火をし、黒パンと焼肉、キノコをむしゃむしゃやっている。海兵団の兵舎に通じる坂から見覚えのある将軍が副官も連れずにやってきた。レンネンカンプという公国系貴族で、顔からはみ出すくらいの大きな口髭を蓄えた将軍だった。

「こんばんは、カール・パーヴロヴィチ」

 ポトポフは庇に手をかけてレンネンカンプに会釈した。

「こんばんは」レンネンカンプも共和国語で返礼した。「提督も前線へ?」

「ええ、舞踏場にいるよりは気が休まります」ポトポフも共和国語で会話した。

「どうです? 私も自分の堡塁に行く途中です」

「将軍の受け持ちはどこでしたかな?」

「オリガ堡塁です。提督は確かイリーナ堡塁の指揮でしたな」

「ええ、今から角面堡に行こうと思っています」

「では、一度私の堡塁によってください。いい葡萄酒があるんですよ」

 提督は懐中時計を取り出して、蓋を開けた。堡塁へ一刻も早く戻らなければならないとは思っていたが、オリガ堡塁でレンネンカンプと歓談するくらいの時間は何とか作れそうだった。提督は誘いを有難く受けた。

「実はさっき食べた肉に辛子をつけすぎましてね。喉が渇いていたんです」

 二人の将軍は会話を帝国語に戻して、戦争について意見を交わした。

「チョブルイ川ではえらい目に遭いました」レンネンカンプ将軍が言った。「連合公国の砲兵隊が私の鼻先に砲を撃ってきたせいで副官が二人も負傷しましてね」

「僕はチョブルイに参加していないのですが、相当大変な戦いだったようですね?」

「ええ、ええ。砲弾が次から次へと飛んできて大変な騒ぎでした。前線で馬を走らせていたら、砲弾が頭をかすめましてね。あのときはたまたま甥っ子によく似た王国士官(おそらく騎兵の士官候補生でしょう)を崖の麓に見つけたので頭を下げて目を凝らしたところ、ヒュン! 頭をかすめて敵の球形弾が地面に突き刺さったんです。本当に危なかった。あのとき頭を下げていなかったら、今ごろこの肩の上に乗っているのは頭ではなく砲弾だったでしょうな。いや、同盟軍の弾はえらく飛距離があるし、よく当たります。鉄製の大砲があるお陰でしょう。私の隊もあと十門、あんな大砲があれば敵の渡河を防げたのに」

「同盟軍は仕掛けてきますかな?」

「来るでしょうな。でも、払暁直前でしょう。まだ時間はあります。まあ、見ていてください。チョブルイで受けた屈辱はコンスタンチノフスクで見事払拭されるでしょう」

「将軍、スパイが手に入れたという同盟軍の行軍予定を見ましたか?」

 レンネンカンプはとんでもないと首を振った。

「スパイの報告など信用できるものですか。私が聞いた話ではそのスパイはまだ十五かそこらの少年だという話です。どうせ偽情報をつかまされたに決まってますとも。だいたいスパイに頼るなど卑怯ではありませんか。そのような戦い方は美しくない」

 市の南部に入るとだんだん物騒な雰囲気が色濃くなる。舗道の石が途切れて土がむき出しになり、塹壕が錯走してきた。住人が避難した民家や商店がひっそりと並び、小さな臼砲や軍馬が頻繁に行き交う。砲兵たちが釘と砂利をかき集めて袋に綴じ、散弾をつくっていた。

 このあたりは吊るされるランタンもだいぶ少なく視界は悪いが、将軍が二人で歩いていればすれ違う士卒もさすがに気づき、慌てて敬礼する。打ち鳴らされる踵と敬礼の中をしばらく進むと、旅客馬車の発着場でレンネンカンプ将軍が嬉しそうに声をあげた。

「やっ、サムソーノフだ。おおい、ワシーリー・アレクサンドロヴィチ!」

 真っ暗な発着場にただ一つの灯りの中で熊のように大柄の将軍が振り向いた。声をかけられたサムソーノフ将軍はちょうど長椅子の傍で参謀将校と何か話していたところだった。

「カール・パーヴロヴィチ。それにポトポフ提督も」

 サムソーノフが挨拶するとレンネンカンプが将軍を誘った。

「前線に戻る途中だ。うまい葡萄酒が届いたんだが、少しやっていかないか?」

「ご相伴させてもらうよ」

 サムソーノフは参謀将校に命令書を持たせて先に戻らせると、二人についていった。

 その後、将軍たちはポトポフ提督とレンネンカンプがずっと喋り続け、寡黙なサムソーノフが後ろからついてくるといった調子で街路を進んだ。

 市街を出て、ようやく防衛線に到着した。

 コンスタンチノフスク市の周囲は網の目のように掘られた塹壕、胸壁、逆茂木、矢来、そして十分な火力で武装した大堡塁によって隙間なく守られている。この堅固な防衛線によって南から総攻撃を仕掛けてくる同盟軍を撃退するのが帝国軍の作戦である。

 特にコンスタンチノフスク南を覆いつくした防衛線は鞏固であった。

『三人姉妹』と呼ばれる三つの大堡塁(西からオリガ、マリア、イリーナ)が互いを援護できる絶妙な位置で建造され、その間は所々掩蔽された城壁通路で連絡していた。

 後背地には塹壕も掘られていて、もし堡塁が陥落したら残兵はこの塹壕に退避して敵の侵入を食い止める。

 三人の将軍が向かっているオリガ堡塁はレンネンカンプ将軍を守備隊司令官とする一大陣地であり、つめている将兵はチョブルイ川で戦った勇者たちだった。

 オリガ堡塁はかつて田舎屋敷があるだけの小さな丘に過ぎず、要塞化されたのは開戦後だった。その麓には射撃壕と呼ばれる小さな塹壕と矢来が組み立ててあり、稜堡の砲眼からはチョブルイから持ち帰った野戦砲に加え、辺境艦隊から降ろした艦載砲も据えつけられている。狙いは眼下の荒野と斜堤である。急造の堡塁とはいえ防御は固く、施設も整備されていた。連絡用の塹壕と地下道、掩蔽壕、兵舎、弾薬庫があった。

 レンネンカンプ将軍は二人を堡塁頂上の屋敷に招き入れた。

「じゃあ、気楽にしていてくれ。ちょっと副官と打ち合わせにいってくる。すぐ戻るよ」

 レンネンカンプは従卒にとっておきの葡萄酒を持ってこさせると奥の部屋に消えた。

 石造りの客間には目立って美しい家具調度はなく、戦争らしい殺伐とした雰囲気であった。絨毯の敷かれた一角には皇帝陛下の肖像画があった。ポトポフとサムソーノフは葡萄酒を飲みながら、皇帝の全身像をまじまじと眺めた。

 皇帝は身長二メートルを越す偉丈夫、黒々とした髪、顎を覆った髭、形のいい鉤鼻とピンと立った公国風の口髭が彫りの深い顔の上で牽制し、よい緊張をもたらしていた。白い上衣に赤い大綬と勲章を身につけ、赤条が通った紺のズボンを履いていて、その左手は小机の上にズシリと置かれ、眼は左方をきりりと見据えている。世界も征服できそうな壮年の覇気と魅力にあふれた皇帝陛下であった。

 ただし、この肖像画が描かれたのはおそらく三十年前である。

 現在の皇帝は七十半ばでもう老帝だった。ただ、背筋はピンとしていて身の丈は相変わらず二メートルを越えている。ポトポフ提督は自分の手をじっと見つめた。戦地に旅立つ前、将軍連は皇帝に謁見する機会に恵まれたのだが、握手されたとき物凄い力で握られたのが思い出された。

「一戦もしないまま、陛下の艦隊を沈めてしまった……」

 ポトポフ提督が落胆を隠せずにつぶやいた。

「きっと陛下も理解してくださります。新しい艦隊を授けてくれますとも」

 横に並んでいたサムソーノフが励ました。

 その後、レンネンカンプ将軍が現れて、敵は夜明けまで攻撃してこないと力説した。

「考えてもみてくれ。この堡塁の前には塹壕が掘られて、穴だらけだ。真っ暗な夜間の前進じゃうっかり穴に嵌りかねんぞ。……かと言って照明ロケットを上げれば、今度はこちらに位置がばれて、格好の的だ。夜襲じゃ奴らに勝ち目はない。総攻撃は絶対に夜明け後だよ」

 レンネンカンプは退屈な作戦評論にケリをつけ、新しい話題をふり出した。

「君たちはおしゃべりワーチカを覚えているかね? ほら、昔、シェーロフ橋のたもとに住んでいただろ? バイオリン弾きの娘にぞっこんだったあのワーチカだよ」

 士官学校時代の昔話にサムソーノフ将軍が食いついた。

「コズイリョフのことか? 三年前に風邪をこじらせて亡くなったはずだ」

「そのワーチカの弟がだね」

 レンネンカンプは葡萄酒で口調を軽くして言った。

「いま俺の指揮下のタルビンスキー連隊にいるんだが、たったいま上申書を出してきた。ほら、君にだぜ、提督」

「僕にですか?」

 面識がないのに。ポトポフ提督は意外に思いながら、差し出された封筒を手に取った。佐官用の青い封蝋がされている。サムソーノフにペンナイフを借りると、中には共和国語で書かれた丁寧な手紙が一通あった。

「どれどれ……」

 安楽椅子に腰かけたポトポフの表情は、視線が書面の下方へ移るにつれて険しくなり、最後のほうでは呆れ返って溜息までついた。

「これが本当なら戦時国際法違反じゃないか」と、提督。

 二人の将軍は手紙を見せてもらった。

 すると、大柄のサムソーノフが苛立たしげに手紙を引っ叩いた。

「この馬鹿騒動には大公殿下が関与してるらしいな」

 レンネンカンプも呆れたように首と口髭をふって、

「あのタヌキめ。この忙しいときになに考えてるんだ」

「前線勤務の身にもなってみればいいのだ。提督、どうする気です?」

 提督は立ち上がると、葡萄酒を飲み干してから言った。

「イリーナ堡塁の司令官は僕だ。殿下の考えは知らないが、僕の堡塁でこんな真似は許さん。机を貸してくれたまえ」

 提督は書き物机を借りると簡単な命令書を作成し、提督用の緑蝋を燭台の火にかざした。封蝋が潤み、きらめきだしたところで棒を傾けて、封筒にたらし、印をしっかり刻みつけた。

「これでいい」

 提督は封筒を軍套の内ポケットに仕舞った。

 三人はしばらく前線苦労を労い合い、参謀連中をこき下ろしていたが、そのうちサムソーノフ将軍が立ち上がり、帰ろうとした。

 レンネンカンプが引き止めると、サムソーノフは言った。

「いや。戻るよ。『マリア』が心配だからね」

「僕も帰ろう。『イリーナ』が待ってるもんでね」

 レンネンカンプは笑って頷いた。

「わかった。恋女房が待ってるんじゃ仕方がない。だが、あまり構いすぎるといつの間にか尻に敷かれるから気をつけたまえよ」

 サムソーノフとポトポフは屋敷を出て、胸壁に沿って大砲の横を歩いた。白い上衣の砲兵たちがタバコで汚した髭を布で拭い、暗黒の荒野に寂しげな目を向けていた。若い新米砲兵が水を運んできた。大きな水桶にバケツを引っくり返すと、バケツを土手の上から下の井戸へ放る。バケツは井戸の藁山に落ちていった。砲兵たちが砲座の石段で鍋を火にかけ、蕪とそば粥を煮ていた。近くの紙袋からは半分に切られた大きな黒パンがジグザグの切り口をのぞかせている。

 サムソーノフ将軍のマリア堡塁はかつて教会の丘だった。これもまた開戦と同時に補強されたのだ。今では南に向かって二つの稜堡が迫り出して、塹壕の向こうに広がる平野を射程に収めていた。教会は丘の頂に立ち、前後を白い花をつける潅木の並びに挟まれている。この並木は南東の稜堡まで続いていた。木造教会の鐘楼には錆とも黴ともつかない染みにとりつかれた青銅鐘が吊られていて、敵襲時にはこれを警鐘として使うことが司令部付け命令で決まっていた。

 サムソーノフとポトポフは潅木のある中腹からイリーナ堡塁を眺めた。

 イリーナ堡塁は百年前に建設された石の監獄を元に構築されていて、戦前から稜堡と半月堡を揃えた防備施設だった。その外観は中世の砦に似ている。石造りの円塔が一本建っているが、これは吹き抜け階段と最上部の牢屋から成る特別な囚人用の塔だった。堡塁を守るのはかつて辺境艦隊で勤務していた水兵や海兵団であり、彼らを指揮するのはかつての艦長たちである。

 老練なヴェルシーニン砲兵少佐が現れて、サムソーノフに報告した。

「同盟軍の密偵がイリーナ堡塁に侵入し、小競り合いが続いております」

「密偵?」

 ポトポフがあからさまに怪訝な顔をした。

「はい。ですが、ご安心ください。もう間もなく捕えられるはずです。取り押さえたら、イリーナ堡塁に監禁した後、取調べを行いたいのですが」

 サムソーノフがイリーナ堡塁の司令官であるポトポフを振り返った。ポトポフがうなずくとサムソーノフはヴェルシーニン少佐に堡塁使用の許可を与えた。

「使用を許可する。それと少佐、砲座の補修を……何だ、あれは?」

「あれ、と申しますと?」

「いま何か光ったぞ」

 サムソーノフ将軍は夜闇の中へ目を凝らした。

 南の野から一筋の火箭が闇を裂く。

 それを合図に轟音が鳴り、地が震えた。黒々とした地平線に突然烈火が走り、すぐ薄紫の砲煙に覆い尽くされた。地平線に広がった煙の帯から撃ちあがったのは流れ星のように光る赤熱の砲弾三百発。

 全弾が帝国軍の『三人姉妹』に降りかかった。

 教会の鐘楼に砲弾が命中し、割れた鐘がめちゃくちゃな音を鳴らしまくった。

 望楼が見張り兵を乗せたまま吹き飛ばされた。

 砲台にも榴弾が当たり、砲身が二つに割れた。

 木箱やキャンバス地のテントが燃え上がった。

「反撃しろ!」

 サムソーノフ将軍とヴェルシーニン少佐が同時に叫ぶ。

 慌てた砲兵は粥の入った椀を放り捨てると、火縄を砲の火門に次々と差し込んだ。同時に照明ロケットも放たれる。

 砲声と鐘の音で頭が割れそうになった。

 帝国軍の砲弾とロケットが暗闇を切り裂き、ひしめき合って前進している三万以上の同盟軍攻撃部隊を照らし出した。

 サムソーノフは一瞬現れた動揺をボタンもはち切れんばかりの分厚い胸板に押し止め、落ち着いた声でこぼした。

「もう攻撃が始まったぞ。レンネンカンプの予想は外れたな」

 提督はオリガ堡塁を振り返った。

 つい十数分前、二人がくつろいでいたオリガ堡塁も敵の猛射に曝されていた。胸壁や半月堡、屋敷がぼこぼこの穴だらけにされ、火災が起きている。

 オリガの砲台から反撃の咆哮が鳴り響き、喊声を上げる同盟軍の戦列に砲弾がぶち当たった。

 兵士たちが泡を食って掩蔽壕から転がり出す。怒号が飛び交った。

「鐘を打ち続けろ! 市内に警告を出すんだ!」

「もっと撃て! 撃ち返すんだよ!」

「予備隊に増援を要請しろ!」

「ばか! ヤカンなんかほっとけ!」

「わっ、火薬樽に燃えうつりやがった!」

「はやく消せ!」

「水はどこだ!」

「マントで叩き消せ! 服より命を惜しみやがれ!」

「ニコラーシカがやられちまったあ!」

「おーい! 衛生兵!」

 サムソーノフは掩蔽壕から飛び出してきた歩兵たちで分隊をつくると井戸から水を汲ませて、消火作業に当たらせた。

「提督! 奴らはイリーナにも押し寄せてきている!」

 ポトポフは壁から顔を出して、荒野に目を瞠らせた。

 堡塁前のゆるい傾斜と窪地は既に同盟軍の将兵で埋め尽くされていた。幾重にも重なる横隊が短く切った塹壕や逆茂木を蹴散らし、喚きながら突撃してくる。

 公国工兵の分隊が先導し、攻撃隊のための道を作っていた。彼らが矢来を叩き壊し、塹壕に板を渡し、急斜面に梯子をかけると、布巻き頭の共和国植民地兵たちが次々に押し寄せて、稜堡の斜堤にすがりついてきた。

 帝国軍がこれを迎え撃つ。第二ツェーザレヴィチ擲弾兵連隊のクルイギン大尉が掩蔽壕に散らばった部下をかき集めた。大尉が集まった部下百余名に雄叫びをあげると、部下も武器を振り上げてそれに呼応した。

「ダヴァーイ!」

「ウラアアアアッ!」

 彼らは迫る敵兵とぶつかるべく大尉を先頭に隘路から噴き出した。三角銃剣とヤタガン銃剣が絡み合い、銃の台尻が大尉の顔面にぶち込まれる。怒声と罵声がぐちゃぐちゃに混ざり合った。

 二人の帝国猟兵が銃撃を受け、悲鳴をあげながら壁から転がり落ちた。そこに梯子がかかり、共和国将校のひげ面がぬっと現れる。

 サムソーノフ将軍が突っ込んで、梯子を剛腕で押しのけた。共和国将校はリボルバーを乱射しながら、梯子ごと部下の隊列に墜落した。

 ポトポフ提督はイリーナ堡塁に連絡する防壁通路を走った。

 だが、通路からカヴァレロヴィチ中尉の小隊がマリア堡塁を援護すべく殺到してきたため、提督はまた稜堡に押し戻されてしまった。

「違う、提督! あっちです!」

サムソーノフが指した砲台下の通路を提督が走る。提督の頭上では荒野の敵を焼き尽くさんと味方の砲が火を吹いていた。憎らしいほど美しい星空を両軍の砲弾が交叉する。照明ロケットが敵味方を問わずに放たれて、緑や赤の閃光が周囲を照らし上げる。

 堡塁間をつなぐ防壁では白い上衣の砲兵たちが砲尾のネジをあげて、砲の狙いを低く落としていた。敵が坂の麓まで近づいてきているのだ。

 各砲の周りには猟兵が集まり、休む間もなく弾を浴びせている。

 掩蔽壕出入り口の木枠が燃え上がり、炎のアーケードから身を低くした兵隊たちが飛び出して、銃眼に走っていく。水兵二人がピーコートで火を叩き消した。

 イリーナ堡塁に連なる土手の道は砲弾孔だらけだった。提督は穴をまたぐ木の橋を跳び駆けて、自分の指揮所を目指した。

 イリーナ堡塁が見えた。相当弾を喰らったらしく、あちこちで火災を起こし、石垣も崩れていたが、まだ砲撃銃撃ともに盛んであり、攻め手の同盟軍を寄せつけていなかった。

 提督は司令部の入り口に着いた。中に入ろうとしたとき、担架兵が怪我人を運び出してきた。

 かつての『アドミラル・スモーリヌイ』艦長バラノフスキー中佐だった。

 血の気を失った顔で担架に横たわっている。フロックコートは切り裂かれ、シャツが鮮血に染まり、鉤爪で抉られたような裂傷が痛々しい。バラノフスキーは痙攣していた。提督はこの艦長が自分の艦に自沈命令を下したときも同じような痛ましさで震えていたのを思い出し、悲愴感に胸を突かれた。

 頭上から甲高い悲鳴が聞こえてきた。

「なんてこったあ! オリガが分捕られちまったい!」

 提督から平の兵卒に至るまでがぎょっとして、顔をあげた。

 赤く煙る空の下、オリガ堡塁の屋敷が焼け落ちている。帝国旗は引き摺り下ろされ、代わりに王国旗がはためいていた。コルネットが炎に輝きながら、勝利と占領の唄を吹き鳴らしている。斜堤一面に敵兵があふれ、次々と胸檣を乗り越えていった。

 戦闘開始以来、集中砲火を浴びていたオリガ堡塁はすっかり打ちのめされてしまったのだ。敗残兵たちは占領された堡塁を捨てて、後背と東側通路の防御陣地に退いて抵抗を続けていた。

 ポトポフ提督はレンネンカンプの運命を悼み、司令部の入り口をくぐった。

 イリーナの司令部は混乱しきっていた。天井に一発大穴を開けられていて、机は真っ二つ。作戦地図を命令書が散乱し、長靴に踏みにじられていた。副官は先ほどから市内の予備隊に援軍を要請しているのだが、伝令を十人派遣したにもかかわらず誰も戻ってこず、予備師団からは何の音沙汰もないと怒り狂っていた。もう伝令が残っていないという。これには提督も呆れ果てた。提督は疲れて溜息をつきながら、長持ちに座り軍帽を取って頭を掻いた。

「では、伝令を使い果たしてしまったのかね! お高くとまった大公は将軍の署名がない増援要請など平気で破り捨ててしまうのだよ!」

 副官は返事に困り、口の中で舌をこねくり回した。

 提督は長持ちに飛びつくと、走り書きをしたためた。


 帝国軍総司令官ドミトリー・アンドレーエヴィチ大公殿下へ

 我方、数的に劣勢で防備は敵火力に圧倒される兆しあり。既にオリガ堡塁は陥落せり。籠城は絶望的なり。イリーナ堡塁より反攻を敢行せんがため、 至急、歩兵一個師団の増援を送られたし。


 イリーナ堡塁守備隊司令官

 海軍中将アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ポトポフ


 緑の蝋を灼熱する砲弾に押しつけて、書簡にべったり封をする。

 震動が強くなった。砲弾が堡塁にぶち当たり、轟音が聞こえる。

 ドン!

 ドン!

 ドン!

 ズガッ!

 ドン!

 ドン!

 ズガッ!

 ドン!

 ドン!

 ズガッ!

 提督の首筋を冷や汗が伝う。

 ドン、というのは十ポンド弾。

 ズガッ、という音は二十四ポンド弾だ。

 これまでは命中弾十発中、ドン!が九発、ズガッ!が一発だったが、今ではズガッ!が三発に増えていた。

 敵は集中砲火で堡塁を一つずつ潰している。オリガはやられた。マリアも長くは持ちこたえないだろう。そうなればイリーナには二十四ポンド弾が数発当たるようになる。

 だが、最悪なのは大口径の沿岸臼砲だ。提督は砲兵科あがりだったから知っているのだが、沿岸臼砲が撃った重い弾は空高く打ち上げられる。そして堡塁目掛けて真っ逆さまに落ちてくるのだ。勢いを得た弾が防備の薄い堡塁屋上をぶち抜き、地下の弾薬庫に命中すれば……

 考えるだけでも恐ろしい。提督は長持ちを開けるとゲンをかつぐつもりで、お気に入りの十字勲章を襟元につけた。

 クランドルフ大佐が戻ってきた。かつて旗艦『イゴーロフ公』の艦長としてポトポフを支えてきた昔気質の軍人で提督不在のイリーナ堡塁を代理で指揮していた。泥だらけの大佐は掩蔽壕に入るなり聖像の前で腹立たしげに十字を切り、戦況を嘆いた。

「聖人よ、護り給え。悪魔を討ち滅ぼしたまえ! 奴らは波状攻撃を仕掛けてきたぞ! オリガが陥落して、次に平らげられるのはマリア堡塁、最後はここ、イリーナ堡塁だ。このままじゃ……」

「アポロン・クリストフォロヴィチ!」

 提督は大佐の名前を呼んだ。気づいた大佐もドラ声を張り上げて、にこにこと返答する。

「おおっ、閣下! 無事だったんですね!」

「君も無事なようだね」

 提督はクランドルフ大佐と話そうとして立ち上がり、数歩歩いた。

 その瞬間、榴弾が掩蔽壕の裏で爆発した。壁が崩壊し、提督が先ほどまで座っていた長持ちが石材の下敷きになった。長持ちにはコンパスや舵輪の一部など『イゴーロフ公』ゆかりの大切な品々が入っていた。提督は嘆息した。

「ああ、『イゴーロフ公』……。つくづくついていない艦だった」

「命が助かったんですからいいではありませんか」

「ふむ。ここも安全とは言い難いな、艦長」

「掩蔽壕が稜堡に寄り過ぎているんです」

「外にいたほうがまだ安全だ。出よう」

 提督は外の胸壁を見回りながらクランドルフ大佐から戦況を説明された。

「芳しくありません。奇妙な侵入者どもが地下で大暴れしたかと思えば、この総攻撃です。最初の砲撃で、砲を一本叩き折られました。稜堡はまだ大丈夫ですが、半月堡に不安があります」

 クランドルフ大佐は下膨れ気味の太った顎を震わした。

「閣下、見てください。奴ら、マリア堡塁を吹き飛ばしちまった」

 マリア堡塁も砲弾に土を掘り返されてすっかり形を変えた。あれだけ整然と並んでいた石垣が完全に消し飛び、教会は煙に包まれていた。まだ鐘も砲も大きく鳴り続けている。

 ポトポフ提督が恐れていた災難がマリアを襲った。

 臼砲の弾がマリア堡塁の弾薬庫にめり込んだのだ。爆発で稜堡が脹らみ、紙のように破れて巨大な火柱をあげた。大砲や建材、花をつけた潅木が四方八方に吹き飛ばされ、堡塁の横っ腹が大きく削れた。

 ぽっかり開いた穴から紅蓮の渦が巻き上がり、教会はその中に滑り落ちた。鐘楼は炎に飲み込まれながら断末魔の鐘を鳴らし続けた。

 マリア堡塁の脱落は火を見るよりも明らかで守備兵たちはすっかり度を失って、逐電していた。

 オリガとマリアは陥落した。残るはイリーナのみ。

 マリア堡塁の生き残りたちがイリーナ堡塁に退却し、抵抗拠点を築き始めた。その中には頭から血を流しているクルイギン大尉もいた。大尉はふらつきながら、イリーナ堡塁に辿り着くと三十名足らずに減った部下を整列させて点呼を取った。

「第二ツェーザレヴィチ擲弾兵連隊第三大隊! 番号!」

「一!」

「二!」

「三!」

「四! ……あっ、大尉!」

 クルイギン大尉は「四!」の応答聞くこと叶わず意識を失い、ぐるっと一回転して倒れた。

 煤で真っ黒になったヴェルシーニン砲兵少佐はイリーナの胸檣に登り、焼け落ちるマリア堡塁に接吻を投げつけた。

「あばよ、マリア! いい女だった!」

 ヴェルシーニンはポトポフ提督にマリア堡塁の惨状をつぶさに語った。

「オリガ堡塁が陥落した直後、我々の堡塁も敵の集中砲火を浴びました。サムソーノフ将軍が戦死して、重砲弾が弾薬庫に着弾、稜堡がごっそり持っていかれて、後は敵の突撃のされるがままです」

 彼は焼け落ちる教会へ悔しそうに視線を投げた。

「……ああ、ちくしょう。教会が焼ける。聖堂には将軍の遺体が安置してあったのに。将軍は亡くなられる前に堡塁を捨てた際の命令を下していたので幸い塹壕を拠点に反撃できました。オリガとマリアの後ろにある塹壕は大堡塁に隠れて敵も砲の照準を合わせられません。こんなことで死んでたまるもんですか。まだ序の口です。これから逆襲してやりますよ」

 オリガ堡塁の生き残りたちも続々到着し、イリーナ堡塁の兵力は二倍に膨れ上がった。コンスタンチノフスクの防衛はオリガとマリアの後方塹壕、そしてイリーナ堡塁によって維持され、ポトポフ提督が全軍の指揮を執ることになった。

 提督は木造銃舎の前で固唾を飲み、各員奮闘するように演説した。

 イリーナの稜堡間から出っ張った半月堡にはプレシンニコフ少佐の一個砲兵中隊がいたが、最初の砲撃で少佐と士卒の半分以上、そして五門の砲が失われてしまった。指揮官を失った彼らは老練な伍長のもと一門の野砲と二十人のマスケット兵で砲座を守っている。一人だけ、トンカチと太い釘を持った鼓手の少年が隅で震えていた。

 同盟軍はイリーナを攻略すべく、弱体化した半月堡に殺到した。

「フォロー・ミー! アドバーンス!」

「ヴィーヴ・ラ・レピュブリィークッ!」

「フラー! フラー! ゴット・エルハーテ・ダス・ヘルツォーグ!」

 帝国兵たちは全く解せない三言語の喊声に身を強張らせた。王国、共和国、連合公国の軍隊が三方向から押し寄せてくる。

「撃てい!」

 老練な伍長が叫び、一門と二十丁の斉射が夜の防壁をパッと照らす。砲は霰弾を放ち、迫り来る同盟軍が金属片に薙ぎ倒された。麓に異国の断末魔が満ちる。

「アアアーッ! ゼイ・ブローク・マイ・レッグ!」

「サクレ・ボン・デュ!」

「ザニテーター! ヘア・オーベルスト・イスト・ゲシーセン!」

 帝国兵の守備隊には毒つく暇もなかった。

 弾を撃ったら敵が近づいてくる前に次弾を装填しなければならない。

 肩から提げた弾薬ポーチに手を突っ込み、紙製薬包を噛み千切り、火薬と弾丸を銃口に流し込み、込め矢を銃身に突っ込んで弾を押し込む。

 込め矢を抜いたら、弾薬ポーチのベルトに縫い付けた小さなポーチから雷管を一つつまみ、撃鉄を半分だけ引き上げてニップルに雷管を嵌める。

 撃鉄を上げきり銃身を振り上げて、敵の群れに向けて引き金を引く。

 銃弾が飛び出したら敵が斃れたかどうかも確認せず、弾を込めるためにまた同じ作業を繰り返すのである。

 装填にかかる一連の作業を少なくとも二十秒で行わなければ、弾幕は維持できない。弾幕を維持できなければ、彼らは銃剣の餌食にされる。

 帝国兵は登ってくる敵兵に目を血走らせ狂ったように紙筒を食い、込め矢を動かし、雷管をまさぐった。

 弾を喰らって転がり落ちる王国兵。

 戦列を崩してがむしゃらに登ってくる共和国兵。

 連合公国兵が叫びながら胸壁に肉薄してくる。

「トレテートォ!」

「ブリューエ・ダス・フェーアイニグテス・ヘルツォグトゥム!」

 間断なく押し寄せる攻め手を前に一門と二十丁の再装填はついに追いつけなくなった。込め矢を動かす手は疲れきり、砲台にこもった硝煙で目も開けられなかった。

 連合公国の軍曹が堡籠を蹴散らしながら砲台に突入すると、一人の帝国兵が銃の台尻で敵兵をぶん殴った。それを見た他の兵士たちも次々と装填をやめ、目の前まで迫った王国兵や共和国兵に石を投げつけたり、銃剣で突きかかるようになった。

 野砲が最後の一発をぶっ放し、装填手と着火係も白兵戦に身を投じると伍長が叫んだ。

「小僧、釘だ!」

 金槌を持った鼓手はそれまで胸壁の角で震えていたのだが、事前に聞かされていた命令が下されると飛び上がり、夢中でトンカチをふるって、火門に釘を打ち込んだ。

 半月堡を守っていた二十人はあっという間に敵に飲み込まれ、堡塁の地下道に同盟軍が侵入してきた。

 クランドルフ大佐は『イゴーロフ公』の軍艦旗とともに斜堤を駆け下りた。ヴェルシーニン少佐もマリア堡塁の生き残りを率いてそれに続く。

「ダヴァイ! ダヴァイ!」

「ウラアアアアアッ!」

 イリーナ堡塁の指揮系統は混沌としていた。海軍大佐と砲兵少佐が歩兵を率いて突撃している。工兵大尉が砲を操作している。兵站担当士官は軍医代わりで、軍医が提督を補佐していた。提督はといえば、堡塁中を走り回って、士卒をこまめに指揮し、時には自分で照明ロケットを飛ばしたり、胸壁の外に転がった負傷者を運んだりもしていた。

 そんなポトポフの元に信じられない出来事が報告された。

 市街地が砲撃を受けているのだ。南から撃たれた砲弾が飛び越えたかと思ったが、目を凝らすと様子が違う。砲弾は届くはずのない市中心部、司令部のある公会堂の尖塔をもぎ取っていた。

(なぜ、あんな場所が砲撃を受けた? 弾はどこから飛んできたんだ?)

 その謎はすぐに解けた。

 ズドン! と轟き、北の湾から白煙が上がる。閃光が漆黒の湾を照らし、信じがたい光景を映し出した。……三隻の軍艦が湾内を遊弋している!

「どういうことだ? 湾は封鎖したではないか!」

 もしや自沈処分にされた辺境艦隊の亡霊か?

 また砲撃が起こり、黒々とした敵艦の全貌が砲火に照らされると、いくらかファンタジーを加味した提督の懸念はすぐに消し飛んだ。

 艦尾と檣頭に王国旗を掲げた装甲艦。オーク材の上に厚さ十センチの装甲板を張った装甲艦は辺境艦隊の骸をぶち破り、堂々と湾内に侵入してきたのだ。

「辺境艦隊は犬死にさせられたということか!」

 ポトポフ提督が悲痛な叫び声をあげた。

「だから言ったのだ! 自沈などせずに打って出るべきだと!」

 覆水盆に返らず、そして泣きっ面に蜂。次の数秒間に提督にふりかかった出来事を諺に表すと以上の二つが最も適合している。

 ポトポフ提督が地団駄を踏んでいた稜堡に運命の二弾が命中した。

 大口径臼砲の弾である。

 一発目はイリーナの監獄塔に命中、てっぺんの部屋を木っ端微塵に吹き飛ばし、塔壁の半分をもぎとった。

 二発目は稜堡の防壁にめり込んでから炸裂し、足元の板張り通路が爆風に押し上げられた。石垣がミシミシと音を立てて盛り上がり、閃光で目の前が真っ白になった。カノン砲を操っていた年かさの水兵と工兵大尉が消えてなくなり、提督自身は空に弾き飛ばされた。宙を浮く不思議な感覚に弄ばれてから、提督は地面に叩きつけられた。胸壁すぐ下の待避所天幕に落ちたので、重傷はまぬがれた。薄汚れた天幕の上でポトポフは頭を庇ってうずくまった。石材やカノン砲の破片がバラバラになって落ちてきたからだ。ドスン、ドスンと鈍い音を近くに聞き、冷や汗を流したが、無事凌ぐことが出来るとポトポフ提督はホッとして神に感謝した。

「実に馬鹿馬鹿しい方法で艦隊を失った哀れな提督に加護の手を差し伸べてくれた慈悲深き神よ。あなたのご慈悲に感謝いたし……」

 がらんがらんっ!

 祈祷する提督の両足に真っ黒い鉄の塊が転がり落ちた。

「アアーッ、神様! 足が、足がああ!」

 共和国語で発せられた提督の叫び声が分厚い硝煙の中に紛れて消える。

 提督の足は巨大な鉄の鳥かごの下敷きになった。折れた骨が皮膚を突き破っていた。

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