要塞へ

 三十分後、草原街道を荷馬車がとぼとぼ進んでいた。馬車の後ろでコサックの格好をしたペイトンが欠伸をした。

「ふああ、ここは本当に退屈だな。はやく王国に帰りたいぜ」

 馬の横で水兵の格好をしたアデルバートが言った。

「コサックの老人が黒パンとウォッカを包んでくれたよ」

「へえ。あとでコサックどもの酒も試してみましょう」

「僕はいいや。さっき飲まされたから」

 アデルバートは馬首を撫でた。バルティーはこのくらいどうってことないと軽く首を動かし、たてがみを自慢げに振ってみせた。

 夜を塗りたくった草原に帝国要塞コンスタンチノフスクが見える。町を囲むように巨大な砦、軍隊用語でいうところの堡塁が三つ、兵隊の灯に浮かび上がっていた。西の砦には屋敷が、中央の砦には教会が、東の砦にはひょろりと背の高い石の塔がギザギザのてっぺんを被っていた。

 一行はコンスタンチノフスク要塞の防衛線へ西から近づいていた。馬車が一台そのまま通ることが出来る大きな塹壕を見つけたので、そこの降り口に馬車を入れて、静かに進む。

 ついに帝国の陣地に入った。塹壕の上にはコンスタンチノフスクを守る大きな堡塁が重苦しく聳え立っている。塹壕は板張りでいくつもの横道や曲がり角が走り、入り組んでいた。

 ペイトンがその高い背を生かして、塹壕の胸壁から顔を出し、コンスタンチノフスク内部に通じる門の位置を確かめ、それをあてに道を選ぶ。堡塁に近づくにつれて、帝国兵ともすれ違うようになった。

「全然ばれないね」

「そりゃそうですよ。俺たち、どこからどう見ても帝国兵ですからね」

 帝国兵は一顧もせずに通り過ぎていく。あまり熱心とは言い難い勤務態度だ。時折、誰何はされるが、名前と所属をあらかじめ丸暗記しておいた帝国語でぺらぺら喋っておけば問題はなかった。もっとも、これは思ったより簡単な話ではない。

 二人は軍服ごと持ち主の名前も拝借しており、ペイトンは第六十コサック連隊のグルコ軍曹という簡単な名前をもらっていた。

 問題はアデルバートのほうである。彼は海兵団の見習い伝令兵ヴャチェスラフ・エウゲーノフォヴィチ・ポベドノースツェフスキーという行進中の軍隊のように長ったらしい名前をもらってしまったのだ。

「士官候補生から格下げになっちゃった。おまけに偽名が長ったらしくて言いにくいし。練習しなくちゃ。――えーと、バチスリヘル・オゲオゲビッチ・ポペポペ、ガリッ! いたっ、舌を噛んだ!」

「軍曹か。参ったな、敵の軍服を着て昇進しちまった」

 ペイトンはおどけながらテオドールをちらと見た。

 テオドールは荷台の上、悲しそうで情けない顔をしていた。着ている服装は公国士官の濃緑外套。ケピ帽も穴を繕われて、しっかり頭に乗っている。

「あの、ペイトン」

「なんだ、男爵?」

「この縄、もう少し緩めてくれませんか? ひどく痛みます」

 テオドールの体はがんじがらめに縛り上げられていた。

 ペイトンは左右の頬髭をしごいてから、勿体ぶった調子で言った。

「男爵、そりゃ無理ってもんだ。わがまま言ったんだから、しょうがねえだろ? 公国の軍服着たまま要塞に侵入するにはこれしかない。俺と坊ちゃんが敵に変装し、あんたを縛っときゃ、こりゃあお前、どっからどう見ても捕虜の護送隊にしか見えない。大丈夫だよ。手の中に結び目を握ってるんだろ? それを引けば縄は一度に解ける。もう少ししたら要塞の中に入り込める。それまで我慢しててくれ」

「でも、こうもきついと節々が痛くて仕方ありません」

「じゃあ、今から敵の軍服に着換えるか? ほら、お誂え向きのが転がってる」

 塹壕の水溜りで帝国兵が一人泥酔してイビキをかいていた。その外套は半分が泥水に沈み、もう半分は噛み煙草、シチュー、獣脂とワックスが混じった異臭のするネバネバが擦りつけられていた。おまけに兵士はときどき寝言をもらしながら、口元の涎を袖で拭っている。

「……今のままで結構です」

「すいません、テオドール。シャルロットを見つけ出すまでの辛抱ですから」

「いいんですよ、アデルバート。私は約束しました。最後まで助太刀しますとも」

 塹壕をうろつくと同盟軍と帝国軍の境が不明瞭になっていく。

 同盟軍も帝国軍も考えることにさして変わりはない。

 この辺鄙な戦場で少しでも快適に過ごしたいのだ。

 同盟軍の野営地と同じ、帝国軍の塹壕にも暮らしに必要なあらゆる施設が間に合わせで建造されていた。仮眠所、床屋、食堂に調理場、酒を売る部屋に配る部屋、そして、トイレ。みな地下室に設けられていた。居酒屋もあった。入り口からこぼれる黄色の灯は温かそうで、アコーディオンに合わせた陽気な歌が響いてくる。

 士官用の玉突き場もあった。深い塹壕道路の脇に背丈ほど高くなっている手摺回廊があり、気取った士官たちがそこに玉突き台と移動式バースタンドを持ち込ませて、玉突きに興じていた。どの国でも士官はカラフルな玉に白玉をぶつける行為にうつつをぬかさなければならないらしい。

「まあ、聞きたまえよ。ドルゴルーキー候補生」お調子者の先輩士官はキューの先を磨きながら、流暢な共和国語で候補生に話しかけた。「名門中の名門ドルゴルーキー公爵の嫡男がだよ、学校で馬鹿丁寧に勉強したなんて信じられるわけがない。君はこの戦争が終わってツァールブルクに帰還すれば、近衛連隊に配属されるのだろ? なら、数学書などとっとと捨てて、僕に玉突きの教えを請いたまえ。必ず必要になる。幾何の勉強なんて、よぼよぼのじいさんになってから初めても十分間に合うが、玉突きは違う。一突き一突きが大切なんだ。いいかね、候補生くん。君はツァールブルクに帰れば英雄だ。この戦争中、帝都でぬくぬくしていた同期の候補生や先輩たちは君に尊敬の眼差しを向けて、戦場での武勇伝をせがんでくる。そのとき君が『サーベルで王国兵を、銃剣で共和国兵をやっつけた』なんて回答していたんじゃ五十点しかあげられないね。『サーベルで王国兵を、銃剣で共和国兵を、ビリヤードのキューで味方の馬乗りどもを打ち負かした!』。これが満点さ」

「わかりました、大尉殿!」イングルワースそっくりの候補生が生真面目に敬礼した。

「よしたまえ、敬礼なんか。じゃあ、まず僕がやってみせる。その後は特訓だ。キューが第六の指として手にくっつくまで玉を突き回したまえ」

 その後、試合の判定を巡って険悪な帝国語が飛び交い始めると、どこかで見た覚えのあるやり取りが繰り返された。

「こんなことは滅多にしないから、よく見ていたまえ」

 ようやく帝国軍と王国軍の相違が発見できた。かつてマクギルベリー中尉は腰を起点にキューを振ったが、この帝国大尉は肘のみで鋭い一振りを食らわした。このやり方は威力不足であるものの、打ち出しが速いので相手が身構える前に先手を打ち敵の出鼻を挫くことが可能だ。

 殴られた騎兵士官の仲間たちが拳を突き出して怒鳴った。

「ツァールブルクの気取り屋が!」

「ぶちのめしてやる!」

 どたん! ぼこっ!

 穏やかでない物音で玉突き台の激闘が窺える。そして士官候補生はいつも貧乏くじを引かされるのだ。ぶん殴られたドルゴルーキー候補生は手摺を破って塹壕通路に突き落とされた。哀れな少年は天幕の束の中でくるくる目を回していた。

 こんな具合で塹壕はとても賑やかだった。この不思議な迷路は人間の知恵をそこそこ集めて作った防御陣地の傑作である。高さ二メートルの城壁で身を隠すには土を二メートル積むしかないが、深さ二メートルの塹壕で身を隠すならば、一メートルの穴を掘り、その分の土一メートルを積み上げれば事足りてしまう。時間も資材もない帝国軍には打ってつけの防御陣地だった。

 だが、穴の中をうろついて戦うというのはあまり英雄的とはいえない。つまり格好が悪い。おまけに左右を土にはさまれて圧迫感があり、雨でも降って水が溜まろうものなら、塹壕は用水路に早変わりする。こうなると気分が滅入る。だから兵士たちはアコーディオンとウォッカ、玉突きと喧嘩に明け暮れて、憂さを晴らそうとするのだ。

 さて、騒ぎを避けるために横道に入ると、今度はコサックたちに出くわした。昨日、荒野でアデルバートとシャルロットを追い回し、テオドールに返り討ちにされ、さらにペイトンと鉢合わせして締め上げられたあのコサック五人組である。

(まずい……)

 アデルバートはつばを飲んだ。このコサックたちは三人の顔を知っているのである。道を戻ろうにも狭い道では馬車の方向を転換するなど不可能だ。三人は顔を伏せ、帽子を目深に被り直して一か八か通り過ぎることにしてみた。

「〈おい、待て〉」

 コサックの一人が呼び止めて、荷台の手摺に手を置いた。アデルバートと対決して気絶したコサックである。他のコサックたちも何事かと寄り集まってくる。一人がペイトンの横に立ち、馬の鼻面を押さえてしまった。

 槍コサックが嬉しそうに声をあげた。

「〈やっぱりそうだ。あのときの公国士官だ。つかまったのか? ざまあみろ! おい、お前ら。よくやったな〉」

 そう言いながらアデルバートの肩をどやそうとしたとき、コサックが目を剥いた。

「〈おい、こいつ……ッ!〉」

 槍コサックは息が吸えなくなり言葉を継げずに地面にうずくまった。自分で縄を解いたテオドールが鳩尾に一撃を加え、黙らせたのだ。アデルバートは荷台に載せてあった壷ですぐ横にいたコサックの頭を殴り、ペイトンは逞しい両手を伸ばすと三人のコサックの頭を一度に引き寄せてガツンと打ち合わせた。

 五人のコサックは塹壕の真ん中でだらしなく横たわった。

「まずいな。誰にも見られなかったかな?」

 気絶したコサックたちにペイトンが顔をしかめる。

 テオドールも自分の体に縄を纏い、縛られている外観だけを整えた。

「いずれ、誰かが通りかかれば面倒ですね……と、言っているそばから」

 テオドールは苦笑しつつ奥を見やった。白髭に青い軍帽の騎兵士官がちょうど角を曲がってこちらにやってくるところだった。ぶっ倒れた五人のコサックと捕虜を積んだ荷馬車を前に不審な目を寄せるのは明らかだ。

 ペイトンが舌打ちした。

「もう一人やっちまうか?」

「仕方ありませんね」

 身構える二人をアデルバートが止めた。

「もっといい方法があるよ」

 アデルバートは餞別に貰った黒パンを四つに千切って、道にばら撒き、ウォッカも半分ほど道に振り撒いた。瓶は壁に寄りかかって気を失っているコサックに抱えさせた。

「行こう」

 アデルバートに急かされて荷馬車は焚き火の前を離れた。向かいの道から現れた騎兵士官とすれ違う。間もなく騎兵士官の怒声が背中から飛んできた。

 ペイトンは拳を固めて身を強張らせたが、テオドールは苦笑して首を振った。

「なかなかいい考えですね」

 ぶっ倒れた五人のコサック。散らかった食べ物。そして酒の匂い。その三つから導き出した結論――騎兵士官はコサックの頭をぼかすか殴り、ウォッカの瓶を取り上げてがなり立てた。

「〈ちょっと目を離すとすぐ酔い潰れよる! おまけに食い散らかしおって〉」

 以上はテオドールが訳してくれた怒れる士官の喚きであるが、これでもだいぶ表現を和らげたものらしい。

 テオドールが帝国語で書かれた看板を読み、市内に通じる地下道へ馬車を誘導した。

 地下道は百人は収容できる地下兵舎を貫いており、兵舎のあちこちでは帝国兵たちが溢れ返り、浮かれ騒いでいた。調子っぱずれのアコーディオンと速いテンポのギターが鳴れば、水兵と歩兵が酒と食べ物を手に集い出す。逞しい体つきの若い水兵が音楽に合わせて、立ったりしゃがんだり帽子を振り回したりと忙しいダンスを踊っていた。この若者が飛び跳ねて足を左右に目一杯広げたり、思い切り腰を落として足を素早く振り出したりすると周りの兵隊たちも、やあやあ、と大声で合いの手を入れる。

 支柱に吊るされたランタンの下で兵隊たちがみだらな木版画をチップに使い、カルタ遊びをしていた。この猥褻チップには描かれた絵の淫らさによって三つの等級がつけられていた。初心なアデルバートが顔を真っ赤にして目を逸らす程度のささやかな画は小さな銅貨と同じ価値が、テオドールがどぎまぎしながらはしたないと首を振る普通程度の絵なら大きな銅貨、そしてペイトンが苦笑しながら額に拳を押しつけるほどの上物ならば銀貨と交換できるといった具合である。

 首からラッパをぶらさげた兵士がベッドの間から飛び出してきた。ラッパ兵は最高級のシャンパンをラッパ飲みしながら人混みを掻き分けて、外に通じる通路に走り去っていく。

 次の瞬間、目を血走らせた士官が現れた。四十がらみ、口髭をたくわえた浅黒い士官はたまたま目が合ったアデルバートに怒鳴り散らした。士官の口調は高圧的だが、全て帝国語で話されている。当のアデルバートには何を言っているのかさっぱり分からない。

 変装がバレたかと焦るアデルバート。

 すると、テオドールが、

「〈お探しのシャンパンなら、ラッパ手がコルネット代わりに吹き鳴らしていましたよ〉」

 帝国士官はきれいな白い歯を歯軋りで痛めつけた後、怒りを爆発させ喚き散らした。

「〈またやりおったな、あの飲兵衛め! 見つけたら重営倉などではすまさんぞ! ……おや?〉」

 帝国士官はテオドールのほうを向き、軽く驚いたように目を見開いた。「〈お見受けするにあなたは連合公国の士官のようですが、あなたは帝国語を話されるのですか?〉」

「〈ええ〉」

 その発音がとても綺麗で高度な教養を窺わせるものだったので、帝国士官はシャンパン泥棒のことをけろりと忘れ、上機嫌に共和国語で話しかけた。

「共和国語は話しますかな?」

「ええ。もちろん」

 テオドールは流暢に切り替えた。共和国語は紳士にとり必須の教養であり、名流婦人を口説くための国際語である。帝国士官はいたく喜び、テオドールの手を握った。

「素晴らしい! やっと紳士に出会えた。この喜びがあなたにお分かりいただければなあ。この通り、塹壕の連中はろくに字も読めん馬鹿者ぞろいで、他人のシャンパンは盗む、命令書はなくす、上官の陰口を叩き、下らん落書きで壁を汚すとやりたい放題。若い士官どももいかさまカルタとビリヤードにしか興味がないチンピラどもときている。こうして知性と教養を感じさせてくれる紳士に会ったのはひさしぶりだ。――しかし、このような出会い方をしたことが残念でなりません。あなたは囚れの身ですからな。紹介が遅れました。私は第十四歩兵師団、第二十三タルビンスキー連隊のコズイリョフ少佐です。あなたは?」

「フォン・カールノゼ中尉。第二ライフル騎士師団、第八フェルトイェーガー連隊です」

「ライフル騎士師団!」帝国士官は感激したように顔を輝かせた。「では、チョブルイで我が軍の中央を突破した好敵手たちはあなたの師団ですか?」

「いえ。あれはシンメルフェニッヒ将軍の第一ライフル騎士師団です。私は第二のほうです」

「なるほど。シンメルフェニッヒね」

 帝国の少佐は片目をつぶって人差し指を立てて、思い出し笑いをした。

「知っていますとも。昔、連合公国で大使館付き武官をやっていたころに、ずいぶんどやされました。――しかし、あなた。ひどい扱われようだ。縛られて荷台に乗せられるなど家畜泥棒に対する取り扱いではありませんか。あってはならんことです……。代わってお詫びいたします。我が軍の兵卒は紳士のもてなし方を知らんようです」

 ちなみにアデルバートは共和国語で会話が出来る。この帝国士官が話している内容もほぼ完璧に理解できた。

 コズイリョフ少佐は額に手を置いて嘆息した。

「男爵。今すぐ、この忌まわしい軛から解放してさしあげます」――そしてアデルバートたちに向き直ると高圧的に――「〈おい、お前ら! なにをぼやっとしとる! はやくカールノゼ男爵の縄を解いて差し上げろ! 丁重にな!〉」

 命令は帝国語だったが、会話の脈絡で内容は把握できる。アデルバートは折り畳みナイフを開くとテオドールの縄を切った。

「これからどこへ?」

 自由になった手首をほぐしているテオドールにコズイリョフ少佐がたずねた。テオドールがコンスタンチノフスク市内に移送される途中だと教えると、コズイリョフ少佐も是非同行したいと言ってきた。

 テオドールが荷台を降りて、コズイリョフ少佐の横に並んだ。すると、少佐はテオドールに剣を佩びるように頼んだ。

「剣は軍人の名誉です。是非、剣を佩びてください。いえ、佩びていただきますぞ」

「では、お言葉に甘えさせていただきましょう」

 剣と拍車をかちゃつかせ、すっかり落ち着いた雰囲気の中、芸術や文学について話をしながら二人の士官が歩き、その後ろでバルティーがのろのろと馬車を引く。バルティーは荷車曳きに慣れていないせいか、遅れがちだったからペイトンとアデルバートも手伝って引いてやらなければならなかった。

 馬車は地下を脱して、堡塁へ続く道に引き込まれた。夜空が美しい静かな塹壕だった。コズイリョフ少佐がテオドールに親しげにたずねた。

「どうです、男爵? 今度の戦争では見どころのありそうな士官はおりますか? 我が軍にも一人、なかなかの勇者がおりましたが、残念ながら負傷してしまいましてね」

「見どころのある士官……」

 テオドールはちらりと肩越しにアデルバートを見やると微笑した。

「一人います」

「ほう。その若者はどのような武勇伝をお持ちか?」

「エルボニン半島南の峡谷二つを馬で下ってみせました。大変な才能の持ち主です」

「それは素晴らしいですな」コズイリョフ少佐もうなずいた。「南の谷を横断するのは人馬一体のコサックたちでも躊躇する難業です」

「それだけではありません。たった一人で五人のコサックに立ち向かおうとしました。それも少女を守るためにです」

 テオドールはアデルバートにも真剣に聞いてもらおうと声を低く落とした。ペイトンが肘でアデルバートをつつくと、アデルバートは顔を赤らめた。

「騎士の鑑ですな」

 と、誉めていたコズイリョフ少佐の胸が急にもやついてきた。彼はもやつきを吐き出すように、こんなことをこぼした。

「それに引き換え、我が軍は実に情けない。つい一時間前、私は市内のカフェ(正確には元カフェですがね)で同僚たちと軽食をとっていたのですが、その帰り、城門のほうでその情けない光景に出くわしたのです。なんとあろうことか我が軍の斥候三人組が看護婦らしき少女を捕らえてきたのですよ。金髪で目は青かった。たぶん共和国人でしょう。かわいそうに。その少女は眠っているか気を失っているかして目を閉じたまま、紅い髪の酷薄な顔をした女に抱かれて堡塁沿いの道を運ばれていきました。これはいかなる倫理、国際法、ジェントルマン・シップに照らし合わせても許されることではありません」

 間違いなくシャルロットだ。アデルバートとペイトンが意味深に目配せし、眉毛を動かす。テオドールも義憤にかられた部外者を装って話に食いついた。

「それはひどい話ですね。事実なのですか?」

 コズイリョフ少佐もその義憤を共有しようとしきりにうなずいた。

「ええ、ええ。残念ながら事実です。あの少女は今どこにいるのか……。南を守る三つの堡塁のどれかに監禁されるとは思うのです。もし場所が分かったら、すぐにでも守備隊司令官に上申書を出すのですがね。レンネンカンプ中将かサムソーノフ中将か、あるいはポトポフ提督……。まあ、いずれにしても堡塁を預かるこの三人は紳士ですから、自分の堡塁で少女が監禁されていると知ったら、ひどく怒るはずです。……おや、もうこんなところまで来てしまいましたね」

 コズイリョフは軍帽の庇をあげて、道先の闇に浮かぶ光の玉を指差した。尖塔から突き出した旧式の砲がそのずんぐりした鼻っ面にカンテラをひっかけている。塹壕小道は木材を組んだ塔門に吸い込まれていた。

「私は塹壕勤務ですから、これ以上御一緒出来ません。ここでお別れしましょう。さようなら、男爵。あなたとお話できて良かった」

 コズイリョフが手を差し出した。テオドールもしみじみと握り返した。

「こちらこそ。また御会いできるといいですね」

「ええ、ええ。ただ戦死者を収容した礼拝堂ではごめんです」

 コズイリョフ少佐は、そんなことはありえない言いたげに口元をほころばせた。

「お国に帰ったら、第二十三タルビンスキー連隊宛に手紙を下さい。別荘への招待状を返信しますよ」

 少佐はテオドールが門をくぐり、市内の辻を曲がって姿が見えなくなるまで見送り続けた。

 不思議なものだ。

 帝国の少佐と連合公国の中尉。

 この二人は敵同士であり、その姿を見つけたら刺すなり斬るなり蜂の巣にするなりして命を奪わなければならない間柄だ。

 だが、コズイリョフ少佐のテオドールに対する親愛は紛れもなく心からのものであり、テオドールのそれも同様である。

 アデルバートとペイトンが不思議がるとテオドールは複雑な顔でつぶやいた。

「私たちは軍人です。しかし、お互いわだかまりなく、握手できるだけの人間性は温存しておくべきでしょう。軍務以外で私と帝国人に敵対する理由はありませんから。彼らにも戦う理由、守るべきものがあるのです」

「シャルロットも同じようなことを言ってた」

 堡塁沿いの街路を行く途中、アデルバートは峡谷の頂でシャルロットと交わした会話について丹念に思い出し、ペイトンとテオドールに教えた。

「優しい子だな、シャーロットは……」

「ええ、何としても助け出しましょう」

「はい!」

 決意に満ちた返事が結束を強固にした。不屈の闘志を秘めた三人組に抗える災厄などあるものだろうか……と思っていると、

「男爵! テオドール! おーい、我が友!」

 高く上がりきった月の街にホンブルク帽がひょこひょこ動く。

 災厄は月光と共に、思ったよりはやく降りかかってきた。

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