名誉の問題
アデルバートの魂は天国と地獄の狭間に落ちてしまったらしい。
地獄の悪魔が聞き慣れない言葉でガミガミ怒鳴りながら、アデルバートの口に瓶を突っ込み、ひどく辛い水を飲ませようとする。
アデルバートが苦しそうに首を振ると、今度は美しい天使が現れて瓶と辛い水を取り除き、意味不明の言葉で悪魔を責める。悪魔と天使は瓶をつかみ合って口論しているらしい。
瓶は悪魔の手にもぎ取られて、アデルバートの口に再び突っ込まれた。喉が焼けつき、体が絶望で痙攣した。
(きっと悪魔が溶けた鉄を飲ませてるんだ。う、う……僕は地獄に堕ちたんだ)
そのとき、赤毛の神様が大きな体をずいと動かして、悪魔から瓶を取り上げた。
「やめろ、くそじじい! 坊ちゃんが飲んだくれになったらどうしてくれる!」
神様は非常に罰当たりな王国語を操った。
悪魔が瓶を取り返して、帝国語でがなりたてた。
「〈かえせ、クマ野郎! 伸びちまったガキをシャッキリさせるのはウォッカが一番なんじゃ!〉」
シャコー帽を被った天使も帝国語で叱りながら、赤毛の神様の味方をする。
「〈お止めなさい! アデルバートはまだ十五歳です!〉」
「〈ふん! コサックの男は八つのころからウォッカに慣らす。十五なら樽ごと飲んでも平気な齢じゃい!〉」
「お前ら、俺にもわかる言葉で話せよ! 意味がさっぱりわかんねえ!」
天使と悪魔と神様が寸胴な酒瓶を奪い合っていた。
アデルバートは肘で自分の上半身を支えながら、むっくりと起き上がった。肩から更紗の敷物が落ちる。
「あっ、坊ちゃん!」
ペイトンは瓶から手を離すと気がついたアデルバートを締め潰さん勢いで抱きしめた。
「〈ほら! やっぱりウォッカがきいたんじゃ!〉」
コサックの老人はウォッカを一口あおると機嫌よく笑いながら、アデルバートの肩に手を置いた。
「ふう、どうやら無事のようですね。安心しました」
テオドールもいた。涼しい微笑は相変わらずだ。
「坊ちゃん。大丈夫ですか? どうもコサックに診せたところ、妙な薬を打たれて意識を失ったらしいですよ」
「薬……?」
「首筋に注射を打たれていました。私たちもガスを吸い込んで気を失っていたのですが、あなたは特に強い薬を投与されたようでなかなか目を覚まさなかったんです。どうやら強い催眠作用のある薬だったようですが、毒ではないので後遺症や命の危険はないようです。――え? ここがどこかですって? ここは脱走兵たちのテントですよ。ほら」
テオドールは開いた手を上に向けて前から後ろへ緩やかに振って周囲を指し示した。つぎはぎだらけの横幕が風にそよぎ、外の焚き火が人影を投影していた。ペイトンが横から顔を出した。
「あの後、俺たちだけ先に目が覚めましてね。坊ちゃんを背負って、一度この集落まで戻ってきたんですよ」
アデルバートは左右を見回してたずねた。
「シャルロットは?」
テオドールが残念そうに首を振った。
「私たちが目を覚ましたころには姿がありませんでした」
「さらわれたみたいですよ、坊ちゃん」
「あの三人組が性懲りもなく襲ってきたのです。今回はしてやられました」
考えるよりも前に体が動いた。アデルバートは布団から抜け出ると枕元に転がっていた自分の装備をつかみ、立ち上がった。
「助けに行かなきゃ……」
立った途端、薬の余波でぐらりとよろめいてしまい、支柱に体を預けなければならなかった。
「助けに……」
ペイトンが布団を肩にかけて、無理やり横にさせた。
「もう少し横になっててください、坊ちゃん。体をちゃんと休めて」
「でも、シャルロットが……」
「安心してください、アデルバート。そう言うと思って、脱走キャンプの見張り兵たちに情報を集めてもらっています。闇雲に動いても結果は生まれません。一度、相手にリードされた以上、お返しは慎重に行くべきです。落ち着いて行動しましょう。まずは休むのでず」
テントの外に出て行っていた老コサックが垂れ幕の間から入ってきた。
「〈偵察連中が戻ってきた〉」
テオドールが聞き返す。
「〈どちらの偵察です?〉」
「〈両方じゃ。いい知らせと悪い知らせがあるぞ〉」
ペイトンがたずねた。
「なんて言ってんだ?」
「偵察が戻ってきたそうですが、いい知らせと悪い知らせがあるようです」
テオドールはコサックの老人としばらく帝国語で話した。表情はあまりよくなかった。不安の溜息が軽く吐き出される。
「いい知らせはシャルロットの行方が分かったことです。あの三人組はシャルロットをコンスタンチノフスクに連れていったそうです」
「確かか?」
「フィリップという水兵が見たそうです」
「あのヘタレの情報か。信用できるのか?」
「できます。フィリップは信号係として艦のマストに立っていたそうです。何キロも離れた手旗信号を読み取れるのですから、騎馬が巻き上げる砂塵くらい簡単に見分けるでしょう」
「なるほど。じゃあ、悪い知らせってのはなんだ?」
「あと二時間もしないうちに友軍がコンスタンチノフスクに総攻撃を仕掛けます。私もチョブルイ川にいたとき参謀部の友人から聞いたのですが、同盟軍は持てる砲弾を全て撃ち込んで要塞を跡形もなく吹き飛ばすそうです。つまり、ぐずぐずしていると……」
アデルバートが飛び起きた。
「シャルロットが味方の砲撃に巻き込まれる!」
「ええ、そのとおりです」テオドールも真剣な表情でうなずいた。「急がなければなりません。シャルロットは要塞にさらわれました。しかし、要塞のどこに監禁されているかはわかりません。彼らの狙いは秘宝ですから、シャルロットに手荒なことはしないでしょう。今ではシャルロット自身が秘宝なのです。はやく助けに行きたいところですが、なかなか堅固な要塞ですからね。防壁と塹壕、哨所がいくつも設けられて、密偵を見張っています。問題はどのように要塞に侵入するかです」
「そんなの簡単だぜ」ペイトンはテントの支柱を顎でしゃくった。
支柱にはコサック外套がくくりつけられていた。
アデルバートは帝国海軍の脱走伝令兵から軍服を貰った。帆布でこしらえた黒い襟付きのピーコートと少し大きすぎるモスグリーンのズボン、平べったい軍帽。アデルバートはアダムス・リボルバーをベルトに挟むとピーコートを羽織って、ボタンを首元まで留めた。
ペイトンはコサックの軍服を借りた。やけに裾の長い軍套だったが、それでもペイトンには小さすぎた。袖と裾も全くのつんつるてん。ボタンを留めるのは諦めなければならず、少し丈が長い毛皮帽を被り、シャーシカと呼ばれる曲刀を貸してもらったがなんとも滑稽な様相だった。大体、赤毛で赤ら顔のコサックなど聞いたことがない。
老コサックは一行の馬を預かり、代わりに帝国兵の輜重隊が使う荷馬車を貸してくれた。馬車はどうしてもアデルバートから離れようとしないバルティーが曳くこととなった。
「で、問題は……」
そう言いながらペイトンはテオドールのほうをちらと見る。
「いやです! 絶対にいやです!」
テオドールは珍しく声を荒げていた。敵の軍服を着ることを嫌がったのだ。
「これは陸戦法規違反です! 国際法違反です!」
「カタいこと言うなよ、男爵」
「恥ずべきことですよ! これはスパイ行為です!」
後ろで老コサックが仲間たちを小突いて、ふざけあっていた。
「〈虱だらけの帝国外套はお上品な公国人の肩に合わないらしいや〉」
テオドールも帝国語でやり返す。
「〈あなたたちはろくに服装規定も守らずにゲリラ行為を行うのですから、制服など気にもしないでしょう。しかし、公国軍人にとって軍服は絶対です。これは名誉の問題です。いいですか? 名誉の問題なのです〉」
テオドールは意固地になり首を縦に振ろうとしない。するとペイトンが縄を手にして、意地悪く笑った。
「じゃ、最後の手段だ。男爵、悪く思うなよ」
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