4.コンスタチノフスク要塞攻防戦

夜の谷間の二人

 夜の谷の静寂が馬蹄にかき乱される。

 アピスは意識の失ったシャルロットを抱えながら、馬を駆った。背後からはツィーヌとパーヴェルが遅れずに適度な距離でついてきていた。

「止まれ」

 アピスは手を挙げて、後続の二騎に合図した。左右を挟む崖が二十メートル先で途切れ、蒼白い夜の荒野が広がっている。

「お前たちはここで待て」

 アピスはシャルロットを降ろすと、単騎で偵察に向かうべく夜の荒野に消えた。

 蹄音が聞こえなくなるとツィーヌとパーヴェルは馬をゆっくり進ませて、シャルロットのそばで鞍から降りた。

 崖の隙間から差し込む月光があたる空き地でシャルロットが静かに寝息をたてている。薬の効果で最低でもあと三時間は意識を失っているはずだった。

「この子が秘宝だったなんて。なんだか妙なことになってきた」

 パーヴェルが差し込む月光の中に立ち、シャルロットが影に包まれた。

 ツィーヌはシャルロットの脇にかがむと、手袋を外して手首と首筋に触れて、一度に二つの脈拍を計った。

「脈に異常はないわ」

「大丈夫だよ、ツィーヌ。ガスの濃度はちゃんと調節したから」

 パーヴェルもシャルロットの脇で膝をつき、ツィーヌにささやいた。

「これで任務完了。秘宝の正体についてはまだ分からないところがあるけれど、僕らはただ秘宝を奪取せよって言われただけだから、この子を要塞の中に連れ戻せばいい。でも、秘宝は女の子でした、だなんて大公殿下は納得してくれるかな? 殿下は秘宝のことを物凄い美術品だと思ってるみたいだけど」

「大公殿下の御意思は関係ないわ。そもそも殿下に私たちを使う権限はないはずよ」

「どうしたの、ツィーヌ? ちょっと神経質になってるみたいだけど」

「…………」

 ツィーヌは立ち上がると首にぴったりくっついた黒装束の襟を引き下げ、沢から吹き込む涼しい空気を胸一杯吸い込んだ。

「ふう……」

 パーヴェルもそれに倣い、マスクを外して深呼吸する。

「エルボニン半島って空気がおいしいんだね。何だか帝都暮らしが長いから、ジメジメした空気にも慣れちゃったよ。初夏の湿気は本当にすごいからね。僕の部屋なんて湿り気で糊がやられて、壁紙がベロリと剥がれ落ちてきたんだ。で、その後、すぐに任務だったから修理を頼む暇もなかったし。今頃、僕の部屋は糊の悪臭で暮らせたもんじゃないだろうなあ」

「要塞の電信局から帝都に電報を打ってみたら?」

「壁紙屋に修理の注文を? そんなこと頼んだら、電信係の士官に引っ叩かれちゃうよ」

 そう言いながら、茶目っ気たっぷりに微笑むパーヴェルの顔は少女にしか見えない。そのことは指摘しないでおいた。要塞にいたとき、女の子と間違われたことについてひどく憤慨し、文句を並び立てていたからだ。パーヴェルは自分の容姿にけっこうコンプレックスを持っていた。

「ねえ、パーヴェル」

「なに?」

「あなたと私、初めて会ってもう何年になるかしら?」

 パーヴェルは指折り数えて答えた。

「四年かな? 隊長がツィーヌを連れてきたのは戦闘訓練のときだから」

「そう。もう四年……」

「あのときは驚いたなあ。スパイの教育を受ける物好きなんて僕だけだと思ってたけど、まさかもう一人、それも女の子がやってくるなんて」

 パーヴェルはそのときの様子を思い出しながら、クスクス笑った。

「本当に驚いたよ」

「女がスパイを目指しちゃいけないかしら? 隊長だって女よ」

「そうだね。でも、男顔負けの怖さだよ。ねえ、ツィーヌ。思えば、僕らはよくあの地獄の特訓に耐え抜いたよね。昼夜を問わず、ナイフ投げや言葉の訛りを微妙に変えたりする訓練に明け暮れたし、ビスケット二枚で森の中に置いてかれて一週間生き延びろって言われたときは僕もさすがにへこたれかけたよ。隊長は子供相手でもちっとも容赦しなかったもんね」

「弱いところは見せられないからよ」

「子供に笑いかけることは弱いことなのかな?」

「わからないわ」

 パーヴェルは眠り続けるシャルロットに目を落とした。

「ともあれ、僕らにとって初めての任務は無事完遂できた。訓練の賜物だね」

「ええ。この日のためにいろいろな訓練をこなしてきたわ。ナイフや投擲物を使った戦闘術、高度な情報収集、気配を消しきる隠密行動に潜入訓練、人柄をがらりと変える訓練も……」

「そう。訓練の成果全部を発揮して、僕らは見事、任務を遂行したのさ」

 パーヴェルは誇らしげに胸を張った。

 だがツィーヌは首を振った。

「いえ。あと一つ。訓練の成果を生かしてないわ」

「そんなものあったっけ? あ、わかった。おいしいお茶の淹れ方だ」

「違うわ」

「え? う~ん、じゃあ……屋台で売ってる揚げ饅頭の中で一番具がつまったやつを見分ける方法?」

「違う」

「わからないな。降参だよ、ツィーヌ」

「暗殺術……」

 ツィーヌは短剣を抜くと、パーヴェルの目前にその刃をかざした。

「一本のナイフ、一滴の毒……あるいは素手で標的を物音一つさせずに葬り去る、私たちが仕込まれた最高の知識よ」

「ツィーヌ……」

「隊長が最も傾注した訓練だった……。隊長は私たちに人としての感情を殺して冷酷になるように命令したわ。私、この任務に参加するまでそれが出来た気でいた。でも、パーヴェル。……私、怖いの。今回の初任務は誰の命も奪わずに遂行できた。でも、次の任務じゃ分からないわ。いつか誰かをこの手にかけなければいけない局面が訪れる……。私、そのとき、本当にやりきれるか、……機械みたいに冷酷に殺せるか自信がない……」

 パーヴェルは目の前の刃に手を置いて、ゆっくり下げさせた。

「ツィーヌ。僕らは特務官房の執行員だ。僕もまだ人を殺したことはない。でも、任務として命じられれば、僕は何の疑問も感じずに遂行する。いや、しなければならない」

 パーヴェルの語調は厳しかった。

 ツィーヌの瞳が一瞬ぐらつき、後ろめたく伏せられる。

「ツィーヌ……。大丈夫だよ、君は強いから」

 ツィーヌは静かに首を振った。

「あなたはできる? 人殺しなんて……」

「わからないね……。正直に言えば、僕も自信がないんだ。昨日の夜、あいつらを襲撃したとき、僕は士官候補生を絞め殺そうとした」

 パーヴェルは自分の両手に目を落とし、淡々と話した。

「簡単だったよ。覚えた通りに体術を使ったら、相手はろくな抵抗もできず、ただ苦しみながら死の淵にゆっくり落ちていったんだ。僕も始めはただ無感情に首を絞めていたけど、苦しんでいる相手の顔を見ると……怖くなった。僕はチョブルイ川の陣地で一度、あいつと顔を合わせたことがあってね。下手な公国語で話しかけてきて、地図を一枚くれないかって言ってきたんだ。きっといいやつなんだろうな、って絞め殺そうとしながら思ったっけ。そうそう、君のスカートをめくった連中を懲らしめてくれたのもあいつだったね」

 ツィーヌはドキッとしてパーヴェルを見た。

「あれ、見てたの?」

「実はスカートがめくれたときから……。あ、わざと見たんじゃないよ! たまたま通りかかっただけなんだ」

 顔を真っ赤にして釈明するパーヴェルは先ほどの冷たさや厳しさもなく、とても子供っぽかった。だが、また表情が暗くなり、

「……話を戻すね。僕はかすかに潤んだ士官候補生の目を見たとき、耐え切れずにつぶやいちゃったんだ。ごめんよ、って……。結局、僕は出来なかったんだ。なんだか物凄い大男に肩をつかまれて放り投げられてね。あのときはひどい目にあったよ。あと少しだったのにって悔しがったりしたけど……結局、強がりだよね。いま思うと、あのとき邪魔が入ってくれて良かったよ。僕は人を殺さずに済んだ。……ツィーヌ、僕も君と同じ不安は抱いているよ。でも、僕は……もし命じられたら、相手が誰であれ、もう躊躇はしない。それが僕の使命だから。任務は絶対なんだ」

 ツィーヌも頷いた。

「任務の障害はあらゆる手段を講じて排除しなければならない。一番、最初に教えられたことだった。……隊長はアデルバートを殺したのかしら?」

「アデルバート? ああ、あの士官候補生か。まるで公国人みたいな名前だ。王国人なのに変だね」

「私も公国系よ」

「そうだったっけ?」

 ツィーヌは自分の首筋に触れた。

「あの候補生、針を打たれていたわ……」

「確かに打たれてたね。いつも隊長は……」

「即効性のある猛毒をアンプルに入れている。あれを注入されたら、まず助からないわ」

「……………」

「……かわいそう、なんて思っちゃいけないのは分かってる。でも……」

 ツィーヌは崖に挟まれた夜空を仰いだ。墨色の雲が時折流れて、星を隠す。ツィーヌは眩しい一等星が雲に呑まれていくのを見つめながらつぶやいた。

「私、隊長みたいになれるかしら?」

「僕は……今のままのツィーヌも好きだけど」

「え?」

 ツィーヌの翡翠色の瞳が驚きに瞬くと、パーヴェルは赤面して取り繕った。

「な、なに言ってるんだろう? ごめん、ツィーヌ。たぶん初任務のせいで興奮して頭が混乱したんだ」

 雲が通り過ぎ、一等星が再び輝き出した。夜の荒野から吹く風が突然冷たくなり、二人の肌を粟立たせた。

「うう、寒いなあ」

「エルボニン半島って、昼間は暖かいけど夜は冷えるのね」

 ツィーヌは吐く息が白くなったことに驚いた。パーヴェルも少し手を擦り合わせて暖を得ようとする。

「こんな土地に何年も居残って戦争するなんて、考えただけでぞっとするね。僕、兵隊じゃなくてよかった」

 ナイフを仕舞いながら、ツィーヌが意地悪く微笑む。

「わからないわよ。もしかしたら任務で永久凍土に派遣されるかもしれないし」

「えーっ、そんなのやだよ! どうせなら、もっと暖かいところがいいよ。あ、温泉の出るところがいいな。例えば、連合公国のバーデン・ボーデンとか。とにかく、いくら任務でも帝都以上に寒いところはごめんだよ」

「あら、任務は絶対なんでしょ?」

「うぐっ……」

 ツィーヌはパーヴェルの困惑顔にクスッと笑みをもらし、パーヴェルも釣られて笑ってしまった。

「ツィーヌは看護婦になろうと思ったことはある?」

「急におかしなこと聞くのね。どうして?」

「包帯所でツィーヌのこと見かけたんだ。あのとき、とても優しそうだったよ。看護婦そのものって感じで……」

「あれは……演技よ」

「本当? なんていうか、あのときのツィーヌ、とても生き生きしてて、そのー……とてもきれいだった。うん? また、なに言ってるんだろう、僕は。ごめん、ツィーヌ。これも忘れて」

 また冷たい風が吹いた。ツィーヌは軽く腰を浮かせるとパーヴェルと肩が触れ合うくらいまで近づいた。

 パーヴェルは顔を真っ赤にして、

「え? ツ、ツィーヌ、その、えっと……」

「ありがとう、パーヴェル」

 蒼白い荒野の丘に黒い影が現れて、トロットで谷に近づいてきた。

「隊長だ」

 きらっと一度光った後に、もう一度きらりと光が明滅する。

「合図よ。ついてこいって言ってる」

「じゃあ要塞に帰還するんだ。……あとは同盟国の攻撃を防げば、全て終わる」

……………

「行かなきゃ」

「……うん」

 二人はぎこちなく、そして名残惜しげに立ち上がった。

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