脱走兵の村

 エルボニン半島北部の谷は非常に入り組んでいて、渓谷と台地と尾根の稜線が縦横無尽に走りこんでいた。帝国軍のコサックでもこの地域をくまなく偵察することは不可能であり、いくつかの谷の入口は見落としてしまう。

 一行は顎鬚を蓄えた王国兵に連れられて、狭い切り通しを進んでいた。武器も馬も没収されず、帝国兵たちが手綱を取って案内してくれる。なんとも不思議な旅路である。

「来なよ、新入り。歓迎するぜ」

 王国兵が狭い岩場の行き止まりで振り返りながら、崖にへばりついた草むらに手を突っ込み、蔓草を一本引っぱった。

 錘が下がり、雑草で巧妙に隠蔽した隠し扉ががさつきながら持ち上がる。馬一頭がぎりぎりで通れる隘路が姿を現した。

「こりゃ一体どういうことだ?」

 狭い道を進みながら、ペイトンが不思議がると後ろからついてきたテオドールがそっと答えた。

「帝国兵たちから聞いたのですが……、どうも彼らは脱走兵のようです。各国から脱走した兵士たちがこの入り組んだ谷のどこかに隠れて戦争を終わるのを待っているとか」

「なんだって! けっ、根性無しどもめ」

 そのとき、頭上がふっと暗くなった。暮れなずむ空に脱走工兵がつくった櫓が影を引いている。櫓には見張りとして公国の脱走猟兵二人が詰めていた。

 アデルバートは相手の戦力を慎重に見定めた。

「ペイトン。ここは黙って従ったほうがよさそうだ。相手のほうが数も多い。でも、敵意は持ってないみたいだし、もしかしたら岩窟寺院についての情報を集められるかもしれない」

 枝道を掻き分け、ようやく隠れ谷が見えてきた。

 褐色の懸崖によって光から遮断された小さな空き地はバケツの底のように薄暗かった。中央を小川が通り、そのまわりに潅木が茂っている。

 四本の幹に天幕を結びつけて、ちょっとした食堂が設けられていた。白い帆布天井の下に蓆がひかれ、各国の脱走兵たちが持ち寄ったワイン、ウォッカ、ビールにウイスキーをがぶ飲みし、コサックが面白い形の弦楽器をぱらぱら掻き鳴らして、枯れかけた声で何か歌い上げている。まわりの兵隊たちは意味を分かってはいなかったが、とにかく音楽に合わせて出鱈目に声をはりあげて陽気に騒いでいた。

「ねえ、テオドール」帝国語が分からないシャルロットが聞いてきた。「あの人、なんて歌ってるの?」

「わかりません」帝国語を流暢に話すテオドールもコサックの歌はさすがに聞き取れなかった。「すごい訛りです。帝国語らしい単語もぽろぽろ出てはくるのですが、文法が混沌としていてとてもではありませんが、訳せませんよ」

 共和国水兵の軍服を着た若者が陽気そうに眉を動かしながら、アコーディオンを弾き、一行を歓迎してくれた。

「よう! あんたたちも脱走兵かい?」

「脱走兵じゃねえよ。あっちにいけ」

 不機嫌なペイトンがしっしと手を振った。

「馬鹿いっちゃいけねえや。でっかいの」水兵は陽気な船乗り小唄を弾いて後ろ歩きしながら、「王国の士官候補生とごっつい従卒、公国士官に、こんなかわいいお嬢ちゃんの四名様ご一行がなんだって本隊を離れて、こんな谷の中をうろつくのさ? どう考えたって不自然じゃないか。まあまあ、兄弟。ここじゃ脱走なんて別に恥ずかしくもなんともないんだ。脱走って呼び方が気にいらなきゃ、隊からはぐれちゃったって自分に言い聞かせればいいんだし。あっ、自己紹介が遅れたね。おれっちはフィリップ。共和国の南部っ子でこれでも砲艦の甲板員だったんだが、おれっちの艦は罐の爆発で沈んじまったってね」

 フィリップはその際、救命ボートの中で居眠りしていたのだが、起きるといきなり士官に怒鳴られて、地獄のうさぎ跳び百万回を喰らわされたらしい。

「それが嫌でね。うさぎ跳び百万回なんてやったら、本物のウサギになっちまうよ。鼻をひくつかせてニンジンを貪り食うなんて、おれっちゴメンだからね。まあ、そんなわけでしばらくここに居させてもらうつもりなのさ」

 フィリップは一行を川にせりでた砂地に案内し、小さなテーブルに着かせた。蜜を溶かしたお茶を出しながら、この脱走兵集落について一通り教えてくれた。

 脱走兵集落は戦争開始と同時に存在していたようだ。面倒なことが嫌いなコサックたちが勤務中の昼寝と飲酒を咎められて逃げてきたのが始まりである。始めはコサックだけで愉快に飲み騒いでいたが、そのうちコンスタンチノフスクに勤務する帝国兵が逃げてきて、ここに匿って欲しいと頼み込んだ。コサックたちは賑やかなほうが面白いので彼らを歓迎した。さらに同盟軍が上陸すると厳しい軍紀や戦闘の恐怖に耐えかねて、王国、共和国、連合公国の兵隊たちも一人荒野をがむしゃらに逃げてくるようになった。コサックたちは敵の脱走兵も気前よく受け入れた。逃げてきた王国兵士の中に工兵がいたので、谷にカモフラージュをかけた。こうして陣容が整うと、最初は三人のコサックから始まった脱走集落もいつの間にか五十人の大所帯となっていた。

「ここで隠れてれば間違いないって」フィリップが言った。「なあに、戦争が終わったら何食わぬ顔で戻れば簡単に紛れ込めるさ。兵員名簿ときたら、とんでもなくいい加減だからね。どう? これでもまだ脱走兵になりたくない?」

「なりたくないね」脱走兵=腰抜けの観点からペイトンは水兵の申し出を手厳しく跳ねつけた。「うさぎ跳び百万回でへこたれるくらいなら兵隊なんかになるんじゃねえよ」

「なあ、でっかいの。あんたも相当偏屈だね。戦争が終わるまでここで酒飲んで気ままに音楽ききながら過ごすのがそんなに嫌かい? じゃあ、なんだってこんな辺鄙な谷までやってきたんだね? まさか観光旅行?」

 アデルバートがそれに答えた。

「僕ら、この谷にある岩窟寺院を探しているんです」

「岩窟寺院?」フィリップはアコーディオンをぴりゃっと高く鳴らした。「それって、コサックのじいさんが言ってた洞窟のことかな?」

 四人は一斉に身を乗り出した。フィリップは急にまじまじ見つめられて、

「な、なんだい? おれっち何か悪いこと言ったかな?」と、どぎまぎした。


 コサックのじいさんは小柄ではあるが屈強で壮気に満ちた老人だった。一行が見つけたとき、老コサックは酒盛りのど真ん中で地面を転がる激しいダンスを踊っていた。老コサックは踊りが盛況になると腰まで伸びた口髭を振り乱し、ウォッカの瓶のまわりをぐるぐる転がり踊り、パッと立ち上がり瓶を掻っ攫った。老人はぐびぐびといい音を立ててウォッカを飲み干した。

「いいぞ、じいさん!」

「〈もっと転がれ! ほれ、踊れ踊れ!〉」

 囃し立てられると、老人は気をよくして、ますます転がりまくった。そのうち転がりダンスにも飽きたようで、老コサックは川で涼を取ろうと立ち上がった。一行は老人に近づいた。コサックが疑り深い目を向ける。

「〈なんじゃ、お前ら?〉」

 アデルバートはテオドールに通訳してもらい事情を話した。

 老コサックは退屈そうに帝国語で返した。

「〈岩窟寺院? ああ、あの不思議な祠か。脱走するときにちょろっと見ただけだ〉」

「〈本当ですか? もし、よければ場所を教えて欲しいのですが……〉」

「〈いいとも。そこの細い道を入って、右手に砂礫の丘を望みながら、北に進むとええ。突き当たりを右に曲がって、少し坂を登ると、崖に寺院が刻まれておる。ただ、気をつけるがええ。あそこは不思議な場所じゃ。わしがここに集落をつくる前、あそこを偶然通りかかったが、奇妙な光を入口からもらして、光の帯が五本、いや十本は飛び出してきたんじゃ。薄気味悪い場所じゃ。気をつけれ〉」

 一行はコサックに礼を言うと、川原で食事を取り、すぐにでも寺院に乗り込むことにした。伝説の秘宝は目の前で気が急いてしまう。一体、どんな財宝なのか? 一刻も早く見てみたいとわくわくしていた。

 ただ、出発を前にシャルロットとテオドールはやや沈鬱な面持ちである。

シャルロットは秘宝について知っていると言っていた。なぜ共和国の看護婦に過ぎない一少女が王国の秘宝の正体を知っているのか、考えてみれば不思議な話である。

 だが、シャルロットはみんなには内緒にして欲しいとアデルバートに約束させた。アデルバートは浮かないシャルロットを気にしながら、黙っていた。

「みなさんに言わなければならないことがあります」

 テオドールが真面目くさった顔で口を切った。

「なんだ、男爵? ずいぶん深刻そうだな」と、食後のココアを練りながらペイトンが言った。

「ええ」

 テオドールはアデルバートに向き合うと穏やかな口調で告げた。

「騙すつもりはなかったのですが、私はあなたに言いそびれたことがあるのです。……私もある任務を受けています。メレンディッシュグレーツ公爵直々の特別任務です。そう、あなたと同じ任務ですよ、アデルバート。秘宝を発見し、連合公国に持ち帰るという命令です」

 みなが驚き、テオドールの顔を見る。

「もし、秘宝を見つけたら、あなたと私の任務は対立します。言っている意味は分かりますね?」

 一つしかない秘宝をアデルバートは王国に、テオドールは連合公国に持ち帰らなければいけない。それが意味するところは戦いだ。アデルバートはテオドールと戦いたくないと思いながらも毅然としたところを見せて、頷いた。

 テオドールも真剣な表情を崩さなかった。

「あなたの考えている通り、お互いに任務を優先するならば、私とあなたは祖国のため戦ってでも秘宝を奪い合わなければなりません。でも、アデルバート。あなたがシャルロットを守るためコサックたちと戦っていたとき、私はあなたに言いましたね。助太刀する、と。あのときはあなたたちが秘宝奪還任務を携えているとは思ってもみなかったのです。しかし、私は約束しました。あなたを助ける、と。私はあのとき騎士道に命じられるままにそう約束したのです。これは絶対です。騎士たるもの、一度口にしたことは翻しません。騎士としての誓いは軍人としての任務より重要なのです。……こんなことをわざわざ言い出したのは、アデルバート、あなたに決めて欲しいからです。私は連合公国の軍人であり、特別任務を受けた身です。しかし、私は任務を放棄してでもあなたを助けるつもりです。いえ、助けたいのです。ですが、もし私がいま教えたことであなたの信頼が揺らいだのであれば遠慮なく言ってください。無理もないことです。私は秘宝の探索から身を引きます」

 アデルバートはテオドールの手を固く握って自分の胸に引き寄せた。胸を巡るこの温もりが伝わってくれればいいと思いながら。

「僕はあなたを信じます。むしろ、お願いします。一緒に来てください、テオドール」

「ありがとう、アデルバート」

 思わず涙ぐみそうになったシャルロットはすり鉢をごりごり擦るような喧しい妙な音を耳にした。音の根源に顔を向けると、男泣きしてしゃくりあげるペイトンの姿が目に飛び込んだ。

「ぐずっ……坊ちゃん、ご立派です。……男爵、あんた、いいやつだ……ぐずぐずっ、ずずーっ!」

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