ツィーヌとパーヴェル

 二人がアダムスカヤ街道を北上し始めたころ、灰色髪の少女はブリキの空バケツを手にさげ、同盟軍陣地の広い道を歩いていた。

 チョブルイ川から離れて、北の荒野に向かっていたのだ。

 連隊の行進や銃剣を配る輜重隊を避けながら、陣地の外を目指す。

 陣地と荒野を区切る石塀跡が見えてきた。塀が途切れた出入り口に哨所テントがよりかかるように建っていた。

 出口へ急ぐと、突然その肩を掴まれた。

 振り返るとさっきの騎兵が二人、下品な笑いを浮かべながらゆっくり少女の前に回り込んできた。

「さっきは悪かったなあ」

 髭の騎兵がそう言うと若い騎兵も相槌を打った。

「ほんと、ほんと。あれから俺たちも心を入れ替えたんだよ。だから、お詫びがしたくてよ」

 すぐそばには大きな空っぽテントが放置してあった。

 他の兵隊たちは自分たちの仕事で忙しく、騎兵たちにからまれている少女に気づく気配はない。

 二人は少女の肩と腕を掴むと空きテントに力ずくで引っ張り込もうとした。

「や、やめて……」

 少女の喉は恐怖で引き攣り、誰の助けも得られないまま、テントに引き擦り込まれた。

 若い騎兵が奥まで連れ込み、髭の騎兵は入口の垂れ幕をぴっちり閉めてしまった。

 バケツが取り上げられ、少女は奥のほうへ突き飛ばされた。

「さあて、もうナイトさまは来ちゃくれねえぞ」

「このテントは分厚いから、いくら泣き叫んでも外には聞こえねえ」

 二人とも舌なめずりしながら少女ににじり寄った。

「一ヶ月以上も女の柔肌にゃ触れてねえ。せいぜい楽しまさせてもらうぜ!」

 二人の男は一度に襲いかかった。

 少女の目がきらりと光る。

 左に体を寄せて、若い騎兵の突進を避けるとその首に鋭い手刀を打ち込み、続けざまに膝を鳩尾にめり込ませた。

「げほっ」

 相棒が砂地に突っ伏すと、髭の騎兵は目を丸くした。

 自分たちが襲ったのはか弱い看護婦のはずじゃ……

 少女は相手の狼狽を逃がさなかった。懐に素早く走り込むと軽い体重を効果的にかけた鋭い蹴りで相手の足を潰す。

 軍靴に守られたつま先が他愛もなく破壊され、髭の騎兵が叫び声をあげた。

 少女は後ろに回りこみ、細い腕で相手の首をきっちり締めて黙らせた。

「あなたの言うとおりね。このテント、外に音を漏らさないわ」

 今までの大人しさを微塵も感じさせない冷淡な囁き。

 首をきつく絞めると騎兵はもがくこともままならず気を失った。

 エプロンの裏に作った隠しポケットから小瓶を取り出し、地面に無様にのびる騎兵たちの鼻元にその瓶口を近づけて薬をかがせる。薬の作用で二人のここ半日の記憶が極めて不明瞭になる。目を覚ましたときには自分たちがなぜここで気絶していたか、全く分からないはずだ。このような薬は包帯所はおろか軍医総監だって持っていないかなり特殊な薬品だった。

 少女は薬瓶を仕舞うとバケツを手にテントを抜け出した。

 そして、陣地出口へ向かう。

 哨所テントにいた歩哨が少女を呼び止めた。

「どこに行く?」

 顔をあげた少女は大人しく気の弱い看護婦にしか見えなかった。

「水を汲みにいくんです」

 見張りの兵隊はその表情に絆されて、泉の位置を教えてやった。

「あっちの渓谷に下りるんだ。道なりに沿って降りれば小川があるから。ただ、あまり陣地から離れちゃ駄目だぞ。危ないからね」

「はい、ありがとうございます」

 少女は言われたとおり渓谷を目指した。ちらりと振り返り、自分の姿が谷に隠れたことを確認するとバケツを放り捨てた。

 少女のひっつめ髪がさっと解かれ、そよ風に遊ぶ。

 頭上から控えめな口笛が聞こえてきた。見上げると岩の上に連合公国の軍服を着た少年兵が足をぶらつかせて座っていた。

「遅かったね、ツィーヌ」

「少し手間取ったの」

 少年は少女の前に飛び降りた。

 小柄で細い首、薄い金髪、睫の長い薄青の眼、白蝋のような頬に桃の赤みが差している。美少女と見紛う可愛らしい顔に小悪魔のような笑みを浮かべていた。

「首尾は上々。ほら」

 少年が懐から取り出したのは作戦地図だった。同盟軍の進軍予定が克明に記されていた。将軍と一部の参謀将校しか知らないはずの情報である。

「ふうん。やるわね、パーヴェル」

「まあね。そっちは?」

「地図の在り処はつかんだわ。いま王国軍の士官候補生が持っている」

「名前は?」

「アデルバート・ヘンリー・リップルコット。シャルロット・ルフォシューという名の看護婦と行動をともにしているわ。二人はアダムスカヤ街道を北上中よ」

「どうしてアダムスカヤだと分かるんだい? あの街道は帝国騎兵の哨戒が一番激しい。途中で別の道を選ぶかもしれない」

「大丈夫よ。アダムスカヤ街道を選ぶように情報を流したの」

 少女はクスッと笑い、事情を話した。

「なるほど。じゃあ、こっちの思い通りに動くってことだね」

 冷たい微笑とともに少女が頷く。

 パーヴェルも子供っぽい残酷さで微笑んだ。

「じゃあ、潜入任務は完了だ。急いで隊長に報告しよう」

 帝国語で交わされた穏やかでない会話が終わると二人は偽りの制服を脱ぎ捨てた。既に下には動き易い野戦服を着ていた。

 二人は渓谷を北へ猫のような敏捷さで走り抜けていった。

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