包帯所のシャルロット
まだ空を飛んでいるような感覚が残っていた。
体は雲に包まれたようだ。
ペイトンの言うとおりだ。
天使はアデルバートの首根っこをつかみ、激しく揺すってきた。
白い分銅と黒い分銅がぼんやりと見える。
天国か、僕は死んだんだな……
…………
……
アデルバートは生前の行いを告白した。
「神さま。僕は昨日、馬のお尻を鞭で打とうとしました。でも、打ちませんでした。打ちたくありませんでした。バルティーが好きだからです。その夜はあいつのために飼葉をたくさん……」
天使は告解を遮るように肩を揺すってきた。
振動で意識が明瞭になり、天国の正体が少しずつ解けてきた。
空の感覚は顔に当たる隙間風。体を包む雲は薄っぺらい白の毛布。白い分銅は消毒用アルコールの瓶で、黒い分銅はヨードチンキの瓶だった。
そして、天使は……
「ほら! しゃんとしなさいってば!」
天使はちゃんと天使だった。
舶来の瑠璃のように鮮やかな碧眼がアデルバートをぴりっと見据えている。退屈を嫌い、活動を求める明快な気質が小さな唇に熱っぽい潤いと赤みを与えていた。編んで垂らした金髪は救護テントの外から指す日光に縁取られ輝いていた。白い頬は少し汚れ、泥を拭った跡が右頬に二筋通っていたが、それが少女の活発な魅力をさらに際立たせている。
少女の手は女の子らしく膝の上できちんと大人しくするよりは活発に動くことを求めており、布団に包まれたアデルバートの膝を台代わりにして患者用のシャツを畳んでいた。そしてその細い指がさっと閃くと、五枚のシャツは瞬く間に小さく畳まれて足元の籐籠に滑り込んだ。
「ああ、忙しい!」
嬉しそうに笑う少女は快活そのもの。少女は白いエプロンを身につけて、赤十字入りの白い腕章をブラウスの袖にピンで留めていた。
少女は看護婦だった。
「寝ぼけてるの?」
ぼうっと見惚れていたアデルバートの肩を少女は激しく揺すった。
実にぞんざいな扱いだったが、それが逆に安心感を与えてくれた。自分は乱暴に扱われても問題ない軽傷者なのだ。
「ここは……天国じゃないの?」
少女は清潔なシャツで溢れる籠を持ち上げながらアデルバートの質問に答えた。
「お生憎様。ここは包帯所よ」
少女は患者に呼ばれ、どこかに行ってしまった。
太陽光線でうっすら褐色がかって見える天幕にはベッドが五台あった。ベッドは環状に並べられていて、頭のほうはテントの外幕を向き、足は天幕を支える中央の柱に向いていた。
柱には小さな鏡と白く塗られた細長い箱がかかっていて、中には包帯とガーゼが入っていた。ベッド脇には薬棚が置いてあることがあれば、えもんかけが立っていることもある。怪我人が着ていた上衣や外套はみなそこにかけられていて、剣やピストルは地面に無造作に放ってあった。
ベッドに寝ているのは共和国兵二人、連合公国兵一人、王国兵一人。
みな意識を失っていたが、重傷というわけではなかった。
働いている看護員はアデルバートが見ただけでも二人だけだった。
先ほどの少女ともう一人。ほっそりとしていて、薄い灰色髪、翡翠を嵌め込んだような緑瞳が美しい少女だった。さっきの少女よりもずっと大人しく、そしてずっと優しく負傷者を扱っていた。
その少女はちょうど連合公国兵の傷を診てやっていた。その兵隊は肩に銃弾を受けて昏倒したのだが、少女が包帯と布団をなおしてやると手を握り、優しく何か語りかけていた。
負傷兵は、んん、と喉を鳴らし、安らかに息を吐いた。
アデルバートがその様子をぽーっと見ていると、気が強いほうの少女が通りすがり、
「男ってみんな、ああいう可憐なタイプに弱いのよね」
と、皮肉まじりに言った。
「君もかわいいよ」
すぐ自分の言ったことの小恥ずかしさに気づき、赤面した。
少女は冗談ととり、つんと微笑んだ。
「ありがと。でも、お世辞言っても消毒と包帯しかしてあげられないからね」
少女は薄青のスカートをはためかせ、外の軽傷者たちの様子を診に行った。
アデルバートは消毒薬の臭いと少女の皮肉に顔をしかめながら、自分の負傷を確認した。
手は満足に動いた。足も問題ない。上衣は脱がされてシャツ姿だったが、胴体にひどい傷を受けたわけではない。上衣もきちんとベット脇のハンガーにかけてあったが、血痕らしき黒い染みが肩に数か所残っていることをのぞけば、損傷は見つからない。
入り口に垂れていた厚手の布がはためき、陽がアデルバートの目を刺激した。
「うっ……」
頭痛に襲われ、喉の奥から呻き声がもれた。
アデルバートの額と耳の上の部分を包帯がぐるりと巻いてある。こめかみを手で触れると、鋭い痛みが体中を波打って、筋という筋がまるでバネでも仕掛けられたように突っ張った。
「負傷はここだけか……。でも、僕はどうしたんだろう?」
爆発する川。王国のやかましい旅団長。撃たれて岩から落ちた帝国士官。そこまでは思い出せる。そして、ペイトンから天国に関する講釈を聞いたことも思い出した。
ところが、その先は靄がかかり、記憶が不明瞭になる。
「……思い出せない」
「お困りのようね」
いつの間にか、先ほどの少女が隣の椅子に座り、タオルを絞っていた。
「なにか聞きたいことはある? あなた、砲弾に吹き飛ばされて頭に負傷したんだもの。いろいろ分からないことがあるでしょ?」
「ここはどこなの?」
「さっきも言ったとおり包帯所よ。あなたたちが分捕った北岸のね」
「分捕った? じゃあ、僕らは勝ったのかい?」
少女は肩をすくめて答えた。
「ええ、そうよ。あなた、この分だと相当の重傷かしら? あなたよりもひどく頭を打った兵隊さんを診たけど、その人だって自分たちが勝ったことくらいは覚えてたのよ」
少女は絞ったタオルを手に取ると、アデルバートの包帯を取り始めた。
一方、アデルバートには自軍の勝利が俄かに信じられず、首を振った。
「ちょっと。動かさないで」
か細いがしっかりした指がアデルバートの栗色頭をがっしり押さえた。
合点のいかないアデルバート。
しかし、勝敗について少女の言ったことは全て事実だった。
同盟軍はチョブルイ川北岸で帝国軍を打ち破った。
アデルバートが気を失ってからの戦闘経過は以下のようなものだった。
最右翼の共和国軍騎馬砲兵隊による砲撃、さらに中央の連合公国砲兵隊も高台を占領し、軽砲四門、鹵獲した野砲二門を加えて帝国軍の堡塁と司令部に熾烈な砲撃を加えた。
帝国軍の砲兵隊も反撃したが側面を曝露された上、伝令が砲撃で負傷したので司令部との連絡もつかなくなり反撃が滞ってしまった。
同盟軍はその隙をついた。
連合公国のライフル騎士師団、共和国の植民地歩兵師団、そして王国軍の第一騎兵師団および第二騎兵師団の分遣隊も加わった総勢二万三千余が寡少の損害で渡河を成功させて、対岸の帝国軍に猛攻をかけた。
帝国軍総司令官ドミトリー・アンドレーエヴィチ大公は全面的な潰走に陥る前に軍を退却させることを決定し、小競り合いの末、本隊とともに秩序立って撤退した。
追撃をかけたい同盟軍だったが、兵は疲れ、弾薬を使いきり、馬も息を切らしてしまっていたので急の進撃に対応できなかった。
サマーフォード、サンデュブラン、メレンディッシュグレーツの三司令官はひとまず高地の上に広がった荒野を占領し全軍を集結させて態勢を整えることが先決と判断。負傷者の収容と補給、予備兵の到着を待った後、コンスタンチノフスク要塞へ進撃することとなった。
こうして、世にいう『チョブルイの戦い』は中途半端な結果に終わった。
帝国軍は防衛線を放棄して、一路コンスタンチノフスクを目指し北へ退却。
同盟軍も戦闘には勝利したが、敵の主力を壊滅し損ねて決定的勝利は逃がしてしまった。
損害は帝国軍が死者五百、負傷三千。
同盟軍が死者四百五十、負傷二千五百。
対決はコンスタンチノフスクに持ち越された。
そんなことを知らないアデルバートは心ここにあらずで一人つぶやいた。
「勝てるわけがないよ。だって、数万の軍勢が突然湧き出して……」
少女は驚いて声をあげた。
「数万の軍勢ですって?」
アデルバートはうなずいた。
「そうだ、思い出した。僕はその軍勢に襲われて負傷したんだ」
「数万の軍勢ねえ……」
少女は包帯を取って、タオルでアデルバートの額を拭いてやりながら微笑して教えた。
「あれは三十人足らずの降伏兵、あなたは友軍の砲撃で負傷したのよ。騎兵さん」
少女の口から聞かされた意外な真相はこれまた俄かには信じがたいものだった。
アデルバートは何だか自分が馬鹿にされたような気になり、やっきになって少女の意見を否定した。
「降伏兵だって? それこそありえないよ! 彼らは軍旗を先頭に押し立てて、僕らに突進してきたんだ。ウラア! って叫びながら……」
意気込むアデルバートに少女は溜息をついた。
「ふう、いろいろ正さなきゃいけない勘違いを抱えてるみたいね。人の思い込みを治すのって砲弾の裂傷を治してあげるよりも難しいのよ」
アデルバートは少女の皮肉った物言いに少しむっとしたが、少女はタオルでアデルバートの額を拭いながら、お構いなしに続けた。
「まず、あの人たち……つまり帝国兵ね、あの人たちが先頭に掲げてた軍旗だけど、あなた、その模様を覚えてる?」
覚えていなかった。軽い頭痛に見舞われながら思い出そうとしていると、少女は頭に当てていたタオルをはらりと広げて、アデルバートの視界を塞いだ。
「これと同じ模様よ」
「模様って……何もない。ただの白いタオルじゃないか」
「そうよ。だって、あなたが見たのは白旗なんだもん」
からっとした答え。アデルバートはむきになり、目の前を覆うタオルの下から顔を突き出して声高々に反駁した。
「違う! 確かに軍旗だった!」
二人の顔は鼻先がぶつかり合うくらいまで近づいていた。一筋の髪がふっとアデルバートの頬を撫でる。少女は物怖じすることもなく、不敵に笑って聞き返した。
「本当にそういえるの? なら、軍旗の模様も思い出せるわよね」
「そ、それは……」
自信がなかった。軍旗は陽光を背に輝いていた。あのときは目が眩んで見えなかったと思っていたが、今となると無地の白が光を反射していた気もしてきてしまう。
ただ、あの帝国兵たちが敵意を持ってこちらに襲いかかってきたことにはもう一つ根拠がある。
「で、でも、敵はみんなウラーって叫んでいた。あれは帝国が突撃するときのかけ声だよ」
「ふうん。ウラー、ねえ……」
少女は自分の額に指をこつこつ当てて、思い出すように言った。
「でも、私にはこう聞こえたな。ウ、ツ、ナ、って」
少女は幼児に言葉を教えるように一つ一つのアクセントを明瞭に強調した。
「ウツナ?」
「そう、ウツナ。ちょっと。顔、近すぎよ」
少女はアデルバートをベッドに突き戻し、包帯を巻きあげると、忙し忙し、と慌しく外の物置に駆けていった。
アデルバートは少女の言葉を口の中で反芻していた。
「ウツナ……ウツナ……撃つな?」
発音の変化が言葉に意味を与える。
その瞬間、霧が吹き飛ばされて、全てが分かった。
実に情けない話だ。あの帝国兵は少女の言うとおり降伏してきた兵隊だった。砲撃に耐えかねて白旗を振りながら、慣れぬ王国語で『撃つなあああ!』と叫びながら、投降していたのだ。
だとすれば、自分に襲いかかった敵兵も説明がつく。あのズダボロの兵隊は銃剣もマスケット銃も捨てて、水筒だけで襲いかかってきたが、あれも降伏するために武器を放り捨てていたからに他ならない。
数万というのも自分の思い込みだ。かかってくる敵の数はとかく誇張されやすい。
自分の勘違いが明らかになると、火のついた石炭を放り込まれでもしたように体が火照ってきた。
帝国兵に驚いて逃げ出した王国兵の前衛たちが思い出される。あのとき、アデルバートが剣を抜いたのはあんなふうに逃げたくないという勇気めいたものが心の中に閃いたからだ。
しかし、今にして思えば、自分は戦意を失った敵を相手に勇気を空回りさせて一人相撲を取っていたに過ぎない。慌てて逃げた兵隊よりも滑稽だ。
アデルバートは恥ずかしくてやりきれなくなり、赤面を隠すように毛布の中に潜り込んだ。
ところが、少女の容赦ない揺さぶりがアデルバートを逃がさない。
「ねえ、元気なら早くベッドを開けて。ベッドは五台しかないんだから、もっと重傷の人が使うのよ」
アデルバートは野良猫のように追い出され、代わりに足を骨折した共和国の兵士がベッドに安置された。
アデルバートはこっそり上衣を着込むと、足元に転がされていた剣吊りベルトと砂だらけの飾帯を身につけ、がっくり肩を落としながら包帯所テントを出た。
包帯所テントはチョブルイ川北岸の頂、敵の砲台跡に立っていた。
裏手には叩き割られた砲架が放置されている。眼下にはチョブルイ川が流れていて、軍服の切れ端や壊れた荷車が川面の石に洗われていた。
野戦病院は低地と頂の両方に数箇所構築されていて、戦場の戦傷者たちを収容していた。
前庭の前をいろいろな軍人が素通りしていく。
連合公国の参謀将校たちが地図や図面を抱えて、坂を上ってきている。持ち切れない地図は少年兵に押し付けられていた。
アデルバートはその少年兵にたどたどしい公国語で話しかけた。
「えーと、あの、すいません」
「なんでしょう?」
美少女のように可愛らしい顔の少年兵は薄い色の目をくりくりさせて聞き返した。
「軍用地図、一枚、もらえますか?」
「地図? ああ、分かりました。この箱の中から一つ、お好きなものを取ってください」
アデルバートは一番手近に挿さっていた地図を一枚取り出すと礼をいい、少年兵と別れた。
ときどき人の列から二人か三人がこの包帯テントに折れてくる。いずれも軽傷者である。
前庭のように区切られた部分にはアデルバートと同じくらいの軽傷者たちが油を売っていた。
さて、この元気な負傷者たちの間を縫うように志願看護婦の少女が動き回っていた。あの気の強い少女である。少女はヨードチンキとアルコール、それに傷を拭くための布を手に負傷者を見つけては傷を洗い、消毒をやり直していた。
「痛いっ! ひどく染みるよ、看護婦さん!」
三十を超えた古参兵が膝にしみる消毒薬相手に声をあげると、年端もいかない少女は毅然として、こう言った。
「我慢しなさい! 男でしょ!」
そうして容赦ない消毒薬の散布で男の目を涙ぐませると彼女は決まってこう言うのだ。
「ちゃんと洗って消毒しないと壊疽を起こして大変なんだから。壊疽を起こしたら、腕や足は切られちゃうのよ? 嫌でしょ、そんなの。じゃあ、我慢して消毒されなさい!」
どうやら、この少女は嫌がる人間に消毒液をかけるのが面白くて仕方ないようだ。消毒薬の瓶はテント入り口脇の木箱の上に山積みされている。
少女は消毒薬が空になると瓶を放り出し、次の瓶を取りに戻る。その間、収容された軽傷者たちは、次は誰がこの消毒少女の生贄にされるのかを考えて、真剣に少女の行方を見守るのだ。
要領の悪いアデルバートはうっかり目を合わせてしまった。少女はずるそうに笑って、新しい消毒瓶の蓋を開けた。
「あら、あなた。そういえば、さっき消毒し忘れてたわ」
「え?」
少女は逃げようとするアデルバートを押し倒し、馬乗りになりながら無理やり包帯を解いた。
「こら! あなたの場合は頭に傷を負ったんだから、消毒は特に念を入れなきゃ駄目なの。壊疽が起きても頭は切除できないものね! それに私のこと、かわいいって言ってくれたから、お礼にたっぷり消毒してあげる」
宣言通り、たっぷり半パイントの消毒薬をぶっかけられた。
アデルバートがひいひい呻きながら、頭を押さえる。
少女は自分の介護ぶりに満足した様子で次の犠牲者を探して、テントの中に入っていった。こんな乱暴な手当てを受けて、他の軽傷者たちはさぞ不満顔だろう。アデルバートはそう思いながら、辺りを見回した。
すると、あることに気がつく。
このテントの負傷兵たちはみな、妙に気分が明るいのだ。
みんな怪我が軽いせいだと思っていたが、それだけでもないようだ。
担架兵で運ばれる重傷者たちはこのテントの前を通り過ぎる。重傷者たちは四肢や胴に砲弾片や銃弾を受けたものばかりで、自分の不運を嘆いて暗い顔をし、川沿いから運ばれてきたのだが、彼らがこの包帯所を通り過ぎるとき、消毒少女の弾けるような笑顔を見て、みな笑みをもらすのだ。
誰でも子供時代の宝箱に、こうした明るい少女との楽しい思い出を大切に仕舞い込んでいるものである。
看護婦の少女を見ているとそうした思い出が甦り、不運や辛いことは笑い飛ばすことが出来ると信じてしまう。
少女は楽しく笑うが、決して遊んでいるのではない。消毒の合間に汚れた包帯を交換し、定期的に止血帯を緩めて塞いだ組織に血を通わせ、そして喉の渇いた兵士たちに水を持ってきている。
その華奢な体に秘めた大いなる活力を発散させて、陰惨になりがちな包帯所を精一杯盛り上げようとしているのだ。
その努力は実っている。この包帯所は戦場の医療施設が免れない殺伐とした雰囲気を跳ね飛ばし、牧歌的な温もりで負傷者を包んでいた。そうした雰囲気が治癒に対し、好影響を与えているのは間違いないだろう。
「きゃあ!」
だが、和やかな雰囲気は突然の悲鳴で破られた。
灰色髪の大人しい少女がスカートの裾を押さえ、恥ずかしそうに顔を伏せながら、小走りに逃げていく。テントの支柱に隠れ、臆病な視線を前庭に寄せていた。
視線の先、石塀のそばで胡坐をかく王国の竜騎兵が二人、イヤらしい笑みを浮かべていた。
「キャ~だって。かわいいじゃねえか」
「お前も好きだな。このスケベ野郎」
二人の騎兵はスカートをめくる真似をして、また大笑いした。
すると、気の強いほうの少女がつかつか歩み寄った。
「ちょっと、あんたたち!」
少女は手を腰にあて、騎兵たちの前に仁王立ちになった。
若いほうの騎兵が睨みかえす。
「なんだよ?」
「あの子になにしたの?」
「べつに。なにもしてねえよ、なあ」
もう一人、口髭が生えたほうにそう呼びかけると相棒も相槌を打った。
「ああ、何もしてねえぜ」
「とぼけないでよ! あの子のスカートめくったでしょ?」
若い騎兵はおどけて首を振った。
少女はますます怒って声を高くした。
「ここは病院よ!」
「そうカッカすんなよ。荒野の風で傷んだ目を保養させてただけじゃねえか」
その間、口髭の騎兵は少女の背後にこっそり回り込んでいた。座ったまま、包帯を巻いた手をそっと少女のスカートに伸ばしている。
(あいつ、またスカートをめくる気だ。あの子、気づいてないぞ)
アデルバートが注意しようと立ち上がりかけると……
腰に当てた少女の手がふわっと舞い上がり、小さな光の玉が一つ、忍び寄る騎兵の手にポトリと落ちた。その途端……
「い、いてえええ!」
騎兵は髭に隠れた顔を目一杯歪ませて、のた打ち回った。
少女はふんと鼻を鳴らした。
「私が気づいてないと思ったの?」
若いほうの騎兵が毒ついた。
「て、てめえ! 何をした!」
少女は手の中に隠した褐色のスポイトを人差し指の上でくるりと回してみせた。
「怒られるようなことはしてないわ。一番体にいいけど一番しみる消毒薬を垂らしてあげただけよ。これに懲りたら、二度と看護婦のスカートをめくったりしないことね」
少女はくるりと背を向けて、テントの隅に隠れた灰色髪の少女に笑いかける。
「大丈夫。もう悪さはしないわ」
灰色髪の少女はほっと息をつきかけたが、慌てて悲鳴をあげた。
消毒少女の後ろで例の若い騎兵が立ち上がり、乗馬鞭を振り上げていたのだ。
金髪の少女は風を切る音に振り返った。鞭が少女の顔目がけて振り下ろされる。
少女は咄嗟に目をつぶった。
ビシッという鋭い音。
「そんなに元気なら早く隊に戻りなよ」
鞭は割って入ったアデルバートの左手に当たった。だが、右手は相手の手首をしっかりつかんで離さない。
「て、てめえには関係ねえだろ。このナイト気取りが……ぐっ」
騎兵はもがいて腕を抜こうとするもアデルバートはがっちり腕をつかんで離さない。
しばらくするとアデルバートは手を離したが、今度は視線で相手を捉えて離さなかった。おまけに周囲を見回すと騎兵たちに味方は一人もいない。ここにいる怪我人は全員、少女たちの味方だった。
八方から鋭い視線に突き刺されては分が悪い。そのうち、物凄い目で睨みつけてきた砂漠の傭兵たちが三日月のような短剣をこっそり抜き始めたので二人の騎兵は尻尾を巻いて逃げ出した。
「ふう」
アデルバートは打たれた手を見た。左手の甲が親指の付け根から中指の辺りまで皮膚を切られていた。
「あ、あの……」
気弱な声に呼びかけられる。目を上げると金と銀の髪が眩しく輝いていた。大人しい少女はすまなそうに目を伏せていて、気が強いほうの少女は少し恥ずかしそうに頬をかいていた。
まず灰色髪の少女が丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます。……それに、ごめんなさい。私のせいで……」
アデルバートはじんじん痛むのをやせ我慢して言った。
「このくらい平気さ。それよりも君は大丈夫?」
「は、はい。ちょっと驚いただけですから」
「そう。良かった」
金髪の少女がアデルバートの手を取った。
「ちょっと見せて……ひどい傷。私たちのせいで除隊させられたなんて言われたくないから」
少女は褐色の一パイント瓶をエプロンから取り出した。この包帯所で一番強力な消毒液、先ほどのスポイトに入っていたものと同一である。
「これ、私からのお礼とお詫びよ」
また地面に押し倒されて、今度は一パイント全てかけられた。
「いたたたたたっ!」
「しっかりしなさい、男でしょ!」
激痛に身をよじらせるアデルバートを消毒液が滝のように襲いかかる。
「いいいいいっ!」
「そんなことじゃ宝探しの冒険には行けないわよ!」
「ちょ、ちょっと待った!」
消毒液がピタリと止む。
「今、なんて言った?」
「宝探しの冒険」
少女がけろりと答えた。
「な、なんでそのこと知ってるの?」
心臓が止まるくらいびっくりした。王家の秘宝探索は王国軍総司令官から出た秘密任務だ。それがなぜ一介の共和国看護婦に知られているのか。
「決まってるでしょ。これよ」
看護婦はエプロンの中から一枚の地図を取り出した。古ぼけた褐色の地図だ。
「僕の地図じゃないか!」
「あなたのかどうかは分からないわ。これ、テントの中に落ちてたんだもの」
「僕の上衣に入ってたはずだ!」
少女はしらっとぼけた。
「そういえば、あなたのベッドの近くに落ちてたわね」
「返してくれよ!」
手を伸ばすアデルバート。少女はひらりと後退する。
「あなたのベッドに落ちてたってだけで、あなたに返すわけにはいかないわ。ひょっとしたら、あなたの前にあのベッドで寝ていた人のかもしれないし」
「そ、そんな! これじゃ泥棒じゃないか!」
「ま! 失礼しちゃうわ」
気を悪くした少女は声高く聞きまわった。
「落し物でーす! この地図に見覚えのある人はいませんかあ!」
少女が地図を他の負傷者たちに見せびらかし始めたので、アデルバートは慌てて止めさせた。
「やめてよ! 極秘任務なんだ!」
少女はくるりと振り向くと、口を閉じて地図をひらつかせた。アデルバートはずるっぽい少女の上目遣いに小悪魔を見た。
「ふふっ、わかったわ。確かにこれはあなたのものね。でも、落ちてたのは本当よ。それなのに泥棒扱いはひどくないかしら?」
少女は少し顔をしかめて、アデルバートに凄んだ。
アデルバートはただ戸惑うばかりだった。どうもこの少女が苦手であった。母親に似て、気が強いからだ。
「ご、ごめん。確かに僕が悪かったよ。でも、その地図は本当に大切なものなんだ」
「これ、宝の地図なんでしょ?」
声を潜めて少女が言う。灰色髪の少女も、まあと驚いて、手で口を覆った。
「ねえ、どうなの? これ、宝物を隠した地図なんでしょ?」
「ほ、本当ですか?」
アデルバートは少女たちの好奇に晒され、身も縮む思いだった。
金髪の少女は灰色髪の少女と煮え切らないアデルバートをテント裏に引っ張った。
「ねえ、騎兵さん。私、何も返さないって言ってるわけじゃないのよ。地図はちゃんと返してあげるわよ。たった一つ、条件さえ飲んでくれればね」
「条件?」
樽の上に座らされたアデルバートは嫌な予感に眉をひそめた。
少女がそれを見て、
「そんなイヤそうな顔しなくてもいいじゃない。私、宝物に興味はないもの。私の興味があるのは冒険のほうよ。そう。条件はこれ」
少女はこれ以上ないくらい明るい笑顔で言った。
「私も一緒に連れてって!」
開いた口が塞がらない。
確かに初めて見たときから活発な少女だと思っていたが、いくらなんでも度を越している。今日初めて会ったばかりの人間に宝探しの旅に連れて行けと頼むとは一体、どういうつもりなんだろう?
しかも、ここは戦場なのだ。
宝は半島北部の岩窟寺院にある。北部はまだ同盟軍の支配が効いていない。帝国の騎兵隊が同盟軍の偵察を捕らえようとうようよしているはずだ。
それを考慮すればアデルバートの答えは決まってくる。
「ダメだよ。危険すぎる」
「危険なのはここだって同じよ。いい? ここは帝国領なのよ。立派な戦場なの。いつ大砲の弾が飛んできてもおかしくないわ。騎兵のサーベルや銃弾を怖れているようじゃ、従軍看護婦は務まらないわ。ねえ?」
「う、うん」
同意を求められた灰色髪の少女も大人しくうなずいた。
「でも、君は看護婦じゃないか。ここの仕事をほったらかしにしていいの? そんな無責任なこと許されるわけ……」
少女はアデルバートの鼻先で指をパチンと鳴らして遮った。
「いいのよ。だって、この包帯所、閉鎖されちゃうんだもん。ねえ?」
「う、うん」
「それ、本当かい?」
気の強い少女が答えた。
「軍の偉い人たちが怒ってるんだって。いたいけな少女を戦地に狩り出すとは何事か~!…って。だから、私もこの子も本国に送り返されるの。失礼しちゃうわね。私たちだって一生懸命がんばってるのに。このままじゃやりきれないわ。せっかく外国に来たんだもの。私、まだまだいろいろしたいことあるのに……。ね、だからいいでしょ? 私も連れてってよ」
アデルバートは頑として首を縦に振らなかった。
「危なすぎる。これは遊びじゃなくて女王陛下直々の任務なんだ。女の子を危険に晒すわけにはいかないよ。さあ、もういいだろ? 地図を返してよ」
少女はふてくされ、足元の砂を蹴飛ばした。
だが、アデルバートが表情を緩めないのを見て取るとがっくり肩を落として言った。
「……わかったわ。地図は返してあげる」
そう言うなり、少女は地図を二つ折りにして胸の中に仕舞い込んでしまった。
「あっ!」
「さあ、どうぞ。騎兵さん。欲しかったら取ってみなさい。ただし、女の子の胸に手を突っ込んでまさぐり回すような真似が出来たらの話よ。少しでも手を触れたら、私、大声で叫んでやるから」
地図はブラウスの第二ボタンと第三ボタンの間に無造作に突っ込まれていた。
少女はその胸をアデルバートに向かって突き出して、取れるもんなら取ってみろと凄んできたのだ。
少女の碧眼は不敵さすら帯びて、アデルバートを睨んでくる。
アデルバートはぷっと吹き出してしまった。
「な、なによ?」
「だって、君、自分の胸に地図を突っ込んで……くく、あはははっ!」
こんな子は初めてだった。女性に対しては奥手になりがちのアデルバートには女の子はみんな気が強そうに見える。
だが、この少女は段違いだった。親元から離れ、見慣れぬ土地の戦争で返り血とヨードチンキに汚れ、軽傷とはいえ生々しい戦傷を手当てしながらも気丈に振舞う少女がとても可笑しかった。
「ちょっと! いつまで笑ってるのよ! また消毒されたいの!」
「ご、ごめん。でも可笑しくて……」
「何が可笑しいのよ?」
「君さ」
「私? バカにしてるの!」
少女の手が消毒液に伸びたので、アデルバートは慌てて言い直した。
「違うよ。君は凄いってことさ」アデルバートは少し間を置いて言った。「君の勝ちだ。一緒についてきてもいいよ」
「ほんと?」
まだ見ぬ冒険が少女を誘う。少女はアデルバートの手を掴むと何度も激しく上下に振った。
「ありがとっ、そうこなくっちゃ!」
「いたたた!」
さっきの鞭傷が少女の細い手でぎゅっと握られて、激しく痛む。
アデルバートは手を振り払い、傷を撫でながらつけ加えた。
「でも、これだけは約束してもらうよ。宝探しの途中、一人でも敵兵を見かけたら、僕は君を味方の陣地に送り戻すからね。それでもいいなら、ついてきてもいいよ」
「わかった。約束するわ、騎兵さん」
「僕は騎兵じゃないよ」
アデルバートは少しもったいぶって飾帯に無事な手を挟みこんだ。
「僕は士官なんだ」
「まだ使い走りでしょ」
看護婦の少女はアデルバートの襟をツンと突っついた。飾り気のない候補生襟章が取れかける。
「候補生だよ」アデルバートは襟章を直しながら言い返した。「アデルバート・ヘンリー・リップルコット。ちゃんと覚えてよ、看護婦さん」
「シャルロット・ルフォシュー。私にもちゃんと名前があるんだから覚えてよね」
シャルロットは胸から地図を取り出して、アデルバートに返した。少女の胸で温もった地図にアデルバートは顔を真っ赤にした。その様子に灰色髪の少女がくすくす笑い出す。
「さてと。じゃあ善は急げ。あなたの気が変わる前に旅支度を整えなくちゃ。そうだ! ねえ、あなたも一緒に行かない?」
灰色髪の少女は遠慮がちに首を振った。
「ううん、私はいいわ。怖いし危ないから……あっ」
シャルロットは返事も聞かずに走り去ってしまった。
灰色髪の少女が苦笑する。アデルバートがたずねた。
「あの子、いつもあんな感じなの?」
「分からないんです。あの子と会ったのはつい一時間前なので。でも、不思議な子ですね。会って十分もしないうちに前から友達だったような気がするほど明るいんですもの」
少女は翡翠色の瞳を細めて笑った。
「僕も同じだよ。何だか押し切られちゃった感じだよ。こんなところペイトンに見られたら笑われ……あっ!」
アデルバートは稲妻に打たれたように呆然と立ち尽くしている。
「あの、どうかしました?」
アデルバートは少女の問いに答えず、テント裏から駆け出し、石塀の上に乗って辺りを見回した。
ペイトンがいない。
あの通り、大きな体をしているから、人混みにいても目立つ。
それにペイトンはアデルバートを一人でほったらかしには絶対にしない。
もし、アデルバートが倒れれば、その傍について絶対に離れようとしないはずだ。だから、アデルバートが一人、包帯所で目覚めることも冷静に考えれば有り得なかった。ペイトンが枕元で心配な顔をして、うろうろしているはずなのだ。
だが、いないのだ。
ペイトンに何かあったのではないか。
「あの……」
灰色髪の少女が心配そうな顔をしている。
アデルバートは少女にペイトンを見なかったかたずねた。
「ペイトン?」
「すごい大柄で赤ら顔の赤毛、口髭がこう頬髯とつながってて……」
アデルバートは指を自分の口元から耳元までなぞらせた。
「ごめんなさい。ここでは見かけてないわ……」
「大切な人なんだ」
アデルバートの真摯な訴えが少女の琴線に触れた。
「ちょっと待ってもらえますか。すぐ調べてきます」
灰色髪の少女は十分もすると戻ってきた。
「ごめんなさい。ペイトンさんはいなかったわ。でも、赤毛の大きな兵隊さんが馬に乗って、アダムスカヤ街道を北上したって聞いたの。なんでも王国軍の捕虜を運ぶ馬車を追っていったって」
「ペイトン……僕が捕虜にされたと思ったんだ」
アデルバートは軍用地図を取り出して、アダムスカヤ街道を探した。
「これか……」
チョブルイ川から北北西の平野、木立や崖、小さな谷が混在する一帯を街道が蛇行している。その道はそのうち高地を上り、帝国軍の要塞都市コンスタンチノフスクへ西から差し込んでいた。
ペイトンはコンスタンチノフスクまで行ってしまったのだろうか?
とにかくこの道を北上しなければならない。
やがて出発準備を終えたシャルロットがやってきた。毛布とくくりつけた医務鞄を手にしている。
「おまたせ。さあ、行きましょ。あなたの荷物は入り口に置いておいたわ。あと、あなたの馬はすぐそばの厩舎にいるわ。もちろん元気よ。たくさん燕麦を食んでて元気一杯って通りすがりの軍曹が教えてくれたわ」
アデルバートは荷物を背負い込むと、ベルトを締めなおし、シャルロットとともに包帯所を後にした。
「じゃあね。ちょっと冒険してくるわ。婦長にはうまく言っておいてね」
シャルロットはアデルバートをせっつきながら、灰色髪の少女に手を振った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます