ジャーナリズムと男爵

 アデルバートが正味三秒間空を飛んでいる間、チョブルイ川北岸高地の麓では先ほど見かけた従軍記者が共和国の植民地兵に付き従って、その戦闘の模様を記録していた。

 ゆったりとした黄色いズボンに飾りつきチョッキを身につけた植民地兵数十名は融通の利かない隊列を崩して、帝国軍が放棄した胸壁に身を寄せると、各個しぶとく銃撃を繰り返していた。

 この胸壁に起きた出来事は以下の通り。


 胸壁真向かいの潅木が十メートル以上の高さに舞い上がる。

 植民地兵を率いる中隊長が肩を撃たれ馬から転落した。

 榴弾が砂地に落ち込み、ねずみ花火のように回転している。

 咄嗟の機転を利かせて水筒の水をかける衛生兵。

 何本もの込め矢が銃口で上下する。

 震える手で雷管をつける若い植民地兵。

 胸壁の右手を猟騎兵が駆け抜け、カービン銃を乱射している。

 帝国兵の横隊は依然として威嚇するように銃弾を降らせてくる。

 胸壁に銃弾がめり込み、ゴロゴロと崩れる音がする。


 これらの出来事は十秒の間、ほぼ同時に発生した。

 そして従軍記者はそれら全てを漏らさず記録していたのだ。

 その記録方法は独特で彼のメモ用紙にはもはや字とは言い難い、苦痛にのたうちまわるミミズのような線が書きなぐられている。長さ数センチのミミズ文字にこの戦闘から受けた印象が全て記録されたのだ。半外套、チョッキ、ズボン。ポケットというポケットからメモの束が飛び出している。彼はこのミミズ文字を戦闘終了後、一晩かけて清書して記事用の資料として蓄えるつもりだった。

 遠く上流で山岳砲が咆えると、彼は嘆いた。

 戦闘が始まる前、彼はこの戦いの決め手となる動きは右翼で起きるか、左翼で起きるか、悩みぬいていた。

 彼は左翼の軍勢に賭けたのだが、そのあては見事に外れた。

 同盟軍最右翼の騎馬砲兵隊ががら空きの対岸から上陸し、高台を占拠して、そこから敵頭上へ弾を降らせていた。

 従軍記者の見立てではあの騎馬砲兵たちの砲撃が三回敵司令部に命中している。あの騎馬砲兵隊はこのチョブルイ川の戦いを制する決めの一手となったのだ。

「ああ、くやしい!」記者は地団駄を踏んだ。「同盟軍の勇敢なる共和国軍騎馬砲兵隊は戦いの火蓋が切って落とされるや否や雷光のごとく迅速に渡河を完了し、山登りの素養のあるものなら誰でもたじろぐ断崖絶壁を物ともせずに登りきり、山岳砲四門を引き上げて、堡塁を急造した。この高台から発射された砲弾数は百発を超え、崩した敵の中隊は十数個を超える。確認中の情報ではこの砲撃により帝国軍の将官一名、佐官二名が重大な負傷を受け、戦線を離れることを余儀なくされたという。チョブルイ川の勝利はこうして同盟軍の手に転がり込んだのであった。文責、ティサ・ミクローシュ。……えい、駄目だ!」

 従軍記者ティサ・ミクローシュは悔しく歯噛みした。

「こんな記事書けない! だって、僕はあの高地にいないんだから! こりゃ、いけないぞ。喉から手が出るほど欲しい特ダネだけど、書いたら捏造記事になっちゃう! あの特ダネを越えるとびっきりの特ダネを見つけ出さないと! ……でも、どうしよう。王国の旅団も共和国の砂漠兵も似たり寄ったりだ。一斉応射と砲弾孔、突撃のかけ声と格好つける指揮官。このままじゃ記事がマンネリだよお!」

 彼は必死にメモを取りながら、自分が書く予定だった特ダネ記事が失われたことを真剣に嘆いていたのだが、その間も銃弾は彼の数センチ脇を容赦なくかすめて命を危険にさらしている。

 だが、彼にとって死よりも恐ろしいのは毒にも薬にもならない凡庸な記事を掲載することだった。

「落ち着け、落ち着くんだ、ミクローシュ。カビの生えた貴族のばあさんを取材したときだって何とか部数をのばしてみせたじゃないか。君ならこのピンチを打開できるはずだ。例えば、他にいい特ダネを提供してくれそうなのは……あっ!」

 閃きを与えられたミクローシュは銃弾飛び交う胸壁で突然立ち上がると、脱兎の如く坂を下り、潅木に手綱を結びつけておいたラバにヒラリと飛び乗った。

 彼はそのまま競走馬はだしの猛スピードでチョブルイ川岸を東へ駆け抜けた。

 ミクローシュは鞭を持っていなかったので、ラバの尻を素手でひっぱたき、膝で胴を挟んで腰を浮かせ、身を低くして突っ走らせたのだが、なんとも不恰好で危なっかしいものだった。

 山を登ろうとする三つの連隊を横切り、味方の流れ弾に当たりそうになりながら、彼は小道を走り抜け、敵には伝令と間違えられて集中砲火を食らわされたが、砲弾の雨を一馬身で避け、潅木林の陰に逃げ込んだ。

 普段のミクローシュはこんなに勇敢な男ではない。むしろその逆である。

 しかし、このときは違った。恐怖も逡巡もない。

 彼の脳裏には取りそびれた特ダネを提供してくれそうなある人物のことだけが浮かんでいた。

 その人物が川を渡りきり、公国軍騎馬砲兵隊のそばで戦況を見回しているのを見つけたとき、彼は嬉しさのあまり帽子を振りまわしながら近づこうと思ったくらいだった。

 しかし、彼の手は土砂まじりの髪をつかんだだけだった。帽子は既に爆風で吹き飛ばされてしまっていた。

「男爵! テオドール! おーい、我が友!」

 ミクローシュの探していたある人物とはカールノゼ中尉だった。ミクローシュが見つけたとき、中尉は砲弾にへし折られた白い野バラの枝から一輪をとり、襟元に差しているところだった。

 その優雅な仕草を見ていると、ここは砲弾降り注ぐ戦場ではなく、どこか静かな山荘の庭先ではないかと錯覚してしまいそうになる。

「おーい! テオドール!」

 砲弾の破裂音に混じって自分の名が叫ばれていることにカールノゼ中尉は何事かと振り向いて、首をかしげた。

 半外套を砲弾片でズダボロにし、泥と煤で顔中真っ黒にした男が駆け寄ってくる。始めは分からなかったが、相手が彼のすぐそばまで走ってきて轡を並べたとき、やっと誰だか分かった。

 中央で分かれた髪がうなじで外側を向いてカールしていて、口髭も同じようにピンと立っている。目まぐるしい観察と飽くなき探究心を封じ込めた青い眼。そして、いつも必ず穿いているギンガムチェックのズボン。

「ミクローシュ!」カールノゼ中尉は驚いた。「どうしたのです? あなたは左翼のほうで取材をしていると思っていましたが……」

 ティサ・ミクローシュ記者はカールノゼ中尉の手を握って、何度も接吻した。

 中尉ははにかんで首を振った。

「おやめなさい、そんな。あなたらしくもない」

「だってね、テオドール。僕はほとほと困り果てているんだ。認めたくないけど僕は戦場を読み間違えた。僕は特ダネが欲しくて左翼の王国軍と共和国軍を見張っていたのに、最右翼では騎馬砲兵隊が面白そうなことをしているじゃないか!」

 カールノゼ中尉は首だけ右を向けて、峡谷に輝く山岳砲を遠くに眺めた。砲弾がうなりをあげながら敵陣地に飛んでいく様を見てカールノゼも同意した。

「確かに面白そうですね。あそこの位置なら突出した敵の側面を射程に捉えることだってできます」

「そうだろう? 僕はそういう部隊についていって戦いの勝敗を決した一瞬を取材したかったのに、左翼ときたら、とんだ役立たずの集まりだ。嘘っぽくって見栄っ張りで。……あんなもの、べーっ、だ!」

 ミクローシュは目を閉じて口を尖らせると、舌を突き出した。カールノゼが少し顔をしかめて注意する。

「おやめなさい。はしたない」

「何度だってやるよ、テオドール。べーっ!」

「まったく。もう子供ではないんですから」

 カールノゼ男爵は苦笑した。

 ティサ・ミクローシュとテオドール・オットー・フォン・カールノゼ男爵は幼馴染だった。二人とも連合公国の生まれでテオドールは連合公国内の『大公国』系民族、ミクローシュは『小王国』系民族の出身だった。この二つの民族性も習慣もやや異なるところがある血筋、しかも、かたや名門貴族、かたや皮革屋の息子と生まれた環境も異なる。

 しかし、名門であることに固執して人付き合いを制限することを嫌う気さくなテオドールと、自分の生まれで不都合を被ることなどあるものかとあっけらかんなミクローシュが巡り合い、お互いの気質に何か心地良いものを感じて、付き合いを深くしていったことはさして不思議でもない。

 彼らは子供のころ、同じ野で手をつないで駆け回り、同じ森でともに迷子になり、心細い夜をポケットの焼き菓子一つ分け合って励ましあったこともあるほどの仲だった。

 そうした友達付き合いはテオドールが連合公国に任官し、ミクローシュが世界最大手の新聞社『トゥルー・サイト』紙に雇われてからも続いていた。

 そして、今回の戦争ではミクローシュは史上初の従軍特派員としてエルボニン半島へ派遣され、特ダネを求めて、テオドールのテントに転がり込んでいたのだった。

「ところで、あなた」テオドールがミクローシュの頭を手で差した。「帽子はどうしたのです? 紳士たるもの、無帽で野外を歩くものではありませんよ」

「なくしたんだ、テオドール。いつ無くしたのかも分からないほど取材に熱中していたもんでね」

「あなたの取材熱にも困ったものです。その調子では心臓に弾丸がめり込んでも、メモを取る手は休まりませんね。でも、その勇気と熱意には称賛をおくらずにはいられません」

「僕の記者根性を認めてくれるなら、僕がこれからする一生のお願いにも君はきっと理解を示してくれるはずだね」

 甘ったるいおねだりの視線にテオドールは渋々言った。

「お願い次第です。私にも出来ることと出来ないことがあります。――あなたも御存知でしょう? 私は出来ない約束をしたくありません」

「ああ、知っているとも。君は何よりも徳を重んずる騎士の鑑だ。そして、騎士の鑑たる者、親友の頼みを無下には断らないものだよね? まあまあ、そう強張らないで聞いておくれよ。僕のお願いは簡単さ」

 砲弾が二人の十歩左で炸裂し、馬が驚いた。ミクローシュは走りかけたラバをしばらくかけて宥めさせ、もう一度テオドールに近づくとこっそり告げた。

「君の特別任務を取材させてくれ」

 テオドールは目を丸くした。

「特別任務?」

「やだなあ、テオドール! 僕は皇帝と女王、大公、大統領が交わしたあの仲良し電報だってすっぱぬいたんだぜ? 従卒の噂話。口の軽い将校。立ち聞きするにはもってこいのお城もどきテント。ガードの甘いメレンディッシュグレーツ公爵の特別任務くらい簡単に嗅ぎつけるさ。君が指揮下の中隊を手放して、こうして単騎でうろついているのだって特別任務のせいだ。どうだい、図星だろう?」

 誤魔化せないと悟ったテオドールはしどろもどろになって断った。

「そ、それは、あなた、駄目ですよ」

 ミクローシュはもたれかかってきそうなくらい体を寄せ、テオドールに迫った。

「どうして? ねえ、テオドール。頼むよ。あの騎馬砲兵たちがこの戦いを制したのは間違いない。会戦の主役を取材し損ねた分を思い切り大きく取り返したいんだ。そのためには神秘のヴェールに包まれた特別任務を独占取材しなきゃいけないんだ」

「でも、あなた。独占も何も記者として従軍しているのはあなただけではありませんか。それに私が受けた特別任務は極秘扱いなのです。記者であるあなたを同行させるわけにはいきません」

「そんなこと言わずに、ね? 僕を連れて行かないと君の損なんだぜ。頼むよ、テオドール。君の英雄的な働きが『トゥルー・サイト』の第一面を飾るようにするからさ。見出しも考えてあるんだ。『産業時代を生きる最後の騎士にして戦場の紳士、男爵テオドール・オットー・フォン・カールノゼ中尉、敵兵をバッタバッタの一七八人斬り!』。千や二千と言わず、一七八という中途半端かつ控えめな数字で我慢すれば、記事の真実味がぐんと増す。どうだい、男爵? 僕を連れて行きたくなっただろう?」

「お断りします。どうやらあなたの記事は数字において誇張癖があるようですね。生憎ですが戦場で勝ち取る名誉と称賛について、あなたの筆を頼る予定はありません。……そんな悲しそうな顔をしないで下さい。あなたは私の親友です、ミクローシュ。大切な愛すべき人です。でも、これだけはいけません。私にも任務があります。そうだ、戦闘が終わったら私のテントに来てください。ホンブルク帽が一つ余っているので差し上げますよ」

 ミクローシュは手足をふって、だだをこねた。

「僕が欲しいのは帽子じゃなくて特ダネなんだ! ねえ、男爵。じゃあ、僕は……」

 そのとき、二人の先を進んでいた公国軍騎馬砲兵隊から担架を呼ぶ声が聞こえてきた。

 砲兵隊は斜面の岩場に突き刺さった切り通しを先行していたのだが、そこに砲弾が落ちて、黒煙があがっていたのだ。

 只ならぬものを感じたテオドールは馬を進めた。もちろんミクローシュも特ダネの匂いを嗅ぎつけ、メモを取り出して後ろに続く。

 険しい山道で馬を捨て、声のした切り通しに急ぐとそこには砲兵大尉と砲兵中尉が膝をやられて、岩陰に安置されていた。

 砲兵の前車も砲弾を受けたらしく、真っ二つに裂けて尖がり岩に突き刺さっていた。

 部下である砲兵十二名は全員無傷だったが、狭い道に並んだ八ポンド軽砲四門のそばで頭をかいて途方に暮れている。戦況が芳しくないようだ。

「これはどうしたことです?」

テオドールの質問に負傷して倒れている砲兵大尉が答えた。

「見ての通りだ、中尉。やられたよ。副官と一緒に同じ弾で一網打尽だ。参ったな、これから敵の堡塁跡にこの軽砲四門を据えつけて、敵の司令部に叩き込んでやるはずだったのに」

 テオドールは崖の出口から敵の堡塁をそっと観察した。ミクローシュもすぐ後ろから双眼鏡を取り出して、堡塁を見る。

 崖から道を二十メートル登った地点で堡塁が丸太柵と枝編み堡籠で固められている。急勾配にへばりつく黒ずんだ堡塁の胸壁からはよく磨かれた銃剣の先がきらきらと林立していた。

「大尉殿」テオドールはやや驚きながら振り返った。「堡塁に砲を運び込むといいましたが、あの堡塁には敵が少なくとも数名はいるようです」

「なんだって!」大尉はさらに驚いた。「くそっ、偵察隊め! しくじったな。見間違えたんだ。敵はまだあの堡塁に陣取っている。敵は砲を据えつけているか、中尉」

 今度は双眼鏡から目を離さないミクローシュが答えた。

「ええ、バッチリ。二門の野砲が川に砲口を向けています。――あっ、いま弾を込めてますよ」

「弾の種類は?」

「榴散弾のようですね」

 砲兵大尉は呻きながら、列の後ろにいた砲兵軍曹にたずねた。

「シュタイナー軍曹! ライフル騎士師団は渡河を始めたか?」

「始めました、大尉殿。もう膝まで水に浸かっています。このままじゃ猟兵たちの羽根帽子は格好の的ですよ」

 砲兵大尉はますます苦しそうに顔をしかめた。砲兵中尉のほうは気を失っていた。

 テオドールが大尉のそばに膝をつき、何か出来ることはありませんかとたずねると、大尉はただ首を振り疲れた表情で戦況を悲観した。

「手遅れだ、中尉。味方の一個師団が敵の榴弾の餌食になる。我々はあの堡塁に砲を設置し、側面から敵の砲兵陣地を攻撃する予定だった。そうやって敵の砲を沈黙させ、味方の師団を無傷で渡河させて、一気に中央を押し崩すはずだったんだ。だが、これで全て終わった。我々は負傷して動けないし、例え士官なしで砲を進めたとしても敵の堡塁は依然ぴんぴんしている。そこの切り通しを出た途端、ブドウ弾を食らわされて、軽砲は砲兵もろともバラバラだ」

 そこまで言うと大尉も気絶した。

 テオドールは立ち上がると、

「軍曹。上に登る道はここしかないのですか?」と、切り通しを指差してたずねた。

「いいえ、中尉殿。この崖から左に回った場所に人一人やっと通ることができる程度の細い道があります」

「遮蔽物はありますか?」

「多少あります。潅木が茂っているので」

 テオドールは脇道に案内された。

 確かに細い道だった。ところどころ潅木が生えているが、隠れられるのは一人か二人、とてもではないが砲を通せるような道ではない。

 実はここから迂回することは砲兵軍曹も既に考えていた。しかし、このような悪路では砲車を入れた途端、車輪が道から外れて砲は川岸まで落ちてしまうし、砲兵十名を武装させて通したとしても、帝国兵の銃弾で蜂の巣にされるのは目に見えている。

「無理です、中尉。砲も人員もここからじゃ登れません」

「砲も人員もいりません」

 テオドールは細身の軍刀をすらっと抜いた。白刃はその表面に陽光を走らせている。

「私一人であの堡塁を占領します」

 軍曹は走り出ようとするテオドールの腕を慌ててつかんだ。

「無茶です、中尉! 砲にやられます。例えやられなかったとしても、堡塁の敵兵に返り討ちにされますよ」

 それでも走り出ようとするテオドールの腕を今度はきつく握った。

 するとテオドールは軍曹の手首を品良く、ただし、かなりの力で握り返した。

 軍曹は一人で軽砲を引っ張ってみせることも出来る屈強な大男だった。その腕ももちろんがっしりしていてリンゴを握りつぶすほどの握力もある。

 ところが、テオドールの上品な手につかまれた途端、軍曹の手が痺れ始め、自慢の握力が半減してしまった。

 胸に薔薇を差した優男の一体どこにそんな怪力があるのか?

 驚く軍曹を余所にテオドールは軍曹の手を容易く解いてしまい、優しく微笑んだ。

「大丈夫です。私のシャコー帽を憶えておいてください。もし奪取に成功したら、この帽子を振りますから」

 テオドールは襟を引き寄せて、胸に差したバラを一嗅ぎすると、潅木の小道へ身を躍らせた。

 もちろんミクローシュも軍曹の制止を振り切って、テオドールのすぐ後ろに続く。

 テオドールは浅く掘られた塹壕を走り、砲弾の甲高い落下音を察知すると潅木に身を寄せて、砲弾の破片から身を守った。

 ミクローシュも危険を感じるとさっと伏せた。その間もテオドールの一挙一動をあのミミズ文字で克明に記録している。

 敵の堡塁から戦場を見下ろす野砲二門がテオドール目がけて砲弾を放った。二発とも大きく飛び越して、川岸の空き地に落下した。

 テオドールは凛々しかった。後ろに撫で分けた黒髪のみずみずしさは土砂と砲煙の中にあっても失われず、命の危険にもその勇気と自信を揺らがせることはない。口元の微笑と涼しげな目線はこれから起こるであろう剣戟の交えを予見しているのか、一種の厳かさを帯びていた。

「読者が求めているのはこういう英雄だよ! 勇気があって華があるけど、でも謙虚で上品、禁欲的! こりゃいい記事になるぞ」

 ミクローシュのペンは絶好調だった。

 テオドールは麓のライフル騎士師団が川の中ごろに到達したのを横目で確認した。

 対岸に着く前に堡塁をおさえなければいけない。そう判断するとテオドールは潅木から走り出て、左に回りこんだ。おかげで堡塁の砲の射界から外れることができたが、今度は崖上のマスケット兵に狙われることになった。

 数発の弾がテオドールの付近で土くれを弾き飛ばし、潅木に痛々しいヒビを刻んだ。

 テオドールの肩に熱い痛みが走った。赤熱した弾丸は体にこそ命中しなかったが、軍服を切り裂き、うっすら血が滲む。

 しかし、テオドールは小さな負傷を無視して、跳ぶような足運びで堡塁に寄り、ついに胸壁に取りついた。

 その数メートル後方をついていたミクローシュは驚きのあまり、叫び声をあげた。

 テオドールの背後から帝国兵が襲いかかったのだ。

帝国兵は胸壁を跳び越しながら、マスケット銃をこん棒のようにして振り下ろした。テオドールの頭をかち割り、斜面に叩き落すつもりだったのだが……

 ところが次の瞬間、吹っ飛ばされたのは帝国兵のほうだった。

 ミクローシュの異常な動体視力をもっても、テオドールがいつ剣を振ったのかは分からなかった。彼のミミズ文字は、尻餅をついた帝国兵の手にすっぱり切断された銃身のみが握られていたことを記録した。

 テオドールは当身でその帝国兵を昏倒させると、胸壁に左手をかけて、ひらりと飛び越え、敵の堡塁に切り込んだ。

 剣がかち合う音と帝国語の叫び声が聞こえてきた。

 ミクローシュがメモを片手に堡塁に飛び込んだとき、五人の帝国砲兵はみな倒された後だった。

 ある者は砲に寄りかかりながら、ある者は弾薬箱の脇で、ある者はだらしなく大の字で寝転がり、その中央には剣を鞘におさめたテオドールがあの上品な口元を綻ばせて、ミクローシュに笑いかけていた。

「ひゃあ! みんな、殺しちゃったのかい?」

 ミクローシュが驚きながら聞くとテオドールは帽子を取って、首を振った。

「物騒なことを言うものではありませんよ。あなたも知っているでしょう? カールノゼ家に代々伝わる剣術は無益な殺生を好みません。みな剣の腹で強く打たれただけです。しばらく目は覚ましませんが、命に別状はありませんよ」

 テオドールはシャコー帽を手に高く掲げ、眼下の切り通しに振って見せた。

 それを合図に味方の軽砲が山道を登ってくる。

 テオドールは一個師団の渡河を見事に支援してみせたのだ。

 もちろん、これらの出来事全てはティサ・ミクローシュ記者の取材資料の中にミミズ文字の形で書き加えられたのであった。

「テオドール!」ミクローシュは顔を上気させて叫んだ。「やっぱり僕は君についていくよ! なんとしても君に課された特別任務の正体を暴くんだ。これは『トゥルー・サイト』紙、しいては民衆に世界で何が起きているかを知らせる新聞記者の崇高な使命なんだから!」

 戦場を見下ろしていたテオドールは若干呆れ気味に言った。

「あなたのしつこさを美徳として数えるにしても」テオドールはここで苦笑した。「あなたが感動したときに述べる言葉は記事同様、少し壮大に過ぎます。これは改めるべき点ですよ」

 テオドールは襟に手をやり、バラを嗅ごうとした。

 その指先が虚空をつまむ。

 バラの花弁は撃ち飛ばされて綺麗に消失し、先の焦げた茎だけがささっていた。

「おや……」

 テオドールは茎を抜き取ると、そっと胸壁におき、嘆息した。

「戦場とはなんと非情なのでしょう。胸に一輪のバラをさすことも許してくれないとは」

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