2.チョブルイ川の戦い
アデルバートとペイトン
まだ薄暗い同盟軍の野営地。
王国の秘宝を発見するという使命を携えたアデルバートとペイトンが数日分の食糧と布団を鞍に積み、寝静まったテントの列をそっと脱け出した。
午前四時を回ったばかりの空には雲が低く垂れ込めて、荒野を仄暗い青の世界に閉じ込めている。
ただ東の空と高地の頂がかすかに茜がかっていたし、風も強い。
もっと日が昇れば、意外と晴れ渡るかもしれなかった。
二人は丘の間にへこんだ小道を選び、潅木地帯を北へ進んだ。
「地図によると」
アデルバートは薄い闇の中でブラウン大佐から受け取った宝の地図を開き、横に並ぶペイトンに見せた。
「王家の秘宝は我が軍の野営地と帝国軍のコンスタンチノフスク要塞の間、チョブルイ川を越えた先の入り組んだ土地にある岩窟寺院に隠されているらしい。僕らが上陸したのがこの南端の海岸だから……」
二人は秘宝の位置を記した古い地図でエレボニン半島の地理を復習した。書き込みがびっしり入った地図には海へ向かって南に拳を突き出したようなエレボニン半島が描かれている。
その南端は同盟軍が上陸し、今は補給基地になった海岸が緩やかに弧を描いて、湾の中に納まっていた。
さて最南端の海岸から北には複雑な地形が広がっている。平野を西に見ながら高地と盆地が混在し、三本の浅い稜線が南北に長々と寝そべって、街道をその峰に背負い込んでいる。
これが同盟軍が昨日一日行軍した三本の街道であり、街道の間に重なった等高線はアデルバートが単身馬で破った二つの谷というわけだった。
そして、その稜線街道は西から迫り出した平野に飲み込まれ、要塞まであと二日行程のところに広大な平地が現れたわけだ。
同盟軍はこの平地に野営地を築いた。巨大な野営地と海岸の兵站基地は三本の稜線街道で結ばれているが、あと一ヶ月もすれば軽便鉄道が開通し、本国から海路で送られた補給物資や新兵がじゃんじゃん野営地に注ぎ込まれる。もっとも戦争が一ヶ月も続けばの話だが。
ここまでが今まで通ってきた半島南部の話であり、問題は未知の中央部と北部である。
野営地の北には半島を横断し西の海岸まで流れるチョブルイ川。
その北岸には崖と荒野が続いている。
偵察によると敵も馬鹿でなく川沿いの高台に野戦軍三万が陣取っているという。
同盟軍総司令官たちは多勢を恃みにこの川岸で一戦交えることを決定した。ここで帝国軍に一撃加えて潰走させ、そのまま帝国軍の要塞に雪崩れ込んでやるつもりだったのだ。
アデルバートたちはこの戦闘に巻き込まれないよう回り道をするつもりだった。西のほうへ大きく回ってから現地の住民からも忘れ去られた橋を使ってチョブルイ川を渡り、無人の高地を秘密裏に抜けていくのだ。
さてチョブルイ川を渡り、高台を越えた先が半島の北部にあたる。
地図で見る限り、北部は多少の勾配はあるが基本的にはだだっ広い荒野だった。
ときおり崖や小さな村が見える程度ではあるが、油断はできない。川を越えた時点で敵味方の彼岸も越えている。すでに敵の前線へ侵入しているのだから敵の哨戒に見つからないよう細心の注意を配らなければならなかった。
ただ悪いことばかりでもない。北部は半島南部に比べて、樹木が多く、地図を見ていても潅木林や小さな木立、それに名もなき小川が錯綜しているので姿を隠して移動しやすく野営もしやすい。
この北部を西よりに行った入り組んだ地形に岩窟寺院があり、王国の秘宝が隠されている。ただ寺院の位置は少し曖昧だったので、現地での探索が必要だった。
「これは重大な任務だ、ペイトン」
アデルバートは威厳たっぷりに、しかし子供っぽく生唾を飲んだ。
ペイトンも神妙にうなづく。
「大変な役目を仰せつかっちまいました。王国の秘宝なんて見つけたら、歴史の教科書に名前が残りますよ。勇敢な士官アデルバート・リップルコットとその従卒ってね」
「僕はまだ士官候補生だよ」
「なーに、秘宝を見つければ一気に大尉にしてもらえますよ」
秘宝探索の大任を仰せつかったことは重圧として働かず、むしろ二人の雰囲気を快活なものにしていた。
アデルバートが地図を見ながら言った。
「問題は北部についてからだね」
「ええ。川を越えれば敵の偵察騎兵や小さな堡塁がうじゃうじゃいるはずです。うまく身を隠しながら、北上して岩窟寺院を目指しましょう」
「まずは渡河しないと」
道の先に大岩が見えてきた。ペイトンは地図に責めるような目を寄せた。
「坊ちゃん。この地図は少し古すぎるんじゃないですか? この地図によるとさっきの十字路を越えてから、あの大岩に辿り着くまでの間に三本の小道があるはずなんですが、実際には二本しかありません」
「僕もおかしいと思う。例えば……ほら、この地図によると西に広がっているあの斜面には道は一本だけのはずなのに実際は五本も通っている」
「これ石器時代の地図じゃないですか? なんだか使われてる字体も昔っぽくて大仰だし」
「う~ん。でもまあ、宝の地図なんだし、少しの不便は我慢しないと」
「そんなもんですかねえ」
「一応東西南北は間違ってないはずだから、この道をまっすぐ行けば、チョブルイ川にかかる忘れられた橋に辿り着けるはずだ」
「うなじの毛が震えてる。……嫌な予感がしますよ、坊ちゃん」
のっぺりとした禿山を越えては下り、迂回しては北上すると正午には北からの風が水の匂いを運ぶようになってきた。
チョブルイ川はもうすぐだった。
雑草だらけの岩山を馬で登り切る。
「わあ……」
アデルバートは感嘆の声をあげ、息を飲んだ。
目の前の低地にチョブルイ川が横たわっていた。
東の峡谷からうねうねと蛇行しながら水が走り、正面に突き出した中州を洗い、下流の幅広い淵で渦巻いてから、海への道を静かに滑る。
このころには雲も風に除けられて、太陽が顔を出し、川面がきらめいた。
川の両岸にはくたびれた木立が影を淀みに垂らし、小魚を集めていた。
上空では鳶が鳴いていて、太陽は眠気を誘うほど温かい。
のどかだった。
ところが、アデルバートたちはそののどかさに和んではいられなかった。
目指していた橋が見当たらなかったからだ。
中州と中州の間には板切れがかけてあるが、川を渡るのにそんなものが必要とは思えなかった。眼下は広大な浅瀬となっていたので二騎どころか二万の大軍だって渡りきれるだろう。
アデルバートは川の両岸を見渡して、ハッとした。
これは両軍が激突する予定の会戦地だったのだ。二人の懸念どおり地図が誤っていたため、予想よりも東寄りに北上し、両軍の衝突に出くわせてしまったわけだ。
事実、チョブルイ川南岸には同盟軍が続々到着していた。
共和国の歩兵師団一万が空き地に展開し、渡河と戦闘に備えて行軍用の縦列隊形から攻撃用の二列横隊に隊伍を並び直している。数十の軍旗とケピ帽を被った一万の青き歩兵が担え銃の姿勢で対岸を睨み整列していた。
アデルバートのいる高台から真東へ二五〇ヤードの地点には連合公国の砲兵隊が砲を前車から離し、砲の背後に反動を捌くための土を盛っている。鳶色上衣に薄い水色ズボンの兵隊たちは二十日鼠のように忙しく動いていた。
王国軍の第一騎兵師団と第二騎兵師団は三列横隊で連隊ごとに整列し、最右翼の緩やかな斜面に陣取っていた。軽騎兵、槍騎兵、胸甲騎兵、竜騎兵、騎馬砲兵の旗がひらめいている。
ところがアデルバートの所属する第三騎兵師団ははるか後方に師団旗をたなびかせていた。どうやら予備に回されてしまったらしい。
三人の総司令官は三十人近い幕僚と共に全軍を見渡せる岩だらけの丘に司令部を作った。馬が入れるような丘ではなかったので、伝令は麓の木立で待機している。
以上がアデルバートの位置から確認できた同盟軍の陣容である。
そして対する帝国軍は対岸の高地に密集横隊を組み、軍旗をたなびかせて同盟軍を待ち受けていた。
その途切れない隊列は河川沿いの斜面に隙間なく整列していた。
灰色軍套と平べったい軍帽。帝国兵は連隊ごとにぎっちり並び、喬木のない緑の中腹に陣取っている。
帝国の砲兵は高地の頂に集中し、樹皮を剥いだ丸太で小堡塁を構築して砲を守っていた。
敵司令部はやや右翼寄りの中央堡塁にあり、数名の将軍たちが騎乗したまま、同盟軍の陣営を指差し首を傾けてはささやきあっていた。ささやく度に伝令が中腹の師団へ飛ばされる。マスケット銃のきらめきは対岸のアデルバートたちも目を細めるくらい眩かった。
こうしてチョブルイ川の両岸に両軍合わせて数万の兵卒、三十人の将軍、三百門以上の砲が集まった。
はじめて見る敵兵に感慨は沸かなかった。
とてもじゃないが、これから殺し合わなければいけない相手に見えなかった。帝国の軍服が高地を逆上る風に煽られ、バタバタはためいていたが、その風はほんの数秒前、対岸に並ぶ共和国兵のケピ帽を乱暴に吹き飛ばした風だった。
一つの風で同じように慌てふためく二つの軍隊が本当に戦うのだろうか?
二つの大軍を撫でた風の中を鳶が舞っている。ピョロピョロと緊張感のない鳴き声をあげていた。
アデルバートとペイトンは顔を見合して、ちょっと眉をひそめて、まいったな、とつぶやいた。
引き返すべきか迷ったときには、既に手遅れ。
若き騎士とその従者は火薬と銃剣の坩堝に放り込まれ、鍋の蓋は閉じられた。
峡谷に落雷のような音がこだました。
帝国軍の砲兵陣地から白煙があがり、風にさらわれていく。
真っ青の空に小さな黒い点が弧を描きながら昇っていった。
砲弾だ。帝国の一弾は炸薬の勢いを使い切って、空中で動きを止めるとそのまま甲高い音を立てながら落下し、チョブルイ川の水面を打った。
水と火と砂と煙が一度に噴き出し、爆音が同盟軍陣地を震わせる。
途端に空気が緊張した。
耳を聾する野砲の咆哮が味方の陣地から沸き上がった。
味方の砲百七十余が一斉に火を噴き、砲弾の霰が対岸に襲いかかる。弾は敵兵や堡塁 連隊旗の上で爆発し、黒白の煙塊が風に洗い流された。
すぐに反撃の砲声が怒鳴りつけてきた。同盟軍のあちこちで敵弾が炸裂し、堡籠や幌馬車が空高く吹き飛ぶ。
「前進!」
号令が複数の言語で発せられた。
何万もの軍靴が一斉に踏み出し、地をざわつかせる。
対岸の帝国軍にも似たような号令がかけられ、高地全体が身震いをするように戦闘態勢を整えた。
アデルバートの背後にもいつの間にか王国軍の白い横隊が梯列を組んで押し寄せてきた。二人は兵隊の前進によって川岸へと押し出された。
無邪気なアデルバートは川へ通じる道を若干の不安とともに下りながら、初めて見る戦闘に目を瞠った。
眼下に広がる平野を白、青、濃緑の歩兵隊が閲兵式のようにきちんと前進している。横隊は一つの生き物のように緊密にまとまっていた。
敵の砲弾が降り注ぎ、横隊から櫛の歯がかけるように兵隊が倒れた。横隊は負傷者をそのまま残して前進した。
歩兵たちは足を川に浸からせ、対岸を目指し始めた。帝国軍の砲兵がそこに榴弾を落とし、水面を破裂させる。王国軍の一個大隊がまず川の中洲に上陸した。
すると頭上で榴散弾が破裂し、破片が降り注ぐ。一糸乱れぬ美麗な横隊から兵士が一人、二人とばたばた倒れた。
もう一つの中州では爆発した榴散弾の破片で連合公国のある連隊が旗を穴だらけにされた。
はるか上流の峡谷では共和国の騎馬砲兵隊が高地を目指して猛進していた。がら空きの高地を占領し、敵の頭上に砲弾を雨と降らせるためだ。
アデルバートは道を下る途中、聞きなれない雄叫びを聞いた。
だぶだぶの砂漠風軍服を着た兵隊がすぐ左の崖上で二十四ポンド砲を操っていた。共和国植民地の砲兵隊だった。青い砲車のそばに士官が立ち、怒鳴りながら装填の号令をかける。肌が浅黒く、顔は髭だらけの屈強な植民地兵たちは無駄のない動きで命令通り動いた。
砲車の弾薬箱から次弾を運ぶ砲兵、込め矢を引っくり返し洗桿で砲身を洗浄する装填手、装薬と榴弾の装填を確認して引き抜き式信管を火門に差す発射係。
「撃てーい!」
青いフロックコートの砲兵士官が叫び、さっと耳を塞ぐ。
発射係以外の砲兵も慌てて耳を塞いだ。
耳栓をした発射係は手に持った紐を力いっぱい引いた。
信管から紐がぶちっと抜かれる。
火門が光に満たされる。
光は炸薬を貫いた。
砲口から轟音と火焔が吐き出され、地が震えて砂埃が舞った。
榴弾が弧を描いて飛んでいき、対岸の帝国兵を薙ぎ倒した。
耳を塞ぎ損ねたアデルバートとペイトンは氷を噛み砕いたときのように顔をしかめた。鼓膜をびりびり震わされ、キィーンという耳鳴りで蹄が地面を叩く音も銃声も突喊も聞こえなくなる。
ボーン! ボーン! と、長く尾を引く炸裂音がひっきりなしに響く中、二人は共和国の歩兵連隊とともに浅瀬に入った。
蹄が川底を踏むたびに冷たい飛沫が乱れ飛び、顔に当たる。
こうして川を渡っている間も味方の砲弾が頭上を跳び越していき、敵の砲弾も負けじとあちこち吹っ飛ばしていた。
砲弾は川面でも炸裂した。
まるで沸騰するスープの中を歩いているようなものである。破れた旗が煮込みすぎのだらしないキャベツのように流れてくるかと思えば、真っ二つに割れた鞍がローリエの葉のように淀みを彷徨っている。
右を歩く共和国の歩兵連隊は三百人。百人ずつ三つの中隊に分けて二列横隊で前進させる。旗手と鼓手がそれぞれ最右端と最左端に位置して隊の音頭を取り、連隊長である美髯の中佐が中央前方でサーベルを振って、足の重い部下を引っ張っていた。大尉と士官候補生はすぐ後ろに徒歩でついて来ている。
アデルバートがこの連隊と一緒に川を渡っていたのはほんの数分だったが、その数分の間に連隊指揮官が三人入れ替わった。
一人目の中佐は川を三分の一ほど渡ったところで重傷を負って落馬した。川に流されそうになりながらも従卒の膝にしがみつき、
「大尉! 俺に代わって指揮をとれ!」
と、叫んでサーベルの先で大尉を指す。
こうして指揮を引き継いだ大尉もすぐ頭に重傷を負い、指揮は最後の士官候補生に任された。
アデルバートと年の変わらない金髪の士官候補生は突然三百人余の部下を指揮することになり大いに戸惑っていた。
何も命令を下さず、うろうろと視線を泳がせた。
その間、上官絶対服従の部下三百人は川の真ん中で髭面を並べて命令を待ちぼうけている。
頼りない士官候補生は部下たちの髭を、そこに下すべき命令が隠れているかのごとく一心不乱に見つめていた。
その間も連隊の周りに敵弾が落ちて、空気と水を震わせている。
始めは大きく外れて水面に炸裂していた砲弾だったが、一発放たれるたびに水柱と連隊の距離が少しずつ縮んでいた。
砲の照準が合ってきていたのだ。
アデルバートは堪えかねて共和国語で叫んだ。
「はやく前進を!」
その声は確かに耳に入ったようだ。アデルバートが叫ぶと士官候補生は声の主を確かめる隙もなく震える共和国語で、
「駆け足で前進!」と叫んだ。
ラッパ手が駆け足の号令を吹き鳴らし、三百人の連隊は命令どおり前進を始め、無事に渡河した。先ほどまで立ち止まっていた川面には敵の榴弾が数発あいついで落ち、大穴を穿っていた。
アデルバートたちも渡河を終えたころ、先発の王国軍歩兵旅団は対岸の斜面を上り始めていた。
王国軍の旅団長が騎馬で先頭を切り、坂を登ろうとするも斜面が急すぎて上手くいかず、難儀していた。大きな目をぎょろつかせた旅団長は豊かな顎鬚に玉のような汗を絡ませて、手綱をつかんだ腕をぐいぐい引き、馬の脚を坂にかけようとする。しかし蹄鉄に踏まれた途端、石だらけの斜面がぼろっと崩れて、馬は脚を突っ張らせたまま坂をズルズルと滑り落ちてしまうのだ。
(もっと硬い地面を選ばないと)
アデルバートがそう思った矢先、旅団長が鞍を飛び降りて剣を抜き、わめきながら斜面を登った。
部下が相つぐ砲弾に怯んで隊列を崩したのだ。
旅団長は崩れそうな部隊の前に走りこむと赫怒した。
「ひるむな、腰抜け!」
そう叫ぶ旅団長のすぐそばで敵の砲弾が跳ねて、川岸まで転がった。砲弾はアデルバートのすぐそばまで転がってきた。爆発しない球形弾だろうと思っていたが、なんと砲弾には導火線が爆ぜている!
「危ない!」
ペイトンがアデルバートの手綱をつかんで力一杯引いた。
間一髪で爆発から逃れる。榴弾が爆発し、赤熱した破片が四方に飛んだ。
ペイトンはアデルバートを、アデルバートはバルティーの安否を心配した。
土砂を山ほどかけられたが、幸いどこも怪我していない。軽騎兵の帽子が穴を開けられただけで済んだ。
これだけ危ない思いをしたら、誰でも身の縮こまる思いだ。そう思ったアデルバートは旅団長のほうに目を向けた。
旅団長はまだ連隊の先頭で咆えていた。しかも信じられないことにその体はずっと兵隊の側を向き、敵に対して背を向けている。
敵に背を向けるのは臆病者の印というが、この場合はどうなるのだろう?
帝国の大砲が火を吹き、帝国歩兵たちも発砲を始めている。全て彼の旅団を狙って放たれて四方八方で爆発しているのだ。しかし、旅団長はそんなのお構いなしに帝国兵へ背を向けて仁王立ちになり、部下を口汚く罵った。
「止まるな、前進しろ! わしに恥をかかせたら承知せんぞ!」
この勇敢な旅団長には死よりも不面目を恐れていた。王国に帰還し、ディナーの席で見目麗しい婦人たちに「あの方の旅団は戦地で腰を抜かしたそうですわよ、オホホ」と笑いものにされることだけがこの老人を深い懸念の渦に捉えていた。
甲高い罵り声が砲声を凌いで発せられた。
「立ぁて! どうしようもなく臆病で間抜けで役立たずな畜生ども! わしが立てといったらその空っぽ頭を金梃子で押さえつけられていても立ちあがるんだ!」
そう叫びながらぴょんぴょん飛び跳ねては、及び腰になった兵隊の胸ぐらをつかみ、隊列に引き摺り戻す。
旅団長は逃げようとする兵隊をいつでも捕まえられるように中腰で構え、蟹のように手を広げていた。旅団長の数ヤード後ろで砲弾が炸裂し、マントがズタズタになりながら顔にめくれるが、それを叩き返してまた叫ぶ。
叱咤激励というには口汚い叱咤ばかりで激励がない。 たぶん兵士たちが敵の砲弾よりも旅団長のほうを恐れるようになるまで叫び続けるのだろう。
そのとき、アデルバートの目にまた信じがたい光景が飛び込んできた。
薄茶の半外套に六枚はぎのキャスケットをかぶった民間人が旅団長と兵隊の間に現れて、一心不乱にメモを取り始めたのだ。旅団長の悪口雑言を全て記録しているようにも思えたが、その激しい観察に休むことを知らない眼を見る限りその男は目の前で起きた出来事全て、飛び込んできた印象全てを書き残しているようだった。
砲弾が彼の付近で炸裂した。
爆風で体がよろめき帽子が落っこちたが、民間人はメモを取り続けている。
怒り狂った旅団長が一瞬この謎の民間人に目を向けた。怪訝な表情が浮かんだが、男の胸にかかる従軍記者のバッジが目に入ると、様子が一変した。
旅団長が栄光に包まれたのだ。
彼は絵画に描かれた英雄のようにしゃんと背を伸ばし、片足を岩の上に乗っけて剣を高々と掲げ、舞台俳優のように高らかに謳い上げた。
「兵士諸君! 祖国と女王陛下、そして故郷に残してきた愛しい家族のために男らしく戦おうじゃないか!」
先ほどまでの罵倒とは打って変わって感動的な台詞だったが取ってつけたような響きが否めない。
とにかく旅団長は記者の目を意識して斜面を猛進した。
畳みかける怒声に魂を抜かれていた兵隊たちは旅団長に言われるまま、のろのろと従った。そののろさに旅団長はまたカッとなり、ぐるりと振り返ったが、必死にメモを取る従軍記者のことが気になったのか、また芝居がかった格好いいポーズを取るだけで止めておいた。
「馬鹿野郎が気取ってやがる。ここは戦地だぞ」
ペイトンが皮肉っぽくつぶやいた。
アデルバートも滑稽な一幕に首をかしげた。
「あの旅団長……、士官学校で一度見たことある。特別講師だよ。士官は紳士でなくてはいけないって言って、これでもかってくらいきれいな言葉遣いとテーブルマナーを習わされたっけ」
「へえ。士官は紳士ねえ」
ペイトンは旅団長が吐いた文句を思い出しながら、にやついた。あの言葉遣いでは晩餐会どころか町のレストランだって門前払いを喰らうはずだ。
「場末の居酒屋がお似合いだな。まるで罵り言葉の辞書みたいなおっさんだ」
アデルバートもつられて笑った。
昨日会ったカールノゼ中尉のことが思い出される。とても落ち着きがあって上品な人だったが、あの人も戦闘に参加すると同じように豹変するのだろうか?
「坊ちゃん! いい道を見つけました。あそこから歩兵たちと一緒に登りましょう」
ペイトンの見つけた小道は人一人通れるかどうかも危うい細い道で蛇行しながら頂へにじり寄っていた。そこに馬を入れ、歩兵隊の進撃を右手に見ながら斜面を登った。
味方の歩兵が隊列をバラけさせて、危なっかしい足取りで斜面を登っている。
銃剣を前に突き出して腰だめに構えたライフルが何千と並び、頭上の敵に向けられていた。
登っている間も頭上では榴散弾が炸裂して、砲弾の破片が降り注いでいる。
砲弾にやられると王国兵も共和国兵も連合公国兵もバタバタ倒れて、岩肌に動かなくなった。それでも大部分は進撃を続けていた。
「女王陛下万歳!」
「自由と共和国万歳!」
「連合公国に栄光あれ!」
同盟軍はそれぞれの決まり文句を唱和しながら、帝国目がけてパンパンと銃弾を放ち始めた。
一方、帝国軍歩兵の戦列は数段に重なって、ずっと前から発砲していた。斜面に散らばった幾千の銃口からパチパチと軽い音が鳴るたびに小さな白煙がぽつぽつ吹き出し、次々と風にさらわれていく。どっちの弾もろくに当たりはしなかった。
硝煙も残らないほどの強風が西から吹き荒れる中、同盟軍の最前衛は相手に銃撃を加えながら、じりじりと距離を詰めていた。
それに伴い、アデルバートもゆるゆると小道を登る。
まるで高みの見物をしているようで戦闘に参加しているという実感がなかった。
理由は簡単。弾が自分たちをかすりもしないからだ。
ぎっしり並んだ帝国兵の横隊は突出したたった二人の騎兵には見向きもせず、満ちる潮のように這い登ってくる歩兵連隊に射撃を集中していた。
アデルバートの興味は味方から敵兵に移った。だいぶ敵の陣地に近づいたので、今では敵の顔つきや弾薬ポーチの爆弾紋章がはっきり見えるようになっていた。
銃口に突っ込まれた込め矢がひょこひょこ上下に動く。今朝は噛み煙草でも食いちぎっていたヤニだらけの歯が今や紙製実包を噛み千切るために食いしばられていた。帝国兵もときどき倒れて、列の中に消えるものもいたが、敵の後ろの斜面では予備兵の横隊や担架兵が慌しく動いていて、負傷者と予備兵を迅速に取り換えていた。
敵は第一火線をなんとしても維持する構えだった。
「敵の指揮官はどこにいるんだろう?」
「あそこですよ」
帝国軍の連隊長は岩の上に立っていた。歩兵が並ぶ坂にはこうした灰白色の岩がいくつか突き出していて、見晴らし台として機能していた。一つの岩山に一人の士官が立ち、腕を振り回して部下を励ましている姿はまさにお山の大将だった。
アデルバートから数十ヤード離れた岩にも赤い髭の帝国士官が仁王立ちになり、左右に広がる歩兵の横隊に拳や剣を突き出し、指示と激を飛ばしていた。指揮官はしばらく両腕をぐるぐる回してがなり立てていたが、迫りくる同盟軍に撃たれ、突然ぴたりと動きを止めると岩山から転がり落ちた。岩のそばには同盟軍の砲弾に抉られたすり鉢状の穴が二つ開いていて、そこにも猟兵が隠れて発砲していたのだが、指揮官はその穴に転がり落ち、担架兵の世話となった。士官は担架に乗せられてもなお、うなされるように両手を振り回していた。
気づけば味方はかなり押していて、敵の第一線は潰走寸前だった。
同盟軍の施条入りライフルは帝国の滑腔式マスケット銃よりも射程と命中率で優れていたし、兵力と野砲の数でも同盟軍が上だった。
優勢な火力を前に帝国軍の防衛線は予備兵の補充が間に合わず、分厚かった横隊も今ではまばらになり始めている。
頭上で砲弾が爆発するとついにとうとう敵の一角が逃げ出した。
この砲弾ははるか上流で北岸の高台を占領した騎馬砲兵たちが放ったもので彼らはいまや遠慮なく敵の左側面から山岳砲を撃ちかけていた。
灰色の軍隊が色を失い、潅木わずかな斜面をあたふた逃げ登っている。
帝国軍の堡塁に榴弾が命中した。真っ二つに割れた丸太壁から持ち主のいない青銅砲が煙を噴きながら斜面をがらがらっと疾走し、大きな岩盤にぶつかって爆発、バラバラになってしまった。
左翼の帝国軍は崩壊寸前だった。
頂に集まって最後まで抵抗する敵の一隊に味方の師団が十字砲火を浴びせて、降伏を迫っていた。
他でも戦闘は続いているが、敵の敗色が濃厚だ。
敵は負傷兵や戦死者、マスケット銃や大砲をその場に残して、無我夢中で退却している。
すっかり気を緩めたアデルバートたちはかつて敵が陣取っていた中腹を進みながら、後世の歴史家が考えるべき他愛のない話をしていた。
「きっとこの戦闘は『チョブルイ川の戦い』って名前をつけられるね」
「もうちょっとカッコよく『チョブルイ会戦』と呼ばれるかもしれません」
「会戦、かあ……。確かに戦いよりは会戦のほうが響きがカッコいいね。でも、チョブルイって、ちょっと聞き馴染みのない言葉だなあ」
「まあ、いずれにしろ名前を決めるのは戦記編纂係なんですがね。あいつらは戦闘の名前を考えるために雇われたんだから、まあ、格好のつく言葉を考え出すでしょう」
「新聞記者が決めるかもしれない」
「途中で見たあいつですね。よくやりますね、従軍記者も。死ぬのが怖くねえのかな?」
「ペイトンは怖いの?」
アデルバートが向けるずるい微笑にペイトンが苦笑をもらす。
「参ったな。昨日でかいことを言った手前、怖くないと言いたいところですが……、死んだ後、人間がどうなるかを考えると少し怖い気もしてきますね。坊ちゃんはどうです?」
「僕は不思議な気持ちになるよ。死んだら人間はどこに行くのか、魂は本当にあるのか、とか」
「魂はありますとも。死んだら人間の魂は天使に首根っこつかまれて、神様の前に引っ張り出されます。神様の前で生きている間にやったことを、良いことも悪いことも全部白状させられるんです。で、神様は天秤の前で気難しい顔をして、分銅を皿に乗せるわけです。良いことをしたら白い分銅を、悪いことをしたら黒い分銅を。で、針が良いほうに触れたら天国、悪いほうに触れたら地獄行きです」
「馬を鞭でぶったら黒い分銅かな?」
「そうですねえ……。そんな暗い顔しなくても大丈夫ですよ。その後、薬を塗って、ちゃんと洗って、ブラシもかけてやりましたって教えれば、白い分銅が三個もらえますよ」
神様講釈の最中も砲弾は二人をかすめていた。付近の土が榴弾の炸裂でめくれあがる。
このころになると二人ともこけおどしのような爆発にすっかり慣れっこになってしまった。爆発に注意を払わず、ゆるゆると小道を登っているとペイトンが呆れ気味にこぼした。
「損害もそんなに多くないし。こりゃ本当に一ヶ月で終わっちまうかもしれませんよ、この戦争」
「はやく終わるのはいいけど、その前に王国の秘宝を探さないと……ん?」
アデルバートは言葉を止めて、耳を澄ました。
小道の先、砲弾が炸裂する頂から地鳴りが聞こえてくる。そして、聞きなれない呻きが響いてきた。
「ウラアアアッ!」
呻きは喊声だった。
突然、頂の向こうから何万もの帝国兵が湧き出し、旗手と士官を先頭に目を血走らせて駆け下ってきた。
「ウラアアアーーーア、ア、アッ!」
帝国の突喊は崩れる波頭の如く、王国兵に雪崩れかかった。
今度は同盟軍が気押しされ、悲鳴をあげたりライフルを放り出しながら二人が歩く小道に逃げ出してくる。
「攻めてきたあ!」
「兄弟、退却だあ!」
「お助けえ!」
算を乱して逃げてくる王国兵をアデルバートは右へ、ペイトンは左へ避けながら、得物を構えた。
アデルバートの剣は剛毅な母親とペイトンにみっちり仕込まれた。その腕は一見すると細めで頼りないが、実は俊敏でバランスに優れ、剣術の成績は士官学校でも上位に属していた。
「僕は軍人なんだ」
そう自分を奮い立たせた瞬間、アデルバートの目の前に岩を飛び越えた敵兵が姿を現した。
顔は煤煙で黒ずみ、目は辛子でも塗りたくられたようにぎらついて正気を失っている。無様に千切れた軍服は着るというよりは体にまとわりついているという表現が正しかった。その兵士はマスケット銃も弾薬ポーチも持っていなかったが、革を厚く巻いた紐付き水筒をアデルバートに振りかぶってきた。
これが初めてアデルバートに襲いかかった敵兵だった。
興奮も不安も感じる隙もなく、心臓が拍動した。
咄嗟に剣を突き出す。振り回される水筒の紐が刀身に絡まった。
ぐいと引くと水筒が相手の手からすっぽ抜けた。
唯一の武器を失った帝国兵はもんどりうって斜面を転がり逃げた。
初めて敵と戦い、初めて敵に勝った。思ったよりも味気ない勝利で……
「坊ちゃん! 二十四ポンド弾が!」
ペイトンの叫び声が聞こえた。
ヒュウ~! と、いう甲高い音も。
急に音が聞こえなくなった。
アデルバートの体は見えない巨人につままれたように軽々と持ち上がった。
下を向いたまま、さっき巻き上げた水筒よりも高く舞い上がる。
手足をぶらつかせ空を飛びながら。
光景はますます現実味を失った。
戸惑うバルティー。
すぐ横の大穴から白煙がもくもくと湧いている。
ペイトンは大切なものを失った絶望で顔を凍らせて、アデルバートを見上げていた。
ペイトンとバルティーの無事が確認できただけでも良かった。
ホッと息を吐きながら、アデルバートは地面に叩きつけられた。
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