ペイトンのココア
太陽は西の平野で巻き上がる砂埃の中に霞み始めていた。
時計をしょっちゅう確認する癖のある士官が懐中時計をチョッキから引き出した。針は四時三十分を回っていた。
荒野は暮れるが早いか、冷え込みが始まり、東の峰から闇が滲んでくる。
本格的な夜が訪れる前に野営の準備をしなければいけない。
三人の総司令官たちが号令をかけ、各師団は行軍をやめた。
兵士たちは街道土手を降りて、次々とテントを張り始めた。
その手際は慣れたもので一時間もしないうちにだだっ広い平野を円錐形のテントが埋め尽くし、夜の帳も関係あらずと無数の燈火が暗黒の荒地に散りばめられた。同盟軍は数時間にしてエレボニン半島最大の都市を作り上げてしまった。
このテント都市、ちゃんと目抜き通りと横町のようなものが均されて、その両脇にテントが並んでいる。
テントは何も寝るためだけに組み立てられるわけではない。炊事班がシチューを煮る厨房テントに従軍牧師の教会テント、馬の飼葉を用意する円形の馬糧集積場、酒保商人たちが嗜好品を売る仮設小屋。
工兵たちが急造した小さな堡塁には十二ポンド砲や十ポンド砲、大型の臼砲が運び込まれ、周囲に睨みを利かせていた。
総司令官たちも早速、寝床をこしらえた。
好々爺のサマーフォード卿は二階建ての小さな石小屋に入営した。
この小屋はかつての関所小屋で、野営地から少し離れた静かな丘にぽつんと建っていた。
サマーフォード卿は本国から持参したお気に入りの書き物机を二階に持ち込むと、かがり火と星々の織り成す神秘的な窓景色を大量の書類で塞ぎ、今日消費した物資の合計と本国へ要求する補給物資の合計を照らし合わせる作業に没頭した。卿は嬉しそうだった。
「ふーむ! 兵士一人が一日に消費するパンの量が一ポンドと半分。これが十万人となると十五万ポンドのパンが必要だ。弾薬のほうとなるとこちらはまだ消費してこそいないが、なに一度戦闘が起これば、焚きつけにでもしたようになくなってしまう。焚きつけで思い出した。この半島は予想以上に植物が少ない。これじゃ用意した焚き木が足りなくなっても燃やすものが集まらないのは明白だ。それに馬のための飼い葉も必要になる。これだけの物資を運べる輸送船団を急いで追加してもらわなければ。さ、他に補充が必要な物品はないかな? これはなかなかやりがいのある仕事だよ!」
共和国軍総司令官サンデュブラン元帥はやたらと無骨なテントを設営し、作戦地図を無表情に眺めた。その頭上では重過ぎる天蓋が大きく垂れ下がっていて、元帥の白髪頭に触れるか否かのところまで迫ってきていた。
作戦地図の上には厚紙でこさえた各師団の駒がまるでチェス盤のように並んでいた。馬の形に切り抜いた共和国軽騎兵師団、銃剣で襲いかかる兵士の形は第一植民地歩兵師団、ずんぐりした大砲型の紙片は二十四ポンド砲を配備した砲兵大隊だ。
元帥は作戦地図上の駒をあちこち動かして、明日、行うことになるであろう敵との会戦を夢想した。そのうち、作戦指導に熱が入り過ぎてしまい、太い指は彼の指揮下にはない王国軍や連合公国軍の駒までつまみ出した。
「チョブルイ川の南岸を目一杯我が軍が展開する! そして、王国軍の砲兵隊がこのサリバン高地から砲撃を継続し、連合公国の軽騎兵を下流の橋まで回らせて、敵の後背を突けば勝利は間違いなしだ。我が忠勇武烈の歩兵二個師団は正面からごり押しして敵を三時間足らずで潰走させてやる。そうだ! 騎馬砲兵隊に山岳砲を牽引させることを忘れるところだった。奴らはどこから登らせたものかな? ああ、あと王国軍の歩兵隊もこの中州を押さえて、我が軍への援護射撃だ。ちゃんと我輩が指揮してやらんと! インク飲みのサマーフォード卿やお坊ちゃんのメレンディッシュグレーツ公爵じゃあ十万を越える大軍など、とても任せられたものではない!」
気品溢れるメレンディッシュグレーツ公爵のテントはテントというよりはシャトーに近かった。
巨大で華美な本館の左右には帆布で模した尖塔や楼閣が連なっている。塔の中には木で組まれた寝室が設けられ、これまた本国より持参したベッドと枕が配置されていた。
階下の食堂では公国首都の大貴族に供されるのと寸分違わないフルコースが並ぶ予定だ。連合公国の将軍だけでなく、王国や共和国の将軍も招待される予定だったが、真意のほどは歓待ではなく、洗練された公国式マナーを見せつけて彼らに恥をかかせるためだ。
拘りの強い公爵は左の翼棟に設けた大食堂と調理場を往復し、みずから晩餐会のセッティングを指導していた。
「そうです。そこです。そこのシャンデリアから蔓草をテーブルの四方に垂らして結び付けてください。う~ん、とても優雅です。ただ、この半島は本当に植物が育たない土地だったのですね。風致もなにもあったものではありません。造花職人を連れてきていなければ、飾る花なしの味気ない晩餐会を開かねばなりませんでした。造花に香水をふるのを忘れないで下さい。……ああ、そうでした。子羊は舌にのせたらとけてしまうくらい柔らかく煮込んでください。子牛のカツレツはあまり焼き過ぎないように。一応、マスタードベースのソースも用意しておいてあげましょう。私はあまり好みませんが、共和国の方々は所望されるかもしれません。デザートワインは……トロッケンベーレンアウスレーゼ……グラスは……んん、美しい。大変結構です。連合公国が誇る最高のデザートワインは最高のクリスタルグラスに注いでこそ、映えるというものです。ただ、心配なのはサマーフォード卿がトロッケンベーレンアウスレーゼを正確に発音できるかということですね。なにしろメレンディッシュグレーツの家名をグレープフルーツか何かと勘違いしたくらいですから……ああ! なんですか、その仔犬は!」
ぶちの仔犬がたった今、試食用に供せられた公爵のカツレツを一枚丸ごとくわえて走り去っていった。
仔犬はそのまま、公爵のシャトーテントと道路を区切るまばらな塀をくぐり抜け、十門の大砲の前を突っ切った。 仔犬は王国軍主計テントにもぐりこむと、ジャムを保存する大瓶と桁から吊り下げられたサーベルの間で掠め取った獲物にかぶりつき、その上品な味わいを心ゆくまで堪能した。
そのころ、主計テント正面のカウンターではアデルバートがやや猫背の主計兵から軍帽用の羽飾りを受け取っていた。
アデルバートの羽根が行軍中に取れてしまっていた。アデルバートはペイトンが食事の用意をしている間、散歩がてらに羽根を貰いに行くことにしたのだった。
「はい、どうぞ、候補生殿」
「ありがとう」
主計兵から貰った羽根をつまみあげ、荷馬車を避けながら、大砲通りと名付けられた俄かの目抜き通りに合流した。
通りの両側には各国の大砲がずらりと並んでいた。
鋳鉄製二十四ポンド砲、十ポンドカノン砲、騎馬砲兵隊の軽砲、インチとミリの表記がごっちゃになった臼砲、本当に撃てるのか怪しい旧式の青銅砲から、もはや骨董品の域に達したレザーカノン。
各砲兵は自分の砲が一番綺麗に見えるようにせっせと磨き、自慢の文句を張り上げていた。
「やっぱり榴弾砲は六・五インチじゃなきゃあな。四インチじゃ迫力が足りねえ」
「けっ、田舎もんめ。うちの臼砲は十三インチあるんだぞ」
「臼砲なんてダサくていけねえや。ずんぐりしたナメクジみたいだぜ」
「ずんぐりなら榴弾砲はみな同じさ。砲はすらっと美しくなきゃ。うちのパロット砲みたいにな」
「畜生、六十ポンド砲を艦から降ろしてこられれば、うちの隊が一番だったのに」
「ポンドとかインチとか何のことだ? なんでミリやグラムを使わない?」
通りはごった返していて、雑踏は十五の士官候補生をあっという間に飲み込んだ。
「どけどけ!」
そばかすの王国軽歩兵が缶詰を手押し車に満載し突っ走る。
「えいくそ! 針に糸が通らねえ。悪魔に憑かれたみたいだ」
連合公国の鼓手は道端に座り込んで、破れてしまった太鼓を直していた。
「えいや!」
力自慢の共和国植民地兵はライフルの銃身をぐっと折り曲げていた。銃身は蹄鉄型に曲がり、銃口が引き金の隣に並んでいた。この力自慢は仲間から喝采を、上官からめちゃくちゃな叱咤を受けていた。
「この馬鹿野郎! こんなのぶっ放したら、弾が自分の心臓にめり込むぞ!」
こう言いつつも士官は笑っていた。彼も部下の力自慢を往来で見せびらかすことにまんざらでもない様子だった。
「帝国軍は突撃のとき、ウラーって叫びながら突っ込んでくる。ウラーって聞こえたら大急ぎでトンズラしろ。いいか、ウラーだぞ、忘れんな」
訳知り顔の古参兵は初年兵にそんなことを教えていた。
テントはみな明るく楽しく騒がしく、明日出会うであろう敵をいかに格好良くぶっ飛ばすかを自慢しあう声がそこかしこに沸いていた。
だが、中には不安を隠せない兵隊もいる。
連合公国の年老いた兵隊がアデルバートでも聞き取れる速度の公国語でバイオリンに合わせて、むせび泣く調子で歌っていた。
恋女房から離されて
馴染まぬ土に踵くっつけ
見慣れぬ枝に顔引っ掻かれ
名も知らぬ敵さんと向かい合い
さわったこともない大砲で
お天道様にぶっ飛ばされて
消し炭みたいに真っ黒こげ
そうとも知らず女房は
今日も旦那を待ちながら
鉤吊り鍋でイモ煮込み
舅の咳を聞かされる
年寄り山羊の涙ほど
身をつまされるものはない
そのしんみりした兵隊たちのそばで、ずんぐりした若い連合公国少尉が神妙な顔でボタンをいじっていた。ボタンはみな白銀製だったが、上から三つ目のボタンだけ銅製だった。そのボタンになにか甘美な思い出があるのか、士官はボタンをいじりながら静かに涙を拭っていた。
その銅ボタンは誰かの形見だろうか?
それともボタンをつけてくれた人が想っている女性なのかも知れない。
あるいはボタンに思い出など何もなく、ただ手持ち無沙汰にいじっていたら、目にゴミが入っただけかもしれないし、白銀のボタンが手に入らなかったことを嘆いているのかもしれない。
アデルバートは羽飾りを握りしめて、テントに急いだ。
途中、ビリヤード場でマクギルベリー中尉が声をかけてきた。気のいい先輩士官でアデルバートや他の士官候補生の世話をいろいろ焼いてくれるのだが、このときはイングルワース候補生というアデルバートの同窓を相手にビリヤードを教えていた。
「アデルバート! 君も加わらんかね? ビリヤードさ。――なに? やったことがないだって! ……ふうむ、驚いた。君といい、このイングルワースといい、今日日の士官候補生は真面目に授業を受けているわけだ。俺の時代は単位そっちのけで決闘にウイスキー、女の子のかわいいお尻を追いかけまわしたもんなのに、君たちと来たら勉強のしすぎで、キューの握り方すら知らないらしい」
中尉はフルーツ・ブランデーに口をつけると、イングルワースに振り向き、
「イングルワース、由々しき事態だ。特に君はこのままじゃいけないね。イングルワース家といえば世界の産業王、王国指折りの大金持ちじゃないか。その嫡男たる君が平民上がりの俺よりも遊びがわかっていないってのは自然の摂理に反する。神がお許しにならない。せっかく金持ちに生まれたんだから、せっせと遊んで、どんどん散財したまえ。よし。昨日はタバコのくゆらし方を教えたから、今日は玉突きだ。共和国や連合公国の騎兵士官に負けては王国騎兵の名がすたる。騎兵士官なら馬やサーベルよりも先にキューを自在に扱えなきゃいけない。これから見せる技は士官学校の課外授業だと思って、しっかり学ぶように」
「はい、中尉殿!」騙されやすいお人好しの士官候補生イングルワースはすっかり中尉を信じ込み、ピッと敬礼した。
マクギルベリー中尉は共和国士官と対決した。数字が刻印された玉をぽこぽこぶつける遊びについてアデルバートはさっぱりだったが、玉突き台を囲む士官たちは真剣そのもの。ラシャを滑る玉一つ一つを凝視し、白玉の行方を追っていた。
ルールが分からないので勝敗の行方も辿れないが、マクギルベリー中尉のしたり顔を見る限り、前哨戦は王国軍の勝利に終わったらしい。
そのうち、勝負に負けた共和国士官がマクギルベリー中尉をイカサマ野郎呼ばわりすると、中尉はとても上品な共和国語で少し待つように言い、背後のイングルワース候補生にウインクした。
「ビリヤードに関する最終レッスン。君はラッキーだぞ、イングルワース。イカサマ野郎呼ばわりされたときのキューさばきを特別に教えてしんぜよう」
マクギルベリー中尉は腰を効果的に使ってキューを振り、その共和国士官をぶちのめした。
「このクソ王国野郎!」
「かかってこいよ、エスカルゴ野郎!」
売り言葉に買い言葉。
マクギルベリー中尉は襲いかかってきた相手の首根っこをつかみ、ビリヤード台にぎゅうぎゅう押しつけた。哀れなイングルワースは子分と思われ、別の士官の拳骨でいの一番に殴り倒されてしまった。
さて、アデルバートは喧騒の目抜き通りから士官テント区に足を移す。
士官のテントは将軍用テントに少し見劣りするが、テーブルを置いてもお釣りがくるくらいの広さを確保は出来ていた。彼らは野外にテーブルを置いて、フルコースとは言わなくとも兵卒よりは調った上品な料理に舌鼓を打つことが出来た。
士官候補生アデルバートと従卒ペイトンのテントは士官テント区と兵卒テント区の中間にあった。
士官用テントよりも小さいサーカステントのミニチュア版が小道沿いに立ち、裏では馬が飼葉を食んでいた。テントの前に設けられた調理スペースでは小さな焚き火にフライパンがかけられ、熱を蓄えている。その横でズボン吊り姿のペイトンが缶詰の蓋を相手に格闘していた。
大きなブリキの缶詰は蓋がハンダで固定されていて、注意書きには鑿と金槌を用いてあけるべしとある。ペイトンは素手で蓋をむしり取った。
中身の牛肉を鉄板にのせて、こっそり持ち込んだバターと塩コショウで味を調える。さらにペイトンはどこで調達したのか生野菜も用意していた。育ち盛りのアデルバートのために栄養バランスへの配慮はぬかりがないのだ。
にこにこ顔のペイトンは帰ってきたアデルバートを低いながらも明るい愛嬌のある声で迎えた。
「お帰りなさい、坊ちゃん。いまちょうど夕食が出来たところです」
大声で坊ちゃんと呼ばれることに恥ずかしさを隠せないアデルバートはペイトンに再三頼んだ。
「ねえ、ペイトン。その坊ちゃんって呼び方は止めてくれないかな?」
「こればっかしはいくら坊ちゃんの頼みでも聞けませんな」
「せめて戦地にいる間だけでも」
「なあに、坊ちゃんが閣下と呼ばれるその日まで、俺は坊ちゃんで通しますとも。さ、熱いうちに食べてください」
二人で木箱を引き寄せて座り、野菜を添えた缶詰料理にパクついた。
食事が終わるとペイトンは鼻歌まじりに後片付けをしながら手提げ缶の葡萄酒をがぶ飲みし、アデルバートはココアを吹き冷ましていた。子供っぽいとは思うが、ミルクたっぷりの甘いココアはやめられなかった。
洗い物を終えたペイトンは地面に投げ出された背嚢から枯れ枝を束で取り出した。行軍中に拾い集め、背嚢に縛り付けておいたのだ。ペイトンは枯れ枝三本を二つに折り、弱まり始めた焚き火に命を与えながら、アデルバートを励ました。
「やりましたね、坊ちゃん。伝令につづいて宝探しだなんて、ついてますよ」
「でも、あの伝令の仕事は大変だったんだ。危うく殺されかけたんだから」
「なーに、どうせ戦争です。これから何度だって殺されかけますよ。でも、ペイトンがついてるんで大船に乗ったつもりで安心してください」
「ありがとう、ペイトン。でも、もう船はこりごりだよ。それより、もう一杯ココアが欲しいな」
小さな鍋にココアと牛乳、砂糖が投じられ、よく練っている間、アデルバートはペイトンが兵站部から持ってきたミルク缶を不思議そうに眺めていた。
「おかしな話だね。戦場で新鮮なミルクが手に入るなんて」
「新聞によると」ココアを練りながら、ペイトンが答える。「現代の戦争はそういうもんらしいですよ。紳士的で文明化されたとか。まあ、戦地に行ってもメシがうまいなら兵隊はみな万々歳ですよ。そうだ、坊ちゃん、連合公国の将軍テントを見ましたか? ありゃ、お城ですよ。たまたま裏手の調理テントを覗く機会があったんですが、あそこのコックはみな一流ぞろいで肉の焼き方だけじゃなくヨーグルトを入れるカップの形にまでこだわってました。冗談にしても面白すぎらあ。ここは戦地だってのに食い物のことで変なこだわり見せちゃって」
そう言いつつもココアを練るペイトンの手は一分三十五秒でぴったり止まる。
ペイトンの経験ではこれが最もココアが香るタイミングだった。
ペイトンはアデルバートのために十年以上ココアを練り続けていたから、一分三十五秒はもはや体の一部になっていた。
「まあ、あいつらがこだわる気持ちも分からんではないですがね」
恥ずかしそうに頬をかくペイトンにアデルバートが笑い声をあげた。
アデルバートにとって、ペイトンはなんであるのか?
この質問はアデルバートにとり返答に窮するものだった。父とするには若すぎるし、兄とするには年上過ぎる。
母とするには厳ついが、父とするには世話焼き過ぎる。上司とするには気さくに応じすぎているし、部下というには親愛が強すぎる。
そんなわけでアデルバートにとってペイトンはペイトン以外の何者でもなかった。この世で最も大切な人の一人には違いない。
「そうそう。今日、親切な中尉さんに会ったんだ。その人も連合公国の士官でね。名前は確かカールノゼ……テオドール・オットー・フォン・カールノゼ中尉。男爵って呼ぶ人もいたな。なんだかとても上品で女の人にもてそうな感じの人だったよ。とても若い中尉さんなんだ。王国語もうまかったし」
「へえ、連合公国の士官の中にも面白いのがいるようですね」
ペイトンはうなずきながらココアを火にかけ、牛乳を加えながらかき混ぜた。
アデルバートは四角ランプを手に取ると馬をつないだ裏手まで歩き、馬の様子を見に行った。二頭の馬が隣の兵隊テントの喧騒に耳をぴくぴく動かしている。ランプが肩を叩きあう二人の兵卒の影をテントに映し出していた。
アデルバートはバルディーの長い鼻面にキスし、そして鞭打たずに済んだ尻に撫でた後、ブラシを軽くかけてやり、話しかけた。
「ゆっくりお休み。今日はほんとに頑張ったね」
そして自分は岩の上に置かれた鞍の調子を見た。谷を越えるために窪地を跳び越したとき、違和感を感じたのだ。腹帯の締まりが少し悪いのかも知れなかった。使い込んだ鞍はランプの光で黒ずんだ光沢を発し、カンバス地の腹帯があおり革の裏に揺れている。
アデルバートはバックルと腹帯の相性を確かめた。
(もう少しきつく締めないと駄目かもしれないな。馬が疲れやすくなるから余り締め上げたくはないけど……)
「坊ちゃん、ココアができましたよ」
振り向くとペイトンの大きな体躯が焚き火へ通じる道を塞いでいた。
ココアからあがる白い湯気が大きな影の中で白く浮かび上がる。
「ありがとう」
ココアを受け取りながら岩に腰掛け、ペイトンを見守る。
ペイトンは自分の馬の首筋を豪快にパンと叩くと、同じように自分の首をパンと叩いた。あれがペイトンと馬の心を通じさせる(と本人は思っている)儀式なのだ。その後、ペイトンは手に提げていた袋から大きな金属製品を取り出した。
大型のレマット・リボルバーが鞍に取り付けられたホルスターに突っ込まれる。小脇に抱えていた携帯寝具も足元に落とした。
「先に道具を鞍につけておこうと思って。雨が降る心配はなさそうですからね」
親指を突きつけられた夜空には数千の星々がきらめいていた。
「坊ちゃん。もしなんだったら早めに休んでもらって結構ですよ。明日は早朝から隊を離れて北進しなきゃならんですから。あ、でも剣だけは渡してください。砥いどきますから」
「ありがとう」
剣吊りベルトを外して、手渡すとペイトンは木箱の上に置かれた布地に剣とベルトを丁寧に包み込んだ。そして干草の山から飼葉を両腕一杯にかかえて桶に移し始めた。
「ねえ、ペイトン」忙しそうなペイトンにふと疑問が起こる。
「なんです?」
「ペイトンは休まなくていいのかい?」
「ええ、俺はまだやることがあるし、ワインもまだまだ残ってます。それに俺は頑丈だから一週間寝なくても平気の平左でバリバリ動けます。おや、坊ちゃん。帽子の飾りが取れてますよ。ああ、ちゃんと貰ってきたんですね」
ペイトンはアデルバートの軍帽をとると自分の背嚢から刺繍道具を引き出して、座り込み、針に糸をさっと通して羽飾りを縫いつけ始めた。
「いつも元気だね」
「頑丈だけが取り柄です」
「そんなことないよ。優しいし、料理洗濯掃除から剣の手入れもしてくれる。今だってボタンをつけてくれるし。取り柄がありすぎてわからないくらいだよ」
ペイトンは手を止めて針を置くと、赤い眉毛の下で青い目を輝かせて笑った。
「坊ちゃんにはいつもそう言ってもらってますが……いつものことながら嬉しいなあ」
ペイトンは心の底から幸せそうだった。
アデルバートはココアをすすりながら、自分のアダムス・リボルバーを鞍におさめ、うつむいた。
「もし、僕が戦死したら……」
「そんなこと言うもんじゃねえ」
厳しい言葉にハッとさせられる。
ペイトンは裁縫の手を休めて顔をあげると、にかっと笑った。
「そんなこと起きやしませんよ。絶対起きたりしません。強気にならなきゃダメですよ。弾は弱気になった奴から当たってくるんですから」
羽飾りをつけ終わった帽子がアデルバートの手に返ってくる。
アデルバートは躊躇いながら口を開いた。
「でも……」
「もし弾が飛んできたら、俺の後ろに隠れてください。この通り造りは丈夫ですから数発まともに喰らってもケロッとしてますよ。三十発喰らって、やっとくたばる……」
「そんなこと言わないで」
アデルバートの語気が自然に鋭くなった。
ペイトンはバツが悪そうに頭を掻いたが、そのうち自然と表情が弛み、にっこり笑うとアデルバートに言った。
「二人とも死にやしません。強気にでんと構えていきましょう。そう、自信を持ってね。なんたって坊ちゃんは特別任務を仰せつかった身なんですから」
「うん」
アデルバートはテントの中で横になり、ペイトンが剣を砥ぐ音を子守唄代わりにして安らかに眠った。
そのころ、メレンディッシュグレーツ公爵の招待からこぼれたメイランド伯爵は部下の連隊長たちを自分のテントで催される憂さ晴らしの晩餐会に招待して、上機嫌にしていた。
伯爵も始めは気の乗らなかった戦争だったが、いざ敵地に来ると血がたぎってくる。敵陣に突っ込んで斬りまくってやろうと豪語し、部下たちには盛んに葡萄酒を勧めた。
招待された中にブラウン大佐もいた。大佐は人の良い笑みを浮かべて、子羊のソテーを切りながらメイランド伯爵に礼を言った。
「師団長。昼間はありがとうございました」
「ん? なにがかね、大佐」
「特別任務のことです。私もリップルコット候補生の抜擢は適格だったと思います」
「リップルコット候補生?」
「ほら、王家の秘宝を探索する任務をリップルコット候補生に任せられた件です」
「秘宝……ああ、そのことか!」
伯爵は小気味よくうなずきながら思い出した。
「ええ、そのことです」
ブラウン大佐は生まれつき善良な人だったから、若い者に活躍の機会を与えてくれたメイランド伯爵に好感を持っていた。大佐は第三騎兵師団の麾下に置かれて以来、師団長であるメイランド伯爵を少し偏屈で性格の悪いところがあると危ぶんでいたのだ。
だから、今回のリップルコット起用の話は嬉しかった。上陸に際してのペイトンの活躍やアデルバートの馬術に嫉妬したのか、メイランド伯爵が二人を目の敵のように扱っていると副官から聞かされたときは気をもんだものだ。
「まさに大抜擢ですよ。ご英断だったと思います」
温和な大佐の賛辞にメイランド伯爵はずるっぽく笑った。
「ああ、そうだとも。あの二人を選んだのはまさに正しかった。……なんといっても、下らん宝探しに厄介払いできたんだから!」
そのことが面白いジョークのように、メイランド伯爵は大笑いした。
口にソテーを運んでいたブラウン大佐の手が宙でぴたりと止まる。
「閣下……いま言われたことの意味を掴みかねます」
「下らん宝探しだよ、大佐。王家の秘宝など実在するものか。そんなつまらんことに部下を割く余裕など我が師団にはありゃせんのだ。あのひよっこ候補生、家柄はただの田舎郷紳であって貴族じゃない。このつまらん道楽を押しつけるのにちょうどいいかませ犬だったよ。うは、うはっ、うははははっ!」
メイランド伯爵は上機嫌に笑った。葡萄酒が持ち前の悪辣さを軽口に変えて、伯爵に本音を吐き出させたのだ。
他の連隊長も追従してぎこちなく笑ったが、ブラウン大佐だけは灯台を見失った船乗りのように落胆していた。アデルバートの喜んだ顔が思い出される。まさか、こんなふうに扱われているとは思ってもいないだろう。
「おや、大佐。顔色が悪いな。もっと飲みたまえ」
大佐は勧められた白ワインを丁寧に断り、少し外の空気に当たってくるといって、テントを出て行った。
「まったく。つれない態度じゃないか。今日日の連隊長は師団長を酒場の親父くらいにしか見ておらんのだ」
伯爵は口をへの字に曲げ、品のないやり方でソテーを突き刺した。
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