騎兵中尉テオドール・オットー・フォン・カールノゼ男爵

 帝国領エレボニン半島は荒野の中に高地や尾根が点在する辺鄙な場所だった。

 人はほとんど住んでいない

 町らしい町といえば、海軍の基地となっている要塞都市コンスタンチノフスクくらいしかない。

 ぺんぺん草くらいは生えているが、森と呼ぶに堪えるものは少ない。

 高台から見渡せば、色のさえない緑が散らばるのっぺりとした荒野を見つけるはずである。

 街道も道とは名ばかりで、道の両側に石ころを敷き、まわりの地面と区別しているにすぎない。

 暖かいが乾燥しすぎ、海はあるが使える港がない。

 つまりエレボニン半島は打ち捨てられた土地なのだ。

 ただ補給さえ整えば、これほど戦争にもってこいの土地はない。

 どれだけ大砲を撃っても建築物や森林に当たる心配はなく、酔った兵士が非戦闘員に乱暴する心配もない。

 思う存分騒いでも誰も迷惑しないのである。

 こうしてドタバタ上陸劇を終えた同盟軍は長い長い隊列を組み、内陸の帝国軍を目指して行進した。

 殺風景な荒野の土手を数キロの長さに渡って、軍隊が行進するというのは大事業なのだ。

 先頭の騎兵は予定進路に先回りして、危険の有無を調べる。

 その後ろをやかましい軍楽とともに歩兵が行進する。

 伝令が左右の小道を忙しく駆ける中、歩兵たちはライフルを安っぽい金モールで飾られた肩に担い、太鼓のリズムに合わせて足を交互に踏み出している。

 こげ茶色の牛やラバは食糧を満載した二輪荷馬車をゴロゴロと転がし、真鍮製十二ポンド砲が緑の砲車に牽かれている。

 歩兵たちは連隊ごとに分かれて行進していた。先頭は紺色の外套を着こなす連隊長、その後ろに少佐が二人。そして数百名の歩兵がぞろぞろとその後ろをついていく。王国軍歩兵は既にその白い上衣に砂まじりの風を食らって、すっかり汚れ、うなじは汗でベタベタだった。

 ピクニック日和の天気と言うのは行軍向きではない。温かい陽気も重い背嚢を背負って歩かされれば暑く感じるものだ。乾燥した空気は喉から潤い


を強奪し、風が砂を巻き上げ、目を開けられなくなる。

 アデルバートとペイトンはこの大移動のちょうど中ほどで馬を進めていた。谷を挟んだ隣の道には共和国の青い軍隊が『三人の工兵と火薬樽』を吹


き鳴らし、王国軍の『アストン連隊行進曲』に挑戦している。

「初めての任務だ。緊張するなあ」

 笑いかけるアデルバートにペイトンもにっこり笑い返した。

 上気するアデルバートの手には師団長メイランド伯爵から連合公国のシンメルフェニッヒ将軍に宛てた挨拶状が握られていた。

 アデルバートは初めて任務を受けたのだ。

 それがこの伝令だった。ブラウン連隊長が直々にやってきて、ペイトンにこの手紙を届けるように命じてきた。連隊長は上陸の際の活躍からペイト


ンを高く買っていた。

 しかし、ペイトンは辞去し、それを自分の主人たるアデルバートに任せて欲しいとお願いした。

 これには二つの理由があった。まずはアデルバートに花を持たせたいという親心にも似た気持ち。

 そして、もう一つはこの任務が自分の手には余るという素直な認識だった。

 というのも、連合公国軍は谷を二つ隔てた街道を前進していたからだ。

 もし、シンメルフェニッヒ将軍に挨拶状を届けるのであれば、まず王国軍と共和国軍を隔てる谷を越え、さらに険しい第二の谷を横断しなければな


らない。どちらかというと馬術が苦手なペイトンにこの谷を越える自信はなかった。

「自分がこの任務を任された場合、一マイル半ほど後ろに走って、緩やかな斜面を選び谷を越えねばなりません。しかし坊ちゃんであれば、この谷を


突っ切ることが出来ます」

「この谷を? 正気かね、伍長?」

 ブラウン大佐はアデルバートに悪感情は持っていなかったが、あの船酔いの様子では回転木馬にだって酔い潰れそうに思えたのだ。

 しかし、ペイトンは自信を持って答えた。

「自分はまったくもって正気であります、連隊長。ウイスキー三ガロンをラッパ飲みした後でも同じことを言うでしょう。坊ちゃんは乗り物には酔う


のですが、不思議と馬の背だけはへっちゃらなのであります。このくらいの谷、朝飯前に越えてみせるのであります」

 こうしてシンメルフェニッヒ将軍宛の挨拶状はアデルバートの手に舞い込んだのだった。

 アデルバートは書状を鞄に入れると馬首を転じて列から離れ、谷に馬を進めた。

 仲間の騎兵や数人ごとにかたまって動く工兵たちが興味深げにアデルバートを見る。

 それもそのはずで、アデルバートの進み小道は岩があちこちから突き出している急斜面へ落ち込んでいたのだ。

 ペイトンが後ろから声をかけた。

「気をつけて!」

 アデルバートの手がさっと挙がり、くるりと一回転してまた手綱に戻る。アデルバートは愛馬バルティーの腹を蹴った。

 ところが肝心のバルティーは尻込みして後ずさった。その後も嫌そうに首を振り、なかなか谷に近づこうとしない。

 アデルバートの細い背に仲間たちの忍び笑いがにじり寄る。共和国軍の土手からも冷やかしが沸いていた。

 しかし、笑いものにされたアデルバートは怒る様子も焦る様子もなく、愛馬の首筋に手を置いて、くすぐりながら優しく語りかけた。

「大丈夫。さあ、行こう」

 不安げに揺れていた首が動きを止める。

 アデルバートはもう一度話しかけた。

「僕を信じて」

 バルティーの眼に光が宿った。人はそれを勇気という。

 バルティーは上体を振り上げて後ろ脚で立つと、高くいなないた。

 土くれを蹴り散らしながら跳び駆ける。

 淵を跳び越し、その前脚を岩盤にかける。

 普通なら降りて馬の手綱を引かなければならない砂利道だが、アデルバートはこれを鞍上で越えた。

 馬が尻を左右に振りながら、坂を下る。アデルバートは落馬しないよう鐙で踏ん張り、ときに抑え、ときに励ましながら馬を前へと走らせる。

 谷底に到着すると緩やかな道を選んで、トロットで駆けた。下りで無理をさせたので登り道は楽をさせたいのだ。馬への気配りと手綱捌きには目を


見張るものがあった。

 坂を登り切ると、共和国の兵隊たちが喝采を送った。

「すごいもんだ」

「いいぞ、若いの!」

 やんややんやの歩兵連隊に挨拶して、その前を横切る。

 共和国軍の列と連合公国軍の列を隔てる谷は先ほどのよりもずっと険しく、砂地も多かった。

 だが、バルティーはもう尻込みしなかった。

「はっ!」

 アデルバートは掛け声で馬を励まし、谷に飛び込んだ。

 不安定な砂地を避け、硬くて平らな岩場を選んで、苦もなく斜面を下るその姿は神がかってすらいた。まるで馬の気持ちがわかるようだった。

 馬が間違った足場に目をやると手綱を鋭く引いて、安全な岩場へ首を向けさせる。

 アデルバートの体はバネのように敏捷で、馬が脚をやり損なってぐらつくと、さっと体を起こして力一杯引っ張り、バランスを取る。

 そうしてついにとうとう谷を越えて、連合公国の縦隊まで登りついてしまった。

 自信を得た馬は誇らしげにいなないてたてがみを振った。

 アデルバートは汗を噴く褐色の首筋を優しく撫でた。

「えらいぞ。よく頑張った。帰りはもっと楽だからね」

 公国兵たちがその馬術を褒めちぎった。

「たいした馬乗りだよ。拍車はかけねえし、鞭も使わんかった」

「きっと馬の気持ちがわかるんだろう」

 アデルバートは公国軍兵士で溢れる街道を進み、目当てのシンメルフェニッヒ将軍を探した。

 列と平行に走る小道で若い歩兵中尉が白馬に跨り、道なりに進んでいた。

 アデルバートは速度をあげて、その中尉に追いついた。中尉はちょうど口を手で隠しながら上品に欠伸をしているところだった。

「あの、すいません」

 馬首を並べ、王国式に敬礼しながら、中尉に話しかける。

「シンメルフェニッヒ将軍はどちらでしょうか?」

 すらっと背の高い眉目秀麗の中尉は欠伸する手を止めてはにかみながら、公国式敬礼を返した。シャコー帽の庇を少し下げ、射るような日光から目


を守っていたが、そのおかげで細めずに済んだ眼は涼しげな鳶色を浮かべていて、口元には好感を抱かずにはいられない品のいい微笑を携えていた。


白い手袋がはまった指はとにかく洗練されることを要求する公国式馬術のやり方で手綱をやんわり握っていた。中尉はとても落ち着いた優しい声で答


えた。

「閣下でしたら、この先を百メートルほど行かれた前方におられますよ」

「百メートル?」

 アデルバートがキョトンとすると若い中尉は微笑みながら几帳面に訂正した。

「あなたの国の度量衡に換算すると、一〇九ヤード一フィート一インチほどの距離になります。……おや? これでは百分の二センチほど足りません


ね。すいません、インチよりも小さい単位はなんと言うのでしょう?」

「え? え~と……」

 質問したつもりが自分が回答者になったことに戸惑いつつ、アデルバートは最小単位を教えてあげた。

「バーレイコーンです。長さは三分の一インチになります」

「バーレイコーン(大麦)? なるほど。確かに三粒並べば一インチくらいにはなりそうですね。勉強になりました。では、お気をつけて」

「あっ、あの! 自分はシンメルフェニッヒ将軍の元に書簡を届けなければいけないのですが」

「ん? ああ、そうでした! ついうっかりこちらが質問していました。申し訳ありません。シンメルフェニッヒ将軍は……」

 若い中尉は人差し指をすっと前に伸ばして、前方の連隊旗に向けた。

「あの白い剣と黒のマスケット銃が交叉した連隊旗が見えますか? ――見える? 大変結構です。あの第一フェルトイェーガー連隊の前に閣下はお


られるはずですよ。ただ、お気をつけなさい。閣下は大変剛毅な方なのですが……ちょっと気難しいところもあって、とくに他国の伝令を叱り飛ばす


のが好きな人なのです。でも、あなたは大丈夫でしょう。閣下は馬術に優れる者をこよなく愛します。きっと気さくに応対してくれるはずですよ……


おっと」

 中尉はアデルバートの手綱をつかんでぐいと引き、列の中に引き込んだ。

 けたたましい車輪の音が響き渡った。アデルバートが小道を離れるや否や、二人の砲兵を乗せた四頭立ての砲車がずんぐりした榴弾砲を牽きながら


疾駆していったのだ。

 砂埃を巻き上げて消えていく砲車に中尉は安堵の溜息をつきつつ肩を落とした。

「危ないところでした。砲兵たちはせっかちでいけません。怪我はありませんか?」

「はい、ご親切に有難うございます」

「では、ごきげんよう。砲兵隊にはお気をつけて」

 親切な中尉と別れ、アデルバートは連隊旗を目指した。

 連合公国の行軍はお祭りのように騒がしかった。フュージリア連隊。近衛竜騎兵連隊。重砲大隊。高地民族師団。多種多様な民族から構成される連合公国の軍隊は馴染みの薄い言語をいくつも飛び交わせ、聞いたことのない歌をあちこちで合唱した。言葉は分からないが、とても耳に残るメロディーだった。アデルバートは異国の歌を出鱈目に口ずさみながら歩兵の縦隊を右に早足で馬を進めた。

 砂塵にかすれ気味だったフェルトイェーガー連隊旗がだんだん明瞭に見えてきた。ピッケル軍帽の行進が終わり、広いつばを片方だけ折り曲げて黒い羽を差した猟兵帽が取って代わった。飛び交う歌も猟兵の射撃のうまさを讃える歌だった。

 シンメルフェニッヒ将軍は先の中尉に教えてもらった通り、イェーガー連隊旗の前で数人の幕僚を随えて馬を進めていた。

 面長の禿げ頭に残った側頭部の白髪がそのまま口髭と繋がった老将軍で形のよい唇を不機嫌に突き出し、年の割りに皺の少ない顔を神経質にしかめていた。鶏の羽根付きシャコー帽を手で弄び、あたるように叩いて頭に乗せると、濃緑のフロックコートに手を突っ込み、ボタンをいじり始めている。


 背後に従えた幕僚たちはみないつ将軍の雷を喰らうかと戦々恐々浮かない顔をしていた。まるで刑吏につれられて徒刑場に向かう罪人の群れのようだだ。

 アデルバートが近づいたとき、将軍は既にその癇癪を破裂させていた。このとき生贄として供せられていたのは共和国の連絡将校だった。黄色いケピ帽に藍色上衣の共和国軍将校が将軍に散々やっつけられ、すっかり萎縮していた。

「やっとられんぞ、きみ!」

 将軍は甲高い声で叫んだ。シンメルフェニッヒ将軍は共和国軍のさる将軍のことをけなしていた。

「ピエール・コンブラン少将! わしは何度も神に祈っとる。あやつが敵に寝返ってくれますようにとな! そうすれば、何の気兼ねもなく大砲をぶ


ち込める。しかしだね。やっとられんぞ、きみ! よくもこんなあけすけな挨拶をよこしたな。恥を知りたまえ、恥を!」

 挨拶状を書いたのはコンブラン少将なのに何故自分がこんなに叱られなくてはいけないのか、さっぱり理解できなかったのだろう。連絡将校はうっかり首を傾げてしまった。

「けしからん!」

 その仕草を見咎めて、将軍はますます腹を立てる。

 その後も将軍はけなしつづけたが、その勢いは衰えるどころか逆に高まった。その最中にも何度か「やっとられんぞ、きみ!」と繰り返すところから、この威圧的な文句は老人のお気に入りなのだろう。

 アデルバートは後ろからそろそろと蹄音を潜ませ、様子を窺うように少し後ろを進んだ。共和国士官が叱られている間は話しかけないほうがよさそうだ。

 取り次いでくれる人がいないか、探していると年かさの士官がやってきて、アデルバートと馬首を並べた。

「師団付き副官のアルンベルガー大尉だ。君は?」

「王国軍第三騎兵師団第十二軽騎兵連隊リップルコット候補生であります。メイランド伯爵からの挨拶状をここに……」

 メイランドと聞き、副官が慌てて遮った。

「しーっ! メイランド伯爵だって? まずいときに来てくれたもんだ。火薬樽を探すために松明を持ちこんだようなもんだよ」

「あの、どういう意味でしょうか?」

「メイランド伯爵と閣下はひどく仲が悪いのだ。コンブラン少将の比ではない。顔を合わせればいがみ合うし、書簡をかわせば親の仇の挑戦状みたい


に破り捨てる」

「どうしてそんなに仲が悪いのに挨拶状を交わすんですか?」

「それは、君、貴族の礼儀だよ」

 アルンベルガー大尉は不安げなアデルバートの肩に手を置いた。

「大丈夫。閣下のピストルに弾は入っていない。ただ閣下が私のピストルを奪って君に向けたら、ギャロップで逃げるんだよ。鞭を打ちまくってね」

 アドバイスはちっとも慰めにならなかった。嵐の海にタライ一つで漕ぎ出したとしても、これほどの不安は感じないだろう。

 これから叩くことになるかもしれない馬の尻を撫でながら、アデルバートは哀願するような調子で馬に話しかけた。

「ごめんよ。ひょっとしたら、お前の尻を鞭打つかもしれない。もちろん打たなくてすむよう努力はする。でも、もしものときはギャロップを頼むよ


。後で飼葉をたくさんあげるし、ブラシもかけてあげるから我慢してね。僕も死にたくないんだ」

 バルティーは気乗りしないいななきで答えたが、いざとなったら覚悟は決めてくれそうであった。

 将軍のドラ声が響く。

「とっととわしの前から失せたまえ!」

 共和国の将校が追い払われた。伝令将校は将軍の罵声から逃げるように馬を走らせ、谷の小道を突っ走っていく。あの速度では斜面を降りるとき、手綱を捌ききれない。そう思った矢先、哀れな伝令将校は落馬して、野戦病院利用者第一号の栄誉を得ることとなった。

 副官が前に出て、将軍に耳打ちすると、将軍の小さな目がアデルバートをギッと睨んだ。

 アデルバートは馬を進めようと、軽く横腹を蹴るもバルティーは首を振って前に進まない。

「大丈夫、怖くないから」

 アデルバートは馬と自分を励ましながら将軍の左に轡を並べた。

 将軍は挨拶もなしに手を突き出し、書簡を要求した。

 アデルバートは恐る恐る手渡した。

 シンメルフェニッヒ将軍は怒るとき、顔が紅潮しない人なのかと感じていた。先ほどの伝令将校がやられていたとき、将軍は喚き散らしつつもその顔色は少しも変わらず、灰色がかってすらいたからだ。

 その観察が間違いだったことを思い知らされる。なぜなら挨拶状の字面を目で追う将軍の表情が歯痛でもかかえたように歪みきり、顔色が茹でた蟹のように紅潮していったからだ。

 さっきの怒りはほんの序の口に過ぎなかった。将軍は禿げていたからいいものを、もし髪があれば怒髪は軍帽を破って天を突き、天使の尻をつついたことだろう。

 唐突に将軍の口から流暢な王国語が流れ出した。

「ウィッティングトン・ホテルのビリヤード室でメイランド伯爵がわしをなんと呼んでいたか、知っておるかね?」

 アデルバートが質問の意味を理解できず困った顔をすると、将軍は怒気を含ませて再度たずねた。

「このインチキじじいが場末宿の玉突き場でわしをなんと呼んでいたか、知っとるか!」

「し、知りません……」

「知るはずないわ!」

 将軍は挨拶状を丸めて地面に叩きつけた。アルンベルガー大尉がそれを急いで拾い上げる。

 それから数分間、訛りの強い公国語でわめき散らし副官の帽子を叩き落とした。

 そして、アデルバートに目を戻すと、言葉を王国語に切り替えて、この哀れな候補生に噛み付いたのだった。

「あのとき、きみはビリヤード室にいなかった! 誰もいなかった! やっとられんぞ、きみ! メイランド伯爵は一人できゃっきゃ浮かれ騒いでお


った。部屋には自分しかいないと思い込んでおった! ところが衝立の陰にわしがいたのだ。そうとも知らず、あのインチキ野郎が白玉を使ってわし


を何に喩えていたと思う? ん? 今度はちゃんと考えてから答えたまえ!」

 将軍の後ろではアルンベルガー大尉が青い顔をして、合図でもするように首を横に振っている。答えなかったらひどい目にあわせられることを教えてくれたのだろう。

 アデルバートは必死に頭を巡らせて回答した。

「ええと……ハゲ頭ですか?」

 アルンベルガー大尉はこの世の終りを見たように目を覆った。

 将軍は鞍から単発ピストルを抜くと、アデルバートの顔目がけて引き金を引いた。

 カチン!

 撃鉄が雷管のはまっていない火口を叩き、乾いた音を鳴らす。

 このとき、将軍の右で轡を並べていたアルンベルガー大尉はアデルバートを救うべく将軍から離れようとした。

 遅かった。将軍の長い腕は大尉の鞍から六連発ピストルを奪い取った。

 その銃口は逃げようとするアデルバートに向けられた。

「閣下!」

 よく通る落ち着いた声が緊張を破り、アデルバートと将軍が動きを止めた。

 声の主、さっきアデルバートに道を教えてくれた公国中尉がギャロップで駆けてきた。

 その鳶色の眼には誰かを救うべく立ち上がった者にのみ宿る荘厳な光が煌き、ぴっと伸びた背筋が鞍の上で激しく上下している。しかし、急ぎのギャロップでも公国式手綱さばきの上品さを損なうことはなかった。

 中尉は手綱を鋭く引き、馬首を持ち上げると馬は四本の脚を突っ張って、連隊旗のそばに止まった。

「お待ちください、閣下」

 将軍は中尉を振り返ると上にも下にも置かない応対で返事した。

「一体何のようだね、男爵」

「閣下にお伝えしたいことがございます」

 中尉はアデルバートと将軍の間に馬を割り込ませ、将軍にそっと耳打ちした。 何を耳打ちしたかは分からないが、中尉は話を終えるとアデルバートに微笑みかけ、片目をつぶってみせた。

 中尉が速度を落とすと、そこには機嫌を取り戻したシンメルフェニッヒ将軍の満面の笑みと親しげな手招きが待っていた。

「そうか、きみがあの谷を越えてみせた勇者か!」

 さっきまでの怒りが嘘のようだった。

 将軍はアデルバートを自慢の甥っ子かなにかのように馴れ馴れしく話しかけ、馬術の腕を褒めちぎった。

 褒め口上の合間にも例の台詞「やっとられんぞ、きみ!」が挿し込まれるが、そのニュアンスは先のものよりもずっと柔らかく、親愛の情に満ち溢れていた。

 例えば、

「部下の伝令たちは共和国に手紙を届けるためにあの谷を大きく迂回せねばならん。いやいや、やっとられんぞ、きみ!」

 と、いった具合である。

 すっかり上機嫌になった将軍はなかなかアデルバートを離そうとしなかった。サマーフォード卿からの伝令がやってこなければ一日中解放してくれなかっただろう。


「本当にありがとうございました。中尉殿は命の恩人です」

 中尉と二人、轡を並べて輜重部隊の横を進みながら、アデルバートは何度も礼を言った。

 あと一歩遅かったら自分は不名誉な戦死者第一号として記録に残るところだったのだ。

 中尉は将軍の顔を思い出しながら、パールグレイのシャコー帽の下で微笑んだ。

「大袈裟ですね。大丈夫ですよ。閣下も本当に撃つつもりはなかったはずです」

「でも、あのときは本当に殺されるかと思っていたんです。でも、僕の馬術だけであんなに機嫌が直るとは思えないんですが……。あの、中尉。あの


とき、将軍に何を耳打ちされたんですか?」

 中尉は微笑し、人差し指を立てて答えた。

「あなたが馬術に長けていることだけしか話していません。まあ、我が一族に代々伝わる話術も用いて、多少脚色しましたがね」

 中尉は冗談めかして笑い、アデルバートの緊張をほぐした。

 アデルバートは中尉にたずねた。

「あの、もしよろしければお名前を教えていただけませんか?」

「テオドール・オットー・フォン・カールノゼ中尉です。あなたは?」

「ご紹介が遅れました。アデルバート・ヘンリー・リップルコット……候補生であります。中尉殿」

 アデルバートは士官候補生という階級に恥じらいを覚えながら答えた。きっと中尉も今まで丁寧に相手していたことが馬鹿らしくなったはずだ。

 そう思っていたが……

「候補生? それは凄い。きっと王立士官学校には優れた教官がおられるのですね。それともあの手綱捌きは自学したものですか?」

「いえ、母から手ほどきを受けました」

「お母様から? それはますます興味深い」

 アデルバートは重ね重ね礼を言いながら、中尉と別れた。

 中尉の声が背中にかけられる。

「またお会いしましょう、アデルバート」

 谷をするすると降りていく少年を感嘆とともに見送ると中尉は自分の隊に戻っていった。

 すると途中、連隊と並んで、見覚えのある騎兵がこちらに歩いてくるのを見つけた。

「あれは確か総司令官付きの伝令ではなかったかな?」

 中尉が一人ごちながら近づくと、伝令は馬上で敬礼し、中尉に伝言を届けた。

「男爵。メレンディッシュグレーツ閣下がお呼びです。特別な任務について男爵に直々にお話したいと……」

「特別な任務? はて?」

 腑に落ちないものを胸に感じながらもカールノゼ中尉は伝令の後ろについて、愛馬を駆った。


 見事任務を果たし帰還したアデルバートを待っていたのは嬉しい報せだった。

 王家の秘宝を発見回収せよ。

 女王陛下がサマーフォード卿に直接に命じ、サマーフォード卿が直々にメイランド伯爵に依頼し、さらにメイランド伯爵がブラウン大佐に頼んだ特別任務がアデルバートの元に舞い込んだのだ。

「す、すごい!」

 命令書によれば、女王陛下はこの任務の成否に大変興味を持っているらしい。

「僕みたいな士官候補生でもいいのかな?」

 突然の名誉にアデルバートは騙されているのではないかとすら思った。

「連隊の話を聞いた限りじゃ、大佐は坊ちゃんの馬術の腕を買ってくださったそうです」

「ペイトン。一緒に来てくれるかい?」

「ダメと言われてもついて行きますとも」

 アデルバートは終始嬉しそうに秘宝の地図を胸でおさえていた。

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