オレンジウォール号
数百の帆影と煤煙が水平線から姿を現す。
サマーフォード卿が将軍たちを集めて遠征を発表した二ヵ月後、何百隻もの軍艦は眩い陽光を浴びながら、今日中には見えるはずのエルボニン半島を水平線の向こうに求めていた。
航洋装甲艦。外輪帆走フリゲート艦。旧式の戦列艦。最新のスクリュー式スループ艦。兵員輸送船。砲兵を載せた汽船。看護婦を載せた病院船。食糧を運ぶ船。武器弾薬を運ぶ船。馬を運ぶ船。その他生活雑貨を乗せた船。将軍用の瀟洒なヨットも軍艦の後ろで追い風を盗むようにへばりついていた。
各艦の艦尾や檣楼には『王国』『共和国』『連合公国』の国旗がたなびき、この雑多な軍艦集団の中で自らの所属を表明していた。
ざっと見たところでは、蒸気機関を備えた新型艦には『王国』と『共和国』の旗がかかっていることが多く、風を帆に孕む旧式の(しかしロマンたっぷりの)オンボロ艦は『連合公国』に多かった。
この大艦隊こそ、『同盟軍』と称される十万以上の軍兵を運ぶための一大輸送装置であった。彼らは故郷を離れてはや一ヶ月、嵐や波浪に見舞われカモメやイルカに嘲笑われながら、一隻も落伍せずに帝国の辺境までやってきたのだ。
各艦の舷側や上甲板には水兵や陸軍の歩兵たちが集まって、ふざけあっていた。兵隊の中にはこれが生まれて初めての航海であるものも少なくない。
「ひゃあ、きれいな海だ」
「おらぁ、もう船は飽きちまった」
「とものほうを見てみろ! 航跡で海がクリームみたいに真っ白だ」
「おっ、陸が見えてきた」
正午、瑠璃色の空と海に挟まれた水平線が白い砂岸の帯に取って代わられた。
ついに大艦隊はエルボニン半島の南端、予め設定した上陸地点である海岸に到着したのだ。
乗組員たちはみな前甲板に集まり、息を呑んだ。海岸は実に広大な入り江で水深も十分、チョークのように白い砂浜が左右へ無尽蔵に伸びるまさに大軍上陸向けの浜辺だった。これだけ広ければ一度に三十隻の艦船が上陸可能なはずだと艦長たちは胸を撫で下ろした。
そう。一度に上陸できるのは三十隻。
残り数百隻は前の艦が上陸を終えるまで後ろの外海で待ちぼうけである。
王国艦も共和国艦も連合公国艦も我先にと浜辺に殺到した。
以下は各艦の艦長たちが交わした手旗信号を平文化したものである。
「こらっ、やくざもんが! こっちは騎兵を積んでるんだぞ! こっちが先だ!」
「貴様らの中に紳士はおらんのか? 病院船が先に決まっとる!」
「どけよ、畜生! カトリーヌが待ちくたびれてる!」
「艦に女の名前をつけるな! 気持ち悪い!」
「やいこら、遠慮しろ! お前の船なんかベッドの脚しか積んでないんだろ!」
「後生だからこの酢漬けキャベツを降ろさせてくれ! 臭くてたまらん!」
「いかん、汽罐が故障しそうだ! 頼むから先に行かせてくれ!」
「雑魚舟ども、道を明けろ! 我が艦には共和国軍総司令官サンデュブラン元帥閣下が乗船しておられるんだ!」
「ラッパ卒上がりの元帥など恐くないわ! 我が艦にはメレンディッシュグレーツ公爵が乗っておられるんだ!」
「共和国と連合公国のボケナスども! 真っ先に大将降ろして敵の攻撃を受けたら、誰が将軍を守るんだ? 陣地を作ってやるから、工兵を先に降ろさせろ!」
「ぐずぐずするな、閣下は船酔いしておられる!」
「公爵は欠伸をしておられる!」
「もう我慢の限界だ! 海に捨てるぞ、このキャベツ!」
「わあ、罐が火を噴いた!」
怒号と信号、酢漬けキャベツが飛び交う中、三本マストの外輪輸送船『オレンジウォール』号は凪にゆっくり揺られていた。
この船の積荷はメイランド伯爵を師団長とする王国陸軍第三騎兵師団である。
オレンジウォール号の薄暗い厩舎から陽の当たる甲板へ、よろよろと一人の士官が上がってきた。
士官というよりは士官候補生、まだ少年である。軍帽を被ってない小さな頭には短い髪が露わになっていたが、普段は鼈甲のように艶がある栗色髪も今は潮でべたつき力なく垂れている。その子供っぽい顔には赤らんだ頬が相応しいはずだったが、実際は紙のように真っ青、眼の潤み方も弱っていて果々しくない。尋常ではない苦しみが少年の容姿に病んだ印象を与えてしまったらしい。少年はしきりに立て襟と首の間に指を突っ込み、少しでも隙間を開けようと努力していたが、パリッと糊をきかせた襟は少年の喉を解放しようとはしなかった。
彼は甲板をうろつき、荒くれ水兵に突き飛ばされたりしながら、どうにか船の舷側まで辿り着いた。そして船縁を両手で鷲づかみにし、顔を海のほうに突き出すと、
「うぷっ」
と、呻いて今朝無理やり食べたパンと塩漬け肉を吐き出した。
「うえええええっ!」
王国軽騎兵連隊士官候補生アデルバート・ヘンリー・リップルコットは十五年前、王国の片田舎で郷紳の息子として産声をあげた。
そして、それ以来乗り物酔いに悩まされている。
アデルバートの両親が息子の乗り物酔いに気づいたのは、生後一ヶ月と経たない曇りの日だった。リップルコット夫妻は教会へ洗礼を受けさせるべく、そして知り合いに赤ちゃんを自慢すべく、箱馬車で市内へ向かった。途上、夫妻は乳を吸ってだいぶ経っているにもかかわらず息子が変な嗚咽をもらすことに気がついた。気がついたときには遅かった。既にかわいい天使は父親のフロックコートに先ほど吸った母乳を吐きかけていた。その後、天使は馬車を降りるまで泣き止まず、降りたら降りたで吐き出してしまった分の乳をせがんでまたもや大泣きしたのだ。おかげで母親は教会の聖具室を借りて、息子に乳をやらなければならなかった。
「うぐ、気持ち悪い……」
手摺から手が離せないアデルバートはせり上がる吐き気に憔悴し、暖炉にのぼせた猫のようにぐったりしていた。
この努力家の少年は船酔いを治すためにこの一ヶ月、様々な方法を試した。軍医からもらった酔い止めも飲んだし、一番揺れの少ない船体中央の厩舎に寝泊りしたし、年老いた水兵から教えてもらった怪しげなまじないも試した。
しかし、どれも全く効き目が無い。
今のアデルバートにとって、波間の遥か向こうに見える岸辺はまさに万金を積む価値のある救いの神だった。揺れない地面が恋しくて仕方ない。
船酔いの犠牲者に陸地を見せておきながら上陸を許さない。
これは子供とおもちゃを区切るおもちゃ屋のガラスウィンドウと同じくらい残酷だ。
しかし、どうしようもないのだ。『オレンジウォール』号はスチームパイプの故障から速度が落ちてしまい、上陸の順番を最後尾の第八列で待たなければならなかった。
ベタ凪の海面は鏡のように滑らか。エメラルド色に透き通った日陰の海ではスズメダイの群れが船体のフジツボをつついていた。
「うっ、うー、うううッ!」
しかし、アデルバートにはエメラルドも波の多寡も小魚につつかれるフジツボの運命も関係なかった。
「うぷっ、うう……おええっ!」
嗚咽のたびに体がゴムのように芯を失い、足腰が立たなくなる。
少年の背後、船倉に通じる昇降口からに厳つい大男がのっそりと現れた。
逞しい肩の上に乗っかった形のいい赤ら顔。口元からはタワシのように剛い髭が鬱蒼と蓄えられていて、それが肉付きのいい頬を横断し縁なし軍帽から溢れた燃えるような赤毛に繋がっていた。丸太のように太い腕にはライオンと熊が激しくぶつかり合う刺青が彫ってあったが、色の薄さからこの勇ましい刺青は成長期前の少年時代に彫り込んだことが窺えた。
大男は左手に剣吊りベルトを持ち、誰かを探して太い首を左右に動かしていた。男の太い眉が上下に動き、二つの眼が船縁にもたれる少年士官を見つける。
大男は少年に駆け寄ると岩石のような手で少年の震える背を優しくさすりはじめた。
「さあ、坊ちゃん、もう大丈夫ですよ」
アデルバートを坊ちゃんと呼ぶ男の声には優しさが溢れていた。
「あ、ありがとう、ペイトン……うっ、おえっ!」
三十六歳のペイトン・ブレンズギル伍長はその体躯に似つかわしくない愛嬌のある眼でアデルバートをいつも暖かく見守ってきた。昔は子守として、今は従卒として。
アデルバートが泣き声をあげればおしめをかえたし、風邪で辛そうなら酢にバターを溶かしたものを飲ませ布団にくるんだ。アデルバートが士官学校に入学するとペイトンももちろん従卒としてついていき、サーベルを砥ぎ、ピストルの手入れをし、外套にブラシをかけ、ブーツも磨く。学校宿舎では身の回りの世話一切を受け持っていた。その甲斐甲斐しい世話の焼きぶりにアデルバートはよく恥ずかしそうにしながら、こう言った。
「いいよ、ペイトン。自分でやる。僕はもう大人なんだ」
「士官はふつう装具の手入れを従卒にさせるもんです。それに俺から見れば、坊ちゃんはまだまだ坊ちゃんですよ」
「剣吊りベルトは持ってきてくれた?」
さて、ペイトンはいま困った顔でアデルバートの後ろに立っている。アデルバートは口を拭きながら、もう一度たずねた。
「持ってきてくれた?」
「ええ、坊ちゃん。持ってきました。……でも、大丈夫ですか?」
「平気さ。もう気分はよくなったから」
涙目になりながら、アデルバートは強がって、両腕を軽く上げた。ペイトンは剣吊りベルトを飾帯の上から緩めに締めた。
ところが、アデルバートは「あとは自分でやる」といい、ベルトをきっちり締めてしまった。
ペイトンはハラハラした。
「坊ちゃん、それじゃきつすぎます」
「大丈夫だよ。きつく締めたほうが立派に見える」
震え気味の小さな唇と正気を失いかけている視線。
ペイトンはベルトを解こうとした。
「なにも今すぐ装備しなくてもいいんですよ、坊ちゃん。上陸してからにしましょう。船の上じゃベルトがお腹を締めつけて余計気持ち悪いでしょう?」
「大丈夫だって! ほら、この通り!」
アデルバートはさらにぎゅっとベルトを締め、剣の柄に手をかけると甲板の中央へ滑るように歩き始めた。アデルバートは精一杯胸を張った。
「海上といえども、ここは戦地だからね。装備はちゃんと身につけなくちゃ。実戦じゃもっと辛いことが起きるだろうから、船酔いぐらいで音をあげては……いられな……うっ……おえええっ!」
またもや船縁に直行し、苦しそうに吐いた。
既に胃の中は空っぽ。最早吐くものは残っていなかった。
ペイトンはそんなアデルバートを心底可哀想に思い、そっとベルトを外そうとした。するとアデルバートの手がさっと伸び、留め金にかかる。そして、辛いながらも眼だけはしっかりと開け、凛とした声で言うのだった。
「ベルトは外さない。僕は軍人なんだ」
その後も剣吊りベルトはアデルバートの細い喉から呻き声を搾り出したが、アデルバートは必死に耐えた。
ペイトンはその気丈な姿にすっかり心を打たれ、涙を拭った。アデルバートは責任を前にすればたじろぐことを知らない。士官の服装規定で、外出時必ずベルトをつけるべし、と銘記されているがゆえに辛いながらも装を正そうとしている。
「坊ちゃん。手漕ぎボートを降ろしましょう。それで一足先に上陸できます」
接岸競走に負けた船は後方でお預けをくらわなければならない。
だが、どうしても船酔いが我慢できない士官には手漕ぎボートを降ろし、それで砂浜を目指すという裏技も残されている。
ペイトンはアデルバートの返事も聞かず、駆け出した。そして船長に許可を取るべく士官室に降りると、制止する船員を押し飛ばして、船長室のドアをノックした。
「失礼します!」
空気を震わす一喝。ペイトンは握りつぶさんばかりの怪力でドアノブをつかみ、たくましい腕を突き出して両開きドアを威勢よく開けた。
船長室は奥の壁一面がガラス窓の船尾楼で作業机の上には海図とコンパスが転がっていた。船長は机のそばで耳を押さえながら文句を言った。
「でかい声だ! 地面でも割るつもりか?」
「割るつもりはありません。上陸の許可をいただきに来ました!」
「ああ、君も船酔いした口か?」
船長は視線を続き部屋にちらりと流した。
ドアが開きっぱなしの続き部屋には船酔いした騎兵士官たちが呻きながら転がっていた。師団長のメイランド伯爵も長椅子に身を横たえ、船を降りることが出来ないもどかしさを不機嫌な歯軋りで訴えていた。
「この通りさ」船長はガラス窓のほうによりながら首を振った。「こちらの士官諸君もはやいところボートを降ろして欲しいと頼んできた。まだ、こんな感じでぐったりしてる連中が十指に余るほどいるらしい。陸じゃ怖いもの知らずの騎兵隊も海の上じゃ形無しだ。だけど、船酔い患者くん。ここに君の求める救いはありゃしないよ。船医に頼んでもらって、まやかしの酔い止めを処方してもらいたまえ」
ペイトンは船長の冗談めかした口調に眉をひそめた。
「船酔いしているのは自分ではありません」
「船酔いしていないのなら、なぜそう上陸を急ぐ? 急いだところで仕方が無い。この船の前には何百隻という艦船が物資や兵隊を抱えて浮かんでいる。みな自分の積荷を降ろしたくてうずうずしてるのにそれが出来ないのだ。それもこれも陸軍省のマヌケどもが上陸地点にあんな砂浜を選んだからだ。待つしかないよ、騎兵くん。……まあ、そうだなあ、あと一日半くらい待てばこの船にも上陸の順番が回ってくる。一ヶ月も航海してきたんだから、あと一日くらい大した違いじゃない」
冗談じゃない。ペイトンはぶすっとした。船縁で力尽きかけている坊ちゃんのために一刻もはやく手漕ぎボートを確保しないといけないのだ。
「とにかく手漕ぎボートを降ろす許可を下さい!」
大声で詰め寄ってくるペイトンに船長が気押しされながら答えた。
「そう怒鳴らんでくれたまえ、騎兵くん。鼓膜が破れてしまう。……君は私が意地悪して漕艇の使用を許可しないと勘違いしているね? それは違うよ、騎兵くん。先ほどメイランド伯爵にもお話したが、揚艇桿が壊れているから漕艇は降ろしたくても降ろせないのだ」
揚艇桿とは手漕ぎボートを舷側にぶら下げている装置である。二本の太い木材が舷側から海のほうへ突き出していて、揚艇索でボートを吊り下げているのだが……
「その索を送り出す滑車が壊れているから、ボートを水面に降ろすことができないのだ」
「そんなの簡単であります」
ペイトンはけろりと言った。
「滑車を壊してしまえば、ボートは水面に落ちるじゃありませんか」
船長は肩をすくめながら、息を吐いた。
「リンゴを木から揺り落とすのとはワケが違う。水面に叩きつけられれば落下の衝撃でボートが壊れてしまうよ」
「なら、ボートをぶら下げている索を二十人ばかしの水夫たちでつかんでおけば問題はありません。索をしっかり握ってゆるゆる出していけば、ボートもゆるゆる着水しますよ」
船長は物を知らない人間にぶつかったとき、よくやるように帽子を取って頭を掻いた。
「乗組員は忙しいから、手の空いているものが一人もいないのだよ」
するとペイトンはますますけろりと答えた。
「じゃあ、話はさらに簡単であります」
「ほう?」
「自分が一人で索をつかみますから、滑車を壊してください」
船長は鉄砲に驚くウサギのようにキョトンとし、ペイトンを見つめた。
そして小首をかしげ、これを冗談ととっていいものかどうかを真剣に思案しながら探るようにたずねた。
「手漕ぎボートは二十人乗りなんだよ?」
「はい」
「重さも一トンは超えるのだよ?」
「はい」
「その一トンの重さが君の両腕にかかってくるんだよ」
「船長。自分にゃ学はありませんが、重さの単位くらいは分かります。一トンは一ポンドじゃなくて一トンですし、二十人乗りのボートは洗面器とは違います」
ペイトンの返答に船長は馬鹿にしたようにくっく、と小さく笑った。
「なにが可笑しいのですか?」
ペイトンは船長の真剣みのなさがますます面白くなかった。
「だって、君、矛盾してるじゃないか。君はつい今さっき重さ一トンの漕艇を一人で降ろすと私に言ったのだよ?」
「ええ」
当たり前のように首肯するペイトンに船長はまた首をかしげた。何か言いかけたが言葉を引っ込め、まじまじとペイトンを見つめてたずねた。
「一トンのボートを一人で支えられるのかね?」
「支えられます」
ペイトンはさも当たり前のように答えた。
そのとき、続き部屋で船酔い士官が喚き始めたので、船長は開けっ放しになっていたドアに手をかけて、そっと閉じた。
船長はペイトンから離れ、パイプ棚から海泡石のパイプを取り出すと煙草を火口に突っ込んで考え込んだ。この男は正気なのかな? 慣れない航海で頭がおかしくなったのじゃないかな? 船長は荒天の前兆を探るように注意深く、ペイトンを観察してみた。
ペイトンの両目は利口そうに瞬いていて、この部屋で交わした会話の意味をしっかり理解していることは間違いないようだ。そして、その両肩。『オレンジウォール』号の錨よりも錨型の頼もしい肩からは、これまた『オレンジウォール』号の錨鎖よりも逞しい二本の腕が生えている。
船長は若いころの航海を思い出した。『オレンジウォール』号が激しい潮流で湾から吐き出されそうになったとき、海底をしっかりつかんで離さなかったあの頑丈な錨たち。もし、あのとき錨が外れていたら、『オレンジウォール』は岩礁に叩きつけられて粉々になり、自分は海の藻屑になっていただろう。
「ふむ」
船長は少し面白そうにうなずくと航海士を呼び、揚艇桿の滑車を壊す許可を与えた。
ペイトンはそれを聞くと、船長に礼を言い、腕をまくって部屋を出た。
どうやらこの男、本気で漕艇を降ろすつもりらしい。船長も興味を持ち、甲板に上がった。
甲板では既に準備が出来ていた。麦藁帽を被った水夫が一人ずつ、トンカチを持って揚艇桿に跨り、船長の合図で滑車を叩き壊すことになっていた。二つの巻き上げ機から索が引き出され、それをペイトンが一本ずつ左右に握っている。索の先には二十人乗りの手漕ぎボートがぶら下がっていた。
このちょっとした曲芸に水夫も船に酔っていない騎兵も、司厨室のコックまで見物にやってきて囃し立てた。
「あの大男、一人でカッターを降ろす気かい?」
「まさか! 腕がすっぽ抜けちゃうぜ」
「でも、見ろよ。ごつい男だ。本当にやっちまうかもしれんぜ」
「いや、できんよ」
「できるね」
「できない!」
「できる!」
こうなれば賭けが始まる。
航海士が胴元となり、会計係が台帳をつけると、水夫たちはコルクの帽子に金と賭け札を入れ始めた。
オッズは五対二。できないのほうが優勢だった。
ペイトンはできるに賭けた一団に笑いかけた。
「たっぷり儲けさせてやるよ」
ペイトンは首を横に向けた。船縁に寄りかかり、意識を失いかけたアデルバートがなんとか身を起こし、姿勢を正そうとしているのだ。
「もうすぐですよ、坊ちゃん」
口の中で優しくつぶやくと、ペイトンは索を握りなおし、船長に叫んだ。
「やってくれ!」
船長が手を振り、揚艇桿の水夫たちに合図を送った。
水夫たちは同時にトンカチを振り下ろし、滑車を叩き壊した。
二つに割れた滑車の止め具が海へ落ちる。
漕艇も自然落下し、索が悲鳴に似た摩擦音を立てて舷側から飛び出ていく。
索を握るペイトンもそのまま船縁のほうへすっ飛んだ。
ペイトンが船縁に激突し骨を折った。その場にいた誰もがそう思って目を覆った。
ところが鳴ったのはビンッという索の緊張音。
目を開けるとみな腰をぬかしそうになった。ペイトンは船縁一歩手前で踏ん張って、漕艇を宙吊りにしたのだ。
「ひゃあ!」
「こらえちまった!」
観客の間にどよめきが広がる。
ペイトンの赤ら顔は涼しいもので、その万力のような両手から索がゆっくりと送り出されている。それにあわせて重さ一トンを超える漕艇もゆっくり降ろされる。それどころかペイトンは体をそのままに首だけ突き出して、ボートの底と海面までの距離を測ったりもした。
固唾を飲んで見守る観客を他所にペイトンは索を送り続ける。そしてついにボートはその底を瑠璃色の海に浸したのだ。
「すげえ。大した力持ちだよ!」
「本当に降ろしちまうなんてな!」
甲板中から湧き上がる拍手喝采にペイトンは軍帽を取って一礼すると、足元に転がしておいた縄梯子をさっと投げて舷側から垂らし、アデルバートを大きな背中に背負った。
「さあ、行きましょう。坊ちゃん」
ペイトンは嬉しそうに声をかけ、縄梯子を降りていった。
「ありがとう、ペイトン。ほんとに……ごめん」
「なあに、このくらいお安い御用ですよ。さ、しっかりつかまって」
ペイトンはボートに降りると一番揺れの少ない中央にアデルバートを寝かせて、自分は背丈よりも大きなオールを手に取って座り込んだ。
「おおーい!」頭上の甲板から船長が顔を出し、ペイトンに声をかけた。「他の船酔いくんたちも乗せていってくれ!」
「いいとも、下に降ろしてくれ!」
こうして乗り込んだ騎兵士官の数は不機嫌なメイランド伯爵以下二十余名。
船長は顔をしかめた。ボートは船酔い患者で定員オーバーになってしまった。あれではボートをさばき切れない。最低でも八人の漕ぎ手がいなければボートは動けないはずだ。
するとペイトンは船長の気兼ねを吹き飛ばす気さくさで答えた。
「一人で漕ぐから大丈夫だ」
この男ならやりかねんな。船長は不思議と納得した。
ペイトンがオールを海面に深く差し込み腰を入れて水を掻くと、騎兵士官で雪隠詰めのボートはすうっと走り出し、『オレンジウォール』を離れていった。
船長は遠ざかるボートへ高らかに叫んだ。
「頑張ってな、騎兵くん!」
「ありがとう、船長!」
ペイトンもオールを水面から出して、ぐるぐる回しながら目いっぱい大声で叫んだ。
船長は汽笛で返礼した。
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