狂気というものについて

 実につまらない。カミサマも所詮人の子だった。たとえ身体の半分が機械になろうとも。

 がっかりしたのも最初だけで、嫉妬したのも最初だけだった。一週間がすぎる頃には、もう恐怖という感情しかない。カミサマは何と付き合っているんだろうか、アレはなんなんだろうか。

「こっわ」

 洩れた言葉は誰にも拾われることはなかった。うっかりうっかり。いやでも仕方ないと思う。あれが一瞬でも人に見えるんだとしたら、私の目玉は腐り落ちてしまっている。カミサマの目玉は機械で出来ているはずなんだけど、誤作動でも起きてるのか?それもそれで怖いけど。

 目の前のゾンビをバールでぐちゃぐちゃにしている女子高生もどきを見る。原型を失ってもなおバールでぶん殴り続けていた、それは。

 決して、彼女(彼女、なのかなんなのか形容しがたいがとりあえず便宜上)が、無感情にひたすらにゾンビを非効率に倒しているのが問題なわけではないのだ。問題なのは、彼女自身にある。見た目がもうそれなのに、誰一人として彼女を問題視しない。

 カミサマなんて、ぼうっと熱に浮かされているような顔をして、それを見つめているのだ。その光景は、実に狂気で満ち溢れている。


「……」


 彼女はバールを持ったまま、ゆっくりと私の方を向いて、にこり、と笑いかけた。

 肌が粟立つ。


「ねえ、小鳥遊さん。」


 私の名前を彼女が呼ぶ。それだけで、胃の中のものすべてが吐き出されるような嫌悪感があった。それに、目の前のものに私の存在が知られている。危険だと、頭の中で警報が打ち鳴らされていた。本能に従うように、私はその場から逃げるようにして走り出していた。


「小鳥遊さん、まって」


 鈴が鳴るような声がしている。






 気づけば屋上に来ていた。アレから逃げられたようだった。(見逃されただけだったかもしれない)

 彼女が笑ったのを初めて見たかも。かわいいとも感じなくて、恐ろしいほどの恐怖を感じた。どうしたらアレから逃げ切れるだろう。なんだか死んでも追いかけられるような、どうしようもないところまで連れて行かれるような気がするのだ。


「ふぅ………」


 息を吐いて、ずるずるとその場に崩れ落ちていく。上を見上げればいつもと、異変の起こる前と変わらないどこまでも続く青い空が見えた。これだけはいつもと変わらなくて、私を安心させる。

 心臓の辺りに手をやると、まだ早い鼓動が伝わってくるのだ。ここが安全な場所だとは限らないから、仕方ないことではあるんだけど。

 人が少なくなってからというもの、本当に安全な場所などどこにもなくなってしまった。ゾンビはどこにあふれ出るかわからないからだ。生前の行動を繰り返すだけじゃない、どんなメカニズムで動いているか、専門家ですらわかっていない。だから、人がいないような場所でも安心することはできない、あふれ出す可能性はゼロではないのだ。そうなってくるとどこにいたって、安心できる場所なんてなくなってしまう。目に見える範囲じゃないところにいるかもしれない。そうっと後ろからやってきて、私を突き落とすかもしれないのだ。知性はおそらく欠如しているだろうけど、それだって、私たちが思っているだけでそうじゃないかもしれない。誰もわかりやしないのだ。


「ねえ。」


 ドン、と突き落とされた気分だった。後ろから鈴を鳴らすような声がしている。この声は、彼女だ。


「小鳥遊さん」


 ゆっくりと立ち上がり、後ろを振り返った。

 先程のように、にこりと笑う彼女が見えた、目には色がない。一歩、一歩、彼女が近づいてくる。後ろに下がろうにも、私は柵に寄りかかっている状況だ。もう下がれない、どこにも行けやしない。


「どうするの?飛ぶの?」


 飛んでどうするというのだろう。飛んでも、人間では地に落ちるしかないのに。飛べるわけがないのだ。


「飛ばないの。小鳥遊さん」


 笑顔が、ゆがみ始めている。それなのに、声のトーンはいつだって一定だ。一定のトーンで私に問いかけている。飛ばないの、と。

 こんなときに限って、彼女のストーカーと化していたカミサマはいないし、人だって、ゾンビだって、何もいない。まるで彼女と私だけが世界に取り残されたみたいな空間だ。

 自然と視線は彼女から外されて、地面を見つめ出す。後ろにも前にも行けない状況で、彼女の手のひらの上なんだと思うと、彼女を直視していたくなかった。どうしようもない状況での、せめてもの抵抗だった。


「小鳥遊さん」


 甘い香りが漂ってきそうなあまいあまい声が、彼女から漏れ出している。


「飛ばないのなら、こっちへおいで」


 ハッとして彼女を見る。ゆがみにゆがんだ笑みはもう、人じゃなかった。


「どこにも行けないのならおいでよ」


 プチッと何かが切れる音がした。


「行き先は私が決める!私は、アンタと一緒には行かない!」


 足は震えていた。それでもここにいるのは、彼女と行かなきゃいけないのなら、お断りだったのだ。屋上の柵に足を引っかけて、思い切り足に力を込めて、飛ぶ。


「お断りよ!」


 そう、叫びながら、やっぱり地へと落ちていく。落ちる瞬間はすべてがスローモーションで見えると聞いたけど、本当だなあとのんきなことを思いながら、地面へと落下していった。


「小鳥遊さん。」


 その後のことは覚えていない。

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