第6話 放課後の教室で
初日の授業が終了した。
四月故にまだ日はそこそこ高く、逢魔が時とよぶにはまだ早い、そんな空。
そんな空を、彼女はぼうっと見つめていた。
五時間目の授業と帰りのホームルームが始まるまでの時間。僕は立ち上がって、二つ後ろの彼女の席まで近寄ってみた。
教室中はざわついている。
「あの、夢野さん」
彼女は空を眺めているままだ。
「夢野、さん?」
反応はひとつもない。
「夢野、矢森が呼んでるぞ」
後ろを振り返った矢沢が彼女にそう声をかけてくれた。彼の声はかなり野太く、程よい低音が静かに響いた感じがした。
夢野望は、ようやく反応を見せてくれた。
「え、は、はい」
意識を完全に遥か彼方に飛ばしていたのか、夢野さんは不意をつかれたように動揺していた。
「あ、ごめん夢野さん。いきなり話しかけて」
「い、いえ。えっと、なんでしょうか……」
「その……昨日のことで……あれは、なんというか、本心ではなくて、ぼ、僕は……」
ダメだ、言葉がどもる。こういうところがてんでダメなのだ、僕は。何か意識して、重要なことを話そうとすると変に緊張して、うまく意思を伝えられない。
「どうした、なんか夢野とあったのか、矢森」
矢沢が話に入ってきた。
「いや、そのちょっと……」
「たいしたことではないんですよ」
夢野さんが声を少しばかり大きくする。
「私が無理やり矢森さんに付きまとってしまったんです。だから、矢森さんが気にすることはありませんよ」
ち、違うよ、それは。僕はそんなつもりじゃなかったんだ。
そう言おうとしても言葉がつっかえて出てこない。そして僕が何か言う前に、矢沢が口を開いた。
「お前らって仲が良かったんだな」
「え」
二人の声が重なる。僕と夢野さんの反応するタイミングが同じだった。
「いつから知りあいだったんだ? 話聞いてる限りだと少なくとも昨日からみたいだけど、そんな素振り学校でなかったから、気が付かなかったぜ」
ポジティブなオーラが溢れる顔色でそんなことを訊いてくる。屈託のない笑顔だ。柔道をやっていると皆こんな感じになるのだろうか。因みにチャリダーはこうはならないと思う。なんせ自転車をかつてこぎまくっていた自分がそうでないから。と、どうでもいいことが何故か頭を支配し巡り流れる。
ふと、夢野さんと目が合った。彼女は僕に何か確認をするような、許可を求めるような目つきであった。最初はその意味がわからなかったけど、なんとなく察することができた瞬間が訪れ、頭が一時だけ冴えたような気がした。僕はとりあえず頷いて、許可のサインを送った。
「えっと、ですね……学校始まる前に、古本屋で」
やっぱり、そうだった。夢野さんは僕が完全に自分を鬱陶しく思っていると思っていたが故に、僕に話していいかどうか目で訊ねたのだ。これ以上他人に話していいのか、他人に色々と教えてしまえば、人間関係は他者によって形造られてしまう。本人たちの意思関係なしに、認識されてしまう。そうなると、ややこしいことになって息苦しくなる。彼女はそれを恐れたのだ。
でも、実際僕は夢野さんと仲良くなりたいと思っている。だから、そんな配慮はいらなかった。彼女自身が勘違いをしてしまっている。しかし、それもすべては昨日の僕の責任だ。だから、別に気にしていないし、むしろ仲良くなりたいと、この無言のやり取りの中で気付いてくれたら嬉しい。
おこがましいだろうか。
「そうなのか~古本屋でか。夢野、いつも本読んでるもんな」
「はいっ、本は大好きです!」
強く夢野さんは頷いた。
「矢森も好きなのか、本?」
話の流れとしてはごく自然で、当然の質問。けど、僕の体は一瞬強張って、ピリッと緊張が走った。
「いや、僕は……」
「矢森さんは本を売りにきてたんですよ」
いくらか張り上げた声でそう言った。
「もう読み飽きたからって、そうですよね?」
夢野さんの柔らかな表情の奥に、一種の焦りが潜んでいるように見えた。きっとそれは話を合わせてくれるかどうかという、小さな不安。僕はとりあえず、こくんと頷いておくことが最適解であることを悟った。
「そうなんだよ、もういらないかなって思って」
「ねえ、あんたたち」
その鋭い声は、僕らの間に容易く入り込んだ。
「先生来てんだけど?」
言葉を放ったのは蘭堂だった。前方を確認すると、確かに担任が教卓の前に立ち、僕ら三人を訝しげに見つめていた。
「す、すみません」
「すんません」
慌てて僕は自分の席に戻る。話に夢中になってしまっていた。
矢沢は謝りつつ、「いっけね」と口からもらしながら、明るい表情ではあった。けど、夢野さんは非常に申し訳ないといった顔になり、うつ向くように縮こまった。
――くすくす
微かな笑いが聞こえる。
――やばいよね
――完全に転校生もあっち側だね
次いでそんなひそひそ話が耳に入ってくる。
「はい、日直頼みます」
担任の指示を受けて、今日の日直が号令をかけ、クラスの生徒全員が立ち上がる。
窓際の奴らは問題アリ。
そう、僕らは認識されているような気がした。
帰りのホームルームが終わった後は、その日の掃除当番が教室を掃除するため、それ以外の生徒は早々に捌けなければならない。
部活のある生徒はそのままそれぞれの活動場所へと散っていく。ザ・帰宅部はまっすぐ帰宅。掃除が終わった後の教室は午後六時まで開放されるが、そこで宿題や勉強をやろうなんて真面目な生徒はごく僅かだ。
だから、夢野さんがずっと廊下で掃除が終わるのを待っているのを見て、彼女はごく僅かの生徒なのかと思った。そういえば、朝もやたらノートにペンを走らせていた。
「夢野さん、残るの?」
壁に寄りかかり、文庫本を開いている彼女に訊ねた。
「はい。やっぱり、家だと思ったほど集中できなかったので」
偉いなあ。テスト期間でもない限り、僕は勉強する気なんて起きない。
他のクラスメートも、その大半がこの場にはもういない。蘭堂も彼氏と一緒にさっさと教室を後にしていた。
僕や夢野さんは異物として見られているけど、それを原因に苛められたりからかわれたりはされない、そういうポジションにどうやら落ち着いたみたいだ。
「わかるよ、僕も家ではからっきしだ」
「そうなんですよ、ご飯を食べちゃうともうダメで。集中力が一切なくなります」
「ああ。確かに満腹になるとね」
「はい。ぽわわわ~んってなります」
なんだその表現。
夢野は、なんというか天然なんだろうなと思う。その天然さ故にクラスで浮いているんだろうけど、そこが彼女の魅力ではないかと、今日を通して思った。
というか、素直に可愛い。
「しかし驚きました」
彼女は本を閉じて呟いた。
「矢森さんも書いてるんですね」
「……?」
反応に困った。
どういう意味だ……?
「あ、掃除終わったみたいです」
教室のドアに目を向けると、掃除を終えた生徒がぞろぞろと出てきた。その内の一人の女子生徒が、廊下の壁際に佇む僕らを見て近寄ってきた。
「あなたたち残るの?」
頷いておく。
「じゃあ、はい教室の鍵。あとよろしくね」
そう言い残して彼女も続いて去っていった。
「……矢森さんも教室で書くんですか?」
「え、まあ、うん。英語の宿題やろうかなって」
「ああ、書くためではないんですね」
確かに勉強も大切ですしね。そう彼女は続けたがはっきりいって、なんのことかさっぱりだった。
とりあえずは自分の席にそれぞれついた。
「……」
鞄を漁り、中から文法の問題集とノートを取り出す。
「……」
シャーペンを握り、ページを開いて問題を解き始めた。
しばらく経った。五問ほど解き終わり一旦背中を伸ばす。
「うーん」
宿題や勉強をしていると、こうやって伸びをしたくなる。ふう、と息を吐いて、先程から気になっていた音の正体を確かめるために後ろを振り返った。
夢野さんが机の上にノートパソコンを開いていた。音の正体はタイプしている音だった。
カタカタ……
彼女は黙々とキーボードを叩いている。
カタカタ……
パソコンをは必要とする宿題なんて出ていたっけ?
気になって席を立ち、失礼とも思ったが近づいてパソコンの画面を確認した。
どうやら開いているのはWordだ。そして、そこに打ち込んでいるのは文章だった。かぎかっこで囲んである言葉もある。
「……」
もしかして、これって……
「!」
はっとしたかのように夢野がこちらを振り返った。心底驚いた顔をしている。
「い、何時の間に後ろに?」
「ご、ごめん」
慌てて画面を見ないように窓の方に目線を移した。
「いや、今さらというか……いいですよ、もう。見られたものは仕方ありません」
「すみません……」
覗き見は、やっぱりいけないよなあ。今になって反省の念が沸き起こった。
「これはまだ下書きの下書きで……構成を練りつつ文章に起こしてるんです」
「あの、夢野さん。それってさ……」
「はい、小説です」
僕は画面の方に向き直り、もう一度彼女が打ち込む文章に目を通した。
単に本の虫ってだけではなくて、自ら作品も書いているのか……
「へ、へえ凄いね。知らなかった」
「あれ、古本屋で初めて会った時に私言いませんでしたっけ?」
「あ、そうだったかな」
「はい……あの、矢森さん」
夢野さんは僕の方を向いて、まっすぐ見つめてきた。
「私、友達になっていいんですか?」
静かな教室の中で、彼女の声は透き通るように響いた。
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