第4話 僕の話(後編)

 母が家に帰らない日が多くなっていった。


 あの大山登山の夜、あれ以来父さんと母の仲は一層険悪になった。父さんも母も、僕にしか会話を求めないし、必要最低限、どうしても伝達しあいざるを得ない状況では、本当に一言二言の言葉しか交わしていなかった。

 僕は相変わらず読書を続けていたし、登山は――あの一度っきりになってしまったけど、自転車に乗ってどこか遠い街まで出掛ける、ということを休日にし始めた。

 大山を登って、感じたあの感動。実際に自分の目で見てみないとわからない、響いてこないものがあるということを知った。

 中学生になると、書店で東京や神奈川県の地図を買いそれを眺めてコースを考え、自転車で遠出をしていくということもし始めた。

 親から貰った小遣いをうまいこと使っていきながら、僕は自分だけの心の蓄えを貯めていった。

 部活には入らず、自分だけの時間を多く作った。時には仮病を使って学校を休んだこともある。両親は僕が中学生になってから必要以上に家にいることは少なくなったし、母は仕事に一層のめり込んで、ほとんど家族のことなんて省みていなかった。

 だから、親が出かけた後に学校に電話をかけることができた。

 そうして丸々空いた一日を、僕は自転車旅や映画を観ることに費やした。ちょっとした合間は読書で埋めた。ひたすら僕は自分で考えて行動するよう努めた。母からも父からも色々なことを勧められてきた。それらを僕は全て受け入れてきた。もちろん、それが苦ではなくむしろ楽しいと思えたから続けていたわけだけど、それだけじゃだめだと思った。自分で今一度、振り返らなくちゃいけない。自分自身を。

 そうして『自分』が確固たるものを見つけられたら、もう母と父さんが喧嘩をする必要もなくなる。

 そう思った。





 まあ、そんな生活を中学生の頃からし始めたおかげで、友達はいなかった。

 会話くらいはクラスメートとしたけど、正直同級生と親しくなれる気はしなかった。みんな教室で話すことは人間関係や話題のドラマ、芸人、バラエティー番組のことばかり。ああ、きっと何も考えないで生きているんだろうな。そんな、他人を見下すような感情が自分の中に芽生えていた。今思えばかなり嫌味な奴だった。自分はこいつらとは違う。常にそう感じていて、周りが見えていなかった。

 だから忘れていた。自分が今必死に読書や見知らぬ街に出かけることに取り組んでいる目的を。

 その努力は、すでにこの時から無駄に終わっていたんだ。




 月日は流れていった。僕は近くの公立の高校を受験し、そこに受かった。高校生になって一ヶ月ほどが過ぎた、春の夜のことだった。

「お帰り、父さん」

 リビングのテーブルで読書をしていると玄関からドアが開く音が聞こえた。間もなくして父さんがリビングに入ってきた。時刻は夜の十時に差し掛かっていた。

「ただいま」

 父さんは通勤鞄を重たそうにイスの上に置いた。

「飯は食ったか?」

「うん、今日はカレーつくったよ」

「そうか」

「母さん今日も残業だってさ」

「……そうか」

「母さん、凄い仕事に熱中してるよね、今。昔もそうだったけど、それ以上に」

「まあ、あいつはそうだよ。元から、自分の好きなことしか考えてないよ……」

 父さんはやけに沈んだ顔で、どこか遠いところを見つめているようだった。

「……どうしたの?」

「え、ああ、いや。うん、俺もカレー食うわ」

 父さんは重い足どりでキッチンの方に向かった。

 そして、数秒後。何かがどさりと崩れるような音ともに、ガッシャーン! と床に鍋が落下した激しい音が部屋に響いた。

「と、父さんっ⁉」

 僕はすぐに立ち上がってキッチンの方に駆け寄った。すると台所の前で、鍋からこぼれたカレーの半分を体に被り、体が小刻みに震えている父さんが横たわっていた。

「父さん! 父さん!」

 慌ててしまった僕はとっさに父さんの体を揺すった。反応はなかった。そうだ、こんなことをしている場合じゃない。一瞬だけ冷静さを取り戻したその瞬間にすぐさま父さんの元から一旦離れて、僕は受話器を手に取り、番号をかけ始めた。

「すみません、父さんが倒れて!」

 約二十分後、サイレンの音が近づき、救命士が家に入ってきて、父さんは担架に乗せられ運ばれていった。



 病院に到着してすぐに手術室に父さんは運ばれた。

 父さんが緊急手術を受けている間、僕はずっとある人に電話をかけ続けていた。

 携帯電話を強く握りしめる。手の平に汗が滲み、永遠に鳴り続けるのかと思われるほど、呼び出し音だけが耳に伝わる。

『プッ』

「もしもし、母さん⁉ ――」

『おかけになった電話番号は、只今お相手が電話にでることができません。ピーッと鳴りましたら、メッセージをどうぞ』

 これで四度目だ。三度まではここで一旦電話を切って、暫くしてからまたかけ直していたけど、もう相手が電話にでることはないだろう。

「……母さん、父さんが倒れた。お願いだから、早く気づいて」

 そう言い残し、通話終了のボタンを押した。携帯電話を閉じ、ズボンのポケットにしまうと、近くにあった長椅子に腰かけた。

「……父さん」

 この時、人生で初めて神の存在を信じ、祈ったかもしれない。両手を組んで、強く目を閉じた。

 何時間経ったのだろうか。まるで永久的に続く迷路を抜けられたように、それは感じられた。

 手術中のランプの光が消え、扉が開くと医者が中から出てきた。

 医者が僕を発見し、こちらに歩み寄ってきた。僕はふらりと立ち上がり、医者の発する言葉を待った。

「大丈夫。手術は成功したよ」

 その一言で、僕は膝から崩れ落ちた。医者が慌てて僕を支えてくれた。とてつもない安堵感が、体中に染み渡っていった。

 翌日になって父さんの病名と詳しい症状の内容がわかった。脳梗塞で、後一歩遅かったら取り返しのつかないことになっていたらしい。

 そして午後になってようやく、電話には出なかった母が病室に姿を現した。

 母は昨晩、会社にいたのではなかった。

 男の家で、寝ていたらしい。





 それが明らかになったのは、父さんが退院してから二日経ったその晩。母の口から直接伝えられた。

「ごめんなさい」

 母は泣きながら父さんに謝っていた。自分の部屋で宿題をしていたら突然母のすすり泣く声が聞こえてきたから何事かと思って部屋の扉を開けると、リビングのテーブルを挟んで向かい合っている両親がそこにいた。

「どういう、こと……?」

 父さんが、低く疑問の言葉を口に出した。

「ごめ、んなさ、い……」

「だから理由を話せよ!」

 父さんが怒鳴った。僕ははっとして父さんに近寄った。まだ退院して間もないのに脳を興奮させてしまうようなことは危険だと考えたからだ。

 けど、僕の存在なんかお構い無しに父さんは怒るのをやめなかった。

「俺が病院にいたあの晩に、なんで担当作家の家にいたんだ⁉」

 父さんの言葉を受けて、僕は固まった。

「え……」

 思わず声がこぼれた。そして、両親とも僕の存在に気づいた。

「た、鷹紘……」

 母が僕を見た。

 何を、何を言ってるんだよ、父さん。

 そ、そんなことって、あるわけ、ないじゃ、ないか。

 母さんは、仕事に熱中していて、あの時だって、それが原因で、悪気はなくて。

 そう、だよね、母さん?

 しかし、悪気はなかったかもしれないが、それは最悪な事実だった。

 母は、とっくのとうに家族を捨てていたのだ。

「……もう、一緒にはいられないよ」

 厳かに、父さんの言葉は放たれた。

 席を立った父さんは家を出ていこうとした。

「父さん」

「ちょっと頭冷やしてくるだけだから、心配するな」

 そう言い残して玄関に向かっていってしまった。程なくして、扉を開けて閉める音がリビングに伝わった。

 僕と母が、その場に残された。

「……」

 じっと母を見つめてみた。母は本当に申し訳なさそうに、僕の顔を見ようとはしなかった。ひたすら俯いて、沈黙を続けていた。

「……ねえ、母さん」

 わざと、静寂を破った。

「な、何?」

「母さんは、仕事熱心な人だけなんだって、思ってたんだ」

 すると母は突然泣き崩れ、椅子から滑るように落ちた。そして僕の膝にしがみついた。

「ごめんなさい……ごめんなさい!」

 悲痛な叫びが部屋に響き渡る。耳が痛くなった。あんたの懺悔なんか、聴きたくない。

「ごめんなさい、鷹紘、本当に……ごめんなさい!」

「……うるせー、」

「え?」

「うるせーつってんだよ!」

 母の手を引き剥がし、両手で強く肩を押して突き放した。相手は驚いたような表情を顔にうかべ、背中を椅子にぶつけた。

「た、鷹紘……?」

 痛みに堪えつつも、母は僕の目を見つめようとした。それすらも、許したくなかった。

「あんたを、あんたを信じた僕が馬鹿だったよ!」

 もう母の顔なんか一秒たりとも見たくなくて、急いで自分の部屋に戻った。

 扉を勢いよく閉めて、大きく息を吐いた。そして、部屋を見渡した。

 僕の部屋の右側に、本棚がある。棚全部の段に本が隙間なく並べられており、その前には棚に入りきらなくなっている本が平積みでいくつもの塔になっていた。

 これらは、母に勧められて与えられたものや、最近になって自分で買ったものだ。読書はもちろん好きだった。しかしそれ以上に、知識で自分を埋めたくて、そこから自分を見つけたくて、そうすれば親が自分を原因にして割れることもない、そういう思いの方が強かった。

 でも、意味なかったんだ、全部。いくら自分が努力しても、報われる未来なんて最初からなかったんだ。だって、母は僕を関係なしに家族をそもそも見ていなかったんだから。

 意味、なかったんだよ、全て。

 改めて本棚に目を向ける。すると、ある感情が沸き起こってきた。

「……ざけんなよ」

 始まりは、小さな呟きだった。

 それがだんだんと自分の中で大きく膨らんでいって。

「ざっけんなよ!」

 憎しみになった。

 本棚の本を全て引きずり出した。平積みの塔も崩した。ある一冊を手に取った。

 母が最初にくれた、児童文学だった。

「くそーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ‼‼」

 開いてページを破った。

 本が憎かった。こんなもの消えてしまえと、本気で思った。


 その日以来、僕は本を開くことをしなかった。

 物語が、本が嫌いになった。




 半年と一月ほど経った頃に、父さんの転勤が決まった。

 それを機に、僕と父さんは東京を離れることを決めた。

 東京には母がいる。だったら、そこから脱け出そう。忌々しい過去から逃れよう。

 父さんの転勤先は、あの大山がある県だった。

「ほら、見えるだろ、大山」

 西の方角に山々の連なりが望め、その中に大山が佇んでいた。天気が良ければ富士山も姿を拝むことが出来る、そんな景色が見える地域だ。

 父さんと二人で、黄昏時の山々を眺めた。





 この地域に引っ越せて、本当に良かったと思う。よくも悪くも、僕は変われた。

 色んな仲間と出会えたから。そしてなによりも彼女に会えたことが、一番の奇跡だ。


 夢野望。彼女の創る世界は、ただひたすら光に満ちていた。


















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