第3話 僕の話(前編)

「古本屋の人ですよね!」


 彼女――夢野さんが僕を呼びかけた。

 僕はこの後どんなリアクションを示しただろうか。「はい、そうです」と答えたか。あるいはとりあえず気づかなかったフリをして場の流れを一旦保留させたか。そのどちらでもない。僕は。

 彼女の横を通り過ぎていったのだ。それはもう、完全に無視したということになる。

「あ、ちょっと!」

 何故こんな行動を選択してしまったのだろう。いくら彼女と話しづらい気がしたからといって、もっとマシな反応の仕方があったはずだ。

 けど、元々不器用だった僕は、咄嗟のことに対して最適解を見出だせず、最悪な結果を生み出してしまった。

 あからさまに返事をしないなんて、どうかしている。

 しかし、階段を下りている最中、その衝撃は突然背中にぶち当たった。

「待ってくださいよ!」

 後ろに引っ張られたような気がした。振り返ると、彼女が僕の制服の裾を掴み、ひき止めていたのだ。

「な、何ですか?」

「何ですかじゃないです! さっき無視しましたよね!」

 やはり、相手にはそう感じられていたか。まあ、それはそうだろう。

「あ、気づいてたんですね」

 また僕は馬鹿なことをいう。さっきから自ら墓穴を掘っている。どうかしているぞ、僕。

「確信犯だったんですね! ねえ、なんで私を避けたんですか? 私何かしましたか?」

「いや、あなたが何かしたわけじゃないですけど……」

「では理由は?」

「それは……その」

 関わらない方がいい。そうクラスメートに忠告された。それが気になってしまった。

 こんな理由、話せるわけがなかった。

「えっと……その……」

 代わりの言葉を探そうにも、頭から出てこない。全ては馬鹿な行動を選択した自分の責任であり、その挽回をしなければいけないのに……そうして焦った僕は、また愚かな選択をしてしまったのだ。

「僕と、あなたは……合わないと思う」

 本当に、馬鹿だ。

「はい?」

「親しくは、なれないよきっと」

 思い返すだけでも、深いため息をつきたくなる。

 しかし、こんなことがあったからこその『今』があるのかもしれないけど。





 正直、学校に行く気はしなかった。

 遅刻になるぎりぎりの時間まで家を出ず、粘ってみた。けど、学校に行かないというのは父さんが心配する。それに、苛められているわけでもないのに、ちょっとした人間関係の拗れで休むというのもなあ……

 というわけで、僕は渋々鞄を持って玄関のドアを開けた。

 電車に乗っているなかで、昨日のことを思い出していた。


『あなたは本が好きなんでしょ? 僕は本が嫌いなんだ』


 ああ、もう――


『だから、絶対合わない。友達にはなれないんだよ』


 うわー! ほんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっと何やってんだ僕はー!


 と、ふと周りからの視線に気づいた。はっとしてあたりを見回すと両隣の吊り革につかまっている通勤中であろう女性と他校の同年代である男子が、僕のことを怪訝な目で見ていたようだった(僕と目が合うと相手は慌てて目線を逸らした)。どうやら、心の吐露がいくらか漏れていたらしい。

 ああ、死にたくなる。

 新しい環境で、それまでの過去をリセットしていい方向へといく予定だったのに。

 結局、何もかも変わっていない。

 僕は未だ、過去の呪縛に囚われているままなのだろうか。



 *****



 僕の両親は共働きだった。

 父は建設会社で働くサラリーマン、そして母は――文芸雑誌の編集者だった。

「いい? 本はね、人生を豊かにしてくれるの。これは本当のことなのよ」

 これが母の口癖だった。母は自分の子供に熱心に読書を勧めた。

 活字と親しくなりなさい。物語文を読んで想像力を鍛えなさい。母は一週間に一冊僕に本を貸して、それをその週以内に読了する課題を課した。僕が小学生になってから、母と別れる一週間前までその慣習は続いた。

 母はどうやら、僕を将来的には自分と同じ職に就けるつもりだったらしい。自分の人生が満ち足りているのは全て『本』という存在のおかげ。そんな最高の生活を、我が子にも送らせてあげたい、ということだったようだ。

 確かに、母は毎日生き生きとしていた。毎晩疲れた顔を浮かべて帰ってくる父さんとは正反対の印象を僕に与えた。 もちろん、編集者の仕事はかなりの激務ということも後から知ったし、母自身もくたくたになってはいた。けれど、その疲れは何だか健康的というか、「今日も元気に働いた!」なんてセリフが飛び出してくるような気がするくらい安らかな表情を浮かべているものだから、ああ、この人は本当に『本バカ』なんだと、小学生の時には既に思っていた。

 母は半ば強制的に毎回の読書課題を僕に課していたわけだけど、それで僕が母を嫌いになる、なんてことはなかった。

 むしろ、母の言う通り本は僕の人生を豊かにした。自分の知らない世界を見せてくれて、新たな分野を開拓する手掛かりとなる。僕はすっかり読書に夢中になった。

 児童小説から、偉人の伝記、図鑑などあらゆるジャンルに興味を持ち、小学生中学年くらいになると、母に逆にリクエストするようになった。母もそんな僕の要望を大変嬉しがった。母が笑うということは、自分は良い行いをしているんだ。ただ面白いだけじゃなく親から褒められることにも繋がるなんて、本ってすごい! と感嘆した。

 また親だけでなく、本を読んでいる姿はやはり周りの大人からも良く見られていたようで、僕は外でも褒められることが多くなっていった。

 それが、いじめの原因になった。

「お前、なーに読んでんの?」

 小学四年生の頃。教室での休み時間、基本的に僕は席について読書をしていた。その日も普段と何ら変わらず本を読んでいたに過ぎないんだけど、誰とも関わらず本ばかり読んで、その上先生たちから褒められる僕のことをと思っていたクラスメートが一定数いたらしい。そいつらに、読んでいた本を取られた。

「え、」

 一瞬、何が起こったのか分からず反応に困っていると、相手は僕の困惑顔を見て調子づいたのか、ニタリと嗤った。

「本ばっか読んでてキメーんだよ!」

「か、返してよ!」

 ようやく事態を飲み込めた僕は、その直後勢いよく立ち上がった。

「おーい、新田ー。こっちにパス!」

「おっけー!」

 窓ぎわにいた男子が合図を送り、僕の本は弧を描いて放り投げられた。

「何すんだよ! 返せよ!」

「次誰パスー?」

「いいよ、もう捨てちゃえ!」

「わかった!」

 そうして次の瞬間。窓がさっと開けられて、本はそこから空に向かって投げ出され、下に落ちていった。

「ああっ……!」

 僕はすぐさま駆け寄って、開いた窓から下を覗いた。本は、校庭と校舎の間に存在する溜め池に浮かんでいた。

「……ッ!」

 後ろを振り返り、教室を見渡した。本でキャッチボールをしていた奴らはニヤニヤ笑っていた。他の生徒は見てみぬフリを決め込んでいた。

 目から涙が落ちてきそうになったけど、絶対に泣いてることを知られたくなくて、顔を俯かせながら教室を出ていった。

 運よく池の端だったため、自分一人でも本を取ることはできた。

 ペチャペチャになったページをめくったら、破けてしまった。

 休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。





「なあ、鷹絋。一緒に山登り行くか?」

 とある週末の金曜日。会社から帰ってきた父さんが、晩御飯を食べながらそう提案してきた。


 あれから僕に対するクラスメートからのいじめは酷くなっていった。耐えきれなくなった時に、父さんが僕に訊いてきた。

「何か学校であったか?」

 どうやら、日に日に表情の変化が乏しくなっていた僕を不思議に思っていたらしい。

 僕は全てを父さんに話した。その時母は会社にそのまま寝泊まりするとか言って、家には帰ってきていなかった。


 後から僕のことを知った母は、父さん以上に激怒した。学校と苛めっ子たちに対して死んでも悔い改めさせるなんて言うものだから、僕も父さんもかなり焦った。

 正直、僕は事をそんなに大きくしたくなかった。ただ、静かに本を読むことができれば、それで良かった。

 だから、いじめの主犯から謝罪の言葉を貰えた時に、僕はそれでこの問題を終わらせたかった。父さんも僕の思いを母に伝えてくれて、一先ず事は解決した。

 実際はその後も、小さなからかいは続いた。僕は教室で読書はしないようになった。


 そんな時に、父さんから誘われて僕は登山をすることになった。

 父さんはアウトドア系の趣味を持っていた。前から僕を色々連れていきたかったらしいけど、母に「読書の時間が減るから」と釘を刺され、できなかったようだ。けれど、暗くなったままの僕を見て、流石に今回ばかりは外に連れ出して、息子の気分をリフレッシュさせてあげたいと思って、母に説得したのだった。母は渋々承諾し、僕は父に連れられて初めて都外に出た。

「ここの山はなー、すごいぞ。登ったら絶対びっくりするぞ」

 車の中でそう言われた。高速道路に乗って飛ばされたスピードに揺られながら、目的の山にたどり着いた。

「この山はな、大山おおやまっていうんだ」

「大きい山? そのまんまじゃん」

「そうだぞ。本当に、でかいんだぞお」

 父さんはちょっと気持ち悪いくらいに、けれどとても楽しそうにニヤリとした笑顔を浮かべた。



「ただいま!」

 時刻は既に夜の十時を過ぎていたけれど、体の疲れよりも精神の興奮が勝っていた。それぐらい、初めての登山は新鮮な驚きに満ちていた。

「お帰り、鷹絋」

 会社から帰っていた母が出迎えてくれた。後から父さんも家に入って、僕は今日の思い出を忘れないうちに全部話そうとした。

「あのね、母さん! すげえんだよ! えっと、まず鹿が――」

「ほらほら、わかったから荷物下ろしてまずはお風呂入っちゃいなさい」

「風呂はもう浸かったよ。温泉に行ってきた」

 父さんが答えた。

「……あら、そう。そしたらリュックの中身とか、荷物の整理を自分の部屋でしてきなさい」

「え、待って話したいことが」

 しかし、強制的に僕は母に背中を押され、部屋に入れられた。ドアを閉められ納得いかない気分でもあったが、仕方なくリュックのチャックを開けた、その時だった。

「登山は今回ばかりにしてね」

 両親の会話が、ドア越しに聞こえてきた。

「え………う、うん」

「なに、言いたいことでもあるの?」

「いや……鷹絋がさ、凄く楽しそうだったんだ。だから、できたら次も連れていきたいんだけど……」

「何を言ってるのよ⁉ 登山なんかに夢中になったら、読書の時間が減るでしょ? あなた、どういうつもりよ!」

「何もそんなに読書だけじゃなくてもいいじゃないか。読書以外の経験もあの子にはさせてあげたいんだよ! それに……」

「なによ」

「それに、その読書だけだったから、学校でもあんなことがあったんだろ」

「あれは鷹絋は悪くないわ! いじめてた奴が悪いのよ!」

「そうだけどいじめられる要因になった部分は君がそう育てたからだろ!」

「……あんな奴ら、友達になる必要なんてないわ! 読書の価値がわからない人間と友達にならなくていい!」

「だから! 本だけじゃダメなんだよ! なんで君は極端なんだ!」

「あなたこそ、私のこれまでの人生を否定する気⁉」

 明らかに声は筒抜けていた。恐らく、二人とも僕の存在をこの時だけ忘れていたのだろう。何のお構い無しに声を張り上げて、互いに譲らない喧嘩を始めた。


 本も、そして登山も、好きでいたいのに……


 チャックを開いた手はそのまま動かなかった。








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