5話 霧掛かるガンド

「出合いは偶然か必然か。彼の地で躍進やくしんする聖女に、神はその瞳を濡らしました。天から注ぐ雨は、神の慈悲でしょう。テューラ-2。戦ぐ時は、始まったばかりです」


目の前で詠まれた時報に、カリトは興奮を隠しきれないでいた。

聖堂の看護師ウィスカに見送られ、森へ入ってしばらくも、鼻息荒く先の時報を復唱していたが、それは雨水の滴る街道へ出てからも同じであった。


「アンタ本当に時報が好きだなぁ」

「うーん…… 時報というか、リベラが好きなんだけどね!」

「お、おう……」


彼の言う「好き」とはファンとしてのそれだろう。本人を目の前にして臆せず述べることができる男に、オロファは浅く息を吐き出した。この先これが、聖騎士せいきしの目的を隔てるものにならなければいいが。


「最初に向かう国はデゼレラかしら」

「リフトで山を超える。二日以内に着かせる」

「デゼレラまで二日ぁ? おいおい、正気かよ」


異国デゼレラ。ヴェンタスの国からは、山と海とを隔てた先にある。二日という日数はあまりに過酷だ。


「僕一人であれば造作もない。音を上げるならば置いていく」

「あなた一人だと道に迷うでしょ。よく言うわ」


オルグロは方向に弱い。たった昨日からの付き合いだが、誰もがそれを知っていた。返す言葉の見つからない少年に、濡れた白衣を叩きながら、話に取り残されていた男が歩み出る。


「地図を持っていないかい? デゼレラと言われても、ピンと来ないんだ」


気が逸れる。アイータの申し出に、渋々と自身の電子端末を差し出せば、彼は首を傾げていた。


「……はぁ」


そうだ、この男は旧時代の時間旅行者だ。地形はおろか、それを調べるための手段ですら、この男にとっては未知のそれなのだ。未だに信じ難い。そうであるという確証も根拠もない。ただその知識が旧時代に沿っており、旧時代の行方不明者と同姓同名である、それだけだ。しかし、この男の立ち振る舞いは、そうであると言われて腑に落ちた。


「……一度で覚えろ」


言って、端末に指を添わせる。手のひらに収まるそれは、指から伝わる熱に反応し、空間に液晶を浮かび上がらせた。表示された立体的な地形図。もう一度指で機械を叩けば、平面図に展開される。


「僕たちがいるのは、赤い印だ」


ヴェンタスの国は山と海とに囲まれている。首都であるヴィーンは白い点がマークされており、彼らを示す赤印はそれより北東に位置している。そこから更に北方。


「目指すデゼレラは緑の点滅かな」


オルグロは頷くことで答えると、今度は指を端末上方に向かってなぞった。現在地より白線が表示され、瞬く。分厚い山を越え、大海原を渡る無謀なルートだ。デゼレラを示す緑点には「ネーグル」の文字。あれが首都だ。


「なるほど、確かに距離がありそうだね。リフトというのは?」

「行けばわかる」


浮き上がる図面を握る素振りをすれば、それは閉じられた。その動作をひとつひとつ目で追って、男は目を輝かせる。


「しかし、この時代の発明は素晴らしいね! 持ち帰って共有したいよ!」

「レガットと、かしら?」


もちろん。笑って、アイータは両腕を広げる。せっかく叩いた白衣がまた雨に濡れた。遠く聳える山々は、霧雨に揺れている。そこへ辿り着くまでにも、またその白衣を何度も叩くことになるというのに。



・・・



「オロファ、大丈夫?」


相棒の手を引き、カリトは眉を下げていた。足場の悪い岩山は、露のせいで気を抜けば滑り落ちてしまいそうだ。しかし、彼の懸念けねんはそこではない。


「……話し掛けないで」


少女は目を強ばらせ、相棒の背中を睨み付けていた。足元には目もくれない。山を登り始めてしばらくしてから、彼女はこの調子だった。


「考古学者のくせに、フィールドワークが苦手なのかよ?」

「違うわよ」

「じゃあ、高所恐怖症か?」

「黙って」


どうやらそうらしい。後ろを歩くシスターを睨みつけることもできずに、レガットは大きく息を吐き出した。

剥き出しの山肌には、緑がない。それどころか、あの視界にうるさいティッドすらも視認できないのだ。全てが朽ちている。風の国ヴェンタスの領地でありながら、ここだけが異質だ。整備されていない山道。この山を越えた先のデゼレラから来る風を遮断するかのように。


「オルグロ! リフト乗り場が見えてきたよ!」


嬉々としてカリトの指し示す先。岩に遮られ傾いた山小屋からは、錆び付いたワイヤーが幾本も絡み合って伸びている。リフト乗り場。無残にも廃れた姿だ。


「なにあれ…… 本当に動くの?」


高台の苦手な少女は顔を引き攣らせていた。そんな気も知らず、リフトの管理人は曲がった腰を更に折り曲げて、呑気に船を漕いでいる。


「リフトなんて久しぶりだなぁ。確か二年前に乗ったときは動いてたぜ!」

「二年って…… その間もメンテナンスしていないのかしら」


視線をくべるが、管理人は答えない。すっかり夢の中だ。


「おい、五人だ。リフトを動かせ」

「んご…… おお、聖女様。お久しぶりでぇ、ございます……」

「誰が聖女だ」


管理人である老人は、モノクルを小刻みに震わせて少年を仰ぐ。シワに埋もれた瞳は、輝いていた。


「あーっと、コイツは聖女様の子どもだよ。ジイさん、そのモノクルちゃんと使えよなー?」

「おお…… 時詠ときよみ様まで…… 大きくなられましてぇ……」

「おいおい、二年前に会っただろうが」


笑い、リベラは老人を小突く。

聖女だと、オルグロの母たるジグルド教皇を呼ぶ者は少なくない。宗教者にしてはあまり美しく、神々しすぎている、と。彼女こそを信仰対象とする者も、ジグルド信奉者には多いのだ。国王スヴァルトもその一人である。きっとこの老人も。そう思考してから、少年は自身の髪を弄った。

そんなに、母と似ているだろうか。


しばらくして、錆び付いたリフトはカタカタと音を立て始めた。太いワイヤーを伝う、細長い椅子。二人乗りのチェアリフトだ。我先にと、オルグロは一人で乗り込む。


「勝手な聖騎士サマだぜ、まったく……」

「おれとオロファで乗るよ。二人は良い?」

「もちろん。リベラ、乗り遅れてしまうよ」


等間隔に離れて流れる椅子は、取り囲うように備え付けられた手摺てすりだけが頼りの空中ブランコだった。後ろで騒ぐ少女の声に視線を移せば、相棒の首に抱き着いたまま、奇声を上げていた。この時ばかりは、たしかにカリトが歳上なのだろうと思える。


「……はあ」


何度目かの溜息。重苦しく吐き出せば、高山にかかる霧が冷たかった。これから三刻、このリフトに揺られ続ける。そうして山頂へ辿り着けば、また別のリフトへ乗り換えだ。下りともなれば、後ろの少女が一層騒がしくなるだろう。反して静かな最後尾に、オルグロは意識を馳せた。

最後尾の二人組は、聖堂から引率するようになったマイペースな連中だ。二年前にリフトを使った、と言うリベラはともかく、同席しているアイータはまた目を輝かせているのでは、と、先の電子端末でのやり取りを思い返す。


(しかし必然的とはいえ、あの男と野蛮女とは、妙な組み合わせになったな)


思考は二人に奪われていく。あの男のことだ、彼女に質問責めをしているだろう。自分でなくてよかった。


(――他人のことなど、いい)


言い聞かせ、頭を振るう。まだ半刻も経っていない。聳える山を見上げながら、強い振動に身を任せた。遠い昔に、同じ景色を見た気がする。いつだったかは覚えていないが、ヴィーンからの遠征に使ったのだろう。きっと。


オルグロの懸念通り、アイータは忙しなく眼を動かしていた。


「……興味津々なのはいいけど、暴れたりすんなよ」


まさか彼女が制することになるとは。大丈夫だと笑う男はしかし、ソワソワと体をよじっていた。


「君は二年前にもこれを使ったんだよね。デゼレラには行ったことがあるのかい?」


リフトのワイヤーは岩壁のきわに沿って登っている。時折頭をこする枯れ枝を煩わしげに払いながら、リベラは頭を振るった。


「いんや? デゼレラはな、ヴェンタスとあまり交流がないんだよ」

「ふうん」

「ウチが使ったのは里帰りみたいなもんさ」


言って、視線を上に移す。寂しげな山は、あまりに静かだ。リフトの音が静寂を切ってこだまする。


「この上に?」

「そう。頂上に修道院があってな。ジグルドの文堂みたいなとこ。ウチはそこ出身なんだ」


瞼を伏せてはにかむ表情を、アイータはじっと見つめていた。ティッドの殆ど存在しない忘れられた土地で育まれた時詠み。その歪な成り立ちは、まるで古来の聖女のよう。彼のよく知る、おとぎ話の戦の聖女のようだ。


太古の昔、民衆を率いて他国との戦地を駆ける女がいた。彼女はその力強い言葉で仲間を鼓舞し、慈愛に溢れる瞳で戦士を癒していた。故に彼女は、聖女と呼ばれたのだ。

彼女の生涯は、凄惨なものだった。

戦のため、民衆のために産まれたように生きる彼女は、人里を離れた打ち捨てられたボロ小屋で産声を上げた。父はいない。母は売女で、毎夜違った男に身を預けていた。

そんな彼女は、ある日国の中心となるのだ。

一説には、国王に見初められたとある。しかし一説には、彼女が一から建国したのだとも。

どちらにしても、彼女は人の世から忘れられた望まれぬ子で、人肌も知らぬ邪魔子で、しかして人のために血を流した悲劇の聖女。

名は、ダスク・ズィー。


(――まあ、彼女はダスクとは全く違うけれど)


細く頼りない手摺に背を預け、横目にシスターを見つめる。彼女も同じように背中を預けていた。うつらうつらと頭を垂れ、強い振動に身を任せる。次第に閉じゆく長い睫毛は、ああ、どことなく、聖女を彷彿とさせるな、と思った。




「あー……腰が痛い」


先刻聖女と喩えた彼女は、まるで老女のように腰を叩いていた。二度の乗り継ぎを経て、ようやく辿り着いた地は、目の前に広大な海を持つ漁村だった。

漁村ヴィラント。潮風の香りに包まれた小さな村だ。海岸に隣接された漁港は、小型の帆船がいくつも停泊している。屈強な白ひげの漁師たちが、忙しなく走り回っていた。

村を一周眺めれば、カリトにすがりついたままであった少女もすっかり調子を取り戻し、腰を曲げる女へ皮肉を零す。それを宥めるカリトの声も相まって、やはり揃うと騒がしくなる一行に、オルグロはあのまま分かれていたかったと後悔する。


「さて、これから海を渡るんだったかな」

「……港へ話をつける」

「なあ、オルグロ……」


情けない表情と共に、カリトの腹の虫が少年の足を止めた。とうに昼刻は過ぎている。漁師らが担ぐ魚を見て空腹を思い出したのだろう。


「リフト疲れもあるからね。食堂はあるのかな。腹拵はらごしらえをしようよ」


貴様が仕切るのか。肩に置かれた手を払い、少年は港へ足を向ける。しかし――


「さすがオルグロ!」


少年の方向音痴はここまで来たか。確かに港を目指したというのに、辿り着いた先は焼き魚が芳ばしい、漁師たちの食堂だった。




小さな漁村だが、食堂は賑わっていた。恰幅の良い婦人が前掛けを揺らし、忙しなく走り回る。客も海の男ばかりで、皆が勇ましく食事を掻き込む中、少年たちは異質だった。


「あんたたち、旅のモンかい? ヴィラント自慢のテール丼がオススメだよ」

「テール丼?」

「なんだ若僧、ヴィランテールを知らんのか! ヴィラントだけで採れるウツボよォ! 今のうちに食べ納めておいたほうがいいぜ!」

「今のうちに? 食べられなくなるんですか?」


ガヤガヤと外野が煩い。宮廷料理しか知らないオルグロにとって、煩わしくて堪らなかった。しかし、声を掛けられたカリトは嬉しそうに漁師たちと交わしている。注文せずとも運ばれてくる、件のテール丼を見つめ、考古学者は箸を握った。


「ウツボって…… ヘビでしょ。これを食べるのね……」

「オロファ! オロファ! これ、すっごく美味しいよ!」

「おいカリト! 米粒飛ばすんじゃねえよ!」

「甘タレを塗って焼いてあるのか…… なるほど、こういう料理も良いね」


各々が食事を楽しむ中、少年は箸すらも取らずにいた。腕を組み、周りを見渡せばひときわ図体の大きさが目立つ男に目をやる。騒がしい男たちに笑い、彼らもまたその男へ酌を注いでいる。あの男が、漁師たちの首領か。


「ここからネーグルまで渡りたい。船を出せ」

「嬢ちゃん、レイフさんにその口たぁ、いい度胸だな」


海の男たちの豪快な笑い声に、オルグロは眉間にシワをよせた。思わず以前自分を同じように言った男を睨み付ける。


「ん? ああ、彼は男の子だよ。間違えてしまうのもわかるけどね」


一言多い。フォローを求めたわけでもない。朗らかに言ってテールを飲み込むアイータに呆れ声を漏らし、少年は改めて大男を見据える。レイフと呼ばれていたか。


「野郎どもが悪かったな、坊主。ネーグルって言ったか? 確かにうちはデゼレラにも魚を運んでいるが、今は無理だ」

「どういうことだ」


太い眉が垂れ下がる。軽く言い述べはしたが、そう楽観的なことではないらしい。他の男たちも同じようで、皆が一同に口を噤んでしまった。


「……もしかして、ヴィランテールを採れなくなるっていうのと関係があるんですか?」


男たちからある程度の情報を仕入れたのだろう。空になった丼を手に、カリトは呟く。前掛けのマダムは器を取り下げると、レイフの背中を叩いた。


「なんでもここいらの海域に魔物が出たんだってさ。ほら、しょげてないで他の海を探しゃあいいじゃないか!」

「他の海じゃあ、テールは採れねえんだよ」

「魔物……」


やり取りを目に、何やら考え込むカリト。まさか、と少年は彼を睨み付けた。男が口を開く前に遮る。


「余計なことを考えているならば一人でやれ。僕にそんな時間はない」

「けれど、そのせいで海を渡れないのだろう? カリトが思うことは、俺たち全員にとっても理に適うんじゃあないかな」


白衣が隣に並ぶ。またこの男か。舌打ちに笑われ、今度は少女が海の男たちに進み出た。


「陸でネーグルへ向かう道はあるのかしら」

「あるにはあるが、ここから海沿いにずーっと東に行ったところだ。浅瀬になるところがあってな。そこまで行くには人間の足じゃあ二日は見たほうがいい」

「……ですって」


さあ、聖騎士としての判断を聞かせなさい。訴える目に、焦燥と苛立ちが胸を押し上げる。やはりこの旅は一筋縄ではいかない。思考を振り切れば、レイフへ取引を持ち掛ける。


「テール丼、意外と美味しかったものね」


オロファとリベラが、珍しく意見を合わせて笑っていた。



・・・



純白の小型船舶は唸り声と共に波飛沫を上げて進んでいく。漁師たちが首を捻るものだから、件の魔物のせいで海は荒れているのかと思ったが、拍子抜けするほどに穏やかな気候だった。水面をたゆたうティッドも穏やかで、無邪気に水浴びを楽しんでいるようにも見える。ただ、東の海の果てから染まっていく黒い空だけが、不穏な空気を醸し出していた。夜がやってくるのだ。

波に揺られながら、リベラはそわそわと瞳を動かしていた。


「あー…… あのさ」

「なんだい? トイレかい?」

「レディに何言ってんだアンタ! ……そうじゃなくて、そろそろ時報を詠まなきゃなんねぇんだ」


狭い船内、腕を振り上げれば隣のカリトを殴ってしまう。それでも殴られた男はいつものように、時報という単語へ目を輝かせていた。


「こんなに揺れてる中で、まともに詠めるの?」

「ふん、時詠みにはな、特別な力があんだよ」


言って、リベラは端末を取り出す。そうして息を吸えば、まるでそこだけ時が止まったかのように、彼女は動かなくなった。


「リベラ?」


不審に思ったカリトが彼女へ手を伸ばす。しかし――


「いてっ」


パチリ。小さな火花が散った。ティッドだ。彼女へ触れるよりも前に、男の手のひらはそれに弾かれた。


「ティッドの膜だね」

「どういうこと?」

「時間素粒子がリベラを包み込んでる。今彼女は、俺たちの時間の流れから分断されているんだよ」


それが彼女の言った、特別な力。見守る少年には既視感があった。確かどこかで。


(そうだ、フェンリルの……)


あの獣の爪に引き裂かれそうに思えた刹那、少年の周りの時は止まった。目の前の時詠みが詠んだかのような、時報のあとに。


(この女が、あのときも……?)


しかしそう考えると、あのあとの彼女の驚いた顔が不可解だ。そうしてしばらくすれば、彼女は動かぬままだというのに、空から時報が訪れた。揺らめく波のように、ゆっくりと。夜のとばりを告げる、静かな時報。


「――ふう、疲れた」


弾かれたようにして、リベラは腕を伸ばす。ティッドは辺りに散らばっていった。目を丸めるカリトらを見て、満足そうだ。


「初めてやったけど上手くいったな! どうよ、時報からは波の音だって聞こえなかったろ」

「なるほどね。そうして自分の居場所をわからないようにするのね」

「そそ。時報は神聖なるお告げだからな。無駄な呼吸だって漏らしちゃあいけねえんだ」


職務は真っ当にこなしているらしい。時報が終われば、空は黒に染まっていった。と同時に、船が動きを止める。


「坊主、ここが例の海域だ。注意したほうがいい」


操縦室から顔を出すレイフ。その引きつった表情に、彼らにも緊張が走る。彼らが言う、海の魔物。見たこともない化け物。あのあとカリトは男から僅かながらの特徴を聞いたが、生物に詳しい彼をもってしてもわからずじまいだった。


「水棲生物ってことは…… 魔女の術は効かねえってことだな?」

「そうなるわね」


足止め程度にはなるだろうが。

それぞれが武器を構えたのを見て、少年は今は静かな水面を見つめた。障害物のない水の世界。反射する月明かりを頼りに、得体の知れない化け物を探す。耳を研ぎ澄ませた。ティッドの弾ける音が掠める。これは――


「シスター! 貴様のほうだ!」


オルグロの叫び声と共に、銃声が轟く。打ち上げられた水飛沫はあまりに大きい。


「出やがった!!」


レイフが叫ぶ。月明かりに陰る物体は、小船など飲み込んでしまいそうなほどに超大なウツボだった。


「なんだ、こいつは……!」

「ガンド……!」


少年の隣で白衣が揺れる。アイータは瞳を揺らしていた。これはウツボではない。瞳はないが、頭と思わしき部分からは角のようなものを生やしている。


「ガンド……? なんだ、それは」

「精霊、と言ったほうがわかりやすいかな。いわゆる、天使の遣いだよ」


天使。言ってアイータは純白の剣を化け物に向けた。柄の宝玉が僅かに赤いティッドを帯びる。


「はあ!? こんな禍々しいのが天使のそれだって!? 例えにしても横暴だろ!!」


銃で牽制しつつリベラは吼えるが、オルグロには男の言うことが理解できた。フェンリルの時よりも、深く濁り、しかし神々しささえ帯びたティッド。ガンドと呼ばれた海竜は、まさしく神獣と言って相応しかった。


「おい、貴様はこの化け物の攻略法を知っているのか」

「うーん、攻略というほどではないけど、やっぱり魔術には魔術かな」

「魔女のは効かねえんだろ!? アンタだって、昨日のは炎だったじゃねえか!!」


小船の上を飛び越え、荒波を立てる海竜。背びれは鋭利な刃物のようで、船体を切り刻んでいく。操縦室の屋根へと飛び上がり、カリトが絶氷の剣を振り上げた。


「ウオオオオッ!!」

「……カリトのように時間を稼いで。ガンド相手じゃあ生半可な魔術は効かない」


男は笑って、剣を握り直した。ティッドの色が赤から黄に変化していく。潮風のせいか、身震いが背中を走った。

リベラは休まず銃弾を放っている。その都度ガンドに弾かれた弾は海底に沈んでいった。

カリトは屋根の上で氷の剣を振り回している。ガンドの背びれと刃が重なり、嫌な音が空にこだました。

オロファは小さな氷礫の魔術を放つ。彼らに近寄るものなら防護壁をも作り出した。

オルグロは、そんな彼らを目で確かめながらガンドから飛び交う鱗を剣で弾いていた。まだか。アイータの言う、生半可でない魔術は。


「さて、そろそろかな」


男の呟きに、黄色く滲むティッドたちが次々と膨れ上がる。掲げられた剣先で轟々とうねりを上げれば、それを見たガンドは動きを止めた。怖がっている、まさか。しかしガンドは攻撃をやめれば、海の中へ頭を潜り込ませた。


「逃がさないよ」


男の手の甲に浮かぶ文様。それを伝って、白い剣から光が――ティッドが放たれる。黄色の粒子は海へと降り注ぎ、


「獣の咆哮は大地の脈動。散れ――」


大海が大きく揺れ動いた。そうして振動に打ち上げられた海竜を追って、岩山が突き上がる。海底に眠っていた死火山が叩き起されたのだ。溶岩の消えた火口を開き、ガンドを呑み込んだ。


「地属性の…… 上位魔術……!?」


海竜の悲鳴がこだまする。耳を抑えながら、オロファは目を丸めていた。この中で、彼女がアイータの次に魔術へはさとい。驚くのはその属性なのだろうか。少年が目をやれば、男は宙で岩山に絡み取られた海竜を見上げていた。


「俺は上位魔術は扱えないよ。今のは初級と中級の応用さ。複合魔術とでも言うかな。君なら扱うのも容易いんじゃあないかな」

「……ちょっとあとで話を聞かせて」

「もちろん」


アイータが剣を下ろせば、岩山はそれに連動するかのようにして海中へ沈んでいった。同時に、海竜が宙へと放り出される。まだ、動いている。しかし、今ならば――


「一斉にかかれ! バカはそこで暴れていろ! シスターは陽動だ! いいな!」

「ん? バカって……おれのこと?」

素面しらふに戻るな! 振れ!」


岩山のダメージはかなりのものらしい。宙でのたうち回るガンドは、煩わしい剣戟に咆哮し、銃弾に食らいつこうとしている。敵が混乱している。最後の一点を、少年は睨み付けた。


「――沈めェッ!!」


吐き出した叫びと共に、軸足に力を集める。突き出した左腕には、一瞬、風が蠢いた。強烈な突きは眼前に迫った海竜の額を突き、海原を揺らす。そうして海竜は、消失した。


「……消えた……」

「ガンドは天使の遣い魔。ティッドの集合体なんだ。あのガンドを構築していたティッドは海と空に散っていったんだよ」


静まり返る水面。月明かりに照らされた海は、冷たい風に揺れていた。


「これでもう海域を気にしなくて済むんじゃない? どうするの、このまま向かうの?」

「坊主ら……まさか本当にやってのけるとはな……」

「困ったときはお互い様ですよ! また何かあったら言ってください!」


意気揚々とカリトが名乗りを上げる。そのまま彼は小さなカードを操縦室の男に渡していた。クアトレフォイル、彼らギルドの端末番号だ。無意識なのか、商魂なのか。


「クアトレフォイルか! 噂には聞いていたが、まさか坊主らがそうだったとはな…… 約束通りネーグルへ運んでやるよ! なに、明日の昼頃には着かせるさ! ゆっくり休んでくんな」


顔を覗かせ、レイフは笑う。豪快な笑みは、他の海の男たちとそっくりだった。ギルドと同じにされたことを抗議したかったが、見れば一同はこの攻防に疲れ果てたようで、それぞれ小船の壁に背を預けていた。少年もそれは同じで、仕方がない、と男に頷く。


「うわあ!」


皆が肩を竦ませた瞬間の、男の叫び。驚きに女たちは肩を跳ねさせた。


「な、なんだよ!? まだガンドが……」

「テールだ!」


船底を覗き込み、カリトはそのまま上着を脱ぎ捨てて海へと飛び込む。水飛沫を浴び、リベラは拳を振るっていた。

海竜ガンドが消失したことにより、海を牛耳られることのなくなった生物たち。各々が海洋を巡り、月の明かりに輝く背びれ。細長い海のヘビの魚群が、沖へと旅立っていった。

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