4話 アイータ・エックス

「フェンリルは草原の獣の変質体だ。四足歩行の毛皮の獣だったかな。幻想種げんそうしゅと言われているし、まさかこの目にするのは初めてだったけれど、相性は間違っていなかったみたいだね」


焼け焦げた巨大な獣の周りを歩み、観察を続ける男の左頬には手のひらの跡。じわりと痛む右手を隠し、少年は力の入らない左腕に目を落とした。

氷の剣の拒絶は凄まじい。この得体の知れない、アイータと名乗る男がいなければ、獣を退けることはおろか、ここにいる誰もが果てていたかもしれない。しかし――


「ああ、質問にまだ答えてもらってなかったね。どこかの洞窟か、こんなところあったかな。神樹しんじゅの森からはそう離れていないと思うのだけれど…… おっと、随分と疲弊しているみたいだね。基地に戻れば救護班に掛け合うよ。君たちはどこの所属だい?」


質問の意味がわからない。一人で淡々と続ける男に、オルグロも、その隣のリベラも、呆然と男の挙動を監視するしかできなかった。


「ここは、レヴァーテ洞窟よ」


口を開いたのはオロファだ。彼女を取り巻いていた不安定なティッドは姿を消していた。同時に、彼女の息遣いも正常になっている。離れたところで意識を失ったままの相棒を、その小さな体で抱き起こし、不審者たる男を見据える。


「あれ、レガット。こんなところにいたのかい? レヴァーテ洞窟なんて初めて聞いたなあ」

「随分と嬉しい名前を呼んでくれるじゃない。でも私はレガットじゃないわよ」

「うん?」


男は首を傾げている。少女の顔をまじまじと見て、そうしてから少年や、その隣に目を走らせる。やがて合点が行ったかのように、一人でああと感嘆していた。


「……なんなんだこいつは。おい、貴様の知り合いか」

「名前は聞いたことがあるわ。でも、信じられない」

「意味がわからん……」

「レガットって名前なら聞いたことあるけどな」


リベラが男に進み出る。男の様相を上から下まで確認し、その白衣に触れる。改めて見れば、あまりに質素な装いだ。ひと時代前の、科学者を連想させる。そうして彼女は、腰に収められた剣を覗き込んだ。少年からも見えた、剣の柄の石が。


「ノールの模造品だと……?」


呟きが聞こえたのか、男は彼女を制してその剣を再び手に取ると、少年に見えるように柄を掲げた。


「これが気になるかい? 天使の石をコピーしたんだよ」

「天使の、石」


ノールクォーツ、その宝玉の人間からの呼び名。得体の知れない男だが、その一言で目の前の人物がノールを知りながらもジグルド教徒ではないことはわかった。もっとも、魔女の言葉を信じるのであれば、だが。


「貴様は、何者だ」


おそらく不信感が拭えずにいるのは自分だけではないはずだ。赤い瞳は、まるでこの世界の人間でないようにも感じられた。


「それは少し困った質問だね。君たちにわかるように自己紹介をするのは至難の業だ。俺はアイータ。ただの研究者だよ、未来の天使くん」


真っ直ぐと視線が交わる。男は少年を向いて微笑んだ。相変わらず、理解が叶わない返答だ。


「また叩かれたいのか」

「あれ、違ったかな」


目を丸める男。その飄々とした言動と態度がどうにも気に食わない。その剣の石も、薄汚れた白衣も。相容れない人物だということだけは確かだった。


「……ともかく、約束の剣は手に入ったんだもの。ダーイン聖堂に戻りましょ。私たちが今最も必要なことは治療。薬くらいは置いてあるでしょ?」

「残念ながら、薬どころか優秀な看護師までいるぜ」

「あら失礼」


こちらはこちらで相容れないらしい。緑のティッドを錯覚するほどに、女たちは互いを牽制し合っていた。思わず少年の口から零れる息。自分も同じように苛立つ様が恥ずかしくも思える。カリトを運ぶため、少女に手を貸す男を見送ってから、誰よりも早く墓地から立ち去った。



・・・



再び聖堂への道を歩む頃には、日も暮れ始めていた。フェンリルを倒したことで、暗がりに獣の声はこだましない。夕焼けの風に戦ぐ草木の音色が心地よかった。しかし、先に訪れたときと決定的に違うのは、それではない。風に揺れる木々の合間に煌めく光体。ティッドだ。ここにも、こんなに蠢いていたのか。触れようとして、男にその手を阻まれた。


「無闇に触らないほうがいい。思念に犯されてしまうよ」

「思念……?」


意味深な言葉だ。詰め寄りたいが、男は既に興味を失ったようで、先を歩いていた。それすらも、気に食わない。


「ここにも神樹が生息しているんだね」

「シンジュ? アビエスのことか?」

「へえ、アビエスっていうんだ」


そういえば先ほど、神樹の森、と言っていた。この男もここを経由したのか。いや、それにしては発言が不明だ。物珍しそうにあたりを見回す男だが、その行動は予測できない。


「ところで、聖堂というのは、どういうところなんだい」

「はあ?」


思わず少年も肩を落としそうになった。ひっくり返った声のまま、シスターは男を訝しむ。


「信仰する物に対する祈祷や儀式を行う場所よ。信者たち向けの集会所は、今は閉鎖されているんだったかしら? まあ、ひと言で表すならば、宗教組織団体の根城ね」


やはり答えるのはオロファだ。まるで赤子に知恵を授けるように、宙を指でなぞって見えない建物を描く。どうにも拭えない居心地の悪さは、男の表情を見て余計にそう思えた。


「信仰…… 宗教……」


小さく呟き、真剣な表情で地面を見つめる男。まさかそれすらもわからないとは言い出さないだろうかと肝が冷えた。男の口振りは、まるで記憶を喪失しているかのようだ。それにしては、今までの言葉も不可解だが。


「まあ、行けばわかるか」


どうしたものか、案外と男は楽観的らしかった。




慟哭どうこくに落ちる戦士は、その身を盾に大地を紅へと染めました。彼女は知らなかったのです。未だその身に、黒が迫っていることを」


時を刻む唄。改めてその仕事ぶりを目にすれば、彼女が時詠みであることを思い知らされる。もうそんな時間か。柔らかく、眠りを誘うような、穏やかな声音。彼女を包むティッドはその音色に呼応して、忙しなく瞬いている。それが神々しさを助長させ、普段の野蛮な女と同一人物だとは信じ難かった。


「これは…… こよみを歌っているのかな」


興味を示すのは、やはりこの男だ。目を伏せて彼女の声に聴き入っていたと見えたが、その言葉の解読に励んでいたらしい。


「おおっと、まさか知ってる人間がいるとはな。それ以上はネタバレになるからよしてくんな。ウチの――時詠ときよみのファンもいるもんでね。……と、まだ気ぃ失ってたか」

「ファン? へえ、有名人なんだ」

「おいおい…… アンタどこの田舎から出てきたんだよ……」


時報は世界共通の習慣。宗教が違えども、この女の声で一日が始まる。時詠みの存在を知らずとも、時報を知らぬ者はまず存在しない。おそらくカリトが気を失っていなければ、この講堂にすら興奮を隠しきれなかったであろう。部屋中の壁に掛けられた無数の時計。あれは、ノールの模型だ。針は忙しなく動いている。時詠みはこの空間で、世界に渡る拡声器へ向けて時を報せるのだ。


「それより、さっきの君の言葉。暦のことを、他の人たちは知らないのかい?」


この男の興味は奇天烈だ。暦など、気にした試しがない。


「知らないも何も…… 今の暦じゃあないしな。よほど考古学ないし旧時代に興味があって、尚且つ先祖の日常分野にまで渡らないと知り得ないことだろ。そこの魔女だって知らなかったみたいだし」

「あなたに魔女とは呼ばれたくないわね」

「ふむ…… レガット、じゃなかった。ええっと、オロファ? 旧時代っていうのは、今から何年前だろう」

「ざっと六千年くらいね」

「……想像以上だったよ」


この男は何に目を丸めているのか。観察すればするほどに理解が難しい。


「それじゃあ文化がまるきり違うことにも納得かな…… いや、納得せざるを得ない……」


独り言は癖なのか。目の前でまた牽制を始める女たちを脇目に、少年は咳払いを一つ。ここに来たのも、なにも聖堂での集会が目的ではない。


「治療をするのだろう。薬箱だけでいい、渡せ」


女は息を吐いてその手を振るう。倦怠的な仕草は彼女の癖だ。


「看護師に見てもらったほうがいい。アンタの傷は、一番重症だ」

「うん、そのほうがいいよ」


何故貴様が入ってくる。微笑む男を睨み付ければ、腕を掴まれた。


「ぐっ……」

「凍傷、裂傷、化膿もしてる。あの洞窟からずっと動かせていないようだし、神経も微妙なところだね。正しい治療をすぐに受けたほうがいい。魔術は現象だといっても実体はある。二度と使えなくなるのは困るだろう?」

「……」


見ていたのか。的確な、正論だ。

言葉を失い、左腕をそっと撫でた。触れれば痛い。痛む。こんなヘマを、起こしてしまった。屈辱的だった。


「大方、書庫に行って文献と照らし合わせようとでも思ったんでしょ? 治療を受けながらでも話はできるわよ。他に必要なものについて話し合いましょ」


ああその通りだ、その通りだが、何故貴様らに言われなければならない。怪我のことも、目的のことも。全てが腹立たしくて、少年は睫毛を震わせる。国王や母の念押しが、ここに来て苦しみを帯びてきた。


(僕の力になる……? 笑わせる。僕に、力が無いからじゃないか)


聖騎士せいきしの肩書き。名前だけのマントを、強く握りしめた。


「書庫か…… あっ、そこには旧時代の資料もあるかな」


少年の感情と反して、男は声色明るく放つ。奇天烈な物好きは、不要な知識を得ようとするのだ。


「あるにはあるだろうけど、探すのは一苦労だな……」

「大丈夫。一人で探すよ。書庫はどっちだい?」

「こっちだ。途中まで案内するさ」


部屋を出る二人を見送り、少年はその場に腰を下ろした。不愉快だ、何もかもが。頭の整理すらも満足いかず、息を吐き出すことで無理矢理落ち着かせる他なかった。


「……あの男は、何者なんだ」


本人に聞こうにもはぐらかされる。無意識に零せば、横たわる相棒の隣で魔女は同じように息を吐き出した。


「アイータ・エックス。残留陸軍参謀部科学班属、階級は中佐」

「残留陸軍……? 古代大戦の」


この女は何を言い出すのか。疲弊のせいか、鼻で笑う力すら起きない。


「そう、古代大戦の…… 旧時代の軍人の名よ。私が知っているアイータ・エックスは彼一人。大戦時、行方知らずとなって、その消息を絶った」

「その男が六千年の時を経てここに来た? 馬鹿らしい」

「私もそう思うわ。でも――」


眠る男の背中には布に包まれた氷の剣。それに視線を落とした少女の瞳は揺れていた。


「コンラットの…… この剣を生み出した、レガットが呼んだのだとしたら……」


そうして彼女はイヤリングを触れる。半透明の石からは弱々しい光が漏れていた。ノールの模造品、そして約束の剣。自分では触れることの出来なかった、残留遺物。呟いた名前は、あの男が彼女に向けて呼んだ名だ。


「レガットとは――」


投げ掛けた言葉はけたたましい扉の音に掻き消された。あまりの騒音に投げ放たれたティッドが、気絶していた男を殴り起こす。


「んお? ちょうど起きたか! よし、医務室に行くぞ!」


普通に入ってくることはできないのか。空気を割るのが得意な女は、大股に歩みながらケラケラと笑った。




「ウィスカ! おーい! ウィースカー! いるかー!」


またも乱雑に開け放った部屋は、中央に螺旋階段が聳えていた。空間を漂う香りは薬品だ。部屋の壁は、あの書庫とよく似た作りをしていて、こちらは薬棚だ。


「はいはい、また何かやったの? リベラ」


軽やかな声が頭上から降る。ヒールの音を響かせて、女は螺旋を降ってきた。シスターではない。あの特徴的なベールを持たない、純白の燕尾服のようなローブを纏っていた。その上で揺れる軽やかな黒髪は、どことなく優美な印象を抱かせる。彼女を取り巻くように浮遊するティッドすらも、落ち着いた安定感を誇っていた。


「またってなんだよ…… ちょっと治療してもらいたいヤツらがいるんだ」

「あら。お客人? まあ……酷い怪我ね。そこに掛けてちょうだい。すぐに診ますからね」


促された椅子は、消毒液の香りがした。何から何まで、念入りに整えられている。車輪付きの薬籠を引き、女は少年らに笑ってみせた。


「リベラの厄介事に巻き込まれたのかしら。この子、時詠みだなんて崇められているけど、かなりのお転婆でしょう? わたしもどうしたものか困っているの」

「おいおい、余計なこと言うなよな。それに今回ばかりはウチが巻き込んだんじゃない。むしろウチは巻き込まれた側だぞ!」

「リベラ以上の厄介事を持ち込むなんて…… あなたたち、相当の冒険者ね」


笑いながら小突き合う二人は、まるで姉妹のよう――そう錯覚して、オルグロは女を見つめた。シスターとは違い、落ち着いた雰囲気の女。どちらかと言うと、彼女のほうがシスターや、時詠みといわれたほうが納得もいく。


「リベラと仲が良いんだね! えーっと……」


上着を脱いだ男は、擽ったそうに身をよじる。見れば外傷は凄惨だった。先まで気を失っていたのだ、あの傷も納得だ。傷薬の香りが、鼻をつく。


「ごめんなさい、自己紹介をしていなかったわね。わたしはウィスカ。看護や救護のボランティアをしているの」

「ボランティア? 随分とお人好しなのね」


腕の凍傷を差し出しながら、いつものように鼻を鳴らすのはオロファだ。手早く薬と包帯とで処置を終え、ウィスカと名乗った女は微笑む。その余裕に、少年は何故だか胸が高鳴った。


「ふふ、そうかもしれないわ」

「そこを見込まれて、閣下に聖堂へ呼ばれたんだろ? ジグルドの聖堂勤務だなんて、世間の羨望対象だぜ」

「また自分で言う……」


閣下、母のことだ。高らかに述べるシスターの言葉に眉を顰めるオロファの横で、座らされた椅子を居心地悪く撫でながら、オルグロは高鳴る胸を懸命に押さえ込んでいた。母に呼ばれ、母によく似た黒髪の、穏やかで、育ちの良さそうな、女。


「わたしはこうして人の傷を癒すことができればそれでいいのよ。信仰にすがる人々は、皆何かを抱えていることが多い。教皇様もそれを危惧されたのよ、きっと」

「なるほどなぁ」

「いつからだ」


ついには口に出してしまっていた。


「え?」


驚く女の瞳は深い翠。母の瞳は、何色だったろうか。


「いつからここにいる」

「ひと月ほど前からかしら」


ああそうだ、自分と同じ、蒼色だった。そう思い出して視線を逸らせば、呑気な女は肩を竦めていた。


「そうだよ、ウチがテューレルの始まりを詠んでる最中に来たんじゃないか」

「あのときは驚いたわ。まさか世界一の有名人である時詠みが、こんな子だなんて思わなかったんだもの」

「おれも! おれも! すっごく驚いた!」

「アンタらなぁ……!」


似非えせ姉妹の会話にカリトが加わると、途端に騒がしくなる。女は朗らかに笑ってから、少年に視線を投げた。次は彼の治療だ。


「聖騎士様でしょう? あなたのことも、存じているわ」


この人が姉であればいい。そう、思った。



・・・



「えーっと、旧時代について……と」


天井を覆う書棚を見上げ、男は呟く。文字は彼の知っているそれと同じようだが、その膨大さに息を吐き出した。


「レガットの書庫より多いかもしれないなぁ」


言いながら浮かべるのは幼馴染の呆れた顔。途端に笑みが零れた。そういえばあの少女は彼女に似ていたと、ここに来てから出会った珍妙な連中に思考を寄せる。気を失っていた男も誰かに似ていただろうか。あの外見に見合わないガサツな女は。そうして最後に自分の頬を叩いた少年を。彼を取り巻くティッドは揺れていた。凍てついた手のひらは小さく、そうだというのに彼から発せられる闘気は、男の身近な戦士をも彷彿とさせる。


「あ、これレガットの……旧時代か。本当のことのようだね」


手を触れた書物は埃を被っていた。著者の名は『レガット・デオラクス』。紛れもない、彼の幼馴染の名だ。タイトルは掠れているが、彼女が研究していたティッドの属性原理についての文献であるようだ。静かにページを走らせれば、彼女の癖字にどこか安堵すら覚えた。こちらももう擦り切れている。紙もほかの幾分か新しい年代のそれとは違うようで、経年劣化が著しい。ああ確かに、この世界は自分の知っているそれとよく似ていて、しかし確かに別の世界なのだと思い知らされる。


「さて、そろそろ出てきてくれてもいいんじゃあないかな」


読むこともままならない書を閉じ、男は瞳を伏せる。この書庫に彼以外誰もいない。しかし、彼の声に応えるかのように、白衣が室内を撫でる風になびいた。ああ、ティッドが騒いでいる。


「……おはようございます、アイータ」


音もなく現れた女性。いや、女性の姿をする何か。彼女をまとう風は、チリチリと困惑の悲鳴を上げていた。


「目覚めてから随分と経ったよ。君はこの時代の人とは接触しないのかい? 女神様」


その言葉に女は微笑む。女神。遠い昔、人間の敵たる天使に力を与え、その後見捨てて天へと還った創造主。


「スクルドです。そうお呼びください」


微笑む女は宙を泳ぐ。足はあるようで、無い。薄ぼけた輪郭は、鎖が巻き付いていた。この空間に、彼女を取り巻く風に、捕らわれているかのように。


「スクルド、ね。それで、目的は」

「早急ですね。お怒りですか」


今度は男が笑う番だ。


「怒る気も失せるよ。まさか女神が再臨していただなんてね。それに突然未来だなんて。信じられないことの連続だよ」


握る書物の発行年日。隣の古ぼけた書物と比べても、そこに四千の差があった。その時間を越えた書物はそれこそ奇跡だろう。そうして、同じ時代を生きた男も。


「わたしは時の女神です。あなたを、時間旅行へお連れしました」

「なるほど、つまり俺は人類史上初の異次元探索者だ」

「そうかもしれません」

「そうだとして、なんのためにそんな旅行を企てたんだい」


本題はこれだ。時の女神を自称する女は、ただの科学者たる無名の彼をこの地に連れ出した。どう思考を捻っても、男が呼ばれる由縁が浮かばない。由縁がないにしても、この時代の状況を彼はまだ何も得ていないがために、ここにいる理由すらも明白ではないのだ。


「あなたは、呪いを信じますか」


ああ、なるほど。途端に腑に落ちた言葉に、溜息が漏れた。


「エックスマンの呪いのことを、言っているのかな」

「あなたはその当事者です。だからこそあなたにお聞きしたい」

「……」


エックスマン。古来の家柄であるのはそうだが、ここには人の業が生み出した罪咎ざいきゅうが存在する。


「信じていないよ。何故なら、俺は生きているから」

「そう仰ると思いました。しかし、ここにいないあなたは? わたしが未来へと連れ出さなかったあなたは、さて、どうなっていたのでしょう」

「なるほど君は、なかなかに意地が悪い」


女神の言わんとすることはすぐにわかった。あのときの地割れ、あれは真実だったのだ。唇だけの笑みを浮かべ戯ける彼に、女も微笑みをままに首を振るう。


「この時代でも…… 六千という時を隔てたこの未来の世界でも、その呪いは息づいています」

「それを、俺にどうにかしてほしいのかい? この手のものは、科学を持ってしても解読が難しいよ」

「天使の石が、関わっているとしたら」


そういえば、ここに来て出会った彼らは、自分の剣を――剣に嵌め込まれた石を――見て目を丸めていたか。この時代にも天使の石は存在し、そして何か特別な立ち位置にあるらしい。そう思考してから幼馴染の書へと支線を落とした。女の纏う風によって捲り上げられたページは、ティッドを用いた魔術概念、それの属性の項目。地水火風に並び、呪術の文字。ティッドを操る天使の石を食い止めるために必要なものは――


「カナンの石か…… それが、俺がここにいる理由だね」


頷いた女を見て、アイータは今度こそ声を上げて笑った。



・・・



治療を終え講堂へと戻れば、男が一人佇んでいた。天井の巨大ノール模型を見上げ、強く握り締める手には古めかしい書物が納められている。自分の調べ物は終えたのか。どこかもの哀しげに瞳を細める男に、先の魔女の言葉が蘇る。


「旧時代の人間……か」


不意に零せば、男ははっとこちらを振りかぶった。途端に仮面じみた笑みを浮かべると「やあ」と片手を上げる。


「戻ってきたら誰もいないから驚いたよ。治療は済んだようだね」


自身に巻き付けられた包帯に目を落とし、少年は息を吐き出す。看護師であるウィスカは親身だが、大袈裟な治療が好きらしい。彼女に対して抱いた感情を思えば、その過保護具合もどこか心地良いのだが。


「あー!!」


少年の後ろに続いていた女が声を張り上げた。この煩わしさはシスターだ。相変わらず、空気を割るのが上手い。


「それ! その本だ! レガットって名前!」


男と出逢ってから何度も上がる名だ。男に駆け寄り、その書を奪い取ると、リベラはほうと胸を撫で下ろす。


「そうそう、昔ティッドについてこの本で学んだんだ! あー、やっとスッキリした!」

「……見せろ」


ティッド、レガット。どちらも知りたい事柄だった。魔獣との対峙で、この女は確かにティッドと呟いていた。自分にも見えた不可思議なあの光の粒子がティッドなのであれば、彼にも知る権利はある。


「レガット・デオラクス……? まさか、コンラット・デオラクスの関係者か」

「レガットは元帥の妹だよ」


手持ち無沙汰に腕を振るいながら、男が割り入る。薬品の香りが鼻を突いた。看護師のそれとは違う、刺激のある科学者のにおいだ。


「……貴様は旧時代から来たのだそうだな。どういうことだ」

「おや、信じてくれるのかい? 感激だなあ」

「信じたわけではない」


男から顔を逸らし、レガットの書へと視線を落とす。掠れた文字は、ノールの書とよく似ていた。


「ティッドの属性付与……」

「レガットが研究していたものだよ。天使の力を、人間も扱うことができるのか。それの原理と構造についても記してある」


ティッドとは時間の素粒子――その空間の、その生き物の、記憶や年輪を粒子化したもの――であり、神の名を唱えることで契約の証たる魔術へと換えることができる。ティッドの属性とは、その記憶の感情である。怒りは炎を、悲しみは水流を、移り気はそよ風を、警戒は土砂を生み出す。

そう記されている。続きに目を走らせようとして取り上げられた。


「そーそー、このへんすっげえ眠くなったんだよなー」


そうならば貸せと言いたい。しかし女は続けた。


「えーっと、風は大地を克し、大地は水流を克し、水流は火炎を克し、そして火炎は風を克し……か。アンタが言った、草原の獣には炎が〜ってのはこのことか」

「相克属性だね。水流の特異属性である氷魔術は、風属性のフェンリルの前では相殺されてしまうんだ」


男の説明に首を捻り、女は戯ける。聞いていた少年は何も難しく思えなかったが、女は違うらしい。すぐに視線は別のページへと移る。


「ティッドで魔術がね〜…… なんだかイマイチしっくり来ないな」

「どうしてだい?」

「ウチが時詠みって話はしただろ? 時間素粒子を目で追って、五感で視て、その記憶や脈を読み取るのが仕事なんだ。視ようと思えば、ティッドはそこらじゅうにいるし、そいつが魔術を生み出すってんなら、今の時代に魔術が普及していないのもおかしいだろ」


ほらそこにも、と彼女の瞳が金色の光を帯びる。あれもティッドか。周囲に浮遊するそれを目で追い、少年は手を振るう。視ようと思えば、いや、思わなくとも、彼らはここにいる。少年に話し掛けるように、瞬き続けている。煩わしい。


「なるほど、そういう世界になっているんだね」

「どういう意味だ」


ティッドに触れないようにして、頭を振るった。風圧で飛び交うそれは、ホコリと似ているかもしれない。


「君たちが言う旧時代では、ティッドはごく限られたものだったんだ。人間はそれに触れる機会なんてないし、天使だけが魔術を使うためだけに用いていた。だから俺たちは、ティッドないし魔術への対抗手段がわからず、苦戦していたんだ」

「でも古代大戦は人間が勝利した。天使の術を封じる手段を、見つけられたんでしょ」


少女の声。開けたままであった扉から、魔女はこちらを眺めていた。その隣には相棒の男。背中に据えた氷の剣は、ティッドの明滅がうるさかった。


「えっと……誰?」


ああ、また説明がややこしい。ようやくまともに顔を合わせた男に向けて、当のアイータはひらひらと手を振った。


「へえ、アイータっていうんだ。珍しい名前だね! ちょっと可愛い」


初対面でも動じない男たち。呑気な会話に息を吐きカリトの隣へ視線をずらせば、少女も同じようにして頭を抱えていた。しかし次の言葉に、少年の表情が強ばる。


「女の子のような名前だろう?」


全く意識をしていなかった。この時代では珍しい響きの名前であったし、この男の代名詞としての印象でしかなかったためだ。自分のほかにも、そんな名を持つ男がいようとは。笑う男を見つめれば、色素の薄い葵色の髪を揺らしていた。


「この長髪もそう。女の子のような名と、長い髪。これは俺の呪いを誤魔化すためのものなんだ」

「の、呪い?」

「エックスマンの呪い。その家の男児に繁栄は訪れない。つまりはみんな、薄命なんだ。父も、祖父も、俺は顔を知らない」


男の髪を見つめ、同情している自分に驚いた。慌てて、少年は言葉を紡ぐ。


「そんなおとぎ話のようなことがあるか」

「俺もそう思っていたよ」


しかし、と言葉は続かない。訝しむ少年を制して、少女はアイータの隣に躍り出る。彼らが囲む書物に視線を落としてから。


「それが、あなたがここに来たことと関係があるのね?」

「うーん、ないとも言えない」

「なら、ちょうどいいじゃない」


そうしてシスターの手に収められた書を取り上げる。開かれたページは、ティッドの原理概念。


「天使の石…… ノールクォーツの封印に必要な三つの条件。ひとつは氷の剣ね。次に、五つの時。これはおそらくだけど……」

「もしかして、ティッドのことか!」

「てぃっど?」


シスターが大仰に手を叩く。隣でカリトは首を傾げていた。


「ご明察。時というのは即ちティッドの持つ記憶のことね。天使の石の持つ魔力原理がティッドならば、それと見て間違いないでしょうね」

「えーっとティッドって……」

「五つのティッドってのはよくわからんな。そのへんにあるのじゃあダメなのか」

「なあ、ティッドって……」

「表現から見て、何か特性だとか、純度だとか、そういったところが必要なんじゃあないかしら。つまりは、ここにいる五人――」

「ティッドってなんだよぉ!」


喚き散らすカリトに、息を吐き出す女二人。どうしたものか、男はまた涙を滲ませていた。やれやれと、オロファは一から説明を始めるが、この少女がそれにすら既に詳しいことに、もう驚きはしない。


「ってことは、ノールクォーツのティッドとこっちのティッドで、力を相殺して封印するってことだね!」


言った男は意外にも飲み込みが早かった。流れと原理については理解が適ったがしかし、少年は眉間に皺を寄せたまま腕を組む。


「待て。僕の許可なく話を進めるな」

「方法について解読したまでよ」

「その男を連れていくつもりだろう。僕は信用ならない。第一、時詠みである貴様はここでの仕事があるだろう」


いつのまにか頭数にシスターを入れられていたのだ。従者を二人も、納得していなかったというのに、これ以上煩わしさが増えるのは気に食わない。しかし彼らはそれに構いもせず、同じようにして笑っていた。


「元より俺は行く宛なんてないからね。天使の石…… えーっと、ノールクォーツだったかな。それについての知識はこの中で一番持っていると思うよ」

「ウチは閣下に頼まれてるしなあ。それに、仕事に関しても心配はいらねぇな! 今の時代、端末がありゃ場所は拘らねえんだよ」


そういう意味ではない。そうではない。苛立ちが脳を巡り、胃痛を錯覚する。


「あなたの負けね、聖騎士サマ」


思わず頭を抱えた少年に、魔女はいつものように高慢な笑みを浮かべるが、それすらどうでもいいほどに、身も心も疲弊が限界をつついていた。


「……勝手にしろ。明朝、はじめの時報ののちに出立する」

「時報! ……あれ、もしかしてこの部屋って……!」

「今更かよ」


はしゃぎ始める男たちに背を向け、少年は寝床を探す旅に出る。口実に、あの看護師に話を聞くのも悪くない。いやしかし、思考がうまく回らない。辺りに蠢く時間粒子が、少年を眠りに誘っていた。

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