4.跳躍サンシャイン

 いくら夏休みでも、部活動は別だ。今日も今日とて九時から学校で練習。

 シャツとハーフスパッツに着替えると、身の引き締まる思いがする。日差しはあたし達より早くアップを始めているらしく、肉を焦がすようにじわじわ照りつけ、不快指数の高まりを感じた。

 グランドに集まる男女陸上部員達。ウォームアップの軽いジョグにストレッチ、スタートダッシュ十本、走行動作をおさらいするスプリントドリルなどなど――基礎練習で手を抜くような奴は居ない。正確な姿勢と脚力は、陸上ならばどんな種目でもおろそかには出来ない。

 いつもと同じスプリント技術中心の練習をいくつか終え、跳躍の練習に移る。


 ――走高跳ハイジャンプ


 グランドの隅に据え付けた、地上一六〇cmに位置するバーを睨む。助走距離、歩数にして約二〇歩。踏み切り地点からやや斜めに逸れた位置に立ち、姿勢を正す。

 部員の合図を受け、駆け出す。一歩、二歩、スピードよりリズムを意識する助走。風を切る。徐々に速度を上げていく。

 踏み切り四歩手前――ここだ。

 直線からゆるやかにカーブし、バー寸前を勢い良く左足で踏み切って背面から跳び込むジャンプ――!

 バーを越える一瞬だけ白光が視界を灼き、どさりとマットに落ちる。


「……地球の勝ち」


 大の字のまま呟く。身体がバーをかすった。やはり重力ってやつは強い。一年の頃よりお尻が少し大きくなったことも、空中での姿勢制御クリアランスに多少なりとも響いている。

 背面跳びは背中というより、脇腹でバーを飛び越えるイメージと教わってきた。視界に輝ける陽光を映すその一瞬が、あたしはたまらなく好きだ。

 マットからどくと、後続の女子部員が跳んだ。彼女は得意のベリーロール。自分に合った跳び方という選択を、うちの顧問は尊重している。あたしは、空の見えないこの跳び方が好きではない。

 ……つーかそれより。他部員のフォームも見なきゃならんのに、校舎側が気になって仕方ない。

 物陰からこっちに熱い視線を向けてる、バズーカ砲みたいなレンズのカメラがちらちらと見えているのだ。


「ったく。アイツも暇な奴だなぁ」


 レンズから顔をズラし、比翼が小さく手を振ってくる。あたし居る所に比翼アリってなもんで、そりゃ何年もこんなことされてりゃストーキング耐性だって付くさ。

 毎度よく見つからずに潜入できるもんだ。いつも気付けるのは、見られてるあたしだけ。別に何の害も無いし放置プレイに限る。


 いつまでも気にしていても仕方ない。最低でも一六〇は安定して跳べるようにするのが目標だ。この大地からちっぽけな身体を解き放ち、あの空の向こうの紅焔に少しでも近づくために。あたしはこの両脚で今日も跳ぶんだ。

 あたしは屈折して重力に縛られて、大地で野垂れ死にはしない。

 いつか、燃え盛る太陽を掴んで焼け死んでやるのだから。





 自主練も終わって、午後二時。

 家の前まで比翼と一緒に帰ってきた。毎日のようにあたしを観察ストーキングしている彼女曰く、踏み切りの左足がやや重くなっているとの助言。意外に的確だ。太ももの肉が付きすぎたか、とは自覚していた。


「はい、金銀モカくんプレゼント~」

「それパールじゃないっけ」

「拙者は貴金属ではない!」


 比翼のトートバッグから取り出されたモカを預かる。今日はこの子も一緒にあたしを見ていた。『ブカツ』を見学したいと言い出したのは彼の方からだ。あたしが翻意するまで付き纏うという目的もあるんだろうけど、それを忘れてるんじゃないかってくらい、「何度も棒を飛び越える行為に何の意味があるんだ?」と興味津々だった。

 ニオイそうな野生動物をマイバッグに入れることに抵抗を示さなかった辺り、比翼は大物である。


 また明日、と別れて家に入る。一階の居間を覗くと、くつろぐ父の姿があった。今日は日曜日で暇らしい。頬杖をついたまま、ワイドショーに見入っている。

 しばらく背後から眺めてみるも、気付かれない。薄くなったアタマもあって、何だか物寂しい。押したらそのまま倒れるんじゃないかと思うほど、背中には覇気が無い。


「……ただいま」

「おう、おかえり」


 振り返りもせず、言葉だけが帰ってくる。

 周囲に小さなビール缶が三本転がっているのを認め、たまらず溜息が漏れた。いくら休日とはいえ、いい大人が昼下がりから酒に溺れてるのはどうなんだろう。

 小脇のモカが裾を引っ張ってきた。立ち尽くすあたしを見かねたか、ひそひそと耳打ちしてくる。


「父君はアルコールを摂取しているようだな。呑むと気持ちが良いのだろう?」

「大人は、嫌なことをあの液体で全部洗い流せるらしい」

「君は子供というわけだな」

「さぁね。いつもはガキで、大人にとって都合の悪い時だけもう子供じゃないってことにされる」


 敬うべき大人の姿とはこういうものだったろうか。小学生の頃に見た父の背中は、もっと大きかった気がする。老いのせいにするには、四十五歳はまだ若かろう。

 四本目を機械的に呷り始めた。あたしの酒に対する悪いイメージは、八割型この人に醸成されたと言っていい。


「ねえ、モカって蹴爪に毒あるんだよね?」

「うむ。我が最大の武器と言っていい」

「そんでお父さん黙らせられない?」


 提案に、モカはギョッとしたようだった。


「殺せって言ってんじゃないよ。威力調整できん? 痛くなく、眠らせる程度に」

「それは、可能だが……」

「じゃ、お願い。この人、あたしが言っても酒呑むのやめないんだよね」


 両手でモカを抱えて父の背後に近づく。ぼんやりしていてまるで気付かない。

 その首筋に――ぷすっ。


「んおっ」


 カモノハシの後ろ足、そのカカト部分にある蹴爪を刺す。瞬間、父はテーブルにドサッと突っ伏した。傍から見ても、これでは酔い潰れたとしか見えないだろう。効果てきめんだ。

 こうでもしなければ、父は酒を止めない。あたしが何を言っても、のらりくらりとかわして酩酊の海に溺れるだけだ。

 ――七年前から、ずっと。


「これでおそらく、三時間は目覚めないだろうな」

「さっすが。武器も意外と役立つね」


 夕ご飯の頃には起きるだろう。で、食後しばらくしてからまた呑み始めるのだ。これだけのペースで呑んでて肝臓は大丈夫かと思うのだけど、至って健康だというからむしろタチが悪い。

 真っ赤な顔でグーグー寝息を立てる父を見て、浮かぶ憐憫を打ち払う。


「……」


 もう、この人に太陽は掴めない。

 あたしは、こうはなりたくない。

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