第4話 道はどこへ続く?

その日は、何事も波風立たない、当たり障りない一日だった。


探偵として依頼をこなし、彼女を殺すように差し向けられた刺客を適当にあしらう。


心休まらない孤独な日常。


彼女の目の前にはいつも道がつながっていた。


彼女は邪視だった。


彼女は道が見えた。


彼女はそれを彼女の師に押し付けられた。


邪視の能力は人の体を媒介にする。その継承は消して途絶えることがない。


媒体が死ぬ時、媒体が渡したいと思う相手、または、受け取りたいと思う次の媒体が存在する場合継承される。


不意の死亡や継承先が近くにいない場合、どこかの誰かに受け継がれる。


はじめは彼女も師を恨んだ。


どこで調べてくるのか、彼女を邪視だと疑う者たちが、連日連夜彼女の命を狙ってくる。


そんな生活が11歳から今の今まで13年続いた。


師は偉大な人だった。師は優れた人だった。


武に秀で、善を尊ぶ。


人を信じ、捨てられたものを拾い。闇を祓う。


力のある人だった。


彼女はすべてのことを師に教わった。


その身のこなしも、霊や魔術に通ずる知識も、すべて彼がもたらしたものだ。


そして彼がその死に際に、彼女にそれを継承した。


それが最初何なのかわかった時は、頭が狂いそうになった。


目先にずっと続いているのが"道"だとわかってしまった。


そして、彼女はずっと見てきた。13年もの長い月日の間、自身の目の前で途切れる道を、後悔と憐みの目で見てきた。


だが例えばこういうのはどうだろう、今まで見えていたものが何も見えなくなったら?


彼女は困惑するだろうか?


今まさに、自分の目の前に本来見えていたはずのものが一切合切すべて消えていた。


喜ぶだろうか?


13年前と同じ、普通の景色が見えた。やっと普通の生活に戻れたのだから。





彼女は焦っていた。


道が見えない。今まで自分のゆくべき道だと思っていた道が消えてしまったのだ。


信じていたものが消えた。


彼女は思った。普通というのはこんなにも不安と恐怖に満ち溢れたものだったのかと。


ここは電車の駅だ。


時間は夜。彼女の目の前に広がる白と赤のラインはよりはっきりと浮かび上がっているはずだった。


なのに、退屈寝ぼけまなこで電車から降りた時には、既に道は途絶えていた。


「…………?きさらぎ駅?」


聞いたこともない駅名だ。


いつも乗る電車の駅にそんなものはないはずだ。


駅名標には「きさらぎ」としか書いておらず、前後の駅名はない。


周囲を見回してみても真っ黒く塗りつぶされたような森が続いているだけだった。


人の気配も悪しきものの気配すら感じられない。


時刻表はなく、少しの屋根と小さなベンチだけが用意された簡素な駅だ。


唯一続く道の先にはちょっとした小屋が見える。


駅名票もそうだが、その小屋内も窓から光が見えることから電機は通っているのだろう。


気配はないが誰かいるかもしれない。


たしか11時40分発の


「そうだ!携帯!」


コートのポケットから携帯電話を取り出す。


お約束通り圏外になっている。


というか、結名はこういう時誰に連絡すればいいのかいまいち思い浮かばなかった。


警察か?いやいや、なんて説明するんだよ。酔っ払いか精神異常者のいたずらと思われておしまいだろう?


お寺とか神社?お祓いなら自分でもできるし、現実問題としてそういうものではない。


じゃあ病院か?ついに頭がおかしくなりましたって?


というか友人なんて作らないようにしてるし、下手に連絡すると追手をよこすような人間しかいない。


まぁ、こんな場所じゃあ追手も追ってこれまい。


とにかくじっとしてはいられない。


何か探さなければ。


「えっと…次の電車は……?」


薄汚れた時刻表を見るが、剥がれ落ちてしまっており何も残っていない。


まったくもって静かではあるが、よく耳を澄ませばどこか遠くから祭囃子のような太鼓と笛の音が聞こえる気がする。


「ダメね、何もない。中に地図か何かあればここがどこかわかるかも…」


とりあえず中に入ってみる。


スライド式の扉を開けると、使い古されくたびれた裸電球が出迎えてくれた。


なんとも心細いか弱い光だろうか。


チカチカと点滅する電球が影を作る。


見渡しても、掲示板や駅員室だったものがあるだけで、紙や道具は朽ちてしまっている。


「お邪魔しまーす…誰かいますかー?………って誰もいませんよね〜…」


と駅員室に入る。


中は荒らされた形跡があり、棚や机が壊されて書類やそのほかのものが散乱している。


その中でいくつか結名の目を引いたものがあった。


まずは改札鋏。小さなころ田舎町に住んでいた結名は一度でいいからこれで切符を切ってみたかった。


それを夢見て駅員さんになりたいといっていたこともあったと思い出し、つい手に取ってしまったのだった。


だが、すでにほとんどの駅の改札は機械になってしまった今、ほとんど改札鋏を見ることはなくなってしまった。


それを手にしたことにより、思考に余裕が出てきた。


こういう場では、少し気持ちが綻んだというべきだろうか?


「切符切るやつ!名称不明!」


どうやら結名は知らなかったようだ。なんにせよ、警戒心強く周囲を見て、精神を削るよりはよっぽどいいだろう。


「一度でいいから切符切ってみたいな」


そんなことを口にすると、それにこたえるように外の方から音が聞こえた。


単調な電子音だ。


それに注意を惹かれ駅員室の小窓を開けると、先ほどまでは何も反応を見せていなかった錆びた券売機のランプが点灯した。


近くまで行ってみてみると、硬券印刷機と書かれていた。


二つの赤いボタンが薄く発光している。


「…押してもいいのかな?」


なにか嫌なことが起こるかも、と周囲を見渡す。


しかし、依然として現状は変わりないので押すしかあるまい。


使い方はわからないが、好奇心に負けとにかく右のボタンを押してみると、ゆっくりと機械が動き始めた。


がたがたがたと少しうなると、切符が一枚出てきた。


小さいころ使ってた固いやつだ。


切符を手に取ると、結名はついに念願のアレをやる。


紙をくりぬくいい音が聞こえ、さらにカチッととなるまではさみを下ろす。


見てみると、切符に昔と変わらない切り口がついていた。


とても心地が良かった。


「はてさて、お金がいくらかかるかわかんないけど」


と、いってポケットに入ってた230円を窓口のそばにあったカルトントレイに置いた。


「さて…」


と、つぶやくと、再び駅員室に戻り、物探しを始めた。


目についたもう一つのものに近づく。


それはダイヤル式の金庫だった。


傷だらけでへこみなども見られるが、あいていない。


中途半端に折れたバールが刺さっているところを見ると、開けようと頑張ったのだとうかがえる。


しかし、その試みは成功しなかったようだ。


バールに触ろうとすると、指先が当たった瞬間寂しい金属音を鳴らし床に落ちた。


バールはもう使い物にならないだろう。


それならば、と結名はコートのポケットからスマートフォンのようなものを取り出した。


厚さはたばこの箱の側面二個分くらい、長さは大きいサイズのスマホにケースを付けたくらいだ。


「ビクトリノックスにも負けない私のスーパーマルチツール」


それは側面にいくつもの道具がきれいにしまい込まれた十徳ナイフのようなツールだった。


これは彼女が逃亡生活中に自作した本人曰くマルチツールだそうで、その機能は多岐にわたる。


ナイフにのこぎり缶切りやドライバーは当然のこと、盗聴器から赤外線を視認できるレンズまで、文字通りの意味のマルチさがうかがえる。


その中から彼女が取り出したのは、三次元的に展開された針と四方向へ返しの付いた指が付いた道具だった。


彼女はそれを金庫の番号入力のダイヤルにはめ、引っ張って抜けないことを確認すると、中心部についた羽を回転させ始めた。


羽には何か仕込まれているのか速度を落とすことなく回転していく。


それと同時に針が動き、とてつもない勢いでダイヤルが回転し、回転するのこぎりのように鋭い金属音を立てた。


しばらくすると、羽の回転が止まり、結名がダイヤル事ツールを綺麗に金庫から引き抜いた。


鍵の部分が完全にまるまると取れ、ぽっかりと穴が開いてしまっている。


それから、結名はツールから二本の針金を取り出すと、穴に突き入れ押して回した。


すると金庫はカチっという音とともにロックが外れ、開いた。


中を確認すると何枚かの資料がしまわれており、それもほとんど風化と擦り切れで読むことはできなかったが、いくつかの資料はまだ生きていた。


どうやらこの駅で起きる異常現象に対する考察のようなものらしかった。


この空間内にあるものは四つ。


山、この駅、トンネル、そしてその先と後を包む漆黒の森。


森をどこまで進んでも、一定の範囲を再現し続ける。


行き止まりはなく、どれだけ進んでも、端からの同じ距離で戻ることができる。


どうやら山、駅、トンネル以外はすべてその構造となっているらしい。


そしてトンネルの名前は"伊佐貫"、あの祭囃子は山の方から聞こえているらしい。


「3人、人がいる…?」


書類によるとどうにもこの空間に取り残された人間が4人いるらしい。


一人は女性、"ハスミ"と名乗る若い女性。学生のようで非常におどおどした態度だった。彼女との会話は正常に行うことができた。


彼女はしばらくの間、怯えながらここをさまよっていたが少し前から姿が見えない。


二人目は、トンネルの中にいる。「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」と同じ言葉を何度も繰り返している。片足しかない老人。会話は不可能だ。しかし何かしてくるというわけではない。


三人目はトンネルの奥の林にいる。車に乗せてくれるとても親切な男性だ。しかし、彼は狂っている。間違いなく正常な人間ではない。その誘いは好意的だが、あなたがまだ正常な判断のできる状態であれば確実におかしいものだとわかるだろう。


紙には書いてないが四人目がいる、この紙を書いた人だ。


最後の最後にその人からのメッセージが残されてある。


『私は山へと向かってくる。それが果たしてどう因果するのかはわからない。もしもあなたの邪魔になったら、どうにでもしてください。私はもう疲れた。願わくば無事元の世界へ出られることを。』


とのことだった。


「うー…これはまずいかもね…」


完全に入ってしまったようだ。


異世界、異空間、その他もっと別の大きな怪異だ。


だが、ここにいたって仕方がない。


誰かが助けてくれるなんて思ったことがないし、実際人助けをしたことはあっても助けられたことはなかった。


「まずはこのハスミって子を探すべきかしら」


それが無難だが、どのくらいか前の資料ですら姿が見えなかったらしいから、見つかる保証はない。


それならば、トンネルの中とその奥の隣人に話を聞くべきだろうか?


とにかく外に出なければならないと思って外に出た。


こんなにも暗いのに道は見えない。


仕方なくポケットからマルチツールを取り出し、ライトをつける。


ライトで照らして初めて周囲の木々の様子が見えた。


周りは侵入者を拒むように、背の高い草が柵のようになり、木がせまぜまと立ち並んでいる。


太陽もないこの場所で、生態分布的にはありえないだろう。


普通ならこんな生え方はしない。


「何者かの意図を感じるわね。ゲームみたいなものかしら」


結名はちょうど、ゼルダの伝説のような3Dゲームを想像していた。いけないところには当たり判定や高いブロックを設置して通れないようにしてある。


だが、それであきらめるわけではない。


もちろん、登ってみる。木の上に。


一番高い木で地上から約30mほどあったが、なんとか上ることができた。


登った木は杉だったが、周囲を見るとヒバなんかも見える。


虫も生息するようだ。蜘蛛がいる。


ただ動物はいない。


そしてその高い木から見渡すと、この世界の限界が見えた。


どうやらここは黒い壁によっておおわれた閉鎖空間で、あの書類の通りなら箱庭構造になっているらしい。


なにか条件を満たさない限り、この空間から物理的に出ることは不可能のようだ。


反対側の山の方は山があるということ以外はさっぱり見えない。


そしてあの不愉快な祭囃子は山の方から聞こえているようだ。


シャンという耳について背筋をはいずるような鈴の音と、ドンドンという腹の底から震え上がらせるような太鼓の音。


それが不協和音を奏で、不規則なリズムに乗って鳴らされている。


一体誰が、何のために。


木から降り、線路を沿って歩いていく。


電車が来るなら危険な行為かもしれないが、おそらくくるまい。


なぜならトンネルの中に住人がいるのである。


電車が来るならそこには時空の切れ目が存在するはず。


だから来ない。


結名はトンネルに向かって歩き始めた。


心細いライトの光のみが頼りだ。


トンネルまでたどり着くと、ライトを上げプレートを確認した。


"伊佐貫トンネル"間違いないようだ。


この中に、片足の老人がいるはずだ。


片足立ち、ではなく、片足ということだから、つまりそういうことだろう。


結名は大きく息を吸って、最新の注意を払いながらトンネル内を進んでいく。


照明はなく、どうにもススっぽい。


もっと言うと石炭を燃やしたようなにおいがする。


まさか蒸気機関車がここを走っているのか?


しばらく歩いても、出口らしきものは見えない。


しかし、その片足の老人は見えた。


この暗闇だというのに、はっきりとその姿が見える。


意味が分からないが、もともと意味の分からないものが見えていたので、あまり考えなかった。


ただ、自分が見ている"道"みたいに、視界情報がたとえどんな色だったとしても、はっきりと視認できる。


つまり自分のイメージ上に存在しているか、人間が視認できる現象として光を放っているかのどちらかだろうと思った。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


「………」


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


「…」


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


感情も抑揚もない。ただただ機械的に、その言葉を繰り返している。


なにも意志を感じられない。ただそこにいるだけ。ただそれだけ。


不気味、としか言いようがないが、乾いた笑いならでる。


面白くもなんともないが、声をかけても無駄だという思いがわいてくる。


そんなことをしようと考えた自分が馬鹿らしくて出る笑いだ。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


本当に一定の間を開けて言葉を話しているか、計測してみる。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


6.27秒。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


6.35秒。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


まぁ、大体同じくらいだろうか?


6.24秒。


声を聴いてから、ストップウォッチを押すまでのタイムラグにしても少し大きすぎるかもしれないが、大体6.2秒から6.3秒程度のペースで繰り返していることが分かった。


そろそろゲシュタルト崩壊しそうだった。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


句読点なく一言で読み切るのも原因の一つだろう。


結名は彼から離れていく。


「危ないから線路の上を歩いちゃ駄目だよ」


少し後ろが気になったが、その声はどんどん離れていく。


トンネルから出て、安心した瞬間耳元で声がするかと思ったがそんなことなかったので世の中ってこんなものかってちょっと冷めた。


トンネルから出て少し歩くと踏切があった。電柱があって電灯がついている。


白色の電灯で、小さい虫がたかっている。


手前の道は途絶えているが、山への道は続いているようだ。


となると次出会えるのは車に乗せてくれる男性だろうか。


もしかすると彼から話を聞けるかもしれない。


少し歩くとその男性が見えてきた。


「こんな時間に女性一人でいちゃあ危ない、街まで送ってあげよう」


うんなるほど。これはあやしい。


「ただの散歩です。これから山に」


「こんな時間にかい?なにか目標が?」


「山を越えるのよ」


「そうなら私が載せて行こう。さすがに女性一人で…」


「それはいいわ、遠慮する。でも一つだけ教えて頂戴?」


「何?私にできるならなんでも」


「今何時なの?」


男は腕時計を見る。


「今は22:26分だね」


「あっそ、ありがと」


男は車に戻り、たばこをふかす。


結名はおなかがすくこともないので、のんびりと山への道を登っていく。


意外なことに結構鋪装されており、はっきりとした道路が続いている。


雑草や木々も道にはみ出してこない。


それを見て結名は確信した。


この空間は明らかに制御されている。


超次元的な何かによるものだ。人間やその精神構造によるものではない。


仮にもしこれが人間のものだとするならば、とても崇高で信心深い人物だろう。


それに知識がある。偶然ではなく何かの目的をもって作られたのだ。


それがなにかは、調べなければわからない。


ただ山に近づくにつれて、あの鈴と太鼓の音は次第に大きくなっていった。


「結構うるさいな」


近づいてみるとかなりやかましい。


そりゃあ、かなり歩いたし駅からは離れているが、この閑静な空間でも耳を澄まさなければ聞こえないくらいの音量だったのだ。


近づいてこんなにも大きい音だとは思わなかった。


まるで頭の中から響いてくるようで、とてつもなく不快だ。


行動を制限されるほどではないが、音は当てにならない。


いや、逆に異音がすればすぐわかる。


騒音ではなく、あくまでリズムをとった振動だ。


その通りに、車が近づいてくるのがすぐわかった。


車は当然、道を走ってくる。


結名は草根を押し倒さないように、奥へと飛び込むと草むらで息をひそめた。


車はゆっくりと通り過ぎ去っていった。


通る間、先ほどの男が血眼になって車からあたりを覗きまわっていた。


こちらに光源はなく、あちらも直接ライトを当てていたわけではないため、見つからなかった。


間違いなく男は結名を探している。


でなければ、時速10kmも出さずにわざわざ周囲にあれだけ警戒の目を向けてのろのろ運転したりしない。


車を見送った後、結名は道にもどろうと体を起こしたが、奇妙な虫の羽音のような音が聞こえ再び身を潜めた。


見れば道路を飛んでくる大型の飛行物体が確認できる。


まさに妖虫と呼ぶにふさわしい風貌で、口は三つ足が10本の実在するもので例えるとすれば甲虫類に似ている。三角形の皮質の羽を持ち、わずかな光を反射する黒光りする毛が生えている。


人間の感覚で言えば酷くおぞましく、不気味で、ホラー映画にだって出てきはしないだろう。


作りものだとすればチャチなものに見えるかもしれないが、それはその吐き気を催すような恐怖の羽音とともに、生物としてうごめいていたのだ。


それを目で追うと、その先には、何匹かそれらが到着したようで、ともに奥へと向かっていった。


太鼓と鈴の音で気づかなかったが、空に目を凝らすと先ほどの生物が何十匹も飛び交っている。


それらは互いに何かを気にしつつ、無意識化で理解しあったように動き回っていた。


「この先にこの空間の中核になるものがある」


確信した結名は、タイミングをみて草むらから走り出した。


すぐさま車に追いつき、空いていた窓からナイフを突きつける。


すると、一瞬、男の顔が歪み、その中から何かが飛び出してきた。


とっさに、念のために握っていたもう一本のナイフで、飛び出してきたものを貫き裂く。


それは先ほどの妖虫だった。


妖虫は、ナイフに刺された瞬間は、時間が止まったようにピタッと止まっていたが、1秒も経たないうちに体と足を精一杯にひねり、ばたつかせ、この世のものとは思えない残酷な断末魔の叫びをあげたのちに絶命したようだった。


男は気を失っている。


少し罪悪感を感じながらも、シートベルトをしていない彼をすぐさま車から引きずり降ろし、車に乗り込む。


そして、ギアとアクセル、ブレーキ、クラッチの感触を確認すると、車を急発進させた。


異変に気付いた虫たちが、車へ体当たりしてくるが、幸いなことに車の方が頑丈だったらしい。


止めることが不可能だと考えたのか、虫たちは先ほどの歪みを利用して車の中に入ってきたが、結名のナイフに皆粉々にされていった。


どうやら物理的干渉を避けることができるようだが、このナイフはダメだったみたいだ。


そして少し山道を走ると、山にふさわしくないものが見えた。


それはエジプトのピラミッドのようにも、超未来的な宇宙船にも見える。


幾何学的で、超科学的な空間に突き出る形成物が、そこにはあった。


結名は気にすることなく、車で突っ込んでいく。


ぶつかることはなかったが、その中は真っ白で先ほどの暗闇とは真反対。


突然の視界の明暗に、目がくらみ、目をつぶった結名は、すぐさまブレーキを踏みこみ、ハンドルを切った。


幸い近くには何もなく、スリップしたように車は停止した。


しばらく、苦痛に表情をゆがめていたが、痛みは消え、周囲を見渡すと、真上になにかあった。


それは大きな脳みそのようにも見えたが、無数のウジの塊にも見えた。


結局それがなんなのかさっぱりわからないが、この空間の中枢となるものなのはわかった。


あれを破壊すればこの空間は崩れ去る。


しかし、あれを破壊する方法がないうえ、崩れ去った空間がどうなるのかも予測がつかなかった。


中に入ると、あの音はさっぱり消え、失聴してしまったかのように思えるほどの静寂に包まれていた。


下に目を戻すと、先ほどとは一転し、黄金色の祭壇のようなものが見えるようになっている。


もっと砂っぽかったら完全に古代エジプトを再現しているようにも見えたが、せわしくつながれた配線や、わけのわからない造形の器具などを見て、おそらくさっきの妖虫達が作った道具なのだろうと考えた。


いくつか並んでいるケースらしきものにはボタンがあり、押すと中の様子が見えた。


脳だ。


人間の脳が入っている。


よく見ると配線は壁を伝って、あの天井の何かにつながっているようだ。


人間の脳があれを再現している…?


あのおかしな装置をつかって?


もしそうなら、きっかけがある。


この空間から出るためのきっかけが。


そうして結名はあの駅が映し出されたモニターを見つける。


どうやらここから時空のコントロールをしているらしい。


人間を迷い込ませ、脳を缶に入れて利用する。


こんな恐ろしいところとは早くさよならしたいものだ。


やがて、あの羽音が聞こえてくる。


1つや2つではない。


重なって大群になっているのがすぐにわかった。


やるべきことはもうこれしかない。


システムを落として、この空間の維持を不可能にする。


書かれていることはわからないが、これが1つの創造空間だとすれば、実体をもったままならば、このシステムがダウンし、空間が崩壊しても、元に戻ろうとする弾性が働き、現実の世界に戻れるはずである。


よもや、考えている暇なんてない。


すでに危険は背中まで迫っている。


結名は決心して、装置を砕き破壊した。







気が付くと、駅のホームに立っていた。


「出発いたしま〜す」


自分はすでに降りていて、電車が出発するところだった。


駅名を見ると、"月宮"となっている。


今度の街はここか。


結名はそう思った。


ニヤリと笑った彼女の目の前には道が開いていた。


これから先、ずっと続いていく道が。

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