第3話 ジェヴォーダンの怪物

夏休み明けにあるコンテストに応募するため、蒼生は一人美術部の部室で絵をかいていた。


別に絵である必要なはい。彫刻でもアートでもなんでもいい。


だがしかし、何でもいいといわれれば余計に難しい。いっそのこと何かテーマでもあればいいとも思う。


蒼生は案の定、どういった作品にするか絞れずにいた。


人のいない夏休みの校舎に一つの足音が響く。


「おーっす美山…」


美術部の扉を開けて悠生が現れる。


「んぁ?高嶺か…よく来たな、と言ってやりたいが、今は切羽詰まってて相手にできない」


「別にしてほしくて来たわけじゃねぇよ。ほら、これもってけ」


左手に持っていたパンパンのビニール袋を机の上に置く。


袋からは今にもあふれそうなくらい野菜が詰められている。


「??なんだこれは?」


「みりゃわかんだろ、野菜だよ」


「いや、だからなぜに野菜だ?」


疑問を払しょくできない蒼生は、筆をおき野菜を取り出して見つめている。


「ああ、親戚の家で作ってるんだが、毎年出荷する奴以外、まぁ形の悪いものとか?食いきれなくて捨てちまうらしくて、もらってきたんだ、そのおそそわけってとこか」


悠生はポケットから携帯を取り出し、いじくっている。


野菜から目が離せない蒼生は手に取った野菜のみずみずしさを確認しながら確信した。


「これは…いける…いけるかもしれん…!!」


そうつぶやき、悠生につかみかかった。


「この野菜ってもっともらえるかな!?」






「なぁ、美山いったい何をするつもりなんだ?」


悠生は部室に持ち込まれたカセットコンロと鍋でお湯を沸かす蒼生を見てそう言った。


何を隠そう蒼生は料理が点でダメで、家でも料理禁止令が出る程である。


そんな蒼生が野菜をもって、鍋に火をかけている。


当然悠生からしたら嫌な予感しかしない。


「心配するな、料理は作らない。今から作るのは染料だ。ほらぼうっとしてないで野菜きざめ!」


そういっていくつかの野菜を袋から取り出す。


その間蒼生はキャンパスに布を張っていた。


それを見た悠生は何となく察した。


「美山、草木染めか…?」


草木染めとは植物の皮や葉などを煮て作る染料を用いた布染めの手法だ。


まさかそれで絵を描こうとは…。


「その通りだ。すでにミョウバン、媒染液には浸しておいた。後は染料を作るだけだ」


蒼生のやる気に火をつけられた悠生も黙ってはいなかった。


珍しくやる気をだしている。手際よく野菜を剥き、きざんでは鍋にぶち込んでいった


そしてなぜか片手間に夏野菜でドライカレーを作っていた。


昼過ぎにはすでに染料は大体できており、カレーを食べてから作業に移ることにした。


「いやー、いつ食べてもどこに嫁に出しても恥ずかしくない味だわ。むかつくな」










時刻は夜七時過ぎ、悠生は洗い物や掃除を終えて半分居眠りをしていた。


そして蒼生はついに…


「できたぁぁぁああああ!!!」


その声に驚いて飛び起きる。


「んぁなに!?できた?お、できた!?」


「あー、だめだめ!」


見ようとして近寄ってきた悠生を止めて作品に布をかけてしまう。


「これはコンテストに出すまで他の人には見せないの!」


「なんだよけちくせぇ」


「でも、めっちゃいい作品だからさ、ぜひ会場で見て驚いてほしいんだよ!」


蒼生の言葉に不満半分で納得した悠生は頷き、蒼生の片付けの手伝いをする。


まったく気にならなかったといえばうそになるが、コンテスト当日、案外評価低くて蒼生のドヤ顔が崩れる様を想像するとそれはそれで楽しそうだなと思って何も言わなかった。


ただ、異変はすでに始まっていた。


始めに違和感に気が付いたのはその日の帰り道のことだ。


「俺はこの後、カレーの残り結名さんのところに持ってくけど、お前どうする?」


「私は…」


不意に蒼生が後ろを振り向く。


「?どうした?」


「あぁ…いやなんでも…」


口ではそういっているが、目はあたりを見回している。


体を抱きしめるように腕を組んでいるのを見ると、相当警戒しているようだ。


「なんだか誰かに見られているような…」


「誰がお前を見んだよ。それに後をつけるにしてもここじゃ見通しが良すぎる」


電柱や家屋はあるにはあるが、田んぼが広がっており、さすがに考えられなかった。


「なんか気味悪いな…今までこんなことなかったのに」


そういって早歩きで前を歩く。


悠生も一応周囲に警戒の目を向けてそのあとを追う。


その日はそれ以上何もなかったが、蒼生の不安は杞憂ではなかった。


ある朝のことだった。悠生の携帯に着信がある。ランニングの最中だったが件名を見ると蒼生からだった。


普段は何かあってもメールで済ますことが多いがこんな朝っぱらから電話をかけてくるとは何事なのか。


「おっはろ〜、珍しく電話をかけてくるなんて、俺の声が聞きたくなっちゃったのか〜?」


いつものように皮肉めいた憎まれ口で電話に出るが、返事はない。


「おい…無視かよ…」


「たっ……かみね……ふっ…ぐすっ……」


電話口の彼女は声を押し殺して泣いているようだった。


「おいっ…、どうした何があった?」


声を潜めて問いただす。しかし、いくら聞いても焦りと悲しみから要領のある答えを得ることができなかった。


ヒステリーを起こしているわけではないが、不安発作からくる混乱で一時的に話せない状態になっているようだ。


「とにかく今すぐ行く、家にいるんだよな!?待ってろ!」


そういうと携帯を切らず、今来たランニングの道を全力疾走で戻っていく。


蒼生の家の前まで到着し、叫ぶ。


「美山ァ!どこだ!!??」


鼻から脳に突き抜ける悪臭が、蒼生の電話から聞こえるすすり泣く声で剥き出しになった感情の表層を逆なでする。


吐き気を催すような表現しがたい悪夢のような臭いに、顔をゆがめるが、玄関の横に目を移すと蒼生が携帯電話を耳にあてたまま放心しているのを見つける。


「おいッ!!美山!どうした!何があった!」


悠生が体をゆすると、力なく蒼生の手から携帯電話が落ちる。


家の軒下で光の指さない蒼生の瞳の先には、惨たらしく食い散らかされた犬の死骸が横たわっていた。


もう元が何だったかすらわからないが、残った毛並や首輪の残骸から蒼生が飼っていたオールドイングリッシュシープドッグのウィルだと、そう判別した。


あまりの残虐性に背筋が凍り、体が硬直していくのがわかった。


いったいどれくらいの時間が流れただろうか、それはほんの一分にも長い一時間にも感じられる圧縮された体感速度のなかだった。


悠生を超越した感覚から現実に呼び戻したのは、腰に衝撃が伝わってきたからだ。


蒼生だ。


悠生の腰に腕を回して力づよく抱きしめている。恐怖と悲しみで体が震え、腹のあたりにじんわりと熱く涙が広がり上着を濡らした。


あまりに突然の出来事で、頭が真っ白になり、とにかく蒼生をなだめるように手を添え、呆然とした感覚で周囲と現実に思案を巡らせた。


もちろん正常な思考だったはずがない。強い脅迫観念にも似た恐怖が脳の領域を塗りつぶしていく。


空白の時間は、蒼生の父親が朝刊を取りに来るまで続いた。


動けなかったのだ、一歩も。


ウィルは蒼生が6歳の頃にだだをこねて飼い始めた犬で、幼馴染の悠生もかなり遊んだ記憶がある。


迷子になったときは親よりも早く二人を見つけて家に連れ帰ったし、遊ぶ時も一緒だった。


ここ何年かは外で駆け回って遊ぶことも少なくなり、年も取ってかなり元気がなくなっていたが、いまだに悠生とは仲良くキャッチボールなんかもするし、まりるが遊びに来た時も彼女のおしゃべりを楽しそうにきいていた。


ウィルは賢い犬だった。


悲しい時は寄り添い、楽しい時は笑い合った。


今、悠生の頭には、舌の独特な触り心地と温かい体温が優しく指先を舐める感覚が強くフィードバックしていた。


目頭にどんどん熱いものがたまっていく。


神経が皮膚を突き破るようなピリピリとした痛みが、心臓から体の末端まで伝わっていく。行き場のない逃しようのないどす黒い怒りがはらわたを貪る。


ましてや、声を殺してなく蒼生の腕の感覚が脊髄に伝達するたび、彼女の思いの深さと敬意や哀れみが混ざった大きな感情の波が、なにもしてやれなかった自分の無力さを反芻するように脳を揺らした。


呆然と涙を流しながら立ち尽くす悠生の指先に冷たい朝の風が吹き抜けた瞬間、完全に理解してしまった。


ウィルがもういないことに。


そして二人は人目をはばからず泣いた。お互いに抱き合って言葉にならないどうしようもない呻きと、親友の名前を叫んだ。


時間が経って、泣きつかれて寝てしまった蒼生を見て、なんとか落ち着きを取り戻せた悠生は拳を強く握りしめた。


爪が握りこぶしの中で皮膚を突き破り出血する。


彼が涙を止めたのは、けして彼の心への傷が浅かったわけでも、ましてや冷酷にも開き直ったわけでもない。


決意したのだ。覚悟したのだ。


必ずしもこの手で我らが親友の仇を討つと。













悠生の覚悟はすぐ行動となった。まずウィルの遺体に残った傷跡の情報、周囲の監視カメラの映像、目撃証言など叩けるものはすべて叩いた。


事件が起きたのは大体3時過ぎ、出歩いている人間なんていない。


傷跡からは有益な情報は何も出なかった。歯形やDNAなども残っていたが、既存の生物とは根本的に異なったもので常軌を逸しているということ以外はわからなかった。


残るは監視カメラのみだが、蒼生の家を直接移しているわけではないためその姿こそ確認できなかったが、ウィルの威嚇する声と聞いたこともない不協和音な音が録音されていた。


腹の底から息を吐いて喉を鳴らしたような低くくぐもったような音だったが、その中にはビデオテープを巻き戻しているときのような音に似た音が同一化して声という形質をもって聞こえてくるような音だった。


いや声か。


そして、一人の男の悲鳴。みすぼらしい男がカメラの前を通る。


悠生はその男に見覚えがあった。悠生の家の物件に住んでいたが家賃滞納で部屋を追い出された人だった。


一瞬恨みを晴らすためにそんなことをしたのかと早とちりで、頭に血が上ったが、よく見ると彼は怯えて何かから逃げ出すかのようにも見えた。


悠生は月宮警察署を裏口から抜け出すと、件の男がいつもうろついている河川敷の寝床に走った。


河川敷に行くと、あの男は座っていた。毛布をかぶることもなく、何かからすぐ逃げられるように荷物をまとめているようにも見えた。


近づくと、男は目を覚まし、すぐ立ち上がった。


悠生は河川敷近くのコンビニで買ったパンを男に投げると、男は口を開いた。


「これはこれは高嶺さんのところの坊ちゃんですか、どうかしましたか?」


「ききたいことがある」


「答える義務はありませんね」


「お前を生かしておくか殺してしまうかの大事な質問だ、しっかり答えろ」


「ははは、高嶺さんは口がうまいが、君は嘘が下手だ」


「お前、たしか右利きだったよな」


それにこたえる間もなく、悠生はふらりと近寄る。男はいきなりのことに突飛ばそうと両手を前に突き出すも、そこはすでに悠生の間合いだ。


腕を簡単にかわし、伸び切った腕に一撃打ち込み左腕の肘を砕いた。


そして蹴りで足を狩り、胸ぐらをつかんで地面にたたきつけた。


ようやく男は自分が選択できる立場じゃないことを悟ると、答える、と叫んだ。


「お前昨日の夜、美山輝幸の家の前を通ったな、その時見たものを洗いざらい吐け」


男はそれを聞いた瞬間、激しく暴れようとするが腕は折れているし、マウントを取られて、襟を握られ拳が胸を圧迫するしで、逃げられないことがわかるとおとなしくなった。


「い、いやだ、話したくない!思い出させないでくれ!」


男は叫んだが、悠生にはもうわかっていた。


「今言わなければお前はあれに食われるだけだ、あれは見たものを逃がさない呪いそのものだ」


と、もちろん悠生にはウィルを食い殺した生き物に見当なんてつかなかったが、相手は大した知識のない一般人、適当な脅しやはったりでも十分だった。


男は観念したらしく、とうとう消え入りそうな声で話し始めた。


突然強烈な悪臭がしたので周囲を見回してみると、明るい月の光が照らされてはっきりと見えてしまったそうだ。


頭。


突然、空間をゆがめたようにしてその頭と判別できるものが宙に浮いていた。


なんと表現したらいいのか思いつかないが、それはがっしりと結合したくすんだ色の布袋のようにも見えたが、とても奥行きがあって幾多にも口と目がついていた。


まるで、立体の図形を二次元に表したときの奥行きのように、その布のような皮膚とでも呼ぶべきものは、透明でもないのにその裏側の底辺が見えているようだったという。


何よりも最悪だったのはその中に見える舌とも呼べる触手のような器官だ。


そしてその頭が完全に見えるようになってからは、次は胴体と思わしき器官が物理的関係性のない場所からゆっくりと指輪から太い関節を抜く時のようにして現れた。


四つ足で太い脊髄から好き放題自由な方向に肋骨が伸び、不透明な煙のような肉体を持っており、その煙のような肉体が風で伸びるような尻尾を伸ばしていたと男は証言する。


また、煙は滴っており、完全にそこに姿を現すまでに水たまりを作ったともいった。


嘘のようにも思えたが男の目は本気だった。そうでなければ気が狂っている。


とにかく悠生はこれを元手に探すことにした。


男を離してやるとすぐさま救急車が到着した。


初めから読んでいた通りの、完璧なタイミングだった。


救急車が行くと、すぐさままりるに電話を掛ける。


父親の代わりに、ほかの地区に向かいお祓いや祈祷の仕事をしているとのことで、屋敷にはいない。


うまくつながって電話に出てくれればいいが。


「もしもし、悠生?」


つながった!


「まりる!よかった、聞きたいことがある、圧倒的性急に早急にだ」


悠生の声色から重大さが伝わったのか、折り返すと言って切って、ちょうど2分後にかけなおしてきた。


「まりる、悪臭立ち込める霧のような不定形の生物をしらないか?」


「それだけでは何のことかわかりませんわ、きちんと何があったかを教えていただかなくては」


「今朝ウィルが殺されているのを見つけた。目撃者の男の証言からわかったことだ。次元超越的な見た目をした、悪臭が立ち込め、煙のような肉体が滴る怪物だったそうだ」


「次元超越的な…ですって…!!」


まりるはかなり動揺しているらしく、普段あまり声を荒げないのに珍しく大声を張り上げた。


「狙われているのは誰!」


「え!?狙われる!?あぁ…いや、多分美山だと思う」


「今あなたは部長さんの隣にいるのでしょうね?美山蒼生がすぐそばにいるのでしょうね!?」


「あ…いや、俺は情報あさってて…」


「なんてこと……、すぐさまそっちに戻るわ、すぐ美山蒼生のそばに戻って!絶対に離れちゃダメよ!それから探偵さん、九十九結名も呼びなさい!猟犬が来たと!」


まりるはそれだけ一息に伝えると、早く動く!といって、一方的に電話を切った。


よくわからなかったがこの手のものはまりるが詳しい、悠生は蒼生の家を目指し走りながら、結名へ電話を掛けた。








「ああ…悠生君……」


事件に集まった親族たちもいる。


蒼生が目を覚ましたらしいが、どうにもその様子がおかしい。


楽しそうに笑っているのだ。涙を流しながら。


「あははは…ウィル、高嶺だぞ〜…」


その目は笑ってなんかいなかった。虚空を見つめて口角だけが吊り上がり、ぶつぶつと独り言を話している。


その蒼生の頬を両手でつかんで、悠生は蒼生の目を見た。


「ウィルは死んだ」


はっきりとそういった。


「そんなわけないだろ?高嶺、ボケたのか?ウィルは………ウィルは死んでなんかいないッ!!!」


蒼生が大声をあげて叫ぶ。


息も絶え絶えになって、半狂乱になって叫ぶ、爪が、振り翳された拳が、悠生の体を傷つけるが、悠生はピクリともしなかった。


自分の抵抗が無駄だとわかったのか、それとも怪我をさせた罪悪感からか、蒼生の手はすぐに止まり、口調も弱弱しいものへと変わっていった。


「ウィルは…………うぃる…は……」


「死んだ、殺された。だが美山お前は助ける」


悠生が蒼生を抱きしめる。するとまた、蒼生は泣き始めた。


他の親族たちもそれを見て、いたたまれなくなったのか、それぞれ部屋を後にしたり、隅によったりした。


「なんでウィルがあんな目に合わなくちゃいけないの…?」


蒼生が弱弱しい声でそうつぶやいた。


「私…何もしてないよ…?高嶺も知ってるよな!?私は何もしてない!!」


「俺だって皆目見当もつかないが、まりるが来る、結名さんも呼んだ。起きちまったことはどうにもならない。さっさとカタをつけるッ!!」


怒りに体を震わせ握りこぶしを蒼生に見せるようにして前に出す。


蒼生の母が蒼生を落ち着かせようと、ココアを持ってきてくれた。


「はい、悠生君も」


蒼生が決めた悠生のカップに注がれたココアだ。これもウィルがここに来てすぐに買ったものだった。


「どうも」


「悠生君熱いの苦手だから、氷一個入れといたからね?」


それを聞いて蒼生が笑う。


悠生はいつもみたいに突っ込んだり茶化したりすることもなく、


「やっと笑ったな、やっぱりお前は笑ってた方がいいよ、俺もそっちのがやりやすい」


とだけ言って、ココアを飲みほした。


二人を見て、安心し、外で一服しようと立ち上がった親戚の一人が部屋の中の異質に気が付いてしまった。


「…?なんだ?臭い!?………?なんだこれ…?」


そこには、話に聞いた通りそのままの、超立体構造の薄汚れた布袋のような化け物の頭が宙ににじんでいた。


「——————————ッ!!!」


悠生はそれを見た瞬間声が出なかった。それはあまりにも異質で、あまりにも異形を形成していた。


「ぜっ——————ッ!!全員それから離れろぉぉぉぉぉォォォ!!」


悠生は叫びながら走り出していた。反射的にだ。


そしてちょうど家に到着した結名の声が聞こえた。


「悠生君!これをッ!!」


結名が投げたのはナイフ。エッジから返しの付いたごついナイフだった。


上半身を右重心にひねり、そのナイフを左手で受け取る。


強く握りしめるとそのまま、ひねりを利用して握ったナイフの柄を右の手のひらで押し上げさらに威力を高めた。


テニスのジャックナイフのようにして、ひねられたしなやかな筋肉が元に戻る勢いを利用した一点に集中した破壊のエネルギーはその不気味な頭蓋をぶち抜き深々と突き刺さった。


しかし悠生は追いうちの姿勢を緩めない。


突き刺さった手ごたえを末端の神経が認識した瞬間、さらに左足を軸にして体を一回転させ、華麗な円を描き悠生の右足が振り上げられる。


その回転エネルギーを限界まで収束させた旋風脚はさきほど悠生が突き刺したナイフの柄を芯でとらえ、頭蓋を貫通する強烈な一撃となった。


いつの間にか化け物の後ろに回り込んだ結名がそのナイフを掴むと、すでに構えていたもう一本のナイフとともに、全体重をかけてXを描くように振り下ろされた。


ついに化け物は不浄な液体をまき散らしながら、その頭をよじらせるようにのたうち回った後、不気味な不協和音を鳴らしピクリとも動かなくなり、やがては空間ににじむように消えていった。


「仇を…討った!?」


呆然とそれを後方から見ていた蒼生が、安心したように息を吐いたが、結名と悠生は警戒を解かなかった。


「まだよ、蒼生ちゃん。あいつはね、しつこいのよ。原因を消すまでは、またあなたを追いかけてくるわ」


それを聞いた瞬間、蒼生が青ざめていくのがわかる。


「なんか有効な手段とかないのか?」


悠生が問いただそうとすると、それを制止し


「その前に、さっきのやつの液体に触れた人はその個所をしっかり洗い流してください、あなたもよ悠生君。人間の皮膚を侵食して化け物に変えるわ」






「あれはとがった世界に住むティンダロスの猟犬と言われる、すべての不浄をかき集めた存在、まぁ化け物よ」


結名が蒼生を献身しながら、説明する。


「とがった世界、具体的には120度以下の鋭角からこの三次元空間に出現し、狙った獲物を時空の果てまで追いかけていく。一回撃退するとあきらめてくれることもあるけど…。今回の奴はしつこいわね」


「美山、そういえばなんであんな朝早くから起きてたんだ?」


悠生は今朝の出来事から思い介してみた。


「…鼻を突くような悪臭がして気持ち悪くなって、水を飲みに下に降りたの。そしたら玄関の扉の所に赤いのが見えたから何かと思って出てみたら………」


「そうか…、結名さんあの悪臭はいったい何なんです?」


「先ほども言った通り、あれはすべての不浄の集合体。恐らくあの臭いはこの世界ににじみだしたときに収束しきれない不浄が周囲に及ぼした影響なのでしょう」


結名は蒼生の体を調べ終わると、服を着せなおしてあげる。


その後、少し頭を抱えてこう言った。


「困ったわね、原因がわからないわ。魔術とかも検出できないし呪いもなし、もしかして最近時間を越える体験をしたことがある?」


なんてまじめな顔をして聞いてくるものだから、首をかしげる以外に答えようがなかった。


「これはほんとに困ったわね。まりるちゃん待ちかしら」


そのあと、まりるの到着まで結名の言う通り二度ほど猟犬の襲撃があった。


結界に体当たりしそれを破壊しようとしていた。不定形な体が衝撃により引きずられる様は、内から見ている者たちに底知れない恐怖を与えた。


そして約束通り、まりるが来た。


白い巫女装束のような儀式礼装のまま、自家用車で帰ってきたということは、かなり急いできたのだろう。


「二人とも無事!?よかった…」


それこそがまりるが二人を思う絆のあらわれそのものなのだろう。


大人たちも神代家の一人娘が出てきたことで少しざわついているようだった。


結名が蒼生の状態を伝えると、それを聞いてすぐ二人のもとへと歩いてきた。


「襲われ始めたのはいつ頃で、その時何をしていたのか、教えてくださいますか?」


蒼生はゆっくりと息をすると、あの日、二人で帰路を歩いていた時のことを話し出した。


しかし、結名も言った通り、なにもおかしいことはない。


どういうわけか、あの忌まわしき不浄の塊に追われることとなったのである。


「…本来ならば、彼らは自分たちの目に留まったものしか追いかけることはないのですわ。彼らは私たちと異なる次元に生息しているため、時空を超えるなど、特殊な条件下で特殊な事をしない限り起こりえない事象でしか彼らには関与されない」


「しかし、現に美山はあの怪物に追われている」


外であのおぞましい声が聞こえる。結名がコートから引っ張り出したブレード上の武器で応戦しているのが見える。


まりるがその様子を見て、今回の異常性を再確認する。


「今回のあれは退散させても追いかけてくるのね。本来人間に退散できるものではないのですのに、まぁ探偵さんと悠生がいれば言うほど不可能ではないのでしょうけど。」


退散させればあきらめるはずだ、とまりるは付け足した。


つまり今回の猟犬の登場はとてつもなく異質で異常なのだ。


「…あり得るとすれば"印"ですわね」


まりるが閃いたように言う。


「…?印?」


「そうですわ、悠生、空鬼は覚えていますわね?」


空鬼とは空間や次元を自在に移動することができ、猿人類とも昆虫ともつかない巨大な黒々とした狂気的な姿を持つ独立種族である。


空間や次元を移動できるといっても、彼らはヨグ=ソトースの時空間のみを移動できるのであって、猟犬のようにヨグ=ソトースの管理外の時空間にいるわけではないため、基本的に相いれない存在である。


彼らは"印"を見たものをヨグ=ソトースの供物とする。または、運が良ければその忌諱すべき悪意の知識を授けることもあるようだ。


悠生はかの怪物の関与する事件に巻き込まれ、撃退することに成功している。


なぜその話が今出てきたかというと、


「つまり、猟犬をこの世界につなぎとめる"印"が身近にあると?」


ということだ。まりるはうなづく。だとしても、あの日蒼生だけが見て悠生はみていないものなんて存在するだろうか?


二人で同じ部屋で、作業していたし、二人で一緒に同じ景色を見て帰ったはずだ。


蒼生だけが見ていたものなんて…。


そこで二人の心臓が跳ね上がる。


「「美山・私 の絵!!」」


「…絵?」


「そうだ、あの日私はコンテストのために書いた作品を悠生に見せていない!」


「まさか"印"を生み出したとでもいうの!?」


驚きのあまりまりるは首を振って否定した。


「ありえない…」


「でもその日、俺が見ていないのはそれだけだ」


「…わかったわ、今から確認してくる、もしそうなら少しでも乱せばこの異変は収まるはずだし…」


「あの〜神代さん、乱すってことは作品に手を加えるのよね?」


「そうなるわね」


「私にやらせてもらえないかな…?」


蒼生は頭を下げた。


「お願い!コンテストに出す大事な作品なの!なにとぞ!!!」


まりるは初めこそ何かを言おうとしていた様子だったが、しぶしぶそれを了承した。


「部長さん…ですものね、私も部長さんの作品、気に入っているし、いいでしょう」


そしてすぐ出発するというので、準備に取り掛かる。


結名は、蒼生のにおいの強い美山家を守護するために残ることになった。


準備してすぐ、学校に向けて走り始めた。


なぜ車で行かないかというのはまりるの意見だった。


120度の鋭角が生じやすい閉鎖空間よりも、においが空間に拡散し薄れやすい方が気付かれにくいだろうとのことだ。


運が良かったのか、結名がうまくやっているのかわからないが、学校までの道で猟犬は一度も襲ってこなかった。


時間は4時過ぎ、まだまだ太陽が照り付けている。


おかげで恐怖心は少なく、太陽の発する生命のエネルギーを体中で実感することができる。


校舎内に入る前に息を整え、まりるがこういった。


「建物内に入れば、間違いなく猟犬の襲撃に合うわ。まだ校舎内には残っている生徒たちもいるでしょうから、できるだけ被害は最小限に抑えたいわね」


二人もそれにうなづき、すぐさま行動に移った。


美術部の部室があるのは、校舎別館の三階真ん中寄り。そこまで走り切ることができるか、


三人が再び走り出すと、ほどなくしてあの悪臭が校舎内ににじみ始めた。


残っていた生徒たちもその異変に気付き始めた。


そして、運よく運悪く、後ろから聞こえた生徒の悲鳴で襲撃に事前に気付くことができた。


「俺が行く!まりるは美山と先にいけ!」


「わかっているわ、無理ならすぐに逃げて!」


振り返ることなく悲鳴の方へ踵を返し走っていく。


二人は階段を駆け上がっていく。


「ぶぶぶ、部長!?なんすかあれ!?」


「面妖な化け物め……」


そこにいたのは柔道部の部長とその部員たちだった。


部長が構えを取ったが、その前に悠生が割り込んだ。


「ヌッ!?悠生!?」


「掌をもって柔とし、拳をもって剛とする。剛拳禁伝…」


左掌を前に、右拳を引いて構えた悠生の全体重を乗せた渾身の一撃が炸裂する。


「天人殺し」


踏み出した一歩はすさまじく、校舎を揺らし窓ガラスを砕いた。その衝撃すべてを一点に集中させた究極の上段突きが化け物の脳天から脊髄を破壊し殴りぬける。


怪物はトマトを地面にたたきつけたかのように破裂し時空間へと消え去っていく。


あまりの衝撃に眼鏡が割れ、後ろにいた部員たちも化け物より悠生に怯えているようだった。


もちろん悠生の拳も出血し、骨が折れていた。しかし、


「ふぅ…、さっさとまりると美山を追いかけねぇとな」


彼はそれを気に留める様子もなく、走り出そうとする。


「待て!」


それを引き留めたのは柔道部の部長だ。


「そんな腕では拳も握れまい、どこへ行くというのだ」


たしかに彼の言う通り、悠生はすでに右手の感覚を失っていた。出血も決して軽いものではなく、こちらも破裂、裂傷に近い傷を受けている。


「まだ、左があるだろうが」


それだけ言い残して、悠生はは二人の後を追った。


残された部員の一人がつぶやいた。


「なんであの人、運動部にも不良グループにも所属してないんだろう」


柔道部部長は仲間のために走るその背中を見守り、悠生の中に秘められた小惑星の爆発にも匹敵するようなエネルギーを称えた。


「体育の組手で一度だけ相手をしたことがある。構えを取った瞬間あいつには勝てないそれだけがわかった。」


「でも、その試合では部長勝ってましたよね?」


「手を抜かれた、怒って問い詰めると彼はこういったんだ」


『死んだ爺さんの教えでな、"正義に甘えず常に正しくあろうとしろ"、"悪以外に拳を振るうべからず"ってな』


「彼は、彼の祖父の残した黄金の精神を受け継いでいるのだ。生半可な覚悟では勝てない。今もきっと俺たちが想像もつかないような悪と戦っているんだろう?」


そして祈った。いつかは自分も力になって見せると。





校舎三階にたどり着いた二人は、なんとか美術室の部室に転がり込むようにしてはいった。


日が当たらないよう、ケースのかぶせられた蒼生の作品が、昨日と同じく置かれていた。


蒼生はすぐにケースを外すと、この作品に一手加えるために準備を始めた。


まりるはすぐさま部室内に結界を張り、猟犬の侵入を阻害した。


そしてそれからすぐに、猟犬が空間から滲み出してくる。


「…!悠生はもう退散させたのね」


まりるは結界を3重にし、猟犬の攻撃に備える。


「部長さんはやくして!」


「ま、待ってくれ、ええっと…どうしたら……」


次の瞬間、猟犬の頭についている口がすべて開き、その奇怪な口内がぐぱぁという音とともに解放する。


「…ッ!?」


それと同時に、鋭い針のような舌が結界に向かって目にもとまらぬ速さで射出された。


それはまるで紙を貫通するコンパスの針のように結界を貫き、まりるの体まで一直線だった。


とっさに体を庇う姿勢をとるが、そのか細い腕は盾にはならず、いとも簡単にその両腕は貫かれる。


ただ、腕を貫通したことで運よく軌道をそらすことには成功した。しかし、舌は一本ではない。多数の残りがまりるの華奢な体めがけてとびかかってくる。


迫る恐怖に目をつむる。


だが、舌の進行は衝撃と轟音により止められた。


「柔拳-獣楔ッ!!」


猟犬の体めがけて、垂直に振り下ろされた左の掌はコンクリートの舗装された床に大きくひびを入れ、その体の不浄な液体をはじき散らした。


舌が緩んだ瞬間、結界を圧縮し、レーザーのように変換することでそれを引き裂き、瞬時に服を破き腕の傷口を塞いだ。


「美山急げぇっ!」


「え、ええい!もうやけくそだ!」


そういって目をつぶって、一番太い布で、絵の具で一本、太い線を描きいれた。


そうすると、一瞬のうちに猟犬は融解し、空間へと飽和するように溶けて消えたではないか。


「…………助かった…のか?」


辺りには沈黙が渦を巻いていた。だが、助かったのだ。もう猟犬はやってきはしない。








「私があんな絵を描いたばっかりに……私がウィルを殺したも同然だ…」


ウィルの墓の前で蒼生はそうつぶやいた。


「悠生の手も神代さんの腕も、私のせいだ」


だが、悠生は耳を貸す様子を見せず、蒼生の首に腕を通し、後ろに回って締め上げた。


「ーーーーーッ!!しまってる!しまってるって!」


腕をタップすると、開放する。なんどか咳をした後に当然怒る。


「あのなぁ!人が謝るって時に何を…………」


悠生が蒼生の言葉をさえぎって答える。


「お前が謝る必要なんてねぇよ、俺が好きでしたことだ」


「わたくしも」


それに続いてまりるも答える。


「ウィルは飼い主であるお前を守ったんだ。謝るより先に言うべきことがあるんだよなぁ」


「おま…お前ってやつは………」


沈む夕日に少しの沈黙が間を下ろす。


そしてそのあと


「…そうだな、ありがとうウィル。お前と過ごした時間、私は絶対に忘れない。」


そうつぶやいた。


「ああ、俺も」


「もちろんですわ」





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