第五章 英雄になれない英雄

第五章 英雄になれない英雄

水穂たちが製鉄所に帰ってきて、製鉄所は大騒ぎであったが、しばらくしてそれも静かになった。数時間で再び製鉄続きの静かな日常風景に戻ったが、お祭りに行かなかった製鉄所の利用者たちは、ぼぞぼぞとこんな事をつぶやいていた。

「それにしても、水穂さん大丈夫だろうか。さっきテレビで今日の暑さは災害レベルの暑さなので、気をつけろと言っていた。なんとも、この富士市でも39度まで上がったようだよ。」

「それだもん、倒れるわけだよな。今年の夏はおかしいという台詞が毎年毎年聞かれるようになって、遂にはアフリカとほとんど変わらない夏になるんじゃないのか。」

「まあ、予測はつかないが、あの女性が知らせてくれなかったら、血を出して干からびていたところだ。とにかく彼女に感謝だな。」

その利用者がそういったほど、あの女性は「有能」であった。連れてきたときもそうだったし、部屋の中へ入れた時も、布団に寝かせたときも、彼女は誰かなまけている者がいないか、厳重に「監視」していた。表現を変えると、布団を敷くとかそういう直接的なことは、一切できる知能ではないが、なまけないように監視することに関しては、普通の監視員ではかなわないほど、ごまかしがきかなかったのだ。だから、みんな、文句も何も言わないで、作業をこなした。そして、彼女は作業が終わっても、両手を洗おうともしないでそばを離れようとしなかった。もう、大丈夫だから出ようと言っても聞かなかった。本人が鎮血薬の成分のせいか、軽く眠ってしまったので、全く返事をしなかったというのが、その理由なのだろうか、という説が有力視された。いくら周りが促しても全く聞かないので、仕方なく、紫陽花園の理事長に電話して、迎えに来てもらったほどである。その理事長でさえも、彼女を動かすことは困難を極めた。理事長が説得して、彼女を紫陽花園まで連れて帰るのに成功することはできたのだが、それはまるで、道をふさいでいる大きな岩を何十人の人員を使って動かす作業にそっくりだった。

「しっかし、ああいう人は、両手がチョコレートで汚れていようとかそういう事は、何も関係ないんだね。」

また利用者がそういった。

「そんなこと関係ないというか、気にしないでいいということになるんじゃないの?というより、眼中にないというか、もうどうでもいいんでしょ。」

「本当だな。でもさ、そこまで愛情が持てるなんて、すごいもんだぜ。自分のことは一切気にしないで、ああしてそばにいたがるなんて、それは、ああいう障害を持っている女性でなければできないことだ。俺たちであれば、まず第一に手を洗ってくるとかすると思うんだけど、それすらしないのが、大きな違いだろ。」

「それに、ああいう女性は、本当に好きにならないと、行動を起こさないから、きっと水穂さんのことが、本気で好きだったと思うぞ。あのような女性でさえも動かせるんだから、水穂さんは、よほどの美形であるということだな。」

「まあ、それだけじゃないとは思うんだが、、、。」

「いや、ああいう人は意外と単純なところに惹かれるもんだ。お前みたいに勤勉なところが好きという事にはならないよ。第一、勤勉の尊ささえ知らないだろ。だから、お前も勤勉すぎるのをやめて、ちょっと見かけを変えるのに力を入れたほうがいいぞ。」

「なんだよ。結局俺が、まじめすぎるのがいけないという話になるのか。」

「その通り。お前は働くのはよく働くが、それがかえって女にもてない要因になっているのにまるで気が付いていない。だからお前は、いつまでたっても独身のまんまなんだ。少し、男らしく、見た目をきれいにすることに、目を向けることだな!」

「そうか、俺はそんなに働きすぎなのか。」

「そうだよ。お前も反省しろ。」

「はい。」

二人はそんな事を話していた。

「こら、いつまでしゃべっている!早く真砂鉄を入れる作業に戻れ。でないと鉄は待っててくれないぞ!」

製鉄の指示を出していた村下が、二人に向かってでかい声でそう指示を出したので、

「わあ、すみませんすみませーん!」

「すぐに戻ります!」

と、二人は急いで製鉄現場に戻っていった。

次の日。懍の下へ、紫陽花園理事長の夢子が謝罪にやってきた。

「昨日は、あんな不祥事をしてしまい失礼しました。彼女には二度と一人で道路を渡らないように厳しく注意しておきましたので、もう、そのようなトラブルにはならないようにします。」

夢子は改めて懍に頭を下げた。どうやら、彼女が迷惑をかけたと思い込んでいるらしい。懍からしてみたら、迷惑でも何もないので、ちょっと面食らってしまう。

「いや、注意なんてしなくてもかまわないですよ。」

「水穂さんに謝罪をしたいのですが、お願いできませんでしょうか。」

夢子はもう一度懍に懇願した。

「それは無理ですね。無理やり立たせると、かえって悪化する恐れがありますので。ニ、三日は寝ていたほうがいいと思いますから、それは遠慮していただけますよう。」

「そうですか。本当に申し訳ありません。全く、一人で道路を横断して、しかも相手の方の袖まで汚してしまうなんて、せめてクリーニング代だけでも、お支払いしておきましょうか?本当は、お薬とか、支払うべきなのに、、、。」

「結構ですよ。そんな弁償なんて必要ありません。それに彼女は、水穂がああなったことを知らせたくて道路を渡ったんですから、それはやむを得ず必要な行為だと思いますし、他人のためによい働きをしたとして、ほめてやるべきだと思うんですけどね。」

懍はそう言ったが、夢子は申し訳ないという顔をしたままである。

「いいえ、それはだめです。だって彼女は信号機の押しボタンを押すことすら理解していませんし、赤信号と青信号の区別すらできていないのです。今回はたまたま車が通っていなかったから助かったようなもので、もし、あの時車が走ってきたら、確実にひき逃げされます。それを防ぐためにも、日ごろから道路を無断で横断してはいけないと教え込んでいかなければならないので、そういうときにほめてなんかいたら、彼女が理解できなくなります。ですから、あいまいにしていくわけにはいかないんです。しっかり謝罪をさせなければ。」

「いいじゃないですか。誰だって、例外というのはありますよ。それはしょうがないことでもあるんじゃないですか。まあ確かに道路を渡るのが理解できないというのはありますけど、ああしてくれなかったら、水穂も失血死するおそれもあるわけですから、それを食い止められたのはまぎれもない事実ですので、僕たちは感謝したいですし、大いにほめてやるべきだと思います。それなのに、厳重注意なんて、彼女はより混乱するのではないでしょうかね。」

「でも、安全ということを考えて、自身を守るということも教えて行かないと。」

「そうですか、では、僕に肩たたきをしてくれた健常な人にはほめてよいのに、水穂が倒れたのを知らせたくて勝手に道路を横断して知らせに来た、知的障害のある女性には厳重注意というわけですか。それってある意味人種差別に近いことかもしれませんよ。どちらも同じ気持ちから発生した行為であると思いますし、ただ、態度で示し方が違っていただけに過ぎないのではないですか。」

「そうではなく、これは教育なんです。だって、先生に肩たたきをしてくれた方は、少なくとも、左右を確認もしないで道路を横断するということはしないでしょう。それに、道路を横断することは、どんなに危険なのかも理解できるでしょう。ところが彼女はまるっきりそれを理解していないんですよ。それに、覚えるのだって普通の人より苦手なんですから、そのあたりをはっきりさせて、四六時中道路を渡るのは危ないと教え込まないと、習慣として身についていきません。同じ行為をして、ある時はほめられてある時は叱られることもあるなんて、そんなあいまいな考えでは身につくと思いますか!だめなものはだめとはっきり教え込んでおかなければ。」

「いや、理事長。それこそ究極の偏見だと思いますよ。知的障害があるからと言って、英雄的な行為をしたのに、英雄になれないというのは、かえって劣等感を植え付けるだけで何ももたらさないと思います。きっと、他の人は英雄視されているにも関わらず、自分はなぜ人助けをしたのに、英雄視されないのか、疑問に思う事でしょう。それは、かえって彼女の心の傷を作ってしまうことになるのかもしれませんよ。」

「そうでしょうか。そもそもそういう事を彼女は理解できますでしょうか。」

「できると思います。それに関しては、僕たち以上にそういう事は出来るでしょう。知的障碍者は、普通の人より感じることという能力は優れています。自分がどう評価されているかについて、全く無頓着ということはなく、普通の人以上に気にしますよ。そこを馬鹿にしてしまっているから、障碍者施設は座敷牢と変わらないということになってしまう。」

懍は、耳の痛い話を始めた。

「そういうわけですから、厳重注意という処遇は取り消してください。もし、無断で横断歩道を渡るなということを教え込みたいのであれば、彼女の主張を理解したと態度で示さないと次の段階へ進むことはないと思いますよ。彼女にしてみれば、大好きな人を助けるために道路を渡ったのに、なんで怒られなきゃいけないんだという疑問しか発生しないでしょう。それが繰り返されれば怒りが生じるのはむしろ当然の事で、あなたたちが苦労話の種にする、障碍者を従わせるのは難しいという間違った定義につながってしまいます。例えばロバを例にしますと、尻をたたけば命令にしたがって動いてくれますが、人間はロバ以上に複雑で、尻を叩いても動きはしませんよね。それは、知的障害があっても同じことで、障害のあるというのは、人間がロバになったというわけではありません。支援者はそこを間違えてはなりませんよ。」

「はい、それはよく心得ております。だからこそ、教えるという事を徹底しなければだめなのではないでしょうか。」

「ですから理事長、もう一度言いますが、知的障碍者はロバではありません。それに、人間とロバは動物学的に言っても全く違います。あなた方が間違うのは、知的障碍者を人間の形をしたロバだと思っていることです。経営者だけではなく、職員のほとんどがそう思っているでしょうし、教育的にもそのように教え込んでしまうから、福祉というものが充実しないんです。しかし、人間とロバは全く性質が違います。知的障碍者を教育するのは、ロバを家畜として飼育するのとは全然違うものだと考えなおして行かないと、あなた方の施設職員の離職は止まらないと思いますよ。」

「そうですね。青柳先生。私も、少し考えなおさないとだめだと思いました。施設の経営方針や、職員の勤務体制とか、ちょっと考えなおしてみます。確かに、入所している方にとっては、毎日が人生そのものでしょうし、ご飯を食べることでさえも、重大な行事の一つになっているわけですものね。」

「はい。それだって、考え直してもらえませんかね。僕が見た限りでは、職員が食事を手伝う一つにしても、ロバにエサをあげているようなつもりでやっているのと、同じようにしか見えません。それなのに、職員たちはまるでごちそうを食べているように楽しそうに食事をしている。この落差を感じ取っている障碍者も少なからずいるでしょう。少なくとも、瀧乃川学園の学園長はそのような態度はとらなかったと思いますよ。」

「先生が見に行った、瀧乃川学園を見学してみたいですね。本当にそうだったのでしょうか。」

「いえ、瀧乃川学園は住み込み施設ではなくなりました。住み込み施設であったのは戦前から、終戦を経て数年後までです。福祉施設としては草分けてきな存在でしたけれども、現在その面影はないですね。」

「そうですか、じゃあ、お手本になるような団体はどこでしょうか。どこかにあるのでしょうか。」

「どこにもない、というのが現状ではないかと思われます。ドイツのシュタイナー学校のようなところに行かないとないですよ。」

夢子は、また考え込んでしまったが、懍の話は間違いではないなということは理解できたし、反省しなければならないなということもわかった。

「先生にはかないません。年代の重さというか、やっぱり戦前から生きている方は違います。勉強になりました。」

「そうですか、そう言われてしまうと、僕も年をとったなということになるのでしょうが、年寄り扱いされるのはあまり好きではありませんな。まだまだ、この年でも、勉強をしなければならない事例はたくさんありますのでね。」

「そうですけれども、戦前から生きている方は、やっぱり物事の考え方の重さが違いますわ。軽い気持ちで、物事に取り組もうという意識がほとんどないですもの。何をするにも真剣じゃないですか。私だって、本当は、若い人たちにもそうやって生きて行ってほしいですけど。いまは、そういう事を教えると、若い人には、うざいとかけむいとか言われてしまう始末。」

「そうですね、今の子は恵まれすぎてますからな。それを抑えるには、称号とか権力を使うのも一つの手でもありますよね。ただ、それが良い方に進んでくれれば、効力を発揮しますけど、使い方を間違えると彼らを傷つけることにつながります。そういう複雑な問題が発生するわけですから、人間とロバはやはり違いますよ。それに、理由はよくわからないですが、障害を持っている人間になればなるほど、この問題は、大きくなっていくようです。なぜか、そういう人ほど、そういう事について過敏になっていくみたいですね。」

懍は、白髪交じりの髪をかじりながら、ちょっと苦笑いした。それをみて、夢子は、やっぱり負けてしまったなと思った。

「私も懲りたというか、勉強させてもらいました。やっぱり、若い人間だけで何かやっていこうとすると、知識不足から、変な方向へ行ってしまいますわ。そのためにも、いろんな年代の人の意見を聞かなければなりませんね。本当に気を付けます。」

「基本的には、その中に障害のある人たちも交えないといけません。健康な人だけが幸せな人生で、そうでない人は全く与えられないなんて言うことは、ありえない話なんですよ。それを無理やりしようとしているから、日本社会はおかしくなるんです。皆さん、楽をしてかっこよくなれるよう教育しますけれども、それが続いていれば必ずどこかで破たんをきたしますよ。歴史を見ればわかるでしょ。ある意味、障碍者というものは、そうならないための、警告の信号でもあるわけですから、お粗末にしてはならないんです。それは、忘れないでくださいませね。」

「はい。本当に今回は勉強になりましたわ。これからも、施設経営、頑張らなきゃいけませんわ。これから、肝に銘じて経営をしていくようにします。」

夢子は、素直にそういった。懍の発言に反発心を持たないので、曲がったところはない経営者だった。もし、ちょっとでもあれば、悪いところを指摘して、勝ち誇ったような顔をするものである。女性はその傾向が強いというが、彼女はそういうところが比較的少ないので、事業を経営する女性として、ふさわしいタイプだと思う。変に相手の態度に嫉妬したり、余分なことに目を向けてしまうようでは、経営者としては向かない。特に女性というものはそういう現象が起こりやすいと言われているので、それをどうやって軽減していくかが、女性の経営者の課題でもある。

「本当に、私、気を付けます。経営者らしく、変な倫理観とか、そういうものに縛られず、もっと、利用者さんたちが利用しやすい施設を目指します。」

「いったいなぜ、障碍者施設を立ち上げようと思ったのですか。」

不意に懍がそういう事を聞いた。何か、自分を試しているような気がした。

「ええ。小学生の時、担任の先生が、知的障害のある生徒さんを預かっていたんです。確か、近隣に養護学校、今でいう特別支援学校があったんですが、建物の建て替え工事で、通う場所がしばらくなくなったので、私の学校で預かってという要請だったそうですが。とにかく重度な方で、言葉も全くなく、用便も不自由ではありましたから、私を含めて、さんざん同級生たちが、ひどい迷惑をかけられましたわ。確かに、彼については、賛否両論ありましたけど、私は、彼の事を迷惑な人とは思わなかったし、むしろ今までにないことが体験できてとても楽しかったですよ。そういってしまうと、私が勉強できなかったのが、ばれてしまったかしら。」

夢子は、正直にそう話した。この思い出だけは、汚さずに、持っておきたいと思っていた。自分は学校の成績が悪かったので、毎日親から叱られてばかりいたが、その生徒さんがやってきて、率先して彼の世話をしたことにより、同級生たちの自分を見る視点が変わったのである。

「そういう事で、私は学校で自信を取り戻すことができましたの。だから、私をかえてくれた、その子に感謝しているし、そういうわけで、大学の福祉学部に進んで、知的障害のある人たちの、研究というと失礼だけど、調査もやって、彼らの現状も知ってね、その人たちが、楽に生活できるような事業をしたいな、と思ったんですよ。」

「ああ、なるほどね。つまり、自分の居場所にもなったし、彼らを支援しようという気持ちにもなったわけですか。」

「ええ、そういう事なんですけど、いけないかしら。」

「いえ、そんなことはありません。原点をくれた同級生に感謝して、よりよい施設を作ってくださいませ。それを忘れないでくださいませよ。」

懍も、彼女の正直な告白に安心してくれたようだ。お互いにほっとして、顔を見合わせあい、ため息をついた。

「これからも、製鉄所の利用者に訪問はさせるようにしますから。また、日程など希望がございましたら、いつでも連絡してくださいね。」

「ええ、わかりました!ありがとうございます。」

経営者はひどく赤面した。



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