02 世界の果ての要塞〈前編〉
白い。どこまでも白い。
床も壁も天井も――ここに閉じ込められたら数時間で発狂するに違いない――病的なほどに真っ白な通路を進む。
たとえば壁の張り紙やポスターとか、無造作に置かれた掃除用具やら傘とか。そういったものが一切ない、生活感どころか生気すら感じない、死の空間だった。
シスター、僕、狩人。三人の足音だけが反響している。
終点が近づくにつれ、涼やかな水音が聞こえてきた。ガラス扉の向こうで、天井から水が流れ落ちている。
「『水滝』。ウォータースクリーンです」
横長に広がった
涼しげな水音と、幻想的な光景に、ぼおっとしていた僕にシスターが耳打ちする。
「水面に映像が投影されています。元はここは〈科学館〉だったのです」
「……科学、館?」
「シンボルとしてホール中央に展示されていたものを出入口に移設しました。トロルは水が苦手なので。といっても、ささやかな抵抗ですがね」
先を歩む狩人が、壁際のパネルに触れると、扉が開いてウォータースクリーンの水流が止まった。ぽたり、と水滴がいくつか落ちてくる。
「床が濡れているから気を付けて」
修道服の裾を持ち上げ、シスターが濡れた排水溝をまたいでいく。僕もそれに続く。
ここが、科学館だって……?
そういわれてみれば、ホールの一角に受付カウンターらしきものがある。陳列棚が並んでいるのは売店スペースだろうか。
――僕はここに来たことがある?
ふいに
「そういえば、ケガをしているみたいだけど大丈夫?」
「血は止まったし、平気です」
地割れから逃げるとき、アドレナリンが大量放出され痛みが麻痺したらしい。スゲエ。でも、笑えない。
「念のため、後でシスターか誰かに手当してもらうといいよ」
微笑む顔が憎らしいほどカッコいい狩人さん。妬ましくならないのは、ヨーロッパ系の顔立ちだからか。しかし、狩人といいシスターといい、どうしてなかなか日本語が上手い。発音まで
シスターが重厚そうな扉の前で、歩みを止めた。狩人が素早くたずねる。
「彼も参加を?」
「ええ」と、シスターが僕を見つめる。吸い込まれそうな透明感のある青い瞳。
「これから話し合うことは、人類であれば、誰にでも聞く権利がありますから」
意味深な、しかし確固たる意志を含んだ表情を向けられた。
導かれるままそこに入ると、独特の匂いが鼻をついた。えっと……あれだ。修学旅行の観光バスの匂い。
薄暗くて広い空間を見回して合点がゆく。座席シートが円状に配置されていて、匂いはここから放たれているのだ。さらに半円形の黒天井を見上げ、僕は理解した。――〈プラネタリウム〉だ。
建物を外から観たとき、ドームの上空をガラス壁が覆っていた。まるで展示品のように見えた巨大なドームがプラネタリウムだったのだ。
「おかえりシスター」
どこからかしわがれた声がした。
「やはり人間の
「ええ、
目をこらすと、後方の席に小柄な老人が座っているのが見えた。
「おほっ。能力者、ではないようじゃな。ふん」
脳内にピリっと電流のような刺激が走る。
《烈歌老師~「能力者」。不老不死で千里眼。》
「どういうことかね?」
次に飛んできたのは、警戒に満ちた声。
「非能力者のY染色体保持者は、そこのファム少年だけでは? 他は死滅した筈だ」
最前列のシートにもたれた痩せぎすな男が、ステッキをかかげる。
その指す方向、投影機の陰から少年が姿を現した。十二、三歳くらいだろうか、金髪碧眼の美少年で、シスターとよく似ている。
「……ッ!」
また、だ。
意思とは無関係に、映画の字幕のような文字が浮かびあがってくる。
《ファム少年~人類唯一の「能力者」でないY染色体保持者。本名・郷田ファムタール。》
「申し訳ありません、ジェントルマン男爵」
シスターは少年をかばうように肩を抱いて、
「実は私も驚きを禁じえません。彼がここに現れたのも、我々が把握していない能力者が関わっている可能性があります」
「時空飛ばしの能力者か。厄介だな」
ステッキの男が髭を撫でる。上向きにツンと跳ねた、ダリみたいな気取った髭。
う、また……
《水田ジェントルマン男爵~「能力者」。人間の肉体の大きさを自由に変えることができる。》
「おい君、どこからやってきた」
「記憶をなくしているみたいですよ、彼」
狩人が口をはさむ。が、追求は止まない。
「名前は? 自分の名まで忘れたということはあるまい。名乗りたまえよ、君」
紳士用ステッキの先端が、僕に突きつけられる。
名前。僕の、名前……? ふいに、鼓膜に音声が
『じゃあさ――設楽くんが面白くしてよ』
シタラ。自分の名、というより、直近で誰かにそう呼ばれたことを思い出した。
「……設楽です。設楽、キヨシ」
頭痛に顔をゆがめる僕にかまわず、さらに男爵は詰問してくる。
「シタラ君。貴様どうやって危険区に入った?」
「分かりません。気づいたら倒れていて……ッ!」
『私ね、特殊能力があるんだよ。自分が創った世界に、人間を「転送」できるの』
だから――これは一体何だ。
さっきから、いちいち
とうとう耐えられなくなって、僕はその場にしゃがみ込む。
脳みそをグチャグチャに攪拌して、握りつぶしてしまいたいような不快感。
「お待ちください、男爵」
それを鎮めてくれたのは、シスターの凛とした呼びかけだった。
「シタラ君の対応については、本部と相談の上、決定します。それよりも『本題』に入らせていただきたいのですが」
ん?
今一瞬、プラネタリウムの空気が張りつめたような。気のせいだろうか。
「座ろうシタラ君」
床にしゃがんだままの僕に狩人が促す。全身を抱えられるよう僕は、背の高いシートに埋まった。クッションがきいていて座り心地が良い。彼もすぐ隣に座る。
すぐ背後に気配がした。
視線だけ後ろにやると、中世の貴族みたいな装飾の多い帽子を目深にかぶった婦人がいた。赤い唇を薄く開き、ふーふーと浅く呼吸している。
「さて」
シスターは祈りを捧げるよう胸の前で手を組む。傍にはファム少年が控えている。
「能力者の皆様を、トロルの
トロル……?
なんだか懐かしい響きだ。ヨーロッパの妖精だか妖怪だったと思うが。狩人が話しかけてくる。
「トロルを知らない? それとも記憶が混乱しているのかな。人間が突然変異で巨大化した化け物だよ」
「人間が?」
思わず聞き返す。
「知能は低いが攻撃性は高く、きわめて凶暴。雑食だが一番の好物は人間。共食いとは、まったく良いセンスをしている」
共食い、って。
ぎょっとして身をすくませた僕をちらっと一瞥して、シスターは話を再開する。
「特に、ジェントルマン男爵とコスモックル
両者が、トロルに有効であると世界国守クラブは期待していましたが。彼らの力は人類の及ぶ領域を超えていたようです。もはやお手上げ。打つ手なしの状況です」
「大きさの問題でしょうね」
申し訳なさそうに狩人が発言する。
「僕と男爵の力は、能力者、非能力者に関わらず発動しますけど。あくまでも人間サイズを想定したものなのでしょう。奴らは最低でも身長十メートル超ですから」
「見解をありがとうございます、多羅氏。今回の結果を受け止め、本部でも次の対策を立てているところです」
シスターの話しぶりにより、狩人の名が判明した。
《コスモックル多羅~「能力者」。人間の肉体年齢を自由に変えることができる。》
おなじみの脳内注釈。やはりされたか。そして、やっぱり不快だ。僕はまた頭をかかえるハメになる。
「討伐に失敗した場合、世界国守クラブはある決めごとをしていました」
「決めごと……? なんだそれは」
反応したのは男爵だった。シスターは意を決したように、すう、と息を吸って、言い放つ。
「これから当分の間、皆様は危険区から出ることはかないません。しばらくこの要塞で過ごしていただきます」
【ワールドエンド要塞1F見取り図:https://15196.mitemin.net/i248207/】
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