4-11 それはそれは

 震える足でふらりと立ち上がって外へと向かいそうになるシェスティンを、ラヴロは慌てて止めた。


『シェス、行くなとは言わん。我が名を呼んで止めたくらいだ。他の選択をする気はないのだろう? だが、今はやめておけ。その様子で正常な判断が出来るとは思えぬ』

「でも……待たせるなと」

『ああ……! 放っておけ! だいたい、お前の足では何日かかると思ってる!』

「そうだ。だから、一刻も早く出ないと……」


 ラヴロを押しのけようとする手にも力はない。

 竜はひとつ舌打ちをしてシェスティンの首根っこを咥え、そのまま彼女を塒まで連れて行って放り込むと、ずいと顔を寄せた。何があったのかと、緊張した面持ちのモーネも寄ってくる。


『シェス、せめて一晩ゆっくり寝て頭を切り替えろ。言いなりになるな。アレとどんな関係か知らぬが、少なくともアレは死ぬものでお前は死なぬ者だろう? 使えるものは有効に使え』

「わからないんだ。ラヴロ。私が知っているのは、死んだはずのものだけ。それが、今更……」


 そう。そうなのだ。彼が生きていたとして、これ程長く関わって来なかったのが信じられない。

 ――生まれ変わり?

 そんな言葉までシェスティンの頭を過ぎる。時紡ぎの生まれ変わりは、やはり時紡ぎなのだろうか。あの、理不尽な力は……

 思考に沈み込むシェスティンを、ラヴロの声が引き戻す。


『一度死んでいるのなら、同じものではあるまい。いくら、似ていても。遠慮などいらぬ。助けたいものを助けたら、さっさと始末してしまえばいい』

「ラヴロ……」

『それとも、アレがいいのか?』


 シェスティンは音がしそうなほどぶんぶんと首を横に振った。許せない。今でも。同じような孤独に身を置いても、彼のような選択は出来ないし、したくもない。


『少し、落ち着いてきたか? シェス、我を使え。我が主らしく、堂々と。我ならあの場所までそうかからぬ。連れて行けと言えばいい』

「場所が、分かるのか……?」

『お前が見たくないというくせに、その上は飛びたがるあの場所だろう?』


 ふん、とラヴロの鼻息がシェスティンをくすぐる。ようやく彼女の口角が上がった。苦笑ではあったが。


「シェ……シェス、スープ、食べる?」


 心配そうに成り行きを見守っていたモーネが、ラヴロの躰の隙間を覗き込むようにして声を掛けた。


「……もらうよ。モーネが作ったのか? すごいな」

「う、うん。ええっと彼、が、手伝ってくれて。鹿肉も分けてくれて……」

「ラヴロが?」

「え。う、うん。野菜は手でちぎれるものだけにしろとか、味付けは少しずつとか……ナイフは危ないからってある程度爪で肉を細かくしてくれて」

『おい。余計なことは言うな』

「ラヴロが」


 意外過ぎて、それまでシェスティンの胸を占めていた不安が少しだけ薄らいだ。

 視線を向けられる前に、ラヴロはもうそっぽを向いている。

 モーネが注いでくれたスープは肉も野菜も大きさが不揃いで不恰好だけれど、良く煮込まれていて口に含むとほろりと崩れた。


「ん。美味しい。味付けも上手く出来てる。しかし、ラヴロがそんなに料理に詳しいとは知らなかった」

「シェスのやるのを何度も見たからわかるって言ってたわよ?」

『……だから、余計なことを……』

「あら。心象を良くしたいんじゃなかったの?」

『ばっ……! 誰が! 人間なんぞに! だ、だが、仕方がない。シェスは我が名を呼んだからな。もう、どこにいても呼ばれれば分かる。そういう風になってしまった。不本意ながらな!』


 言葉の割に上機嫌に、ラヴロはそう言った。モーネは少し呆れながらシェスティンに視線を流す。


「そう……呼んだの……告げておいて、不本意って矛盾してない? 真名で縛られるのを喜ぶなんて……まあ、でも、名を呼ばれるのは……嬉しいのよね」

『よ、喜んでなど……!』


 はいはい、とモーネは軽く受け流す。


「私も『モーネ』となら呼んでいいわよ」

『気が向いたらな』

「気が、むい、たら!? ちょっと! ラヴロ!」

『む。勝手にその名を呼ぶな』

「母さんのことは嫌がっても呼び続けたんでしょ! 私も好きなように呼ぶわ」


 ふふ、とシェスティンの含み笑いが響いた。


「よかった。安心した。二人でもやっていけそうだな」

『どこが!』

「どこが!」


 重なる声にもう一度笑う。

 そうだ。時は動いている。あの時と同じものなど、何もない。

 シェスティンは膝の上に皿を置いてしばし目を閉じた。


「ラヴロ」


 次に目を開けた時には、シェスティンの瞳に恐れはなかった。


「お前の言う通りだ。ゆっくり休んで、それから行こう」

『なんだ、もうどう呼んでも同じだぞ?』

「ワタシがつけた名は不服か? お前を縛る気はないよ。名は特殊な場合、返上できると言わなかったか?」

『一度与えたものを取り上げるつもりはない』


 憮然と、ラヴロはシェスティンを睨みつけた。


「シェス、返上とは少し違うわ。普通、真名は親子や夫婦で交換するの。親は子を律するために。一人立ちの時に親の名も告げられて、立場が対等になるから効力がなくなるのよ。竜は夫婦とはいっても子の確保のために複数で関係することもあるから……名の交換はよっぽどじゃないとしないと聞いてる」

『お前は、いちいち余計な!』


 シェスティンの驚いた顔に盛大な舌打ちをして、ラヴロは背を向けて丸まってしまった。


「……ワタシがフルネームを告げても、だめなんだろうな」

「ヒトは他の誰かが名をつけるでしょ? 竜は生まれた時には自分の名を知ってるのよ。魂に刻まれている、とでもいうのかしら。だから、人間に名を告げるというのは……」


 モーネは流石にその先は言葉を濁す。


「普通の人間ならよかったのに。すぐに死ぬのだから。ラヴロ、お前……」

『お前が死ぬなと言えば死ねぬ。いつまでも生きてやろうぞ』

「そんな、ばかな。生死まで握れるはずがない」


 ラヴロに近付き、その尾の付け根を撫でながら、シェスティンは苦笑した。


『お前の為ではない。お前を、我が利用するのだ。さあ、言え』

「ラヴロ、死ぬな。……ありがとう」

『礼を言われる筋合いがない。さあ、さっさと休め!』

「……素直じゃないんだから」


 ぼそりと呟かれたモーネの言葉に、ラヴロは顔を上げて思いっきり威嚇の雄叫びを浴びせた。



 ◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇



 次の日、残りの食料と携帯食を全部モーネに預けて、魚の釣り方、焼き方を一応教え込んでおく。シェスティンがいない間に竜に戻るのも、彼女が戻るまで待つのも好きにしてほしかった。


「食料がなくなったら、今の形で暮らしていくのは無理がある。その時は人のままでいるなら街で会ったお婆さんを訪ねろ。手紙を書いておいた。彼女が無理でも、トーレになんとかしてもらうよう言ってもらうから。荷物に金も入ってる。竜に戻るなら、ラヴロと相談しろ。メリットもデメリットも教えてくれる」


 モーネはこくりと頷いた。


「すぐに帰ってこられればいいんだが。そんな顔をするな。ワタシは死なない。知ってるだろう? 終わったら、戻ってくる」


 松明の灯りに照らされる心配顔のモーネの頭にぽんぽんと手を置いて、シェスティンはラヴロの背に飛び乗った。


「ラヴロはすぐ帰すから!」


 手を振るシェスティンを乗せて、ラヴロは夜空に飛び立つ。


『我は一緒に行くというのに……』


 ぶつぶつと文句を言うラヴロの首を、シェスティンはパン、といい音をさせて叩いた。


「守るべきは私よりなんの力もないモーネだろう? 今は牙も爪もないんだから」

『きちんと我が名を呼んで『お願い』されれば聞かないこともない』

「そういう使い方は嫌なんだって……」


 聞こえないふりをして、ラヴロはスピードを上げた。空は霞んでいるけれど、細い月や星の光を遮るほどではない。近付く山々に囲まれた小さな盆地は、まだ所々に雪が残っていて淡い青白い光を反射していた。

 ラヴロの背に掴まるシェスティンの手に力が篭る。何もかもを置いてきた、何もなくなった故郷。見るのは怖かった。


 ラヴロが降りたのは円形に開けた一角。不思議なことに、その周辺だけ木が一本も無く、枯れて色褪せた草が雪に押し潰されて倒れ込んでいるだけだった。

 どの辺りだろう?

 草木に浸食された故郷は建物の欠片さえ探すのは困難だ。シェスティンは戸惑いながら辺りを見渡した。


『シェス』


 ラヴロが彼女を呼ぶのと、円の中心部がぽっと仄かに光ったのは同時だった。シェスティンが動き出す前にラヴロがその場所へ向かう。


「ラヴロ」


 慌てて後を追うと、草が折り重なってるその根元に小さなものが潜り込んだような穴が出来ていた。

 息を吸い込む音がして、シェスティンは少し後ろに下がる。

 次の瞬間ラヴロが吐いた炎は枯草を灰にして、巻き上げた。湿っているからだろうか、周囲へ火が燃え移ることはなかったようで、灰の乱舞が落ち着くと、そこには地下へと延びる石段が姿を現していた。

 ちかりと、青白い光が奥の方で瞬く。まるでシェスティンを誘うかのように。


「これでは、どう頑張ってもお前は一緒に行けないな」


 ぐぅ、とラヴロの喉が不満気に鳴る。

 シェスティンはその首に抱きついて、囁くように告げた。


「ここまでありがとう。帰りも呼ぶから、後は『お願い』ラブロードリット」

『……ずるい言い方だ。遠慮するな。帰りでなくとも呼べ。地の底でも我は行く』


 返事を待たずに、ラヴロは彼女を振りほどき、鼻先で押しやった。数秒視線を合わせた後、翼を広げ、飛び上がる。見上げるシェスティンの頭上をぐるりと輪を描いて飛んだあと、夜空に溶けていった。


 ラヴロを見送って、シェスティンはゆっくりと石段に足を延ばす。カンテラも松明も必要なかった。最初の数段こそ草や土が被っていて気を付けなければならなかったが、それ以降は一段下りると次の段と壁との隙間が仄かに青白く光り、足下が良く見えた。その段に足を乗せると光は消え、次の段に点く。

 人ひとり分ほどの狭い幅しかないこともあり、壁に手を這わせながら、緩く左にカーブしているその不思議な石段をシェスティンは慎重に、けれど苦も無く下りていった。


 自分の靴音以外は何も聞こえない。石段は緩くカーブし続けていて、螺旋状になっているようだ。シェスティンはこんな場所を知らなかった。

 自慢ではないが、小さい頃から探検と称してはあちこちに潜り込んでいた。アルフを引き連れて、何度一緒に怒られたことだろう。城の抜け道や街の地下水路にも詳しい自信はあったのに。


 ようやく平らになった石畳の廊下を少し進むと、一枚の壁が行く手を塞いでいた。

 大きさ的にはドアのようでもあるが、取っ手はどこにも見当たらない。周囲に走る線がいくつかあって、壁にも真ん中に横一線が見える。

 戸惑うシェスティンが破れかぶれでノックしてみると、それは中央の線から綺麗に上下に分かれて天井と床に吸い込まれていった。


 思わず飛び退いたシェスティンの目に飛び込んできた壁の向こうは――王が時紡ぎと面会するための、あの部屋だった。




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