4-10 むかしむかし・2

 次の日、時紡ぎの言った通り、皆は何事もなかったように一日を始めました。誰も丸一日眠っていたなどと思っている様子もなく、まるで昨日など無かったかのようでした。

 姫様の言われた通り、時紡ぎは頑張って仕事をなさっているのでしょう。時は順調に流れ、姫様の二十歳の誕生日を目前に、アルフとの結婚が決まりました。

 国中がお祭り騒ぎのようで、式もまだだというのに皆は屋台を出し、音楽を奏で、そこかしこで踊り出すのでした。


 式当日の朝も、飾り付けられた街の屋台は賑わっておりました。

 そこに町娘のような格好で姫様が混じっています。周りの人間も慣れたもの、くすくすと笑いながらも大げさに騒ぎ立てたりはしないのでした。


「姫様、また大臣にどやされますよ?」


 野菜とベーコンとチーズが乗った小振りのガレットを姫様に渡しながら、屋台の店主が苦笑しています。


「ワタシの首が飛んでしまいます! 護衛を撒いてまで遊びに出るのはおやめいただきたい! ……似てる? ふふ。だって、王妃になったらまた少し窮屈になるんだもの。ぐるりと見たらちゃんと戻るわ。街の皆が護衛みたいなものだから、大丈夫」


 姫様は沿道の酒樽に腰かけると、子供達のように手掴みでガレットを半分に折り、そのまま口に運びました。とろりと伸びるアツアツのチーズに苦戦しながら、はふはふと笑顔が零れます。ととと、と寄ってきた少年にオレンジジュースを差し出され、姫様はお礼を言ってそれを受けとりました。

 はにかみ屋さんの少年は照れくさそうに屋台の父親の元に駆けて行きます。全てを食べ終えてから、姫様はその屋台へ代金を支払いに行きました。ついでに少年に手招きして、羽の付いた小さな白い馬の像を彼の手に握らせました。


「お父様のお手伝いをありがとう。えらいわね。お駄賃代わりにもらってくれる?」


 彼はぎゅっと目を瞑って、こくこくと頷きました。

 姫様が屋台を見回って、お城に戻ると、城門の前で正装したアルフと青い顔をした大臣、それから数人の侍女が待っていました。


「シェスティ、今日は誰の結婚式なんだい? 私を一人であのバルコニーに立たせるつもりかい?」

「間に合うように帰って来たでしょ? アルフ、よく言ってるじゃない『昨日までは夢、明日からは幻、今だけをしっかりと見つめろ』って。屋台は今だけしか見て回れないわ」

「そういう意味で言ってるんじゃない。屋台が見たいなら一緒に行ったのに」

「アルフだって準備があったでしょ? これからはずっと一緒なんだから最後にちょっとひとりになったって……」


 アルフは腕を組んで、少し長く息を吐き出しました。


「シェスティ、私には君がこの先急に大人しくなるとは思えないんだが」

「あら。心外だわ」

「姫様、お急ぎください」


 のんきに笑う姫様を、大臣は侍女達を促して急かしました。

 姫様が侍女たちと城の中へ向かおうとしたところで、後ろから声がかかりました。

 アルフが腰の剣に手をかけ、姫様が振り返ると、そこには黒ずくめの青年がひとり立っていたのでした。


「誰だ」


 アルフの鋭い声が一喝します。


「シェスティン、酷いよ。頑張ったら、また話してくれるって、仲良くしてくれるって言ったのに」


 アルフのことなど目に入らないように、青年は真直ぐに姫様に向かってきました。アルフが剣を抜いたので、慌てて姫様は彼の手を押さえます。


「アルフ、時紡ぎ様よ」


 ぎょっとして、アルフは姫様と時紡ぎを交互に見やりました。

 時紡ぎが王以外の者の目の前に姿を現すことなど、これまでなかったことです。姫様は大臣に王様を呼んできてくれるよう言づけて、時紡ぎに向き合いました。


「こんにちは、時紡ぎ様。こちらに来られたということは、お仕事は順調なのですね?」


 冬の夜空のように冷えた瞳がじっと姫様を見つめていました。


「もう少し……もう少しなんだけど、でも君が」


 そこでようやく時紡ぎはアルフに視線を向けました。


「結婚するなんて」


 底冷えのするような声が発せられると同時に、世界から音が消えました。街のざわめきも、ぽんぽんと上がっていた花火の音も、風が草木を揺らす音までも消えてしまっています。

 アルフの手を掴んでいる姫様の手に思わず力が入りました。


「結婚は元から決まっておりました。父から何度も説明されたはずでは?」

「君が誰かのものになるなんて、やっぱり耐えられない。僕と言葉を交わして。僕を見つめて。そうすれば、君は幸せになれるから。君だけを見る僕が、幸せにするから」

「こ、言葉を交わすことは、アルフと結婚してもできます。皆で時紡ぎ様を囲んで……」

「他のものはいらない」


 放り投げるように吐き出された言葉が、姫様の心に刺さりました。


「え……でも、時紡ぎ様はこの国も大切にすると」

「もちろん、君の生まれた国だ。育った国だ。これまで事務的にこなしてきた仕事が、誇らしく楽しくなったし、これからも大切にするよ。君がいるなら。一緒に育ったそっちの騎士も、君の父親も、君の笑顔と共にあった。だから、我慢してきたのに。誰かに君を独り占めされるなんて、とても。ねぇ、僕の王女様」

「結婚してもそれほど関係は変わらないですわ! 元々、私はアルフを」

「名実ともに変わるんだよ? 誰もが君は彼のものだと認める。嫌だ……いやだ! 君は僕のものであるべきだ。それが一番――」


 姫様に手を伸ばす時紡ぎと姫様の間に、アルフは身を割り込ませました。背に姫様を庇っています。


「王女を笑わせたいのであれば、簡単だ。私たちを祝福すればいい。そうすれば貴方にも笑顔は向けられる」


 姫様の顔を捉えていた瞳が、緩慢にアルフの顔に移されます。


「うるさいよ」


 びくりと震えたアルフの身体は、そのままその場に崩れ落ちました。


「アルフ!!」


 アルフの背に伸ばされた姫様の手を、時紡ぎは掴んで引き寄せました。


「ああ……君にそんな顔をさせる彼は、やっぱり悪いやつだったんだ」

「これは、貴方が……! 離して! やめて! アルフに何をしたの!」

「何って、皆と同じように『時』を止めて……君の『時』になるようにんだ」


 にっこり笑って、楽しそうに言ったその意味を、姫様は全く理解できませんでした。


「つなげ……私の、時?」

「そう。構築を変えるって言っただろう? 他の国のように時紡ぎがいなくても『時』がきちんと流れるようにするんだ。やり方は色々あるけど、僕は自分のやり方を試したいからこの国にひとり残ったんだよ。他の国の仕組みもトラブルが起きたら直せるしね。自動化が上手くいけば、余裕ができる。君がいつ僕と来てくれてもいいように準備だけは怠れない。本当に頑張ったんだ」


 すごいでしょ、褒めて。そう言いたげに時紡ぎは笑っていました。


「だから、安心して。今、国中の皆の『時』が君の『時』に繋がってる。みんな君が好きだった。喜んでるさ。本当は君に悪いことをしようとするやつらから少しずつ貰おうと思ってたんだけど、仕方ないよね。君の結婚を祝おうとするなんて、僕の邪魔をすることと変わりないんだから」

「なに……何を言っているの?」


 姫様の身体はもうずっと小刻みに震えていました。


「ほら、これで君がうっかり死ぬことはなくなったよ! 誰かに胸を刺されても、切れるのは他の誰かの『時』だからね! すぐに他の誰かの『時』が君の『時』を守ってくれる。切れた『時』もまた途中で繋ぎ直される。君の『時』は動かないまま、誰かの『時』で君は生きていけるんだ」

「待って、待って……国中の、みんなの、『時』って……」

「えーと、残りの寿命分だから……たぶん、心配しなくても君たちの感覚で十万年以上はあるよ」


 血の気の引いた姫様の身体から力が抜けていきます。時紡ぎがそんな姫様を支え、抱き寄せようとしたところで、姫様はがくがくいう自分の膝を叱咤して時紡ぎを突き飛ばしました。

 反動でアルフの傍へ倒れてしまっても、構わずに這うようにアルフにすがりました。


「アルフ……嘘でしょ。嘘だと言って……目を開けて…………私、誰の『時』もいらない……いらない……!」


 動かした姫様の膝が、カランと何かに当たりました。涙で滲んだ景色でも、それがアルフの剣だということは分かりました。

 手を伸ばし、覚悟を決めてその剣先を喉に当て、姫様はそのままそこに倒れ込みました。


「あ」


 この場にはそぐわない間抜けな響きでその声は聞こえ、一瞬姫様の意識は途切れました。


「もう、汚れるじゃない」


 剣が抜かれ、その痛みで嫌でも意識が持ち上げられ、耳元で時紡ぎの声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には喉の違和感は跡形もなく消えていました。おそるおそる触れた指先にぬるりと自分の血が絡みつきます。


 ――死ねない。


 時紡ぎの言葉がじわじわと姫様に沁み渡り、感じたことのない絶望感が姫様の中に黒い闇を広げていきます。


「わかった? わざわざ確かめなくても。さあ、僕と行こう? 僕の王女様」

「どこに……?」


 うつろに聞かれた言葉に時紡ぎは嬉しそうに答えました。


「もちろん、時を紡ぐ部屋。こことは違うどこか。大丈夫。もう少しで仕事は終えられるから、そうしたら旅行に行こう! 世界を巡って、星々を巡って、えっと、人はこういうのをシンコンリョコウっていうんだっけ?」

「いかない」


 ふるふると振られた首に、ぴたりと時紡ぎは動きを止めました。


「え?」

「どこにも、行かないわ。ここで、こうしてアルフといる」


 静かな涙をとめどなく流しながら、姫様は動かないアルフの手を取りました。


「どうして!? 彼はもう動かない」

「いいの。こうしていたい。皆が戻らないなら、私は皆のいるここで、最期まで過ごせばいいんだわ」

「……なっ……僕が、こんなに愛してるのに! 一緒に来れば幸せなのに!」

「ありがとう。同じように、私はアルフを愛しているの」


 静かな声が、逆に姫様の強い決意を表すようでした。

 がりがりと音を立てて、時紡ぎは自らの爪を噛み始めました。


「……まだ、時を止めてる状態だから、皆に時を戻すのは出来る」


 ぱっと、姫様は顔を上げました。


「本当? お願い。じゃあ、皆を戻して!」

「僕と来る?」


 冷ややかな瞳が姫様を見下ろします。


「約束する? みんなを戻したら、僕と来るって」

「それは……アルフも、一緒じゃダメ?」

「彼は戻さない」

「どうして……っ」

「彼を戻したら、君は彼を愛し続けるじゃないか。君も僕を愛さないと」

「彼が戻らないなら、このままでも同じだわ。長い時を待てば、もしかしたら彼の魂は別の誰かに生まれ変わるかもしれない」


 きょとんとして、時紡ぎは可笑しそうに笑い始めました。


「生まれ変わりを信じてるの? あるかもしれないけどさ。でも、どうかな。時を動かした時点で魂は『時』を失った体から離れていく。その魂が生まれ変われるのは君がその人の『時』を使い切った後になるね。待ちきれなくて消滅しちゃう方が早いんじゃないかな。器がないと、意外ともろいんだよ」


 姫様の中の絶望が、また色を濃くしました。止まっていた涙がまた溢れ出します。


「ああ……困ったな。泣き顔も可愛いんだけど……どうすれば……」


 二人を見下ろしていた時紡ぎはやがて何かを思いついたようでした。


「うん……! なんだ、そうすればいいのか。残りは体にやらせればいい。大丈夫。身体が覚えてる。シェスティン! 僕の、王女様! 素敵な解決策だ!」


 時紡ぎがそう宣言するように叫ぶと、辺りに音が戻ってきました。鳥の声、風の音、ひらひらと舞う蝶。時はまた流れ始めたようです。けれど、人の気配だけが戻ってきません。アルフも、ぴくりとも動かぬまま……

 どうなったのかと辺りを窺う姫様の目の端で、時紡ぎが地にくずおれました。驚いている姫様の手の中でアルフの手が彼女の手を握り返します。


「――アルフ?」


 頭をもたげて、アルフは姫様に口の端を持ち上げて笑おうとしました。


「アルフ、アルフ! 戻ったの? 戻してくれたの?」


 地面にうずくまるようにして倒れた時紡ぎは、次の瞬間以前のようにふっと消え失せました。


「……戻さないと言ったよ?」


 握った手を引き寄せ、姫様を抱きしめながら、アルフは言いました。


「アル……フ?」

「でも君は彼がいいんだろ? ううん。もう僕だ」


 また、姫様の身体が震え始めます。


「僕? 俺? 私? どれがいい? 大丈夫、彼の記憶も共有できる。思い出も語り合える。ああ、素敵だ。もっと早くこうすればよかった。君は僕を愛し、僕は君を愛してる」


 アルフの声で、アルフの仕種で、アルフでないものが姫様を抱きしめています。姫様の中に溜まる黒いものが限界を越えようとしていました。


「アル……アルフは」

「ふふ。彼はもう僕だ。ああ、ええっと、彼なら……俺だよって言うかな」

「アルフの、魂は……」

「僕が入ったら、俺は出て行かないと。ひとつの身体に入る魂はひとつ」


 姫様は、呼吸が上手く出来なくなっていることに気づきました。いくら吸おうと思っても、上手く空気が入ってこないのです。


「……はっ……っや…………い、や」

「これで俺を愛してくれるね」


 何かが麻痺して涙も零れなくなったブルーグレーの瞳を、ブルーの双眸が覗き込みます。うっとりと、幸せそうに。姫様のまだ渇いていない頬に両手を添えて、近付く顔は確かにアルフでしたが……


「愛してる。シェスティ、僕の、王女様」


 間近で囁かれる彼の言葉に、ぷつりと、姫様の中で音がしました。触れた唇が離れる時、姫様の手にはもう先程自分の首を突いた剣が握られていて、顔には微笑みが浮かんでいました。


「……めて」


 その微笑みに、アルフとなった時紡ぎは目を奪われていて、彼女の呟きには意識を向けられませんでした。


「や、めて。その名で呼ばないで……彼の顔で……彼の声で!!」


 アルフの横腹に剣を叩きつけ、バランスを崩した彼に馬乗りになると、姫様は迷わずその胸に剣を突き立てました。

 まん丸に開いた瞳が、何故と語っています。声を出そうとすると、もうごぼごぼと赤い液体しか零れ出しません。

 肩で息を吐きながら、何か言いたげなブルーの瞳が光を失くすまで、姫様は剣を握り締めたまま目を逸らすことなくそれと見つめ合っておりました。


 人々の身体が、時の流れに崩れて風化するまで姫様はひとり、国に留まっていました。『時』は滞りなく動いています。それを確認すると姫様は国を出て、二度と戻りませんでした。

 誰かが、憎しみをぶつけたり、あるいは愛情の証として彼女に触れた時、その者が何らかの事故で命を落とすこと、その時に時紡ぎの声で『愛してる』と聞こえること、事故死する前に彼女自身が止めを刺せば声が聞こえないこと……それら全てに気が付いたのは、彼女が国を出て十数年が過ぎた頃でした。




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